tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

資本主義の歴史に残る年(2008)

2008年12月31日 15時45分58秒 | 経済
資本主義の歴史に残る年(2008)
 1991年は、ソ連の崩壊があって、社会主義の歴史に終止符を打った年として記憶されていますが、2008年は、資本主義にとって、終止符ではありませんが、大きなエポック・メーキングな年として記憶されるのではないでしょうか。

 もっと具体的に言えば、資本主義というより「金融資本主義」にとって、と言った方が良いのかも知れません。

 というのは、世界の資本主義をリードして来たアメリカが、金兌換なきあとの価値基準のベースである証券の価値(信用)を毀損させ、金融資本主義の基礎を破壊したことから、資本主義が一時的に(?)成り立たなくなり、金融機関や一部巨大製造業までも国有化しなければならない状態になってしまったという『資本主義にあるまじき状態』を現出させてしまったからです。

 考えてみれば、アメリカの自由化、規制緩和の方針は、産業に対して、国家が補助することは怪しからんという姿勢から始まり、国際会計基準の時価会計主義に至るまで、徹底して進められ、文化的背景の違う日本はいつもバッシングの対象になってきていました。

 今のアメリカは、民間企業に政府が巨大な金を供給し、時価会計は適用をストップし、自らが進めてきた政策を逆転させなければならなくなったことによって、自ら世界に主導してきた政策が過ちだったことを自ら証明してしまったということでしょう。

 資本主義は、もう少し違った方向を目指さなければならないのでは、と世界の資本主義国が考えるきっかけになったという意味で、2008年は、資本主義の歴史の上で、記念すべき年になったのではないでしょうか。


おかしな英語教育問題

2008年12月30日 17時18分29秒 | 教育
おかしな英語教育問題
 30年ぐらい前の話ですが、アジアのどこの国でだったか忘れましたが、会議でお会いしたパプアニューギニアの方からこんな話を聞きました。

 その方がきれいなオーストラリア流の英語を話されるので、多分留学された方だろうと思ってお伺いしたら、「いいえ、留学したことはありません。国の学校で覚えたものです。」といわれて、それに続けてこんなことを言われました。

 パプアニューギニアの英語教育はほとんど、オーストラリア人の先生によって行われていました。ですから私のような英語になるのですが、ご存知のように、わが国はオーストラリアの委任統治領から独立国になりました。 そんな関係で、オーストラリア人の教師はほとんど帰国してしまいました。
 今では、わが国では、パプアニューギニア人の先生が、パプアニューギニア人の生徒に英語を教えています。その結果パプアニューギニア人の英語はどんどん下手になっています。

 言われて、ショックでした。日本では、日本人の先生が日本人の生徒に英語を教えるのが当たり前。公立学校では、それしか出来ない。日本人の英語が役に立たないわけだ。中学、高校、大学と10年も英語をやって、ほとんど使えない・・・・・。

 ところで今度、日本人の先生が、「英語で」日本人に英語を教えることになったようです。日本語で教えるよりはいいのかもしれませんが、英語教育を多少でも役に立つものにしたいのであれば、行政当局のやるべきことは別にあるのではないかと感じるのは私だけでしょうか。

 表題の、おかしな『英語教育問題』 が 『おかしな英語』を教育する問題  にならないように願いたいものです。


金融資本主義の行方

2008年12月27日 17時50分28秒 | 経済
金融資本主義の行方
 子供の頃読んだ童話にこんなのがありました。

 ある小さな国で、王様が小さなピンクの貝殻を「お金」に使うことを決めました。きれいで、なかなか無い貝殻なので、巧くお金の役割を果たしていました。
 しかし、ある時、国中に、「ある谷にいって川を掘ると、その貝殻が見つかる」ということが知れるようになりました。
 そこで国中の人が、だんだんその谷に集まって貝殻探しに血眼になり、誰も畠で作物を作る人がいなくなりました。
 作物が獲れなくなってその国は滅びました。

 どうしてこんな童話を覚えているのか、自分にもわかりませんが、この童話は、私に、「お金」というものの意味を、大変わかりやすく教えてくれたので印象に残ったのでしょう。

 「お金さえあれば」と誰しも考えますが、買うものが無ければ、お金は無価値です。ですから、お金さえあればというのは、「誰かが自分の欲しいものを生産してくれている」という前提のものでしか成立しない考え方です。

 資本主義が高度化すると、金融資本主義になるという意見は昔からあって、アメリカはそれを実践したようです。
 世界の工場といわれるような国が地球上のどこかにあれば、それで、アメリカはすべて巧くいくと思ったのでしょう。

 金融資本主義というのは本当に地球という「小さな国」を幸せにするのでしょうか。今回は、世界中が金融資本主義になる前に、アメリカが自分で転んだだけのことですが、物事の本質はやはりみんなに見えてしまった、ということでしょう。


高付加価値化の手段: その4、コストダウン

2008年12月25日 16時06分53秒 | 経営
高付加価値化の手段: その4、コストダウン
 付加価値は、=「純売上高」-「外部購入費用」ですから、同じ売上高なら、外部から購入する財・サービスのコストを出来るだけ抑えれば、その分付加価値が増え、付加価値率(付加価値/純売上高)が高まることになります。

 先ずは、冗費の節減です。 何が冗費かには問題ありますが、外注を内製化する、3フロアー借りていたのを2フロアーに減らす、あまり使われない福利厚生施設を売却する、工場を集約するなどなど。某社のF-1撤退も冗費(?)の節減でしょうか。
 これは、コスト削減に、まさに、ダイレクトに効果があります。

 材料転換も最近多く見られます。 たとえば、金属の材料を使っていたものをプラスチックでまにあわせることの出来れば通常、コスト削減につながります。 より安い材料で代替することは最近の技術開発で、広く可能になっています。
 工程の改善と材料の転換の組み合わせもあります。シリコンの結晶使用からシリコンの塗布へなどという最近のソーラーパネルの開発などなど。

 こうした分野になってきますと、日本の得意技です。ZD(無欠点運動)やQC活動、5S運動 、多様な「カイゼン」の技法とその実績は国際的にも有名です、さらにはJIT(ジャストインタイム)など、まさに日本人ならではのキメの細かさが生きてきます。
 QC理論はアメリカから来ましたが、日本でQCサークルとして開花し、アメリカに再輸入されて6シグマになりました。

 これらは、不良品を減らすということでも、また、作業効率を上げることでも、大変なコスト削減につながります。5S運動で、2割のコストダウンに成功したという例もあるそうです。

 時に「乾いた雑巾を絞る」などといわれるコストダウンですが、最近の多様な技術開発と組み合わせると、可能性は無限に広がるようです。


100年に一度の不況?

2008年12月24日 13時09分26秒 | 経済
100年に一度の不況?
 今回の不況のための形容詞に「100年に一度の」という言葉がよく使われます。1929年に始まった世界大不況をイメージしてということでしょうが、あまり深刻がらない方がいいように思います。  麻生総理は「全治3年」という言葉も使いますが、誰か学者から聞いたのでしょうか、100年に一度の大不況でも、全治3年なら、そう心配することはないように思います。

 確かにアメリカにとっては100年に一度かもしれません。しかし日本にとっては、プラザ合意以降の円高とバブル崩壊による失われた10年、15年といわれる長期不況がありました。それに比べれば克服は容易でしょう。

 考えてみれば、 プラザ合意の時は、円レートが2年間で2倍に値上がりしました。$1=¥240から$1=¥120です。今で言えば$1=¥100から$1=¥50になるという大きなショックです。それを15年かけて克服してきた日本です。

 現状では、日本の国際競争力は、プラザ合意後のような低下の状況は全くありません。しかも、技術技能力の優位性による、非価格競争力の強い分野は確実に増えていると思います。しかも、環境、省エネ、バイオなど、世界が必要とする分野はますます大きく広がっています。
 さらに、頑張っている 日本の企業の財務体質は、アメリカ企業のように毀損されてはいません。

 政治の指導力も必要でしょう。経済界・企業経営者の適切な目標設定も必要でしょう。労使協力も必要でしょう。「稼ぐに追いつく貧乏なし」というような個人々々の気概も必要でしょう。
 「100年に一度」などという興味本位の表現に惑わされず、世界が必要としていることを着実にやっていけば、日本経済の回復は、意外に早くやってくるのではないでしょうか。


家計分配率

2008年12月21日 11時20分29秒 | 労働
家計分配率
 家計分配率という言葉は、実をいうとありません。しかし一家 (単身から多人数家庭まで) の収入をどう分配するかといいう問題は、実は大変重要な問題ではないでしょうか。

 企業には 労働分配率という言葉あります。企業の生み出した付加価値 を労使間で「賃金と利益」にどう分配するかという比率です。この分配を誤ると、企業は衰退してしまうことが、経営の問題としては良く知られています。
 企業は、発展するために、新しい製品やサービスを開発したり販売拠点を整備したりしなければなりません。そのためには利益を上げ投資をしなければなりません。投資をしないでいると、製品もお店も古くなって、ジリ貧になり、倒産してしまいます。

 家庭ではどうでしょうか。貰ってきた給料を、全部生活費に使っていたら、多分進歩はないでしょう。本を買って勉強したり、通信教育を受けたり、結婚や持ち家のために貯金したり、子供がいれば、子供の学資のための貯金もしなければなりません。
 
 というわけで、収入のうち、いくらを「今日の生活費」に使い、何パーセントを「将来のための投資や貯蓄」に回すかというのが「家計分配率」だと考えるわけです。
 収入20万円の人で、全部生活費に使ってしまう人と、将来のために1万円貯蓄する人、2万円貯蓄する人、・・と考えて見ますと、貯蓄する人は、今日の生活は多少苦しいでしょう、しかし2年、3年たった時の生活の安定度を考えれば、貯蓄の多い人が勝ちです。貯蓄を使って中国語を学び(投資です)より良い仕事を探すことも可能になります。

 企業では生活費に相当するのは「賃金」、貯蓄に相当するのは「利益」ということになりますが、企業でも、家計でも、こうした分配は 「今日への分配」 と 「明日への分配」 をどう配分するかという問題です。

 このブログでも見ましたように、世界最大の自動車会社 GMには貯蓄がありません(債務超過)、したがって明日もありません。膨大な著作権収入を得ながら貯蓄がなく、詐欺行為に走る有名人もいます。誤った今日への分配が明日を失わせることになったのでしょうか。

 「現在と将来への分配の比率」は「分配のあり方が将来を決めていく」という、「企業にも、個人にも共通した」基本テーマを内蔵しています。

 この問題は、会社が何故倒産するのか、とか、派遣労働者の解雇が何故ホームレスに直結するのか、とか、年功的な賃金制度と職務給や成果主義賃金のどちらがいいか、などの問題にも関わる重要な意味を持っています。


非正規雇用の比率

2008年12月20日 15時30分48秒 | 労働
非正規雇用の比率
 今いろいろな意味で問題になっている非正規雇用について、量的な側面から少し考えて見ましょう。

 非正規雇用は1985年のプラザ合意の前には、雇用者全体の15パーセント程度でした。それが1990年には20パーセントを超え、2000年には25パーセントを超えて上昇を続け、2007年には33.5パーセントに達し(総務省:労働力調査)、非正規雇用が3人に1人以上といわれることになりました。その後少し下がったようです。

 実は非正規雇用が20パーセントぐらいまでは、何も問題はありませんでした。当時言われたのは、
「価値観が多様化している今日、多様な働き方が認められるべきで、働きたい時に、働きたい形で働けるような仕事のスタイルを増やすべきだ。」といったもので、某デパートの、働きたい時に働ける「サムタイマー」などはそうした声に応えるものでした。

 当時、日経連が提唱した「雇用ポ-トフォリオ 」も、「働く側の柔軟に働きたいという希望と、企業の柔軟な仕事の仕方のマッチしたところに」パートなどの柔軟型雇用が生まれるという趣旨の考え方が述べられています。

 ところで、前回のこのブログでも触れましたが、こうした非正規(柔軟型)雇用が職を失った途端、ホームレスに直結といった問題を防ぐために必要なことはなんでしょうか。それには、
「非正規従業員は、たとえ職を失っても、帰る所がある」 というのであればそれほど深刻な問題は起こらないでしょう。出来るだけそういう状態を保つべきで、そのためには非正規の割合を20パーセント程度でとどめるよう、企業も良識を発揮して努力すべきです。

 労働力調査等で見ても、非正規が2割ぐらいまでであれば、ほとんどは主婦と学生、農業に従事する季節労働者などでしょう。こういう方々には帰る所があります。
 失われた10年、企業はコストダウンに必死だったため、已むに已まれず非正規を増やしし過ぎた、というのは今の企業の反省でしょう。一方、仕事さえあればなんでもいいという働く側の已むに已まれずの選択もあったでしょう。

 各種統計(労働力調査、学校基本調査、労働費用調査・・)などで見る限り、最近の状態は、企業の反省の上に立った雇用正常化への「ゆり戻し」の傾向をはっきり見せていました。そこに今回の世界不況の追い討ちです。

 今年の春の労使交渉では、このあたりの本質的な解決策を、労使が本音で協力して探し出す努力が必要なのではないでしょうか。


豊かな社会とセーフティーネット

2008年12月19日 11時42分28秒 | 社会
豊かな社会とセーフティーネット 
 派遣労働者の削減問題がマスコミをにぎわせ、職を失うと寮からも出なければならないので、派遣減らしは、ホームレスの増加に直結すると解説するマスコミの報道を見て、戦後の日本人が営々として築いてきた豊かなはずの日本社会が、そんなに底の浅いものなのかと違和感に襲われたのは私だけでしょうか。

 戦後の貧しい時代には、納める税金も少ない代わりに、政府のやってくれることなどは、食糧の配給をはじめとても当てに出来ないので、自分の生活は十分で守るという本能的な防備を、日本人はそれぞれにしていたように思います。
 
 今日のように豊かな社会になると、人間は、豊かさに馴れて、かえって無防備になるのかもしれません。
 今では、生活のセーフティーネットは政府が用意すべきものになっていますが、その前に、国民一人ひとりが、出来るだけ自分でも用意するようにしないと、政府はどんどん大きくなって、実質的に「国民の面倒は国家がみる」という社会主義国になってしまうのではないでしょうか。

 直近の統計でも国民負担率(国民所得の中で、国民が政府に支払う税・社会保険料の合計の比率)は36パーセントほどですが、これに政府が国民から借金して使っている分を含めた潜在的国民負担率は47パーセントになっています。

 今回の不況で、政府はまたいろいろな出費を強いられますが、税収は落ち込みますから借金(赤字国債)でまかなわなければなりません。
 国民が政府に頼れば頼るほど国民負担率は増えます。50パーセントを超えて、国民所得の半分以上を政府が使うようになると、自由経済より社会主義経済に近くなります。
 
 折角豊かになった日本です。政府はもちろんですが、企業も、地域社会も、賢明な対応策を考え、そしてそれぞれの個人も、出来るだけ自分で自分のセーフティーネットを準備するようにして、自立自尊を考えることが、日本という経済・社会を、より強靭で安定したものにしていくために必要なのではないでしょうか。


雇用削減までにやること

2008年12月18日 12時01分45秒 | 労働
雇用削減までにやること
 このところ、正規、非正規を問わず雇用削減のニュースが多く目につます。日本企業の場合、かつては、雇用削減までやらなければならないような企業は、よほど先行きが難しいのだろうということで、上場企業なら株価が下がるのが普通でした。

 その頃は、「アメリカでは、首切りをするとコストが減って業績が回復するだろうということで株価が上がるそうだ。」などと、多くの日本人は驚いたものでした。つい10何年前のことです。

 失われた10年を経て、日本企業の雇用に対する考え方は変わってしまったのでしょうか。
 確かに失われた10年の中で、日本企業は必死のコスト削減をやり、雇用削減も、非正規従業員比率の大幅増加もやってきました。
 しかしこれらはあくまで、プラザ合意による円高とバブル崩壊によるダブル不況という異常事態に対応するためのものだったのではないでしょうか。

 2002年以降のほぼ正常化してきた日本経済の中では、多分日本企業は、かつての「雇用削減は出来るだけ避けたい」という考え方に徐々に戻るだろうと思います。

 かつては、雇用を削減するまでにはそれなりの手順がありました。
経営者のボーナス・給与の削減 → 配当の削減 → 管理職の賞与・給与削減(上級者ほど大幅) → 一般職の残業削減 → 一般職の賞与・給与削減・昇給延伸・停止など → 希望退職募集・・・・、
この間、適宜、自宅待機(給与一部~全額保証)、ワークシェアリングなども行われる。
といったのが一般的なルールだったでしょうか。

 雇用の問題というのは、実は「総額人件費」の問題なのです。雇用量が同じでも、総額人件費が削減できれば、企業経営にとっては同じことです。

 蛇足をいえば、アメリカでは総額人件費の削減を「雇用の削減」でやり、日本では「一人当たり人件費の削減」でやったということでしょう。
 MIT(のちHarvard大)のマーチン.L.ワイツマン教授がこのあたりを「シェアー・エコノミー」という本で書いています。



改めて、人間中心、長期的視点の経営を

2008年12月17日 20時19分54秒 | 経営
改めて、人間中心、長期的視点の経営を
 本来の日本的経営は「人間中心」で「長期的視点」に立った経営といわれてきました。もちろん、企業というのは人間がやることですから、「人間中心」というのは、ある意味では当たり前でアメリカのように「資本中心」というのが、実は異常です。心も意思もない「資本」が中心などということはありえないので、「資本中心」といいながら、実は「資本に関わって利得を得る人」中心ということ他なりません。

 日本では、こういうことはとうに解っていますから、人間が中心で、人間というのは「企業の労使」だ、ということがはっきりしていたわけです。株主はというと、有限責任でお金を出して、経営は経営者に任せたわけですから、直接企業経営に口出しはしないということになります。
 
 株主は、出来ればリターンが大きいほうがいいですから、株主総会で経営者に何らかの注文はしますが、経営については株主より経営者の方がプロですから、多数の株主の良識で、理不尽なことは抑えられているという形で、バランスが取れるのが一番いいのでしょう。

 こういうバランスの中に、いわゆるファンドが入ってきて、むき出しの株主の利害を、会社の長期的な成長などは無視して、主張しても、日本では、なかなか受け入れられなかったというのが現実です(ファンドの敗北 )。

 このブログで「 経営者革命」についても書きましたが、人間中心、長期的視点の経営をスローガンにした日本的経営は、本来、世界標準になるべきものなのでしょう。

 資本中心のアメリカ式経営が馬脚を現してしまった今、時間をかけて人を育て、その人が企業の発展を支え、企業が長期的に発展し、企業の継続した発展が一国経済の発展を支え、社会全体が時間はかかっても着実に豊かになり、安定した雇用によって、それが個人、家庭に配分されるという、戦後日本企業が作り上げてきた企業のあり方を、改めて経営の基本にすえるべきでしょう。


高付加価値化の手段: その3、高加工度化

2008年12月12日 21時00分48秒 | 経営
高付加価値化の手段: その3、高加工度化
 途上国や産油国が自国の付加価値を増やす方法のひとつに「高化高度化」があります。産油国が原油を輸出するだけでなく、原油を精製して、ナフサやガソリンにして輸出すれば、それだけ産油国に残る付加価値は増えます。

 アジアの国が日本に焼鳥の原材料を輸出するとき、最初は鶏肉を輸出していましたが、最終的には、肉と野菜を竹串に交互に刺して、日本では、ウチワでパタパタ炭火で焼くだけで良いようにして冷凍で輸出すれば、アジアの国の付加価値は大幅に増えます。

 同様に、下請け企業が、粗引きで納入していた部品を仕上げまでやって納入、つまり部品を半製品で納入する段階から完成部品で納入するようになれば、下請け企業の付加価値は増えます。 これらは、加工工程の延長(enlarge)による高付加価値化です。

 高化高度化にはもうひとつ、加工内容の充実(enrich)による方式があります。製品の精度をミクロンからサブミクロンに上げる、1日1秒の誤差を10分の1秒にする、サイズを半分にする、強度を二倍にする、電力消費を半分にする、耐久性を10倍にする、などなど・・・・・。

 前者は技術導入が主体のことが多く、後者は技術開発が主体になるのが普通でしょう。今の日本の技術水準から考えれば、後者、つまり加工内容や製品そのものの内容の充実(enrichment)が狙うべき高加工度化の主体になるのでしょうが、これはまさに加工工程における技術開発に他なりません。

 高付加価値化にはあらゆる場面で、多様な創造性が必要になります。創造性は人間からしか生まれません。失敗からヒントを得てノーベル賞といった例も沢山あります。ニュートンがりんごの落ちるのを見て万有引力に気付いた(作り話?)ように、いつも気にかけていると、あるとき、あるきっかけで何かがひらめくようです。


12月8日を過ぎて

2008年12月10日 15時29分58秒 | 社会
12月8日を過ぎて
 12月8日を2日過ぎましたが、太平洋戦争を開戦から終戦まで、当時の日本の社会システムの中で、さまざまな経験をした者として、今、こんなことを考えています。

 考古学者の研究によれば、縄文時代の日本には戦さはなかったようで、その後、戦さを繰り返している大陸から、青銅や鉄の武器文明(を持った人たち)が流入し、戦争が多発したようです。

 もちろん武器文明だけではなく、農耕技術や、織物、陶器などの多くの文明が海外からもたらされました。島国であるだけに海外文物の摂取が日本の進歩にとって最も大事でした。

 日本で言われる諺の多くは中国の故事に由来しますし、「奥の細道」ですら、松島を洞庭、西湖など中国の景勝地と比較するなど、日本の古典の多くは中国文化の影響を大きく受けています。
 西洋との関係が始まると、蘭学、蘭方は憧れの的でした。明治時代から戦後になってからも「舶来」は優れたものの代名詞でした。こうしたあらゆる面で、昔から日本人は、海外の進んだ文物の摂取に極めて熱心だったことが知られます。

 これは島国に住むものにとっては、大変大事で有効な進歩のための資質ですが、武器文明の流入が戦争の惨禍をもたらしたように、輸入文物は、必ずしも良いものだけとは限りません。
 たとえば、明治時代、開国と共に日本は富国強兵という考え方を導入しました。そして、その実現の方法として、欧米がやっていた「植民地支配」という考え方も導入し、世界で最も後れて実践しようとしました。

 これは決定的な失敗でした。日本は元々そういうことは下手なのです。結果は1945年の敗戦でした。下手なことは無理してやらないほうがいい。日本が平和国家を目指したのは、本来の日本に帰ったということでしょう。

 経済面でも同じようなことが起きています。日本の得意技は「モノづくり」つまり付加価値(豊かさ)の「創造」です。それをやっていればいいのに、欧米から金融技術を導入して、他人の創った富を自分に移転させようとしました。しかし、ルール作りからやっている先輩にはとても敵いません。結果は失敗ばかりです。

 今回、アメリカが失敗を自作自演して見せてくれたたおかげで、この面でも日本は半分目が覚めたようですが、まだ「デリバティブ市場を東京に」などといっているところを見ると、危ない面も残っています。
 
 日本は今でも島国ですが、情報技術の発達のおかげで、島国のハンディはなくなりました。これからの海外の文物の導入は、縄文時代からの、本来の日本人の目で確り見て、「選択的導入」と「日本的な消化」を真面目に行う事が大事でしょう。
 そうすれば、日本は、日本らしい自然体のやり方で、これからの世界に本当に貢献できる国になれるのではないでしょうか。


高付加価値化の手段: その2、技術革新

2008年12月07日 14時27分03秒 | 経営
高付加価値化の手段: その2、技術革新
 高付加価値化の基本は、「今までにない要素を含んだもの」で、それが「消費者(需要者)願望を満たす商品、あるいはサービス」を作り出すことではないでしょうか。

 「今までにない」というのは、何らかの革新的なものを持っているということで、モノであれ、サービスであれ、技術革新という要素を含んでいることになります。
 今までにない革新的な要素を持っているからこそ、より高い価格で提供して、それが市場に受け入れられることになります。

 「消費者、あるいは需要者、利用者の望みを満たす」というのは、最近の言葉で言えばCS (顧客・消費者満足)でしょう。
 新しい革新的な要素が、顧客・消費者の望みを満たすからこそ需要が発生するわけで、どんな製品でもサービスでも、「売れて」初めて付加価値が生まれます。売れなければ、決して付加価値は生まれません。

 さらに、その新しいモノやサービスが、高付加価値を生み出すだけのコストで実現が可能でなければなりません。売れるが採算割れというのでは、顧客への訴求力に、コストをカバーするだけのものがないということでしょう。訴求力アップかコスト低減かが必要です、

 ハイブリッドカー、宅配便の様な新しいものでも、新機軸、便利さなどの顧客満足の高さと価格・コストがビジネスベースに乗って初めて可能になります。 ソーラーパネル、電気自動車などは今からです。

 しかし、いずれにしても、基本的には新機軸 (革新的な何らかの要素) がないと商品としての魅力が生まれないでしょう。新機軸は自社開発がベストでしょうが、世界は広いので、技術導入、最近ではM&Aの活用なども考えられます。
 新機軸を開発するのは人間です。出来れば従業員全員の知恵を活用する(引き出す)ような工夫(カイゼン活動、提案制度、アイデアコンテスト・・・)も大事です。

 現実には、こうしたそれぞれの新機軸の要素の開発と商品化が、それぞれの職場に分担されていくことになります。


物価上昇分をベースアップで・・・

2008年12月03日 16時10分13秒 | 労働
物価上昇分をベースアップで・・・
 12月早々、連合の中央委員集会があったようで、新聞やテレビで、連合が来年の労使交渉では、何年ぶりかでベースアップを要求を決めたことが報道されていました。

 日本経済が順調に回復している状態なら、そろそろベースアップ論議があってもいいのかな、などと思っていましたが、この夏から経済情勢は急転換して、最近のニュースでは一部の企業で、やむなく内定取り消しや期間工についての契約終了などといった雇用についての非常事態も起こっているようです。

 日本と同じように輸出立国になっている中国では、労働組合(工会)のほうが賃金決定には柔軟な態度を示していますし、政府は 最低賃金の凍結を決めています。


 確かに今年は久方ぶりの物価上昇で、サラリーマンの賃金は目減りしています。しかし現在の日本のインフレは、中国に比べれば軽微で、しかも原因は海外資源価格の高騰による「輸入インフレ」です。

 このブログでも触れましたように、「輸入インフレ 」は、日本のGDPが輸入原材料などの値上がりで、相手国に移転してしまった結果ですから、それを国内で何とかしようとしても出来ません。

 日本の労働組合は、過去の二度にわたる石油危機の経験などからその辺はよく理解していたはずですが、どうしたのでしょうか。

 難しい時期なだけに、年明けの論議では、労使の賢明な対応を望みたいと思います。


日本経済回復に向けて

2008年12月01日 14時16分04秒 | 経済
日本経済回復に向けて
 金融危機への対策は、先ずは、傷んだ金融機関への対応策、というのは当然でしょう。しかし、国際的に見れば、金融への損傷がまだ軽いほうの日本です。諸外国に先駆けて、経済活性化への根本的な対応策を進めるべきではないでしょうか。

 経済活性化策といえば、 金融政策と財政政策ばかりが取り上げられますが、中でも財政政策では、いわゆるケインズ流の「政府がカネさえ出せば経済は活性化する」といった考え方が結構根強いのではないでしょうか。不要不急の公共工事でも、景気てこ入れのためならやったほうがいい、といった考え方です。
 
 しかし、考えてみれば、同じお金を使うのなら、あとから国や地方自治体のお荷物になるようなもの(たとえば不要不急の公共施設、箱物など)ではなく、更なる経済活性化、より大きな経済発展につながる効果が期待されるものあるものにお金を出したほうがいいに決まっています。 

 確かにそんなうまい話は通常ないのですが、今の日本の置かれた立場と実力を考えれば、十分な可能性のある分野が見えているのではないでしょうか。
 それは日本が世界に先行する研究開発、技術開発の分野です。今、そして、これから、世界が絶対に必要とする省エネ、再生可能エネルギー、太陽光(熱)発電、電力の貯蔵、海水の淡水化、地球(砂漠を含む)の緑化、CO2の資源化、さらにはIPS細胞などのバイオ・・・、などの分野でしょう。

 古今東西を問わず、経済発展の原動力は、基本的には「技術革新」です。蒸気機関の発明が産業革命をもたらし、電気モーターやガソリンエンジンの発明が20世紀の世界の高度経済成長を進め、IT革命が21世紀初頭の経済発展を支えています。そして、今、その発展の前に立ちはだかっているのが「環境問題」です。

 かつて、戦後の日本経済の回復を支えたのは「傾斜生産方式」でした。今、日本は「傾斜研究・開発方式」を取って、持てる資源(人間と資本)を徹底して地球と人類が必要とする研究開発・技術開発に投入したら如何でしょうか。
 目標が決まれば、人一倍頑張る日本人です。目指す結果は見えていると思います。