かつてのジャーナリストのはしくれとして、イスラム国による人質事件にひとこと言わせてもらおう。
この事件、あえて言わせてもらえばすでに殺害されたとみえあれる湯川氏には気の毒だが、拘束されたことはやはり自己責任としかいいようがない。かつて、戦時下のイラクで囚われ解放された日本人について当時の小泉首相が「自己責任」と発言し非難を浴びたが、そのときの状況と今回の状況は明らかに違う。
なぜなら湯川氏も後藤氏も自己の責任において危険を承知で危険な場所に踏み入ったわけであり、後藤氏もそういったメッセージを残しシリアに入った。それを考えれば、今、流れている日本政府の対応を非難する後藤氏のメッセージは明らかに犯人側に脅され言わされているのであり、彼の本心ではない。いや、命乞いは本音なのかもしれないが、ジャーナリストの立場としては決して本心ではないだろうと信じたい。
当初、身代金を要求されたとき、どれほどの日本人が支払うべきと思っただろうか。たぶん、多くの国民は払うべきではないと感じたはずだ。私も払うべきではないと思った。それは、まさしく「自己責任」による人質事件に他ならないからだ。ところが、72時間が過ぎて、イスラム国側が湯川氏を殺害し、後藤氏について身代金銭要求ではなく、ヨルダンに捕まっている死刑囚の解放という交換条件に変わったあたりから、、国民もマスコミもどうなるのかという野次馬的ムードから、後藤氏の解放を願う救出ムードに一変した。
今、自己責任なのだから理不尽な要求に断固応じるべきではないと堂々と発言する人はいなくなり、マスコミもそうした意見を言えないムードを作り上げている。
私は思う。ジャーナリストとしての使命感を持って危険地帯に入った以上、国益を損なうような取引材料にされてはいけない。酷な言い方をすれば、命乞いをするくらいなら最初からやばい場所に行くべきではない。
この先、仮に後藤氏が殺害されたとしたなら、当然、人間として残念に思うし冥福を祈るが、ジャーナリストとしては同情もしないし、犯人に脅しに屈して命乞いをさせられた事に恥を知れという気分になると思う。
彼が人道支援ボランティアか何かで入国し、犯人に捕まったのなら、自己の責任であったにしても、身代金を支払っても、死刑囚との交換釈放でも、救出もやむなしと思うが、ジャーナリストとなると話は別だ。
ジャーナリストは従軍記者でないかぎり、どんな危険にさらされようと酷だがあくまでも自己責任なのだ。だから、イスラム国のいいなりにメッセージを送りつづける後藤氏が不憫でならない。