tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

ジャパン・シンドロームを吹き飛ばそう

2011年06月27日 16時29分27秒 | 経済
ジャパン・シンドロームを吹き飛ばそう
 そろそろ震災後の統計が出てきて、いろいろな経済指標が落ち込みを示す中、現実の経済活動は、自動車、新型通信機器、建設機械、化学製品など、復活への兆しが見えてきています。

 統計数字は過去のものですから、それが発表される頃には、新しい展開が出てくるというのは当然かもしれませんが、この政治の混迷、政策決定の迷走の中で、経済活動の現場は、着実に回復に向けて動いているようです。

 被災地の皆さんが、復興に向けて、熱い思いで取り組んでおられるように、この大震災を機に、日本全体が、これまでの停滞感を打ち破り、日本経済社会の新たなる活性化に踏み出すことが出来れば、無念にも震災の犠牲になられた方々への、最大の供養にもなるのではないでしょうか。

 経済の血流 は金融とすれば、産業の血流は電力でしょう。金融の正常化(行きすぎた国際投機資本の規制)が国際経済の大問題とすれば、今後の国内経済の大問題は、電力問題でしょう。国家100年の大計の中で、電力問題をどのように考えるかです。

 世界経済、日本経済の浮沈に関わるこの2大問題が、本当に人類や日本経済社会のあるべき姿を目指して先入観のない論議がされているかというと、どうもそうではないようで、予断を持って論議を有利に導こうという動きが多すぎるようです。

 最近、日本経済が不振なのは、少子化、高齢化、人口減少のせいだという意見を多く聞きますが、この問題を過大評価したように見える、いわゆる「ジャパン・シンドローム 」もふくめて、議論の矮小化、近視眼化を避け、古い衣を脱ぎ捨てるような、徹底的な論議をこの際すべきではないでしょうか。

 大震災を契機に、結婚願望が増えたという意見も聞きます。国民意識次第で、出生率も上がるかもしれません。戦後50年かけて下がった出生率ですが、下がりっぱなしと諦めるのではなく、上げるために何が必要かを考えるほうが大事でしょう。

 試練は人間の生命力を強めます。人間は自然が産み落とした子供です。自然の激しい営みは人間の魂に大きな影響を与えるはずです。
 「単なる復旧でなく、新たな復興と発展を」を、といわれますが、この際、日本総ぐるみで、先入観のない日本復興のシナリオを考えるよう、日本人のすべてが、私心を捨てて、協力したいものです。


東京電力グループの経営理念を見る

2011年06月21日 12時04分11秒 | 経営
東京電力グループの経営理念を見る
 ネットで東京電力の社是を探して見ました。グループの経営理念が出てきて、
「エネルギーの最適サービスを通じて豊かで快適な環境の実現に貢献します」とありました。
 そして解説に、「豊かで快適な環境」とは、「便利で暮らしやすいだけでなく、心豊かで、自然とも調和した持続可能な社会」と書かれていました。

 日本の企業は何処も、こうした素晴らしい社是や経営理念を持っていて、その内容は、利益中心の欧米企業のものとは、一味違って 「社会に役立つ」といった精神が基本になっています。

 社是や経営理念は、何かあったら、その原点に帰るための、企業の良心の拠り所として定められているものといえましょう。
 時に、何かの弾みで、ついついそうした原点を踏みはすしてしまっても、改めて社是に鑑みて反省し、自社の存在の原点に戻るといったことが出来るのも、「社会に役立つ」といった基本的な精神を謳った社是があるからと思えるところです。

 今回の東京電力の問題は、東京電力にとってはもちろん、日本社会、世界人類にとっても、不幸なことでしたが、本当の問題はこれを将来のために如何に生かすかでしょう。

 これまで、電力供給という仕事は、生産と消費の同時性と、特に日本においては輸出入(国際競争)がないという特殊な事情の下でなされるという、まさに「特殊性」がありました。そのために集中発電、片道配電が、最も効率的、経済的という見方も生まれ、原子力発電の有用性も大きく評価されました。

 しかし、状況は急速に変わりつつあります。蓄電技術は日進月歩で、需給のバッファーは次第に可能性を増しています。国際競争は多様な面から浸透してきています。多様な発電方式のコストの低下も技術進歩と普及率次第となってきました。一方、原子力発電のトータルコストの高さは見直されることになるでしょう。おそらく10~20年で状況は更に様変わりでしょう

 経営理念に照らしてみれば、東京電力のあり方も、当然変わらなければ、エネルギー供給者としてのサステイナビリティーの確保が困難になる将来も見えているように思われます。
 かりそめにも、過去に固執して、進むべき方向を誤ることのないような「柔軟な経営」が求められているというのが現実ではないでしょうか。
 
 環境に最も適応したものが生き残るという進化論の大原則は日本人、日本企業の本性でもあるようです。
環境を自分に合ったように作り変えるといった欧米的手法は、長い目で見ると矢張り失敗のようです。日本人として(実は世界人類としても)、十分に心すべきでしょう。


春闘総括の盲点

2011年06月12日 10時33分36秒 | 労働

春闘総括の盲点

 労使関係のダイアリーからいえば、今は「春闘総括の時期」ということになりましょう。しかし、かつて、労使関係の花として、年初にキックオフが告げられ、数ヶ月に及ぶ華々しい論議と交渉の 結果、初夏にいたって、労使が春闘の総括をするといった年中行事も全く影が薄 くなりました。

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 それと同時に労使関係自体も影が薄 くなり、労働経済という学問分野さえ影が薄くなっているような気がします。

 労働経済関係の指標といえば、マスコミが取り上げるのは、失業率と有効求人倍率、新卒就職率ぐらいで、それも労働経済の分析としてではなく、景気の見通しが立たないから、円高で輸出産業が採用を手控えるからといった景気の皺寄せとしての扱いです。

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 それに引き換え、マネーマーケットについてのマスコミ報道は賑やかです。為替レート、金利、国際資金移動、投機資金の動きや思惑、ファンドマネージャーのコメント、格付け会社の 勝手な発言、さらには ソブリンリスク問題、などなどです。

経済問題の中で「労使」という人間の影が薄くなり、「マネー」が経済の主役のようです。

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 このあたりについてはこのブログでも 種々取り上げてきましたが、今日の日本で起こっている労使の役割の後退現象の理由を、極めて率直に言うとすれば、それは、

 「日本の賃金水準を決めているのは日本の労使ではない。それは為替レートである」<o:p></o:p>

という現実でしょう。為替レートが国際投機資本の思惑 で決まるのなら、「日本の賃金水準の決定権は国際投資資本の手にある」という事です。

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 日本の労使は、賃金水準決定の主役から引きずり下ろされました。せめて、賃金格差などの賃金構造問題には取り組まなければと思っても、水準が思うようにならなければ、構造へのアプローチも容易ではありません。しかし日本の労使には「賃金決定権限喪失」の意識は薄いようです。

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 プラザ合意の円高($1=¥240 → ¥120)で日本の賃金は2倍になり 、リーマンショックの円高($1=¥120 → ¥80)で更に50パーセント上昇しました。労使交渉ではこんな賃上げは絶対にしません。

 労使がアレヨアレヨという間に、国際的に見た日本の賃金は大幅に上昇です。これでは、良識ある日本の組合は「もっと上げろ」とはいえません。せめて「定昇獲得で水準維持 」となります。

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 日本の労使に日本の賃金水準の決定権があれば、日本は「ジャパンアズナンバーワン 」にもなれましょう。 しかし賃金水準は為替レート次第ですから、労使は「落穂拾い」のような「春闘」で、その存在を辛うじて世に示すしか役割はなくなります。

 

 こんな世の中で本当に良いのか、誰か真剣に考えている人がいるのでしょうか。


武蔵野の自然:ラミーカミキリ来訪

2011年06月10日 12時07分10秒 | 環境
武蔵野の自然:ラミーカミキリ来訪
             
 政治家は熱いが国民は冷めている、復興への熱い思いと活動が進む一方日本経済は停滞気味、などなどちぐはぐな状況が続く中で、自然は確実に回復し、季節は日々進んでいるようです。

 昭和30年代後半、都下国分寺に住むようになった当時、「去年辺りまでは野川に蛍がでたんですよ」などと聞きました。その後ドブ川となった野川も、今は清流を回復し、所々蛍が見られます。せき止められた深みには鮠が泳ぎ、千曲川旅情の歌ではありませんが、野川遡上の探索散歩の人の群れも時折見かけます。

 昨日は、我が家のベランダに珍客が訪れました。小さくて綺麗なカミキリムシです。
 我が家で子供たちが小さい頃、庭に植えた矮生の百日紅に、よくゴマダラカミキリが来て、子供たちを喜ばせたのを思い出しますが、今回の珍客は体長2センチほどの黒と水色の美しい模様のカミキリムシでした。

 私のシャツにとまったので、そのまま部屋に入り、プラ容器に入れて、サランラップで蓋をし、昔はこんな綺麗なカミキリはいなかったなと思いながら、インターネットで調べました。
 ラミーカミキリ、矢張り外来種 でした。説明を読むと、苧麻(ラミー)にくっついて長崎に上陸した外来種で、最近八王子までは定着している、と書いてありました。

 イラクサ科のカラムシ、アオイなどの葉や茎を食べるというので、部屋にあったハイビスカスの小さな枝をちぎって、入れておきました。 
 今朝見ると大変元気で、ハイビスカスの葉をかじり、たくさんの糞をしていました。あまり悪いことはいない様なので、逃がしてやりますが、その前に写真を撮って、ブログに載せることにした次第です。
 
 武蔵野の自然も、多様な面で回復を示していますが、単に昔に返るのではなく、社会や経済と同じように、ますます国際化しているようです。


政治の混乱と円の評価

2011年06月02日 21時52分13秒 | 経済
 今回の政治の混乱には、被災地の皆様方、特に原発の被害にあっておられる方々、そして心ある国民の多くは、日本の政治家の言動に、ほとほと愛想を尽かしているのではないでしょうか。

 民主主義ですから、政治家、国会議員、いわゆる選良は、われわれが選んだ人たちです。ですから、その人たちが何をするかは、その人たちを選挙したわれわれの責任ということになるのかもしれません。

 そういわれればその通りですが、それを解った上で、あえて言えば、「個人的には存じ上げなかったものですから・・・・・」とか、「そんな人だと思わなかったので」という事になるのでしょうか。更にいえば、『われわれは立候補した人からしか選べないので・・・・・』という事です。どういう人が立候補するかは、何処でどう決まるのでしょうか。

 「出たい人より、出したい人を」という標語が昔ありました。日本人には立候補というシステムが、うまく活用できないような社会的な習慣があるのかもしれません。まさか国政選挙を互選というわけにも行かないでしょうが。

 前々々回ですか、コロンビア大学のジェラルド・カーチス氏の「国民がしっかりしているから日本の政治家は楽をしている」という趣旨の言葉を引用しましたが、テレビのインタビューなどで被災地の方々の言葉をお聞きしても、「私も本当に怒っている」と言われながらも、半分諦めているといった感じを受けるのは私だけでしょうか。
 
 その分大変なのは、直接やるべきことをやらなければならない地方自治体の首長さん方です。地域の人々と直接「人と人、顔と顔のつながり」を持つ首長の方々は本当に立派にやっておられます。 地域の、そして日本の再建は、誰がやるのでしょうか。次第に見えてくるようです。

 それにつけても感じるのは、「こんな大変な時期に、こんな政治の状況でも」、日本の経済社会の客観的評価といえる『円の価値』は微動だにしないという事実です。 『不信任案提出の日も円高』という現実の意味するところは何なのでしょうか。

 もしこれが日本でなかったら、「いよいよこの国も当分ダメかな」ということで、通貨価値は暴落しているのではないでしょうか。
 しかし、円は絶対的な信用 を維持しています。つまり日本の経済力、社会の安定については、世界的に絶対の信用があって、政治のガタガタはほとんど関係がない、ということなのです。

 国会を舞台にテレビカメラの標的になる選良の方々にはこの事実はどう見えているのでしょうか。国際的は、それほど皆さんへ評価は軽いようです。


国民意識変化の兆しか

2011年06月01日 14時07分14秒 | 社会
国民意識変化の兆しか
 東日本大震災は、日本人の意識に、何か大きな変化をもたらしてることが明らかになりつつあるように思われます。
 特に、日本の将来を託す若者や、社会とのつながりが希薄になりつつある中年世代などの心に、何か本来の人の心に帰るような変化をもたらしているのではないかと感じられます。
  
 最近、「無気力」などといわれた若者が、決してそうではないという事が、ボランティア活動への積極的な参加や献身ではっきりしてきました。
 加えて、家族の大切さ、ご近所とのつながりの大切さ、地域社会活動への参加などいろいろな面での変化が、被災地だけでなく、広範に見られています。
 更に結婚につての意識が大きく変わったようです。婚活などという決して語感のよくない言葉が流行るような状態から、若者が自然に結婚を選択するという、本来の人間らしいあり方に戻るような動きが強まっているようです。

 こうした動きというのは総じて、過度に人工的なものに依存してきた世界から、改めて自然の世界に回帰する動きではないかと感じられます。
 もともと人間は自然の一部なのですが、人工の世界が余りに進んできたため、人工構造物、人工的な環境、ますます人工的な自然の中で、自然の一部である人間が、人工的な世界の中だけで生活できるといった、慢心、あるいは錯覚に囚われていたのではないでしょうか。

 この所の変化の本質は、本当の自然の力、自然の有難さ、自然の恐ろしさに改めて目覚め、本能的な感覚の中で、自然への畏怖を強め、人間の生活は、矢張り自然と共存する、文字通り「自然な」ものでなければならないという感覚への回帰でしょうか。もしそうであれば、それは、本来の日本人らしい、日本人の心根の復活という事が出来るような気がします。

 「やおよろず」の神々を持つ日本人は、もともと、「自然は征服すべきもの」という考え方ではなく、自然と共存 することが人間のあり方だと考えてきたといわれます。そして、今、西欧文明も、本来の自然を残そうと、生物多様性などを主張するようになっています。

 大震災をきっかけにして日本列島に起こりつつある種々の変化を、改めて、われわれにとって大変大事な変化だと感じ、災害からの復興を超えた、あるべき日本の再建への契機として捉えることが必要なのではないかと感じる人は多いのではないかと思います。

 この変化を日本人本来の心根への回帰として、何十年、100年の長期的な将来を目指すものになるよう、国民意識、国民的活動につなげることができればと願うところです。