国家の地球的責任 (NGR)を何故言わない
今は、大寒の真っ最中ですが、大寒に入ってから毎日気を付けて明け方の気温を見ています。
ここはとか国分寺ですから都区内に比べれば気温は2~3度低いと言われます。それでも最も低かったのが大寒2日目だったでしょうか。二階のベランダが1°C、玄関わきが2°C
でこれが最低、そのご7°Cという朝もあって、昨日、今日が4~5度です。
昨年までは、小寒、大寒の間は、何日かはマイナスの気温の朝があり、外の流しのバケツの水が凍っていました。
どう考えても、今冬の暖かさは異常です。チューリップの球根を植えた小花壇には、ハコベが急に広がり始めています。
温暖化というのは、ある年突然来るのでしょうか。去年までと今年では、冬の様相が全く違います。
世界を見れば昨年来北米、南米で異常干ばつによる山火事が大発生、続いてオーストラリアでは日本の面積の半分以上が焼け、漸く雨が降って火勢が弱くなったけれども、未だに延焼中という大惨事になっているようです。
世界中からで集中豪雨、干ばつ、大雪などの情報が入るたびに異常気象の「異常さ」がますます深刻化しているような感じを受けるのですが、この「地球的」な大問題に対して、地球表面に存在する国々の認識はなかなかまとまらないようです。
その代表的なのは覇権国のアメリのパリ協定離脱で、まさに象徴的ですが、日本も2年連続の「化石賞」受賞などと、国内の努力とは裏腹に、海外では評判がよくないようです。
問題は「地球的」です。2012年に、このブログでは企業のCSRになぞらえて、「国家の地球的責任」: NGR(Nation’s Global Responsibilityの頭文字) を提唱しましたが、個人の社会的責任から企業の社会的責任までは、社会の通念となってきましたが、これが国レベルにまで進んでくるかというと、そうもどちらかというと逆で、「国家の地球的責任:NGR(言葉はどうでもいいのですが)」という概念についてはこの所、前進ではなく後退が目立つような気がしています。
これは多分、戦後、戦争の悲惨さを体験した地球上の各国が、国際協調を願って「統合の原理」で動いてきた中で、統合のために必要な「自己抑制」を我慢できない人たちがでてきて、 「分裂の原理」(自己主張優先)が働き始めるという逆方向の動きが出てきたのと軌を一にしているようです。(あたかも今日は英国にとってのEU最後の日です)
戦後は、国連中心主義をベースに、米州機構、EU、アセアンなどの、共生と協力を願った「統合の動き」が進んだのですが、この所、部分的に綻びが出て来ていることと、気候変動条約がまとまらないという現状は、矢張り関係がないとは言えないでしょう。
「分裂の原理」の行く先が戦争につながるかどうかは別として、今すでに地球環境が人類社会に対して気候変動という巨大な問題を提起しているという事でしょう。
多少の軋轢はあってもCSR(企業の社会的責任)は、今では誰もが地球人類共存のための規範として受け入れているところでしょう、ならばもう一歩進めて、「NGR:国家の地球的責任」も人類社会のサステイナビリティーのための規範として、本気で受け入れる必要が焦眉の問題になっているのではないでしょうか。
終末時計は回っています。もうすでに「明日では遅すぎる」という所まで来ているのかもしれません。
今は、大寒の真っ最中ですが、大寒に入ってから毎日気を付けて明け方の気温を見ています。
ここはとか国分寺ですから都区内に比べれば気温は2~3度低いと言われます。それでも最も低かったのが大寒2日目だったでしょうか。二階のベランダが1°C、玄関わきが2°C
でこれが最低、そのご7°Cという朝もあって、昨日、今日が4~5度です。
昨年までは、小寒、大寒の間は、何日かはマイナスの気温の朝があり、外の流しのバケツの水が凍っていました。
どう考えても、今冬の暖かさは異常です。チューリップの球根を植えた小花壇には、ハコベが急に広がり始めています。
温暖化というのは、ある年突然来るのでしょうか。去年までと今年では、冬の様相が全く違います。
世界を見れば昨年来北米、南米で異常干ばつによる山火事が大発生、続いてオーストラリアでは日本の面積の半分以上が焼け、漸く雨が降って火勢が弱くなったけれども、未だに延焼中という大惨事になっているようです。
世界中からで集中豪雨、干ばつ、大雪などの情報が入るたびに異常気象の「異常さ」がますます深刻化しているような感じを受けるのですが、この「地球的」な大問題に対して、地球表面に存在する国々の認識はなかなかまとまらないようです。
その代表的なのは覇権国のアメリのパリ協定離脱で、まさに象徴的ですが、日本も2年連続の「化石賞」受賞などと、国内の努力とは裏腹に、海外では評判がよくないようです。
問題は「地球的」です。2012年に、このブログでは企業のCSRになぞらえて、「国家の地球的責任」: NGR(Nation’s Global Responsibilityの頭文字) を提唱しましたが、個人の社会的責任から企業の社会的責任までは、社会の通念となってきましたが、これが国レベルにまで進んでくるかというと、そうもどちらかというと逆で、「国家の地球的責任:NGR(言葉はどうでもいいのですが)」という概念についてはこの所、前進ではなく後退が目立つような気がしています。
これは多分、戦後、戦争の悲惨さを体験した地球上の各国が、国際協調を願って「統合の原理」で動いてきた中で、統合のために必要な「自己抑制」を我慢できない人たちがでてきて、 「分裂の原理」(自己主張優先)が働き始めるという逆方向の動きが出てきたのと軌を一にしているようです。(あたかも今日は英国にとってのEU最後の日です)
戦後は、国連中心主義をベースに、米州機構、EU、アセアンなどの、共生と協力を願った「統合の動き」が進んだのですが、この所、部分的に綻びが出て来ていることと、気候変動条約がまとまらないという現状は、矢張り関係がないとは言えないでしょう。
「分裂の原理」の行く先が戦争につながるかどうかは別として、今すでに地球環境が人類社会に対して気候変動という巨大な問題を提起しているという事でしょう。
多少の軋轢はあってもCSR(企業の社会的責任)は、今では誰もが地球人類共存のための規範として受け入れているところでしょう、ならばもう一歩進めて、「NGR:国家の地球的責任」も人類社会のサステイナビリティーのための規範として、本気で受け入れる必要が焦眉の問題になっているのではないでしょうか。
終末時計は回っています。もうすでに「明日では遅すぎる」という所まで来ているのかもしれません。