「決める政治」か「決まる政治」か?
今月末までと決めてあった緊急事態宣言は、菅総理の決定で6月20までに延長されました。諮問を受けた感染症分科会の尾身会長は、緊急事態宣言の延長は全員一致と言いましたが、6月20日という期限には全く触れませんでした。
6月20に緊急事態宣言の解除が可能になるのかどうか、専門家にも解らないのが現状でしょう。解らないことを勝手に決めるのが菅政権の特徴です。決めては伸ばしを繰り返すのは最悪です。本当の答えは、「これこれの状態が確保されたら解除します」でしょう
街頭インタビューでは「解除になったら旅行に行きます」などと答えている人がいます。政府が決めるのだから、自分達は待っていればいいと受け身で考える人は多いようです。
しかし、国民がみんなで、緊急事態下の行動を遵守しなければ解除の日は来ないのです。(あとはワクチン頼み)
菅政権はいつも腰だめで期限を決めます。そしていつも決定は修正されます。何故こんなことになるのでしょうか。
思い出されるのは、前総理の安倍さんのスローガンで「決める政治」でした。官房長官を務めた菅さんは、この暗示に未だ縛らえているのかもしれません。
政権党は自由民主党ですから、リベラリズムと民主主義を党名で標榜しています。では、民主主義の中で、「決める政治」とはいったいどういうことでしょうか。
考えられるのはリーダーが、それぞれの国民の声をよく聞き、出来るだけ多くの国民が納得するような政策にまとめ上げ、それを国民に誤りなく提示すれば、「決める政治」は成立するのかもしれません。
しかし、現実にはこれは容易な事ではありません。リーダーは卓越した能力と力量をも持つことは当然で、加えて、国民の気持ちを掬い上げ、正確な情報・データを提供するブレーンを持ち、そのデータ、情報を咀嚼し国民が納得し、賛同する施策にまとめ上げる先見性と洞察力を含む器量の持ち主でなければならないでしょう。
この能力を持たず、ブレーンの提供するデータ、情報も十分に理解せず、形ばかりの「決める政治」を行えば、往々にして決めた結果は「外れ」ということになるのです。
民主主義の下では、「決める政治」の決定が誤りであることが 解れば、リーダーは失格で、リーダーを降りざるを得ないでしょう。
時には、然し、降りたくないリーダーもいるようです。そしてもし居座ることが許されれば、それは独裁者への道になるのでしょう。民主主義社会には独裁者は不要です。
「決める政治」というスローガンは常にこの危険性をはらみます。
ならば、「決める政治」ではなく「決まる政治」を目指す方が望ましいのではないでしょうか。
「決まる政治」を標榜すれば、リーダーの決定は、常に国民の意識と理解、その輿望に沿ったものになり、それは自ずから多数の賛同を得て決まることになります。
聖徳太子の「十七条の憲法」の第17条は「それ、事は一人にて断(さだ)むべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし」とあります。
聖徳太子が立派すぎたのか、政治の世界に進歩がないのか、どちらでしょうか。