tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

国家予算は増える、GDPは増えない、やはりおかしいですね!

2024年12月28日 14時48分44秒 | 政治

この所毎日のように115兆円という数字が新聞でもテレビでもネットでも見られます。そして、過去最大とかいうコメントがついています。

皆さん疾うにご承知です。これから国会で審議される日本の来年度の国家予算の金額です。

予算の決定に最終権限を持つ衆議院がこれまでの与党絶対多数でなくなりましたから、この数字は修正される可能性もあるという説明もあったりします。

しかし結局は、多分そんなに大きな修正はなく、過去最大の当初予算という事になるのでしょう。

当初予算と書きましたが、これは勿論当初予算です。実を言えば、当初予算の時は増えた、増えた、過去最大とか問題にされますが、ついこの間もありましたように、政府は毎年補正予算を組むのです。

当初予算が決まれば、政府の来年度経済見通しが確定します。この予算で、これだけのGDPを達成しますという事にいなっているのです。

所が年度の途中で、これではとても見通しの経済成長は達成出来ないということになって、補正予算を組むのです。今年度は12月になって13兆円の補正予算を組みました。

つまり、国家予算は、「これだけの金を使って、これだけのGDPを(経済成長を)作り出すのでお認め下さいという関係から計算されているものです。

ところが、どうでしょうか国家予算は毎年増え、補正予算も成立させているのですが、GDPの方はほとんど増えないのです。今年度で見ますと、当初予算を組んだ時の経済成長率の見通しは1.3%でしたが、7月になったら0.9%になり、その後10月には0.7%になり、12月には13兆円の補正予算を組んで0.4%

成長という見通しになってしまっています。

つまり、政府の政策は、思った通りの成果には全く繋がらず、あとから予算を追加しても成長率は当初見通しの3分の1にも達しないという事です。

会社でこんな経営をやったら、株主総会で社長以下最低1~2分程は頭を下げて役員退任でしょう。

結局、この所の日本政府の中枢にある人達には、日本経済・社会を成長させるための政策を立案し実行する能力が欠けているという事ではないでしょうか。

内閣(役員)が能力不足なので、管理職は何をすればいいのか解らず、管理職の指示がどうにも不適切なので一般従業員(民間企業労使)は、手探りで何とか日々の仕事をこなしているが目指す成果は出ないという状態でしょう。

アメリカとは、また中国とは、こう付き合うべきといった「経済外交の基本方針」、「格差是正のための」税と社会保障の一体改革、「日本的経営に合う」雇用・労働政策、卑近な例では「お米の値段の正常化」につながる農業政策、などなど、国の基本方針、その実現のための政策の明示がありません。

民間が経済・社会の成長発展に最適な行動をとろうとしても、政府の不適切な政策で、それが出来ないような事になっているのです。

これではいくらお金を使っても(予算を増やしても)成長は無理のようですね。


政治と学術の健全な関係を

2024年12月23日 15時26分47秒 | 政治

嘗て菅総理が着任早々、日本学術会議選任のメンバーのうちの6人を政府として任命しないという決定をし、政府と学術会議の関係悪化が、困った問題としてマスコミに取り上げられました。

菅総理は「私が決めました」といいましたが、任命されなかった6人が、安倍政権の政策に対して批判的な意見を述べていたからといった見方が一般的になり、その上に、菅総理が、認めないとされた6人がだれでなぜ認められないかについても、納得のいく説明がなかったので、6人の学者もその意見も知らないで「私が決めましたはないでしょう」と随分批判されていました。

学術会議は任命しない理由を問いましたが、正式な回答はなく、この問題は、結局そのままでうやむやのうちに、政府と学術会議の関係がギクシャクするようなことになっていたようです。

そのご、岸田総理になっても6人を認めない問題は解決されず、政府はその後、日本学術会議は政府の一機関で、政府の予算で運営されているが、政府機関ではなく独立の組織とすべきではないかという見解を表明するようになりました。   

6人の任命問題をきちんと処理してから改組問題が筋という意見もありましたが、政府はあくまで意地を張って、6人の問題はなし崩しにしたようです。

結局は第三者委員会の意見を聞くという事になって、今回の解決策となったのでしょう。

態度としては、学術会議の方が大人の態度で、第三者委員会の方向で、今回、話が進み、日本学術会議は政府から独立した法人格を持ち、政府が財政支援をするという形で来年度予算に組み込まれるようです。

一国の政府が、その国の学術の分野を代表する組織に財政支援をするというのは極めてまともな事ですし、日本学術会議としても、政府の一機関というよりも自由度も増しますから了解ということのようです。

その上での話ですが、政府は、新法人に、首相が任命する「監事」を求めているようです。事の経緯からすれば、安倍総理の意に添わなかった学者6人の任命を拒否したことから始まったことなので、誰が聞いても、なぜ「首相任命」にこだわるのかという感じです。

学術会議でもこれを多少気にしているようですが、一国政府とその国の学術を代表する組織の間ですから信頼と大局的な相互理解をぢ時にすべきでしょう。

国民としては、一国の発展に如何に学術が大きな役割を果たすかに、思いを致し、政治と学術会議の間で、お互いに切磋琢磨できるような健全な関係を築くよう努力をしてほしいと思うところです。


「カネのかかる政治」をやめよう

2024年12月12日 14時35分11秒 | 政治

政治とは一体何でしょうか。解りやすく言えば、国や地方自治体が、その国民や住民にとってより良いものになるように考え、計画し、実行して、国民や住民の生活や文化の向上を実現する事でしょう。

政治は、企業経営とよく似ています。企業経営はより大きい利益を上げるための活動といった考え方もありましたが、今はCSR=「企業の社会的責任」という意識が一般的になり、利益を追求するだけのものではないと考えられています。

日本ではもともと、多くの企業の「社是・社訓」にあるように社会に、企業は貢献するという意識が明確で、近江商人は、売手、買手、世間の三方の満足、渋沢栄一は『論語と算盤』など、社会全体の為という考え方が一般的でした。

こうなると、政治も、企業経営も基本的には共通の考え方に立つという事になります。

現実の場でもそれが実証されているようで、会社の業績は経営者の資質・能力に大きく依存するというのは世の常識でしょう。

これを日本の政治に当てはめてみれば、前回指摘しましたように、1970年代までの日本国の経営は良かったが、その後の経営は失敗続きといった実態が見えてきます。

そうした中で、近年になって、常識のように言われるのが「政治にはカネがかかる」という言葉です。しかし、これは本当に常識でしょうか。

確かに、日本国の経営、地方自治体の経営にはカネが掛かります。しかし、そのカネはすべて税金やと社会保険料という形で法的に国民の負担として確保されているのです。

そしてその負担は,国民に迷惑を掛けないようにと、国家予算にしても、地方自治体の予算にしても、なるべく抑制し節約すべしというのが「常識」なのです。

では「政治にはカネがかかる」という常識は、何なのでしょうか。ここでいう「政治」は政治本来の活動ではありません。政治家のグループである政党の運営費なのです。

勿論、政党にもその運営のための経費は必要です。国も国民もそれは認め、国家予算の中から政党交付金を支出しています。

本来であれば、サラリーマンが給与の範囲で暮らすように、その範囲でやりくりすべきでしょう。しかし、それでは足りないとい所から「政治にはカネがかかる」という言葉が作られたようです。

確かに、選挙民に「わが党の方針や活動を知ってほしい」と 思えば経費は必要でしょう。ですから、それに対しては、個人献金が認められているのです。

但し、個人献金は、選挙の一票と同じように、個人が、その政党の活動を評価してのことでしょう。

ですから当然、政党は自分たちの働き、その成果の周知に努め、議会における活動などを選挙民に知らせ、それが選挙民と政治家の活動との相互理解の促進に役立つというメリットもあるのです。

政治献金は、政党や政治家の国民・住民への貢献を周知し、その評価が、個人献金に繋がるという所に意味があるのです。

草の根民主主義という民主主義の本来の形から、民主主義のあるべき姿を考えれば「政治にはカネがかかる」などと言う言葉は生まれてこないはずです。

この意味不明の言葉は、民主主義を金の力で汚そうという邪な欲望が「言葉」として現れた結果と理解すべきでしょう。


企業・団体献金は「さっぱりと」廃止を

2024年12月04日 14時41分33秒 | 政治

今国会で、片付けようと言っていた政治資金問題は、片付けないで持ち越しにして、だらだらと理屈をこねあうようにしたいというのが自民党の意向のようです。

かつて自民党もさっぱりと禁止をしましょうという事で結論を出したはずです。その代わりという事で政党交付金も決めて、それでるやる覚悟を決めたのでしょう。

その時の覚悟は何処へ行ったのでしょか。今回は、いつまでも未練がましく、国民の多くが反対というのにだらだらとしています。

国民の多くが反対という事を陰でやっていて、それがばれて裏金の逆効果で与党過半数割れになったのです。

民主主義の中ですから、国民の多くの意を戴して「さっぱり」やめて、スクラッチの選挙で出直しするという気概は今の自民党にはないのでしょうか。

もともと、一度さっぱり、きっぱりやめたものを陰でこそこそつ復活させて、これが次第に巨額になって、批判が多くなったら「政治はカネがかかる」という言葉を作って、庶民には解らない政治の世界のブラックボックスの存在も「仕方がない事なのですよ」と国民に思わせて今に至っているのです。

そして、いつ、どうして、さっぱりやめたものを復活させてのですかという理由は誰も知らなくて、復活して来ていたからそれで良いと思っていたという人ばかりが自民党の国会議員という事になっているのです。 

国民にしてみれば、政治は大事ですから「カネがかかる」と言われれば「そうかな」と思うかもしれませんが、良く考えれば、日本経済の運営に必要な金は、国民負担率で計算されているように税金と社会保険料で払い済みなのです。

それ以外に必要なのは、政党の運営費でしょう。

今の日本では、政党の運営費も政党交付金という事で国家予算から出ているのです。それも自分たちが「国民の意見」を聞いて決めたものです。

そんなものは最低賃金の様なもので、それでは次の選挙に勝てないと、自分で稼ぐ必要を感じれば、実績を上げて寄付を集める。それもいいでしょう。しかし、寄付が認められるのは、選挙と同じで、国民個人々々なのです。法人に投票権はありません。民主主義は「個人」がベースなのです。

企業や団体は、必ずしもそのメンバー個人の政治的意見を代表しているとは言えないのですから当然です。「寄付より給料を」という人も多いでしょう。

そうしたすべてを承知で、企業・団体献金を復活させ、30余年の政策失敗による経済低迷(業績評価マイナス)の中でも、自党の票田涵養に成功して政権を維持してきた自民党の実態が見えてしまった結果が現状という事でしょう。

ならば、「いわゆる政治資金問題」、就中、企業・団体献金問題を、かつての自民党の決断に戻さなければ、日本の政治も、社会も経済も良くならないと自覚し、思い切って「さっぱりと」国会で決定すべき時ではないでしょうか。


政府はマイナカードで何をしたいのか

2024年12月03日 13時16分56秒 | 政治

マイナ保険証が一般化するという事で、紙の健康保険証の発行がやめなりました。

ナイナンバーカードを持っていない人もまだ2割ほどいるようです。紙の健康保険証はまだ1年程使えることになったようですが、マイナカードに健康保険証を登録してないは、早く登録してくださいという事です。

わたくしも登録しましたが結構面倒でした。この登録では、地方自治体の現場などで沢山のトラブルがあって大変だったようです。

登録はしましたが、病院に読み取り装置がないので使い道がないというのが長い間つづきした。

その間、種々の届などで市役所に何度か行きましたが、書類提出の際マイナンバーカードをお持ちくださいという事で持っていきました。市役所の受付には、マイナカードの読み取り装置はありません。届ける書類にマイナンバーは書き込んであります。

マイナンバーカードを見せてくださいというのでお見せして照合しました。代理人で行ったときは代理人の署名捺印をした書類を持っていきましたが「マイナンバーカードをお持ちですか」と言われて、持っていると言いましたら、それも見せて下さいと言われました。

「ちょっとそれ、両方お貸しください。コピーを取りますから」という事で並べてコピーしたものを見せてくれて、これで結構です、お返ししますということになりました。マイナカードを使うと随分手続きが面倒になるなと感じました。多分、お役所の方のマイナカード対応システムが出来ていないのでしょう。

病院の場合は、そんな事をやっていたら、患者の大迷惑ですから、早く端末読み取り装置を普及しなければという事だったのでしょうこの夏ごろから各診療所調剤薬局などにも装置が増えてどこも置いてあるようになりました。

所がだれも使っていないのです。受け付けでは紙の保険証と診察券を受け取って1秒か2秒でOKです。

という事であえて使わないでいましたが、暇そうなときにこれ使ってもいいですか、どうぞお使いくださいという事でカードを絵の通りに入れたら顔認証か暗所番号の選択になっているので、精度が良いと言われる顔認証にして、3つほどの質問に答えて、診察券を渡して完了でした。

「どちらがご都合がいいですか」「どちらでも結構です」でした。しかし、今に至るカードリーダーを使っている人はほとんど見かけません。

先日は調剤薬局で「これ使うと何かいいことありますか」と聞きましたら、「お客さんには特にないでしょう。うちの方は記録を見ることはできますが、あまり見ることはありません」といった後で「お持ちですか」と言うので「持ってます」と言うと「それなら入れてください。「こちらの都合ですが「利用をふやせ」と言われてますんで」という事でした。

今後は、身障者手帳も、運転免許も、マイナカードに入るそうです。読み取り装置の準備はどうなるのでしょうか。

国民には何のメリットがあるのか解らないという事は、日本の行政システムがデジタル化していないからでしょう。(いつまでカードをコピーしてFAXで送るのですか?)

行政システムの方、つまり受け皿を準備してからマイナカードをお使い下さいというのが順でしょう。

というより運転免許証も身障者手帳も、みんな政府がデータを持っているのです。マイナカードへの登録はお役所の中で完了できるのです。

そして、全部できたら「こんな国民に都合のいい社会なりますという設計図を示して、国民の賛同を得ることがデジタル省の役目でしょう。


企業団体献金は何故反対されるのか

2024年11月13日 15時35分12秒 | 政治

政治資金改革の中で、最も議論が伯仲するのは企業団体献金を認めるのか、認めないかではないでしょうか。

国民の多くは認めない方がいいと考えているようですが、沢山払っている大企業と、沢山貰っている自民党に賛成意見が多いようです。

沢山もらっている自民党に賛成が多いというのは誰でもわかりますが、沢山払って

いる大企業や、大企業の団体が賛成というのはなぜか良く解りません。

経団連の会長さんは、「これは社会貢献だから必要だ」と言われているようですが、「社会貢献という意味が解らない」という人は多いようです。

政治を行うのには、お金が必要だから、その役に立つように犠牲的精神で献金をするという事なのかもしれませんが、全く同じ趣旨だと思われる法人税については、いつも「引き下げるべきだ」と強く主張していますから、多分、税金と献金は全く趣旨が違うのでしょう。

貰う方の立場からはどうかと考えてみますと、公務員には、政府自身が決めた歳費や給与が支払われています。

立法を担当する政治家には秘書の給料なども含めて確りした歳費が支払われ、その上、政党にも政治活動のための「政党給付金」が支払われ、それは政治家が種々勉強をしたり有権者に教宣活動をしたりするために支出されているようです。

たしかに、使える金は多い方がいいに決まっていますが、必要な勉強をしたり受験生のように選挙の準備をしたりするのは、学者でも活動家でも、自分の通常の所得の範囲でやっているので、そのための特別のお金など滅多に出ません。

個人の勉強や活動の範囲では使いきれないような膨大な金を集めて、それが何に使われたか解らなくても許されていたのがこれまでですから、反省して、「もうやめます」というのがまともでしょう。

改めて出す方から考えてみますと、本当に必要なものは法人税で払いますから、もう「どんぶり勘定」はやめましょう、企業と言っても大企業になれば、これはもう「公器」だというのが日本の伝統的経営道義、企業倫理です、国民の納得が必要です、と言うべき所でしょう。 

 

こうしたごく当たり前の感覚による判断が、受け取る方、払う方の双方になくて、結果的に、巨大などんぶりか、ブラックボックスの中でやられていたのですから、すべての国民が納得するように、「日本国を運営するコストは、すべて税金で」という事にして、国民の目の(テレビの)前で、正々堂々の議論で決まるようにしてほしいと思うところです。

「誤って、改むるに、憚ること勿れ」、今後はもう誤ることは「ない」と言えるようなシステムを作ってほしいと思うところです。


政治家も「自由からの逃走」をしているのでは?

2024年11月12日 22時13分19秒 | 政治

今日はちょっと書きにくいことを書いています。

政治の世界は普通の世界とは違い、いろいろと過去の経緯や党利党略があり、そうしたことの背後にそれぞれの政党としての思想信条があるという事になっています。

共通の思想信条の組織・集団であってみれば、所属する政治家の思想や思考形態、そして行動も、所属する政党、さらには派閥という組織の枠組みに従い、基本的に同質であるはず(あるべき)だというのが重要な規範かもしれません。

そうした考え方は、組織の統制上は好都合かもしれません。しかし、組織の構成員一人一人の選択や行動を尊重する視点からすれば、必ずしも合理的とは言えないでしょう。そんな前提で、今回の衆議院の首班指名の決選投票の数字を見てみましょう。

最初の投票では、石破221票、野田151票で1位、2位共に過半数233票に届かず、なりました。

決選投票は、当然、石破、野田のご両人で、それ以外の名前を書けば無効票です。

国民民主党では、玉木党首が、決選投票になったら玉木雄一郎と書くと宣言しました。

これには違和感を感じた人も多いと思われます。玉木の名は、決選投票にはありません。書いても無効票です。

決選投票というのは、候補者2人の中から良いと思う方の名前を書いてくださいというのがルールです。

ですから勝手な名前を書くのは、与えられた権利(責任)が嫌だから、面倒だから果たさない、つまり「逃げる」ことになります。

そのうえで、自分の名を書くという事は全く意味がありません。意味があるとすれば、それをマスコミに言う事で、自分のPRになるかどうかということでしょう。

日本維新の会もそれに倣ったのか全会一致で馬場代表の名前を書くことに決めています。

決選投票の結果は、石破票221で変わらず、野田票160,無効票84で、無効票は決選投票の趣旨から逃げた国会議員の数でしょう。

野党から石破への票はなかったようで。野党からの野田票が9票増えています。84の無効票は、国民民主党、日本維新の会その他、決選投票のルールを逸脱した票という事になります。

巷の意見では、折角自公の過半数割れで、政権交代のチャンスが来たのに、野党内の足並み不揃いで、政権交代はなくなって残念だとの声もあったようです。

無効票の中身は解らないので、あとは憶測ですが、国政に責任を持つ国会議員が投票すると言っても、多くの国会議員は、国民の声を聞き、そこから自分の考えを固め自らの判断に従って投票するというより、組織の方針を鵜呑みにするという事が多いのではないかと感じてしまうところです。

無効票というのは、結局は「勝者に賛成」という意思表示になるのです。自分の意思を行使できるという自由が面倒だからと(難しいからと)逃げた結果が国民に押し付けられることになるような気がしています。


健全な社会と政治・経済の関係

2024年10月31日 14時24分40秒 | 政治

今、日本の大きな課題は何でしょうか。衆院選の争点は政治改革と経済の再生でした。

敢えて、一つ取り残されていたと言えば、日本社会の劣化の問題でしょう。

日本社会は基本的には健全で安定した社会だと思いますし、海外からの評価でも、最近増え散るインバウンド人たちの意見でも、安定した社会とみられているのでしょう。

しかし、われわれ日本人から見ると、最近、従来は考えられないような事件も増え、毎日のニュースを見ていても、何でこんな嫌なニュースが次から次へと出てくるような日本社会になったのかと恐ろしくなることが多くなりました。

最近、夜、明かりをつけている家が増えたように思いますが、連続強盗事件を心配する家が多くなったからでしょうか。

毎日のようにマスコミが警告している特殊詐欺事件の被害額もなかなか減らないようです。投資を装った詐欺事件も報道が頻繁です。

書きたくはない事ですが、無差別殺傷事件、家族間の刑事事件など、異常な事件も大変気になるところです。

加えて言えば、企業内の検査基準を順守しないといった問題も頻発です。

もともと根は真面目で、社会規範を順守する気持ちの強い日本人がここまで劣化するとはまさに想定外ですが、現実は現実です。

原因は、バブルとその崩壊、その後の30余年にわたるゼロ成長、ゼロサム社会の中での不合理な格差拡大が日本人の心を荒廃させたからと感じている人は多いでしょう。

これからの問題は如何にしてそれを元に戻していくかです。

原因を順に遡れば、成長しない社会の閉塞感、その中での不合理な格差の拡大、やり場のない怒り、などなど、持っていきどころのない不満感が人の心の正常な感覚を蝕んできたのではないでしょうか。

今、政府も各政党も、日本経済の建て直しに的を絞っているようです。経済を建てなおせば、社会は良くなると考えているようです。

実はこのブログもそう考えています。経済の建て直しは30年来の重要課題です。問題は、「しかし、それは政府の仕事ではない」という事です。

税と社会保障制度の抜本改革で格差社会化を是正する、といった長年の懸案、その枠であるトータルの国民負担率の適正化は政府の仕事でしょう。

しかし、どこそこに補助金を出すとか、一時的な減税や給付金で消費を増やそうなどという事は考えない方がいいのです。

そうしたツギハギ政策はすべて、国民の合理的な経済活動を歪め、日本経済の効率を悪くするだけです。(政府の見える手)

昨年あたりから日本の企業も労使も、そうした問題に気付き、労使の配分の正常化、消費と投資のバランスの是正に連合・経団連も動き始めています。

政府は良きルールを作り、産業界はそれを生かす活動をするという本来に戻りつつあります。

そこで最も重要になるのが、これこそ政府の仕事、健全な国民負担率の設定と、社会保障を含むその適切な分配です。(その合理性、公正性が政府信頼の源泉です)

今、日本の国民が最も不安、不満を持っているのは、その適切な分配でしょう。税と社会保障の一体の抜本改革です。新たな日本の再生です。

それを全力で担当する政府は、清潔で合理的な政府でないとできないでしょう。

話を基本に戻せば、今までの自民党中心の政権が、明らかになってみれば泥沼の政治でした。権力とカネと保身の渦の中で総理は平気で国民に嘘を言っていました。

それを直すことから始めるのが基本でしょう。日本経済をよくするのも、日本社会をよくするのも、「日本の政治が清潔で合理的なものになって」初めて可能になるのです。汚れた手や心ではでは、それは出来ません。

繰り返しますが、政府は、まずすべての前提条件「クリーンな政治の実現」に十分な時間と労力をかけてください。国民は待っています。(密約や野合はナシ)

経済は民間産業界、労使の組織が政府の余計な手助けは不要と言っているようです。


閣議決定で済ませたものが色々ありますが

2024年10月29日 13時39分12秒 | 政治

安倍政権以来でしょうか、閣議決定が多用(乱用)されて来ているような気がしていました。

集団的自衛権もそうですが、閣議決定で済ませていていいのかなと思うようなことがが、閣議決定で決められて、そのまま事が進められているような気がしています。

閣議決定と言えば、企業なら取締役会決定という事でしょうか、法的には。その効力は大きくても、出来れが広い合意が望ましい場合も多いでしょう。

勿論、国家の大事であれば、国会で決議すべきではないかなどと思ってしまって、しっかり国会で審議してほしいと思う人は多いはずです。

解説などで見ますと、閣議決定は仮建築の様なもので、勿論それを活用してなんでも出来るのですが、本来から言えば、仮建築ではなくて、本建築にした方がいいなどと書いてあったりします。

やっぱり国の大事であれば、国会で審議をして正式にした方がいいのではないかとは思っていたのですが、ある時「そうか」と気が付いたのは、国会にかけても、結局は原案通り通ることになるという現実を前提にすれば、結局はどちらでも同じことだという事でした。

国会にかければ議論は紛糾するかもしれません、しかしどんなに紛糾しても、与党が絶対多数ですから、最後は強行採決で原案通り通るのです。

安倍さんはよく、「強行採決などは考えたこともありません」などと言いながら、ずいぶん強行採決をやっていましたから、無駄な事をやっても結局は無意味という事になるだけだと考えていたのかもしれません。 

当時は、やっぱり絶対多数は強い。いざとなれば「政権の独裁的行為すら可能にするのが現実」、などという無力感に支配される思いもあったようです。

しかし、今回の選挙で、この前提条件が変わりました。

立憲民主党の野田さんが「今回の選挙の目的は「自公政権の絶対多数を阻止することです」と繰り返していましたが、それが実現しました。「何なら強行採決をしましょうか」とは言えないことになったのです。

そうなれば、閣議決定の仮建築で済ませていたことを、やっぱり本建築にすべきではないかの議論を国会ですべきだという事になるのではないでしょうか。

仮建築とは、基本的に違った建物にしなれば、本当の役には立たないという事になるものも、多いのではないでしょうか。

ちょっと考えてみただけでも、先にあげた集団的自衛権、防衛力整備計画、経済財政運営の基本方針、こども未来戦略、などなど国民の思いとは必ずしも一致しないものは数多くあるはずです。

日本学術会議との関係の修復なども、長い目で見て日本の、学問レベル、科学技術立国などとの整合性が問われるところでしょう。

政治的混乱を早期に収拾し、国民の意を戴して確り活動する政権の早期発足が望まれます。


<月曜随想>今回の衆院選投票率に思う

2024年10月28日 15時11分58秒 | 政治

今回の衆院選で最も注目していたのは投票率でした。

過去3回の総選挙2014年、2017年、2021年の投票率は52.7%、53.7%55.9%と戦後最低の低迷状態でした。

今回53.7%いうのが、共同通信の推定です。ここまでくれば政局は否応なしに混乱でしょう

民主主義の基本が国政選挙にあるという意味からすれば、有権者の半数近くが投票していないという状態は、国民の政治意識としては、まさに異常な怠惰です。

民主主義は、多数決原理が基本で、いろいろ問題があっても、より多くの人が「これが良い」ということで、物事を決めれば、それが最も妥当だという考え方です。

歴史的には、一部の選ばれた人たちだけとか、男だけとか、いろいろな差別があって、国民全体に選挙権が広がるのには随分時間がかかった事はご承知の通りです。

現状の日本では、民主主義の基本原則に即して有権者の範囲を広げ、2017年からは年齢も18歳以上になっています。

民主主義という政治システムに参加する権利に差別なしの本来の理念の具体化です。

ところが、世界でも「まじめ」という認識で定評のある日本人の半分近くが、この権利を行使せずに放置しているのが現状なのです。

多分、有権者の半分近くが、この権利は「行使しなくても良いもの」と考えているといるのでしょう。

この辺りは学校教育や家庭教育の範囲になりますが、権利にはそれなりの義務が伴うという事が認識されていないのです。

選挙権は権利で、政権がもし国民の意に反するようなことをすれば、それを止める権利が国民(選挙権者)にあるという事です。

もっとはっきり言えば、プーチンやネタニヤフのやっていることを止めさせる権利は、ロシアやイスラエルの国民(有権者)にだけ与えられているのです。国連にも、アメリカにもないのです。国民が権利を行使しない(出来ない)ので、世界中が迷惑しています。

勿論これは極端な例ですが、民主主義国の有権者は、その権利を行使し、政権の行動を監視し、国政の安定に責任を持たなければならないのです。

日本の場合は、一見安定ですが、モリカケサクラから裏金、長期のゼロ成長、財政赤字の急拡大、集団的自衛権、など、国民に多大な迷惑をかけています。

それを見て見ぬふりをするのは、権利の反面である義務遂行についての怠惰です。

半分近くの有権者が、「あとの半分の有権者に任せるよ」と平然として、権利と裏腹の「義務」を果たさない事は許されるべきではないでしょう。

日本が、こんな低迷状態にあることに、国政選挙で棄権する有権者の責任は大で、もし投票率が高ければ、国政の改革は、もっと早く進んでいたでしょう。 

以前「棄権は危険です」という標語もありました。民主主義は国民が監視を怠れば、容易に劣化し、最も恐ろしいのは独裁色を増すことです。

日本人が挙って、民主主義という政治体制に対して、もう少し真剣に対応することを願うところです。


総選挙の行方は:結局は投票率か決める

2024年10月26日 13時11分58秒 | 政治

明日は総選挙の投票日です。結果は、日本の将来を左右することになるでしょいう。

戦後日本の高度成長を引っ張った自由民主党が、1980年代後半以降、対日政策を明確に変えてきたアメリカの意向を安易に受け入れ、「アメリカ追随」を基本姿勢とするようになり、1993年の日本新党中心の政権奪取、2009年の民主党の政権奪取も克服、日本の経済社会を、長期安定政権と言われる形で主導を継続して来ていました。

この間アメリカの対日政策は、経済発展の競争相手から、日本の資金力をアメリカのために活用するという方針に転換したらしく、アメリカのリーダシップに牽引され、低成長の中で資本を蓄積、万年経常赤字のアメリかへの資金協力といった形の経済体制が目立つようになってきました。

こうして、自民党政権の下で、経済大国と言われた過去も忘れ、経済や技術の重要部門でも、一人当たりGDPでも、次第に順位を落とし、経済・社会共に劣化が目立って来るようになって来ました。

劣化したのは日本の経済社会だけだはなく、その劣化をリードしたのは自民党政権自体の在り方だったという事が、このところの不祥事で国民の間に広く解ってきてしまったというのが最近の政治面での現実なのでしょう。

振り返ってみれば、嘗ては、アメリカとはベストの友好関係を維持しながら、日本としては、国民とともに日本国の発展を堅持するというのが自民党の基本方針だったのでしょう。(池田勇人、田中角栄などなど)

しかし今では、世界の中で、平和と不戦を国是とした日本を、国民の中に「新しい戦前」などという言葉が自嘲的な意味で言われるような状況が生まれています。

また、かつての付加価値の生産力による経済立国の真摯な意識を忘れ、カジノを誘致して悪銭を稼ごうといった考え方までアメリカ大統領の希望、自民党政権の応諾の意思表示で進められる堕落ぶりです。

こんな日本になったのも、長期の権力維持で、諺どおりに腐敗した自民党政権、それに汚染された一部の選挙民、そして、アメリカ追随の現実に失望と諦めの結果の投票率の低さのもたらした結果ということでしょう。

この現状を打開できるのは、結局は日本国民の決意ではないでしょうか。アメリカとは友好は維持するが、同時に日本は日本としての進むべき道を世界に明確にしているのです。

そして民主主義国日本の政権は、日本国民の選挙で決まるのです。日本の政権が、アメリカ友好であれば、追随でなくてもそれは当然でしょう。そうした明確な意識で、選挙で意思表示を確りとすることなのです。

腐敗した自民党の姿を良く見ることも大事ですが、同時に、アメリカと日本の関係の在り方にまで考えを致す選挙・投票でなければならないのでしょう。

そうした意味では、今回の総選挙は、日本人が挙って自分の意見を表明する、本気で大事なチャンスなのです。

出来るだけ高い投票率で意思表示をすることで、日本の進路を世界に示し、日本の経済・社会の再建のための選挙ではないでしょうか。


忙中「閑話」:投票率を上げる方法

2024年10月22日 12時08分22秒 | 政治

衆院選の最も忙しい時期に、「閑話」などと不届きなと叱られそうですが、これも、このところの投票率の低さへの懸念を何とか多くの人に持って頂いて、投票率を上げなければと思ってのことですので、お許しいただきたいと思います。

先日も、このところの日本の総選挙からみますと、日本の民主主義は投票率50%の「半分民主主義」で、これでは本格的な民主主義の体をなしていないのではないかと思いますと書きました。

何とかして「全部民主主義」に近づけていかないと民主主義国落第という事になりそうですから100%は無理でも90%以上ぐらいは目指しましょうという願いです。

マスコミの中には、今度も投票率はあまり上がらないとの見方もあります。長期不況で政府不信が嵩じた結果とすれば、それだからこそ選挙に行ってよい政治家に良い政治をしてもらうように、国民として努力すべきでしょうと考えます。

日本人が本当にその気がないというのなら、その気になるような方法が必要です。

という事で投票率を上げる方法を考えてみました。

一つは、日本人の本来の真面目さに頼る方法です。

今は何月何日選挙「即日開票」ということになっていますが、そこを「即日投票率計算」とします。そして開票日は「目標投票率に到達した日」とし、毎日今日は何%になりましたと広報するのです。

日本人が、本来の真面目さを失っていなければ、せいぜい1週間ぐらいで目標投票率に到達するでしょう。

目標到達率は国民と政府が相談して決めます。

何時まで経っても目標投票率に到達しなかったらどうするの?という事になりますが、日本人がそこまで堕落していないと考えています。

ただし、もう一つ、もっと直接的な方法を考えなければならないかもしれません。それは棄権には罰則という方法です。

オーストラリアの罰金制度は有名です。そのほか選挙権停止(もともと行かない人に効果は?)、禁固刑の国もあるようです。

罰金の場合は効果はあるが徴収の手間がかかるという意見もあります。それならば、次の総選挙で投票を確認するまで、支払う税金を〇%増しにするという方法です。〇の数字は国民と政府が相談して決めます。これならマイナカードが活躍してくれるでしょう。

何もしなくても投票率90%の日本であってほしいと思っています。


選挙公約は実現できるか:判断は「実績」から

2024年10月21日 16時00分34秒 | 政治

選挙戦も真っ最中になりました。私は昨日、期日前投票を済ませました。歳も歳ですから、何があるか解りませんので、行ける時に行っておくことにしています。

期日前投票所は賑やかで、係員の方は、最近は期日前投票が多くなりましたと言っていました。

「投票率も上がるといいいですね」といったら「そうですね」と真面目顔でした。

マスコミでは、9党の党首の主張が繰り返し報道されていますので、それぞれの主張は良く解るのですが、それが具体的になった時にどうなのかというのが、現実の政治の世界ですから、政権を取って政治をやってくれないと意味がないのです。さらに、政権を取ってやってくれても、言った通りのことをやってくれるのか、出来ない、あるいはやらないことも平気で言っているのかこの辺りを有権者が確り見極めなければ民主主義は本来のあるべき姿にならないでしょう。

そんなわけで、今回は前々回に続いて発言の真偽、あるいは実現性を見分けるのに、いくらかは役に立ちそうな諺を取り上げてみました。

・学びて思わざれば、則ち暗(罔)し

・思いて学ばざれば、則ち危(殆)し

これも中国の諺(論語)ですが、

「人から色々学んでも、自分でも良く考えないと、結局は暗いことになります」

「自分で考えて良いと思っても、人の意見も学ばないと危ないことになります」

といった意味でしょう。

最近の石破さんでいえば、自分で考えて自民党らしくない意見を持っていましたが、総裁になって周りの意見を聞いた結果は全く違う意見になってなってしまいました。アジア版NATOなども、アメリカもアジア諸国も否定的でお蔵入りでしょう。

安倍さんや、岸田さんを見ますとブレインがいろいろなことを教えてくれますから何でも知っている様でした。しかし自分でそれをらを勉強し自分のものにしていませんからスローガンを打ち出すと素晴らしいと言われますが、自際にはアベノミクスも成長の分配の好循環もみな竜頭蛇尾で成果が出ずに終わっています。

具体例では、規制撤廃という骨太の方針は、モリ、カケ、サクラ、裏金へと、最後は自己判断の「何でもあり」に堕して、自民党崩壊につながったという事でしょう。

今、野党の多くが公約として掲げている減税や補助金・給付金の拡大にしても、「思いて学ばざれば、則ち危(殆)し」で、多分そういえば喜ぶ人が多く票が取れるという発想だと思われます。

今まで自民・公明連立政権がやってきた補助金政策、給付金、定額減税などといった政策が消費の拡大に殆んど役に立っていないという現実のデータを学んでいない単なる思い入れでしょう。

このブログではできるだけ政府の公式統計を出すことにしていますが、そうした中から補助金や給付金では消費はほとんど増えないという現実が見えています。

耳や眼に心地よい巧言令色は今日の諺でも否定的でしょう。

そんなことも、頭のどこかで考えながら、日本の国が良くなるような真剣な選択に繋がる事が、本気で望まれるのが今回の選挙だと思っています。


難しいですね「人を見る目」を身につける事は

2024年10月18日 14時35分10秒 | 政治

選挙戦が始まって、それぞれの立候補者が「自分という人間を選んでくれれば、日本は良くなります」と一生懸命訴えています。

良い感じの人もいますし、少しオーバーじゃないのといった感じの人もいます、中には言っていることが良く解らない人もいます。

テレビの画面で、十分に準備して、あなたの望みを私に託してくださいと言っているのですが、その中にある、「日本をよくしたい」という気持ちと「私が当選したい」という気持ちのどちらが強いか見破るのは大変です。

ということで、多分あまり役には立たないと思いながら、諺を取り上げてみました。

・剛毅朴訥仁に近し

・巧言令色鮮(少な)し仁

これはよく対句として言われるところですが、もともとは論語の中の別の篇に書いてあるのだそうです、並べてみるとまさに対句です。

剛毅は「質実剛毅などの四文字熟語もありますが、中身は確りしているが外見は飾らないという事でしょう。朴訥は素朴で訥弁、言葉は不器用ということで、そういった人の方が人間としては立派なことが多い、といった意味でしょう。

巧言は、言葉使いは上手で、令色は表情は相手に合わせ上手く作るが、そう言った人は人間としては薄っぺらなことが多い、といった意味でしょう。

何か、安倍さんと石破さんを並べているようですが、最近の石破さんは表情も温顔で、言葉も大変滑らかに変わっています。

大変に失礼なことを書いてしまったのかもしれませんが、例を引いて説明するには、だれもが良く見ている人でないと、肝心の理解が得られませんからという事でお許しいただきたいと思います。

これらの日本でも人口に膾炙した諺となっている言葉は、ほとんどが中国由来です。日本文化そのものが、遣唐使以来中国の影響を受けていることは誰もが知っていますが、戦後は、代って欧米の影響が大きくなっています。

欧米の場合は、先日のアメリカの大統領選での党首討論に見ますように、巧みに喋り相手を言い負かす方が評価される事が多いようです。あの勝手にしゃべるトランプさんも、ハリスさんには言い負けたようで、2回目はやらないという事になっています。

まさか「沈黙は金」という諺を地でいったのではないでしょう。自分だけでしゃべることは活発です。

この辺りは東洋文化と西洋文化の違いなのかもしれませんが、「剛毅朴訥仁に近し」と言っていたのでは進歩が止まってしまう事もあります。

毛沢東の文化大革命では知識人を下放し、肉体労働に従事させた歴史もあり、カンボジャはその影響を受けたポルポト政権が文化人の大量拘束・虐殺をしたなどという歴史もありました。

こうした政策を良しとした為政者の動きが「剛毅朴訥仁に近し」を念頭にと言ったら、孔子は大迷惑でしょう。

どちらにしても、やはり物事は極端は良くないので、ここは孔子の言う「中庸」でなければならないのでしょう。

一国の為政者でも、往々にして誤ることはあるでしょう。その意味では、それぞれの多様な常識を持つ大衆が、選挙という形でそれぞれに確り考えてその国のリーダーたちを選ぶというのは最も無難な方法で、それが民主主義ですという事になりそうです。

そしてそれならば、大衆、具体的には有権者の100%がきちんと投票をすることが最も大事なことではないかとつくづく思うところです。


企業行動と政治活動:道徳倫理と法律の視点から

2024年10月17日 13時47分55秒 | 政治

このブログでは、「企業の社会的責任」いわゆるCSR(Corporate Social Responsibility )の問題を折に触れて取り上げてきています。

嘗ての日本では経営道義などともいわれた考え方の国際版でしょう。

ウィキペディアによれば

「CSRは企業が利潤を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者投資家等、及び社会全体)からの要求に対して、適切な意思決定をする責任を指す。」

と書いてあります。

日本では、渋沢栄一が「論語と算盤」を書き、世界で見れば「国富論」を書いたアダム・スミスが「道徳感情論」を書いて、企業には「社会的責任がある」ことを指摘しています。

考えてみれば、社会に存在する限り、社会に迷惑をかけない事が当然必要です。だから反社会的行動に対しては法律があり社会秩序の維持が図られるのでしょう。

しかし、法律制度だけでは必ずしも社会は良いものにはなりません。その意味で大事になるのが道徳・倫理でしょう。

原点は個人にあって、倫理・道徳は個人の人間関係の世界では多分人類発生以来言われていたのでしょう。「徳の高い人が尊敬される」というのは人類共通の認識でしょう。

こうした、社会における善き人間関係を個人のレベルから人間集団・企業のレベルへの適用を目指したのがCSRでしょう。そしてこれは今日では広く企業社会において順守されるようになってきています。

という事であれば、これは当然政治の世界にも適用されるべき問題ではないでしょうか。

政治は企業に増して人間社会の活動に影響を与える重要な仕事です。法律を作るのも法律を執行するのも政治の役割です。企業にとってCSRがいわれるのに増して、政治はさらに広範で、高レベルの「よりよい社会実現」のための活動でなければなりません。

その役割を担うのが、今、選挙で国民が選ぼうとしている人々です。

日本を企業に例えれば、「日本株式会社」の役員に当たるのが国会議員でしょう。

さらに企業に例えれば、企業の盛衰は経営陣によって決まるのです。従業員は、60万人ほどの国家公務員でしょう。

経営者が良ければ、従業員は積極的にそれぞれの力を発揮し企業(国家)の発展に貢献します。経営者が粗末であれば、企業(国家)の行く末は見えています。

ところで、私が驚いたのは、亡くなった今でも自民党で最大の影響力を持つと言われる安倍総理、当時日本株式会社の社長、CEOに当たる人が「国会で問い詰められ「私は、法に触れるようなことはしておりません」という答弁をしたことです。

国会レベルの議論が、

法に触れなければいいというレベルで良いのでしょうか。その程度の認識で、日本国のリーダーが務まるはずがない。これでは日本の行く末が危ないのではと感じました。そして結果はそれなりの事になりました。

    

これは単なる一例ですが、これに類することはぞろぞろあり、法に触れることも、さらには道徳・倫理、社会的責任に反することはいくらでもあるのです。

選挙になると、その自民党の公認候補者も、そんなことは一言も触れません.素晴らしい目標だけが並びます。

「民主主義のトリセツ」でいえば、有権者は、嘘を言う人を始め、権力に固執する人などなど、立候補者の過去、人徳や、行動をしっかり見定め、後から「しまった」というような事が無いように心がけ(難しいですね)、手間を厭わず、必ず投票することが、日本の国を良くすることだとの自覚で行動することを願っています。