tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

<月曜随想>新聞を読んでいて・・・

2024年12月30日 14時26分11秒 | 文化社会

子供のころ「小学生新聞」というのがあって、親がとってくれて兄弟で読んでいました。太平洋戦争が始まって、小学校が「国民学校」になり、新聞の名も「少国民新聞」になったことを覚えています。

そのころから新聞は身近なもので、毎日読むものだと思っていたからでしょうか、卒寿を過ぎた今でも、毎朝、新聞を読まないと(見ないと)1日が始まらないような癖がついています。

最近新聞を取らない家が多くなったと言いますし、情報はネットでみんな入って来るから必要ないという人も多いようですが、やっぱり新聞はやめられません。

強いて理由を考えれば、新聞というのは、情報の収集、整理、伝達のプロ集団が、プロの誇りをかけて、重要なものだけを凝縮して、一目で見やすくデザインして提供してくれるので、こんな便利なものはないと思っているからでしょうか。

これは、毎日先ず新聞を読まないと落ち着かないのが癖になってしまった人間の言い訳かもしれません。

そんなわけで、現役のころは当然ですが、今でも、新聞は1面から順番に見ていくことになっています

国際、国内の主要な動きトップ記事で見る、政治の動向は知っておかないと困るし、経済は最も関係が深いから確り見ておかなければならないと思いながら、何枚かめくるとスポーツ欄になります。スポーツ欄になると、もう斜め読みでいいという感じで、社会面も、帰りがけに一杯やった時の話の種です。

こんなブログを書いているせいで、今でも、こうした読み方は変わっていませんが、最近特にですが、ページを繰っていって、スポーツ欄になると、何か爽やかな気分になることがあるのです。

確かに、大谷選手や大の里関、女子やり投げの北口選手、パラテニスの小田選手、スケートボードの堀米選手、さらには次々と新星出現のフィギュアスケートのスターなど、日本の選手の世界での活躍はまさに目を見張るものがあります。

しかし、毎日そうした人たちの記事があるわけではなく、サッカーのリーグ、バスケットやバレーのリーグ、その他いろいろなチームの勝敗、個人の記録といった記事ですから興味のあるものもないものもあります。

ページを繰って、この頃スポーツ欄のページ数が多いかな、などというだけのことですが、社会面に行くまでは気分が爽やかです。

さてこれも何故だろうかと考えてみました。気が付いたのは、スポーツは勝った。負けたの世界ですが、負ければ悔しいが、ますます頑張るぞという気が出る爽やかさ、ポイントはこれのようです。「競いの文化」の典型です。

政治も社会もドロドロなものが多い、経済はカネに絡む権謀術策、戦争に至ってはは破壊と殺戮、読みたくなくても読まなければならない記事でしょう。

その中で、やっぱりスポーツは、いつも爽やかなのです。


<月曜随想>石破氏の?「石橋湛山研究会」に期待

2024年12月16日 15時11分16秒 | 文化社会

最近永田町で石橋湛山が再評価され、「石橋湛山研究会に石破総理を始め超党派の数十人の国会議員が集まって、かなり頻繁に開かれているというニュースがありました。

当初受けた印象では、自民党の中で、党の意見と違うような正論を敢て言っていた石場氏が主唱して出来た研究会かと思いましたが、そうではなくて、昨年、石橋湛山残没後50年を記念して出来た研究会で、最近頻繁に開かれているという事のようです。

研究会を作ろうと言い出したのは誰かとネットで探しましたが、その情報は見つかりませんでした。

しかし、最近の世界情勢の中で、この日本において石橋湛山に興味を持つ国会議員が超党派で数十人も集まっているという事は素晴らしいことなので、応援したくなり、あえて取り上げた次第です。

このブログでも、石橋湛山については折に触れて取り上げていますが、取り上げている趣旨は「リベラル」とは何かということを論じる場合、リベラリスト石橋湛山として論じるということがほとんどです。

リベラルというのは、幅広い豊かな知識を持って、自分の考え方をきちんと作り上げ、それに従って発言し、行動できるということでしょうか。政治家としてはまさに必須の要件の様な気がするものです。

石橋湛山の主張で最も有名なのは軍国主義日本が、アジア進出を積極化する大正時代に、ジャーナリストとして、民主主義を主張、日本は、満州、朝鮮半島、台湾を放棄し、中国とは争うのではなくその経済発展を援助し、交易を盛んにすることがアジアの安定、日本の経済的成功の道と、所謂小日本論(当時は大日本帝国意識が全盛)を主張したことでしょう(戦後はまさにその通りになり、日本は大発展しました)。

大変な先見性と洞察力ですが、当時の石橋湛山の知識の集積、研究、思想、人間性といった人間力によるものでしょう。

「リベラル」は、全体主義、付和雷同とは正反対です。例えば、自由民主党の中にあっても「安倍総理の言うことは嘘でも正しい」のではなく、是は是、非は非と自分の意見を言える政治家は、リベラルな思想の持ち主で、信用できるという事になるのでしょう。

超党派でそうして国会議員が集まり、意見を戦わせれば、国会審議とは別に、本当の日本の政治の在り方を求めて意見が一致する問題も出て来るはずです。

国会全体がそのようになれば日本の政治は全く変わるでしょう。   

石橋湛山は山梨県の甲府中学の出身ですが、甲府中学に在学中、校長に大島正健が赴任したそうですが、この人は札幌農学校の第1期生で、クラーク博士の薫陶を受けた方だそうです。

石橋湛山は、大島校長との出会いが自分の人生観に大きな影響を与えたと記しているとのことですが、ここにリベラリスト石橋湛山の原点があったのかもしれません

民主主義に本来の優れた価値を与えるためには、それに参加する個々の人間が、リベラルであってほしいのですが、そのためにも、石橋湛山研究会の成果を期待したいと思っています。


民主主義の基本と「企業・団体献金」

2024年12月14日 14時13分14秒 | 文化社会

民主主義の考え方の基本は「多数決」だという事は誰もが知っていることです。国や地方自治体、学校のクラスから市民のサークル活動まで、その人間集団として意思決定をする時は、過半数の人の賛成したものを選ぶのです。

その選択が、正しいか正しくないか、ベストか必ずしもそうでないか、これは大事なことですが、民主主義ではそれは問わずにメンバーの過半数の選択を是とするのです。

これは、基本的には多数は誤らないという考え方によると言えますが、もしその選択が良くなければみんなが気付いて決め直すという試行錯誤の余地も残したものでしょう。

そんな所が「民主主義は、時間はかかるが、結果的には最良の方法」といわれる所以でしょう。

民主主義の対局は専制主義、独裁主義で、優れたリーダーに任せれば効率よく早く良い結果が出るという方法ですが、リーダーが間違えたら取り返しがつかないのが欠点です。  

この問題はさておき、今日の問題は、多数決という時に、自然人でない法人も、多数決の仲間に入れるのが妥当かどうかという問題です。

この問題を間違ってしまうと、最近マスコミを賑わせたように「法人が政治献金をするのも表現の自由だから、それを制限するのは憲法違反」などという意見が出てくることにります。

民主主義というのは、人間の「あたまかず」が、総ての基本になっている制度です。ですから、あくまで「自然人」が1人1票で、選挙という手段で物事を決めるという方式が採用されているのです。

法人は選挙に参加することはできません。選挙と最も関係の深い「政党」も元々は法人格のない任意団体でした。1995年に法人格が認められたのは、政党交付金の受け皿としての便宜的なものです。

つまり、民主主義というのは、あくまでも自然人一人一人をベースにして考えなければいけないもので、そこに法人という組織が入る余地はないのです。

所が法人の代表者が勘違いして、法人も人格が与えられているのだから意思決定に参加したいと考えて、選挙権が無理なら、カネの力で意思決定に影響を与えたいと考え政治献金をするようになったのが政治献金の始まりでしょう。

そうなると政党の方も、カネが欲しくなり、企業や団体の政治献金が一般的になり、政治とカネの癒着がだんだんひどくなるというのが結果のようです。

経団連会長が、経団連が政治献金をするのは社会貢献ですと言われました。本当にそう思われ、善意で言われたのかもしれません。しかし多くの人はそう思いませんから批判が出ました。

外国法人の政治献金は禁止されています。これは外国の企業が、日本の政治に影響を与える可能性があり問題だとの考え方によると聞いたことがあります。  

ならば、日本企業が日本の政治に影響を与える可能性も問題でしょう。

繰り返しますが、民主主義は、あくまでよりたすうの自然人の意見によって、組織の運営、意思決定をするというのが基本のものなのです。


12月8日、やっぱり忘れてはいけない日

2024年12月09日 13時23分24秒 | 文化社会

昨日は12月8日でした。8月15日と共に忘れてはいけない日です。

昭和16年(1941年)12月8日は、日本は太平洋戦争(当時は大東亜戦争)を始めた日、そして、昭和20年(1945年)8月15日は、その戦争の敗戦の日です。

この3年半ほどの戦争は、日本の歴史を決定的に変えることになりました。この戦争を契機に日本は「戦争をする国」から「戦争をしない国」になったのです。

この戦争の最終段階、アメリカが2発の原子爆弾(原爆)を広島と長崎に投下し、日本は世界で最初の原爆「被爆国」になりました。

原爆は、その人類殺傷能力の巨大さと、放射能汚染の影響から、人類絶滅の可能性を持つ所謂「最終兵器」となり、核兵器禁止の世界的活動に発展し今に至っています。

アメリカが日本に原爆を投下したことの可否については、今なお議論のあるところですが、日本はその直後に敗戦を認め、その結果として、最終的に「戦争をしない国」になることを宣言したのです。

今も、世界では戦争が続いています。戦争を終わらせようという気持ちは世界人類が持っています。しかし、戦争は、一旦始まると、やめるのは容易ではないのです。

戦争を終わらせることが容易でなければ、戦争を始めなければいいのです。その意味では戦争を始めた日は、戦争が終わった日よりも重要なのではないでしょうか。

はっきり言って、当事者としての人間が戦争を始めなければ、戦争はなくなるのです。

ならば、戦争の始まった日についての記憶、その時の意識、なぜ、戦争になってしまったのか真因を、人類は本気で研究しなければならないのではないでしょうか。

今年の8月15日前後には、戦争の惨禍を語り継ごう、それが再び戦争を繰り返さないための大事なことだという意識のキャンペーンがマスコミも巻き込み、大きな動きとして、人類社会から戦争をなくそう、日本は絶対戦争をしないようにしようという意思を表明しています。

確かのこれは大変重要なことで、人類が戦争という誤りを犯さないために、日本が再び戦争をしないために、今後も続けなければならない重要な継続的活動でしょう。

しかし、それと同時に、日本は、何故あのような無謀な戦争を始めたのか、誰が、どう考える事で始めてしまったのか、避けることが出来たのではなかったのかといった事を明確にすることは大事です。

海軍は反対だったが、陸軍が押し切ったとか、多少の情報はありますが決定的な情報は、多くの国民は知りません。

考えてみれば、今半分冗談、半分真面目で「新しい戦前」という言葉が言われます。

不戦を掲げた憲法を持ちながら、現実は、アメリカの都合で戦争に巻き込まれる可能性があるというのです。

国民の多くは誰がどう意思決定をしてそういう事になっているのか知りません。マスコミも責任者の追及はしません。

戦争を起こさないことが大事という意識は、どこまで徹底しているのでしょうか。

今年も巡ってきた12月8日に、気になっている日本の現状も含め、戦争は始めないことが大事という現実問題をあえて書いた次第です。


「長期的視点→近視眼→瞬間的」:忙しいから? 

2024年11月26日 16時35分13秒 | 文化社会

このブログでは、日本的経営の基本である2本の柱は「長期的視点に立つ経営」と「人間中心の経営」だといつも書いています。

これは、かつての日経連が建てた定説ですが、経営だけではなくて、世の中万事「長い眼で見て」物事を考えた方が間違いないという事の様な気がしています。

ゴルフどもそうで、若くて素晴らしいスコアを出すような人は、「3歳から始めました」などと言っています。サラリーマンになってから始めましたなどという人は大体100を切れば万歳、時に80台が出ればお祝いというところまででしょう。

余計なことを書きましたが、今の社会は、毎日新しい知識が入って来て、例えば、MMTという貨幣理論が入って来て、いくら赤字財政をやっても、貨幣発行権を持っている国は大丈夫ですから、景気を良くしようと思ったら、政府は、赤字でも思い切ってどんどんカネをばらまけば景気は良くなりますなどといいます。

それが正しければ大変便利でいい方法ですから、今の日本でもそれを信用している政治家も結構いるようです。

経済というのは、いろいろな要素が絡まって動くものですから、2000年代に入ってからの世界中が長期不況という様な時にはそんな気がしたのかもしれません。

しかし長い目で見れば、そんな上手いことは無いと解ってくるわけでそれは長期的視点で、経済の動きの色々な経験をきちんと整理すれば理論的にも解る事なのです。

ところが、最近の世相を見ていますと、人の生活は,なぜかどんどん忙しくなって、コスパがタイパになり、ビデオを倍速で見たりといった時代です。

新聞や雑誌で活字を読んでいたのが、タブレット、スマホになり、世界中の情報が津波のごとくです。活字を読むのでは遅すぎる。SNSやX、ユーチューブで、視覚、聴覚、肌感覚、第六感、総動員で、要点だけ拾って、情報武装になるのでしょう。

タブレットやスマホでは、遠くの世界の物も眼の前ですから、若い人も近視が多くなって来るようで、眼球が近視になるだけでなく、頭の中も近視眼的になってくるように思われます。

しかも、1つの画面を見る時間は瞬間的なものですから、入ってくる情報は、前後の関係よりも、その瞬間々々の中の印象の強烈なものだけになりそうです。

これではどう見ても世の中を長期的視点で見るという余裕時間はなくなって、近視眼的、瞬間的な「印象」の世界に支配されるようなことになるのではと心配する所です。

最近オーストラリ例が報道されていますが、アメリカの諸州、ヨーロッパでも子供や若者とSNSの問題が起きているようです。

勿論若者でなくても影響を受ける人は大勢いるでしょう。最近の政治家や選挙関係のトラブルも、瞬間的映像や、説明不十分や部分切り取り的な情報によるものが多いようです。

何故かやたらと忙しい世の中ですが、やっぱり、瞬間機情報でも繋ぎ併せたり何とか深読みしたりして少しでも長期的視点にしていくようにするというのが最近の情報リテラシーの在り方という事になるのではないでしょうか。


<月曜随想>繰り返される?「自由からの逃走」

2024年11月11日 15時37分06秒 | 文化社会

エリッヒ・フロムが『自由からの逃走』を書いたのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間です。エリッヒ・フロムは、ナチスのドイツからアメリカ逃れたユダヤ人ですが、この本のメインテーマは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツに如何にしてナチスという独裁政権が生まれたかを研究、そこに「人間は自由から逃れようとする性癖、がある」ことを指摘し、そして、ナチスを徹底批判した本です。

ところで、今「新しい戦前」などという言葉が生れています。これは現状が、第二次世界大戦と第三次世界大戦の間のあるのではないかという疑問(意識)を、半分ジョークで、半分は警告として語られているようです。

折しも、第二次世界大戦の戦勝国であるソ連が独裁化し国家の運営に失敗して崩壊。その中枢国であったロシアが国際的に孤立感からか、改めて独裁政権を確立、旧版図であるウクライナに軍事侵攻し、すでに3年近く、ヨーロッパ諸国との対立が深刻化を強めています。

それに触発されたようにイスラエルとパレスチナの武力戦闘が起き、イスラエルの異常なパレスチナ制圧作戦が進行し、それがレバノン、イランに飛び火するといった動きに広がっています。

更に見渡せば、独裁国、北朝鮮の核武装の段階が進み、巨大国家中国が独裁色を強め、アジアではさらにミャンマー、南米では世界一の石油資源を誇るベネズエラの独裁政権がさらに独裁色を強めるなど、形は民主主義の中からも独裁政権が生まれるという現実を含め、独裁的な国が増加しているように思われます。

日本においても、安倍政権の時は与党の絶対多数を背景に、国会であるべきことを閣議決定で済ませ、法律や制度の恣意的なとり扱いも種々ありました。

民主主義のリーダー、アメリカでさえ、かつてのトランプ政権の下では世論や国際関係を無視した意思決定も多く、第二次トランプ政権の在り方が心配されているようです。

つまり、権力者は往々にして自己の権力を過剰に意識し、それに対して国民の多くは、敢えて反対しないばかりか、追従したりするのです。

エリッヒ・フロムは、そこに自由主義、民主主義の危機を感じたのでしょう。

つまり人は時に、与えられた自由、特に、自分自身が選択し決定し行動するという「積極的自由」の負担を嫌い、人権の一環として与えられた自由から逃げようとするのです。

自分では何もしない、知的活動も身体的活動も億劫だ、権力者の言う事に賛成していればそれでことは済む、「これも自由だ」と自由を誤解しているのでしょうか。

選挙でいえば、「賛成」と「棄権」は、殆んど同じ効果を持つというのが、自由な民主主義だという事になってしまうのが『自由からの逃走』の示唆する所ではないでしょうか。

かくして、権力者の人柄如何によって、独裁的な政治が行われたり、時には明らかな独裁者が生れてしまうという事に帰結する事になるのです。  

あなたは自由から逃走しませんよね!


「知性」と「感情」に分断のアメリカ

2024年11月06日 17時44分37秒 | 文化社会

もう大分前から、今のアメリかは、世界の最先進国と、ずっと遅れた発展途上国が併存している国だと感じることが多くなっていました。

1960年代までは、まだ第二次大戦後のアメリカの栄光、世界で最も豊かな国、広範な科学、技術から芸術、スポーツ、サブカルチャーや国民生活まで、世界で最も優れた国というイメージを維持していたと思います。

きっかけは1970年代に入っての、ドルのペーパーマネー化、変動相場制への移行だったと思います。

これは戦後25の間に、その繁栄を謳歌する中で、国力以上の活動、戦争を含む経済力の浪費を続けたことによるのでしょう。

それに引き換え西ドイツ、日本などは急速に生産力をつけ生産性の向上を実現して、消費生活を謳歌するアメリカをマーケットにして経済力を増してきていました。アメリカの国際比較上の経済力の低下はその後のドルの切り下げで明らかです。 

さらにその後の二度にわたる石油危機への対応を、欧州諸国と共にアメリカも誤り、1980年代初頭まで続くスタグフレーションに陥ったことは、周知のとおりです。

さらにその後も、アメリカは中国の生産力を利用した結果、中国の追い上げに苦しむことになりました

しかし、アメリカは覇権国としての政治力、その背後にある軍事力を保持し、そのプライドは変わらずに維持されて来ましたから、国民はそのプライドと現実のギャップに強い違和感を感じてきているという状態ではないでしょうか。

以前「ガンホー」という日本の自動車メーカーのアメリか進出を題材にした日米合作(?)映画がありましたが、日本企業の経営を徹底的にカリカチュア化したものでした。

その背後で、アメリカの鉄鋼産業、自動車産業などは競争力を弱め、いわゆる「ラスト・ベルト」も生れていたのでしょう。

気持ちは世界一、現実は競争力喪失のギャップがアメリカ人の中に次第に違和感から不満感、さらには被害者意識を増幅していたのでしょう。

こうして今のアメリカは、上半身は世界も羨む先進国ですが、下半身は途上国の状態に近づくということになったと私は見ています。

ここで大統領選は「トランプ候補が当確」というニュースが入ってきました。「やっぱり」という感じです。このところのインフレもあり、アメリカでは下半身が過半になったようです。

トランプ候補は、決して理論的ではありませんが、「わたしが『アメリカを再び偉大に』する」と主張し、知識や理論ではなく、今やアメリカ人の過半を占める下半身のやり場のない不満感、被害者意識といった感情を鷲掴みにしたのでしょう。

これはアメリカ人の中で、「知」の部分より「感情」の部分で行動する人が増えたという事を志田示すように思われます。(トランプの踏むステップに熱狂する支持者の映像)

前のトランプ政権の4年間を見れば、今後の4年間、アメリカの迷走は続くでしょう。

相対する日本のリーダーが誰になるのかは解りませんが、またトランプの盟友になるのでしょうか。日本国民は、ますます冷静になる必要がありそうです。


<月曜随想>ワークライフ・バランス:日本的発想の功罪

2024年10月07日 17時00分17秒 | 文化社会

21世紀が始まった2000年代の中ごろでしょうか、ワークライフ・バランスという事が言われ始めたように記憶しています。

もともと英語ですから欧米から、特にヨーロッパや国際機関から入ってきたようですが日本で急速に広まり、政府も内閣府中心に「憲章」まで作り、国民の理解に力を入れたようです。

ヨーロッパでワークライフ・バランスが言われるようになったのは、基本的に少子化問題が原因で、男性も子育てに協力せよという意識が「ワーク=仕事」「ライフ=家庭」という意味で問題になったようです。

たぶん、ヨーロッパや国際機関でいわれるワークライフ・バランスは、単純に、外での仕事と家事労働などの家での仕事のバランスが、男女間に負担の差があって、それが少子化の原因にもなるという極めて具体的な現象面の問題として取り上げられてきていたのでしょう。

今は日本でも夫婦が共に仕事を持つのが一般的になってきて、男性も家事労働を分担するというのが若い人たちの家庭では一般的になっていますが、ヨーロッパでは一足早くその波が来ていたのでしょう。

この「ワークライフ・バランス」も日本に入ってきて大きく変容したようです。

日本人は、もともと働くことは「貴い」ことで人間の生きる意味ですらあるといった考えが根づいています。そのために、日本人は「働き中毒」などと言われ、些か行き過ぎで、時に長時間労働も厭わず、KROSHI(過労死)が英語になったりしています。

欧米では、旧約聖書以来、働くことについては日本ほど積極的な意味付けは薄く、収入を得るために自分の時間を切り売りするといった意識が結構強いようです。

日本と欧米で大きく違った「労働観」が存在するという状況の中で、少子化という共通の問題を前にして、ワークライフ・バランスという同じ言葉が注目される事になったわけです。

こうした中で出来上がったのが日本独特の「ワークライフ・バランス」の意味付けです。

内閣府は「ワークライフ・バランス憲章」の趣旨をこう説明しています。

「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」

これはワークライフ・バランスというより、働き方を中心に日本人の生き方はこうあるべしという心得の提示というべきものでしょう。

ところで、もともと働き者の日本人に、こんな「心得」を提示しなければならないと考える日本政府とうのは、日本人の知性・自主性を見下げたお節介焼きという事にはならないでしょうか。

この延長線上に、もう何年も騒がしい「働き方改革」もあるのでしょう。かつて、あれは「働かせ方改革」で「余計なお世話」と書きましたが、現場では政府が「やめろ」という新卒一括採用から、定期昇給、職能資格制など人事賃金制度まで骨格は変わっていません、仕事給は非正規労働者、定年再雇用者、契約社員には以前から完全適用で、今後もそうでしょう。 

欧米と日本では「働く」事の意義づけに基本的な違いがあるという事の理解が政府には欠如しているようです。

日本人は、確り考えて、日本的経営の中でやって来ています。政府が世話を焼けば焼く程それが上手くいかなくなるようです。

本当に必要なのは、「政府自身の働き方改革」ではないかという気がしています。


生産性向上は大切、その分配も大切

2024年09月17日 13時24分26秒 | 文化社会

昨日は敬老の日でした。折角の国民の祝日でしたが、高齢者を大切にする事と、経済成長や国家予算のやりくりという問題で、世界の先進国は軒並み年金問題で苦しんでいるといった現実を書きました。

前々回は、「働き方改革」に関連して、人手が足りないのはエッセンシャルワーカーなどの社会の重要な分野を含む対個人サービスの職務だと書きました。

こうした問題はみんな、生産性の向上と生産性向上の成果の分配の問題に関わる事ですということを今回は整理しておきたいと思います。

こう書いただけで、もうこのブログが「何を言おうとしているか解ったよ」とおっしゃる方もおられると思います。その場合は「巧く書けているか」採点して下さい。

前回、高齢化問題の中で「今の日本社会は、昔のように、絶対的窮乏の社会ではありませんから、GDPの配分を適正化すれば、何とでもなると思うのですが」と書きました。

日本人は、日本のGDP(より正確には国民所得)で生活しています。GDPが増えれば(経済成長)日本は豊かになります。GDPが増えるのは労働生産性が上がるからです。企業では生産性が上がれば賃金が上げられます。賃金が上がれば従業員は豊かになります。

ここまではいいのですが、やっている仕事によって生産性が上げやすい所と上げにくい所があります。端的に言って、技術革新が生まれやすい所は生産性が上がりますが、技術革新が起きにくい所は生産性が上がりません。

生産性の上がりやすい所の代表は製造業、上がりにくい所の代表は対個人サービスでしょう。

GDPは殆んど企業が創りますから、生産性の上がる企業は賃金が上がりやすく、生産性の上げにくい企業は賃金が上げにくいということになり、産業別、業種別、企業別、職種別で、賃金格差が生まれます。

労働経済学では、この格差は、労働需給によって調整される事になっています。必要な人が集まらないと賃金を上げなければならないという形で上がるのです。

今マスコミで報じられているのは、訪問介護やタクシーの人手不足です、労働経済の理論に従えば、訪問介護やタクシー料金が上がって、賃金も上がり人手不足が解消するのですが、訪問介護もタクシーも政府の許認可で、料金が決まっているので、生産性が上がらず、賃金が上げられない企業は、倒産、廃業でサービスが無くなるといったことのようです。

勿論史上最高の利益、ボーナスも最高といった企業が悪いわけではありません。それは企業努力の結果で,日本経済に貢献しているのです。

ただ、はっきり言えることは、産業構造の中で、生産性の上がりやすい所と上がりにくい所があるのは当然で、特に、高齢化が深刻化するような場合、対個人サービスという最も生産性の上がりにくい部門で人手不足が深刻になることは避けがたいということは自明です。

結局は、高生産性の分野が、生産性は上がらないが、健全な社会の維持のために存在が必須な、いわゆるエッセンシャルな分野の活動のための負担をすることで社会全体がスムーズに回転していくというシステムを「適切に上手に整備する」ということを真剣に考えていかなければならないのです。

これは、国、社会全体の大きな課題で、それに成功した国が、働きやすく、生活もし易い国民にとって望ましい国ということになるのでしょう。

そういう事を確り考えて政策を打つ政府を持ち、それが豊かで快適な国、社会に必須なことだという国民の意識と行動が最も大事ということではないでしょうか。


今日は敬老の日です、老人は何をしたら?

2024年09月16日 12時30分07秒 | 文化社会

敬老の日が国民の祝日になったのは1966年からで、老人福祉法の制定に伴ってということになっています。

それまでも敬老会というのは全国各地にあって、日本では「敬老」という意識が定着していたように思うのですが、戦後21年たって、日本経済も高度成長のおかげで少しは余裕ができ、まだまだ年金制度などは不十分でしたが、日本人の持つ「敬老」という美徳を国として明確にしようという所まで到達したのでしょう。

世界でも敬老を国民の祝日にしている国は、僅か数か国というのがネットの情報ですが、子の祝日は、いかにも日本らしいという感じがします。

そんな事を言っている私も昨年卒寿を越えた老人です。大事にしてもらえるのは有難いですが、個人的には、敬ってもらうだけでは何か気が引けるような感じもします。

昔から日本には、自分たちを生み育ててくれた老人を大事にしたいという気持ちは強かったのでしょうが、それと同時に、家族の負担になる老人に対して割り切った行動も必要という生活上の現実もあって、それはいわゆる「姥捨て」という行動(習慣・掟)という形で表れていたようです。 

年寄りを大切にしようという心根と、経済的可能性の限界の狭間で昔から日本人は困難な解決策に悩んでいたようです。

わたしの記憶している民話が2つほどあります。

1つは、殿様が「灰で縄をなって献上せよ」というおふれをだし、家に隠していた年取った親に聞いたら、「なった縄を塩水につけ、それを焼けば灰の縄ができる」と教えてくれたという話。もう一つは、また別の民話で殿様の命令で、曲がりくねった木の穴に糸を通せというので、隠していた親に聞いたら、「穴の出口に蜜を塗って、穴の入口に蟻に糸をつけて放せばいい」と教えてくれたという話です。

共に殿様に大変褒められ、「実は年取った親におそわった」といったところ、殿様は感じ入って、どちらの殿様も老人を捨てる習慣をなくすようにしたということになっています。

こうした民話は日本各地にあるようですが、日本では昔から、自分を生み育ててくれた親を大事にしようという心と、経済的制約のあいだで、悩んだのでしょう。

これは決して、貧しい時代の日本の話ではありません。今も世界の先進国は何処でも社会保障の問題で、悩みに悩んでいるのです。

現に、今日の日本でも、年金問題は大変です。高齢化問題では最先端を行く日本ですから、同時に、もともと高齢者を大切にしようという優しい心根の日本人ですから、政府は板挟みです。

しかし、高齢者問題ばかり心配していましたら、出生率は落ち、若者の数が減って、年金財政を支える若い人口が伸びないという状態が深刻化し、今度は子育ての支援の積極化を考えようと計画を作ってみたが、その計画を実行するための財源のめどが立たないというお粗末の一席になったようです。

今の日本社会は、昔のように、絶対的窮乏の社会ではありませんから、GDPの配分を適正化すれば、何とでもなると思うのですが、日本の殿様はその気はないようです。

ところで、民話の年寄りは、さすが良いことを教えてくれて、殿様を感心させるのですが、私も戦時中の経験も生かして「戦争ほど無駄でばかばかしい事はありません。戦争は絶対やらないほうがいいです」とこのブログでもいつも言っているのですが、それを聞いて感心してくれる殿様もまだ日本にはいません。


<月曜随想>日本は日本の得意な道を生かそう

2024年09月09日 14時27分17秒 | 文化社会

世界の国々には、それぞれのお国柄があります。日本にも、日本のお国柄があり、いろいろと注目されるようになったようでインバウンドが増えています。

そういうと、「そんなの自惚れだよ。インバウンドが増えているのは円安のせいだよ。」という人もいます。

多分本当のところはその両方でしょう。日本は島国で、高度な文化は殆んど海外から入って来ましたから舶来崇拝は、知識人、文化人の伝統のようにもなっていた面もないではありません。

しかし人の国際移動の一般化し、更にはネットの普及で、舶来崇拝は、一部、ボジョレヌーボーの輸入は日本が世界一という事などを残して消えて来たようです。

今後重要になってくるのは、自分のことなので気がつかなかったといった日本の得意な面を、客観的な視点から意識的に発掘し、それを使って世界に貢献するようなことを大いに推進し、世界に役立つ国、世界に必要な国と見られたり言われたりする国になるという道が日本の重要な選択肢になるのではないでしょうか。

考えて見ますと、日本は太平洋戦争で廃墟のような状態になって以来、北海道、本州、四国、九州の4つの島だけになってから著しい経済発展をしました。

資源がなくても、自分の得意の分野で付加価値を作れば、世界第二の経済大国にもなれることを実証し、そのやり方をアジアの国々に広めた結果21世紀はアジアの世紀という状態になることに大きく貢献したといってもいいでしょう。

中国の発展も日本の科学技術の発展に倣って、高付加価値製品の生産で世界の工場となることで成功しましたが、日本のようにお行儀がよくなかったので、アメリカとは喧嘩になり、アジアの国々に対しては高利貸のような関係になって行き詰まっています。

もう少しお行儀をよくすることも、日本から知識・技術移転とともに移転出来ていれば、アジアの平穏、自由なインド太平洋の実現には大いに役立ったのではないでしょうか。

生産技術だけ移転ではなく、これからも、日本が、お行儀をよくすることにも協力するようにしたららどうでしょうか。没交渉や敵対は、最悪の選択ですね。

日本文化の特徴には神仏習合があります。日本人は殆んど近所の神社の氏子であり、歴代の墓のある寺の檀家です。鎮守のも森のお祭りも、盆、お彼岸の法要もやります。さらにはクリスマスもイースターもカーニバルもハロウィーンもやります。これは、人類の培った多様な文化に興味を持っているからでしょう。

嘗て、明治維新の際に、狭量なリーダーによる「廃仏毀釈」もありました。しかし、国民大衆は、そんな国の方針はなし崩しに無視し、今に至っています。

これが日本独特なのか、それとも「大衆」にとっては、世界でも、ある程度一般的にも言えるのか、私には解りません。

しかし、宗教は人の心や霊の安らぎを願うものであれば、寛容のベースである宗教の相互理解もありうるのではないかと思うところです。

日本はかつて世界宗教者平和会議の第1回世界大会を京都で行っています。こうした人間の思考方法の普及やそのための行動を、地球人類の将来の平和への可能性を開くという視点から、これも日本人の特性として行動の選択肢に入るものかもしれません。 

もう少し具体的な産業社会の事象を書こうと思っていましたが、それは、またの機会になってしまいました。


<月曜随想>結果かプロセスか?

2024年09月02日 14時37分34秒 | 文化社会

大谷翔平選手の活躍は凄いですね。昨年は投手と打者の2刀流、今、年は、投手役はお休みですが今度は打者と盗塁、やる事何でも記録を作ってしまいます。しかもいつもニコニコで楽しそうです。

天賦の運動神経と体力に、優れた人柄、羨ましいと思う人は多いかもしれませんが、あの記録を生み出している最大の原因は、大谷選手自身の努力だと解っている人も多いのではないでしょうか。

大谷選手のことはテレビや新聞でしか知りませんが、私もそう思っています。

ところで、分野は全く違いますが、経営学で良く出てくるマネジメントの手法に「目標による管理」と「結果による管理」というのがあります。

両者の関係から言えば、仕事を達成するのに、先ず「目標」を明確にし、目指す所を明らかにして「よしやろう」という気を起こさせるのでしょう。そのうえで出された「結果」によってその人間やグループの評価をするということになるわけです。

確かにこれは大事なことで、まず行く先がはっきりしないと人間は適切に動けないでしょう。

そしてその成果が出たら、それによって判断して、評価を決めるというのはそれなりの合理性があります。

しかし、経営学で「プロセスによる管理」というのは聞いたことがありませんでした。結果が出るまでのプロセスは、仕事をする本人たちにお任せということになっていたのでしょうか。

当然のことですが、仕事の出来具合は、そのプロセスでどんなことが起きているかで決まってくるのです。

「明日朝までに、これを纏めといてくれ」と命令して。明朝「これじゃ駄目だよ。やり直し」と言って、プロセスに無関心でいますと過労死につながる事さえあります。

やはりプロセスが大事だと気付いて、生まれたのが人間関係論で、どうすれば人間本気になって課題に取り組むかということで、人間の性格論や心理学に関係する分野に入っていったのが「リーダーシップ理論」や「動機付け理論」「交流分析」などの人間工学といわれる分野です。

こうした理論的発展は、ほとんどがアメリカの経営学の発展の中で生まれたもので

っすから、アメリカン・ドリームのアメリカでも、結果を出すにはプロセスが大事ということに気づいていたのです。しかし、その後の長期不況の中でアメリカも日本も「結果中心」に戻ってしまったような気がします。

話が飛んで、国の経営である政治の世界で見ても、安倍、菅、岸田政権の時代になって、目標のスローガンは次々出てきますが、ほとんど結果が出ません。プロセスの検討・研究、その重要性の認識に欠如があるようです

考えてみますと、やっぱり素晴らしい結果には、その前提となるだけの確りした「努力」のプロセスがあったと考えるのが本当でしょう。

嘗てスポーツでも「巨人の星」の様な根性モノ全盛の時代もありました。根性モノは今は余り流行らないようですが、大谷選手にも、子供のころからの長い努力の日々というプロセスがあったと考えるべきでしょう。

その努力のプロセスを、元気に真面目に楽しくやり遂げた結果が今の大谷選手なのではないかと思っています。


<月曜随想>報復の応酬か和解か、その原点

2024年08月12日 17時06分47秒 | 文化社会

ハマスが積年の圧迫に耐えかねて暴発、イスラエルを攻撃しました。イスラエルの報復は異常に執拗で、「ハマスの殲滅」という言葉さえ聞こえ、ガザは戦禍の地獄の様相です。

更にイスラエルはハマスのリーダーをイラン国内で、無人機で爆殺しました。イランはこの暴挙を主権に関わるものと怒り、報復を宣言しました。  

日本もかつて新興国だったころ、列強の禁油政策などに対抗、国運を賭ける気で太平洋戦争を引き起こしました。結果は世界で唯一の被爆国にもなり、主要都市はすべて廃墟と化し、膨大な民間人の死者を出しての敗戦でした。

あれから今年で79年ですが、その間日本からは報復という言葉も、原爆投下に対する恨みの発言もありません。

原爆投下に対しては、投下国アメリカの大統領と日本の被爆者代表が、「世紀の和解」をしているのです。

そして今、日本はこれからも戦争をしないという平和憲法を掲げ、世界を平和にしようと呼びかけているのです。

多くの国が戦争を経験しています。もし戦争をした国が、たとえ負けても、それを恨みや報復の形で記憶するのではなく、戦争は勝っても負けても、破壊と殺戮の経験でしかない、もうそんな事はやめようと思えば、戦争はなくなるのです。

そう考えてみますと、日本に出来たことが、なぜ広く一般的にならないか、という問題が残ります。

日本は特殊な国で、一般的には日本のようなことはできないし、そんな屈辱的なことはやる気もない、というのが世界の常識なのでしょうか。

われわれ日本人は、特殊でしょか。「過ぎたことは水に流して」という考え方は今は未来志向と言われ尊重されています。日本人が特殊なら、なぜ?

この問題は長い間いろいろと考えていました。

日本については、縄文1万何千年の間、多様な過去とDNAを持つ人間集団が日本列島という閉ざされた、しかし恵まれた自然環境の中で、平和共存して混血し、あたかも純血種のような日本人になったという経験が基底にあり、人間はみんな同じ様であると考えるようです。

もっと昔の話ですが、10万年ほど前、アフリカを出て、ユーラシア大陸に拡散していった現生人類(ホモサピエンス)は、現生人類でない旧人類が先住民として生活している所にいわば入植したのです。ヨーロッパ地域にはネアンデルタール人が、その東にはデニソワ人がいました。

ネアンデルタール人は2万年ほど前までは生存していたといわれますが、すべて絶滅しています。問題は原住民と入植者の関係です。

かつては現生人類は旧人とは交雑しなかったといわれていましたが、いまはDNAの研究から、交雑したことが解っています。しかし、彼らは現生人類に滅ぼされたのではなく、生きる力が弱く、次第に絶滅したという説が主流です。

しかし、40万年ほども前からヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール人が、現生人類がアフリカを出てヨーロッパに拡散しはじめてから僅か何万年かで絶滅してという事は、対立や争いがあり、現生人類がその知能の高さをもって、彼等旧人の絶滅を速めたと考える方が自然でしょう。

次は千数百年ほど前の話です。現生人類は、アフリカを出て、何万年かで南アメリカの南端まで広がったといわれますが、その後ヨーロッパで高度な文明を築いた人たちは、改めてアメリカ大陸を発見し、そこに入植しました。しかしそこにはすでに同じ現生人類ですが、文明の発達の遅れた先住民がいたのです。インディアン、インディオです。そこで何が起こったかは誰もが知っています。

次は戦後の話です。戦後イスラエルという国が建設されました。そこはパレスチナと言われえる土地で、アラブ人主体の先住民がいました。多分史上最後の先住者と入植者の問題という事になるのでしょう。

それ以上は書きませんが、先住民と入植者という問題はいつの世でも大変厳しいようです。

日本列島には先住民はいませんでした。入植者がいなかったとも言えます。そうした葛藤のなかった日本人は、葛藤に縛られない、対等で平和な考え方に行き着いたのかもしれません。

まだまだ答えに到達しませんが、こんな要素も、人間や、国の行動に関係があるようにも思われます。


<月曜随想>自然と不自然:人間の感覚

2024年08月05日 15時31分15秒 | 文化社会

このブログでは「自然」ということばをよく使うと思っています。

特に意識して使うというわけではありませんが、物事をスムーズに描写したいと思うと自然に「自然」という言葉を使ってしまうようです。

そんなことで、なぜそういう事になるのか考えてみようと思った次第です。

生れは山梨県甲府市で、昔から山紫水明を謳う土地です。小学校6年の7月6日夜甲府市は空襲で焼け野原になりました。子供心にも、一夜の空襲で我が家も含め一面焼け野原になった光景は、自然とは真反対の不自然極まりない光景でした。

甲府盆地は四方を山に囲まれ東の笛吹川、西の釜無川、県南で合流して富士川と、何処も山紫水明の地です。

甲府盆地と言わず、日本はどこに行っても殆んどが山紫水明の地ですから、そうした中で日本人は緑と水と人間の生命につい繊細な感覚を身につけてきたのかもしれません。

日本は今でも国土の7割が森林という事で、フィンランドとともに稀有な森林比率を持つ国ですが、自然環境に強い影響を受ける人間にとって、自然との関わりを大事にする本能的な性向を持つ日本人の心の原点かもしれません。

ところで日本人はもちろん、30万年ほど前にアフリカで生まれ、その一部が10万年ほど前にアフリカを出て世界に広まった現生人類は、基本的に46億年の地球の進化の歴史の結果として,現在地球上に存在しているという事でしょう。

多分宇宙の塵から始まり鉱物の生成、水を得、無生物の世界に有機物が発生し植物が生まれ葉緑素の作る酸素で呼吸する原生動物が生まれ、それが進化して現生人類になったのでしょう。

その進化の過程では、多様な突然変異が起き、その大部分は失敗で、ごく一部が種の保存に成功して、出来上がってきているのが現在の生態系なのです。

現生人類はその進化、成功した突然変異の累積の結果として現時点での進化の頂点にいるのです。

エリッヒ・ヤンツは「自己組織化する宇宙」と言いましたが、宇宙が意識を持つかどうかは別として、地球の生態系の進化も、存続に成功した突然変異の結果と考えれば、その頂点にいる現生人類の体内の組織のあらゆる部分にそのメカニズムは組み込まれているはずです。

そしてそれこそが、人間そのもの、そして地球上の生態系の織りなしている「自然」なのでしょう。

つまり今生きている自然は、そのまま生態系の存続、種の保存のための在り方そのものなのでしょう。その頂点にある人間は高度の思考能力まで持つに至りました。

ならば、脳を含め人間の体の組織が「自然」だと受け取る感覚こそが、人間をここまで進化させた原因の集積で、それが、人間に「自然だ」と判断させるという事でではないでしょうか。

逆に、人間に「自然でない(不自然)」と感じさせるものは、人間の進化の過程にそぐわないもの(事)と判断されたという事になるのでしょう。

難しいことがあったら、素直な自然の感覚に従って「自然か不自然か」判断すれば、多分間違いは少なくなるのではないかと思うところです。


五輪と戦争の並行状態、人類の叡智の退化

2024年08月04日 14時50分53秒 | 文化社会

ウクライナとパレスチナという地球上の2か所で悲惨な戦争が続く中、ローマ・オリンピックは世界中の熱狂を盛り上げながら、開幕し、進展しています。

マスコミも、オリンピックについての報道が圧倒的に多くなり、この間は戦争のニュースめっきり少なくなっています。

オリンピックの間は停戦しようという提案はありました。これは、かつて古代オリンピックの間は停戦をしたという古代ギリシャ人の知恵にちなんだものです。

しかしその提案は殆んど顧みられることもなく戦争は継続されています。人間の叡智は退化しているのでしょうか。

報道の量が少なくなったとはいえ、現地では何も変わらず悲惨な状態が続いっているのでしょう。

そして戦争に直接拘わらない国の人々は、やはり、オリンピックの方に熱狂するのです。(私自身も含めてです)

勿論それを批判することはできないでしょう。人間は、悲惨な戦争は嫌いなのです。勝っても負けても、更にその上を目指すという健全なスポーツの祭典の方が、人間性に合致しているからです。

人間は向上志向を持っています。その発現の形態として、「競い」と「争い」があるのでしょう。そして人間は本来「競い」の方を善きものとし、「争い」については否定的なのです。 

しかし、時に人間の得た知識、置かれた環境条件が人間の本来の意識を歪めるこがあり、その時、「競い」に対し「争い」を優先するといった人間性の本来を逸脱する意識や行動が生れるのでしょう。

前回は「8月上旬は憂鬱な日々」と書きましたが、今年の場合は例年の憂鬱に加えて、人間の殺戮と環境や文化の破壊を「人間の手」で行うという戦争が、地球上に現存し、オリンピックと同時に日夜継続していることが、(私も含め)多くの人の心を憂鬱つにしているのではないでしょうか。