tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

大歓迎!渋沢栄一、1万円札の顔に

2019年04月09日 23時49分58秒 | 社会
大歓迎!渋沢栄一、1万円札の顔に
 実際に発行され、市中に流通すのは5年後というので、私共のような高齢者には、お札になった渋沢翁のお顔が見られない可能性の方が多いのかもしれませんが、第一銀行をはじめ、日本で最も沢山会社を作った方、企業という形で日本の資本主義の幕を開けた方、といえそうな方が1万円札の顔になるのは大歓迎です。

 このブログでも、渋沢栄一については何度となく取り上げてきています。
 取り上げるときは、大体、アダム・スミスと一緒です。

 理由は、渋沢栄一は「論語と算盤」と書き、アダム・スミスは「国富論」で「レッセ・フェール」を言いながらもう一方では「道徳情操論」を書いているからです。

 資本主義は、国を豊かにするために生産を増やさなければいけません。そのためには利益が必要です、という事で 企業の目的というと、往々にして利益を上げる事と説明されてしまうのですが、渋沢栄一も、アダム・スミスも、「金勘定だけではなくて、きちん倫理感を持たなければだめですよ」と言っているのです。

 そういうお方が1万円札の顔になれば、日本企業は、ますます倫理感をもったものになっていくのではないかと思っています。

 いささか余計なことを付け加えますと、以前の資本主義は、モノを生産し流通させ、サービスをして、そうした活動の中から利益を上げる存在でした。
 ですから、たとえお金目当てであっても、モノがたくさん出回って、世の中は豊かになったのです。

 しかし今の資本主義はそう簡単ではありません。お金でお金を稼ぐ「マネー資本主義」が幅を利かせています。
 マネー資本主義でお金を儲けるという事は、モノを作ったりする必要はなくて、多様な合法的(多くは投機的)手段によって、世の中にあるお金を自分のところに集める、という事が中心ですから、それだけでは世の中で不平等を促進するだけで、全体平均では豊かにはなりません。

 そんな時代になっているので、「論語と算盤」の感覚が、ますます必要になってきているという事でしょう。
 渋沢1万円札、できれば、早うお出ましを・・・!

人間とAIの関係:AIは脳の外付け記憶装置の進歩

2019年01月26日 11時52分00秒 | 社会
人間とAIの関係:AIは脳の外付け記憶装置の進歩
 AIの進歩で大失業時代が来るなどという意見があったりします。
工場でもオフィスでも、人間がやるよりAIのほうがずっと効率が上がるという事で、人間の仕事がなくなり、大失業時代が来るなどという将来予測です。

 でも、本当にそうなるでしょうか。これまでも科学技術はどんどん進化し、人間がやっていたことが機械に置き換えられてきていますが、人手不足は深刻です。
 いや、今迄のメカトロニクスとAIは違う、AIは人工知能で、本当に人間の代わりが出来るだけではなく、人間以上に役に立つからだ、という事のようです。

 でも本当に人間のやる仕事はなくなるのでしょうか?私はそんなことはないと思っています。
 理由は、人間(あるいは生物すベて)の存在の所以(ゆえん)とAIの存在の意味・意義(あるいは役割)が全く違うからです。

 人間は、脳が他の生物に比べて異常に進化しているために、生物本来の目的である本能の領域を越えて、多様な欲求を持つようになりました。
 人間以外の動物は(植物も)自分自身が確り生きることと子孫を残す事しかしていません。
 
 自分自身が確り生きることも、子孫を残すために必要なことですから、つまるところ生きている目的は「種の保存」に収斂していきます。
 多くの解説では、「子孫を残すためにこうしています」と人の気持ちになぞらえて説明していますが、それは単に結果で、種の保存をしない生物は生き残らないので、結果的にいまある生物だけが存在しているという事でしょう。

 人間もそうして生き残った結果の存在ですから、基本的には同じ事をやって来たのです。
 しかし人間の脳は異常に発達して、知識の蓄積が出来、本能を意思と感じる機能を持っていますから、種の保存のために多様なことをやるようになったのではないでしょうか。

 人間のそうした能力が、本能を意思として、個体自身の確りした生活、種の保存を一層確実なものにすることに、進化した脳を使うことになっているのでしょう。
 脳に知識を蓄積することによって、人間は地上最強の存在になって、「いわゆる」生存競争に勝ち残っています。

 ところでAIです、AIとは何でしょうか。AIは種の保存には直接関係ありません。勿論種の保存の本能はありません。しかし、間接的には大きな役割を果たします。
 もともとは蓄積して知識や技術を使うことで、個体の生存期間も延伸でき(医療など)生殖期間も長期化、個体の競争力を強めるために、経済活動を活発化し、豊かさが個人的にも社会的にも有利な種の保存環境を可能にします。

 電卓も疾うに人間の計算能力を超えました。私も経済成長や金利計算で累乗根を使って計算し説明をしますが、電卓なしには不可能です。
電卓が電子計算機になり、パソコンになり、スマホも出来て、何十人、何百人の顔を一瞬にして指定識別したり、膨大な過去の記録の中から、必要なものを即座に表示したり、マネーゲームを他人より早く確実にやったり、人間の推論より確実な推論をやったり(碁将棋など)人間より頼りになるなどと言われたりします。

 人間は、忘れたり、うっかりしたりしますが、AIは記録したものは忘れません、電子のスピードで確実にすべてを検索します。
 目的を明確に指示すれば、可能な限りその答えを探します。そしてその可能性はAI技術の進歩とともに人間にはとても出来ない所まで行くのでしょう。

 それなら人間のやることがどんどん減るではないかという見方もあるかもしれません。しかし、個体の確実な生存、種の保存の本能(意識)を持っているのは人間で、人間は家族を創り社会を創り、国を作って生存競争をする存在です。

 競争社会では、人間は(競争に勝って)種の保存により良く成功するために常に努力します。単なる種ではなく、それは家族、国にまで拡張されます。
 結果的に、原始の種の保存の本能と言われるものは宇宙空間にまでその競争の範囲を拡大し、食糧生産においても自然の生殖(再生産)能力を知識・技術を活用して拡大し、個体においては、医療、介護、メンタルヘルスの医学的、技術的、進歩を要求し、健康寿命の延伸にAIの活用を目指し、どこまでも限りなく進むのでしょう。

 そのためにやらなければならないことは無限にでてくるのでしょう。人間のやることは増えこそすれ減ることはないのでは、と考えていますがどうなのでしょうか。

さて、次の元号は

2019年01月22日 23時29分03秒 | 社会
さて、次の元号は
 何時からそうなったのか知りませんが、日本の元号は江戸時代からずっと中国の古典、四書五経などから引いてくるというのが慣例になっているようです。
 明治の由来は「易経」
 大正の由来は同じく「易経」
 昭和の由来は「書経」
 平成の由来は「書経」/「史記」
といった具合です。

 もともと漢字は中国から来たものですし、遣唐使の昔から中国は日本の先生でした。
中国の歴史に学び、四書五経を素読し、中国の詩歌を知ることが教養の高さに通じ、更には、世間のあらゆる場面での言葉や行動に中国の諺を生かすことで、世の在り方を判断するというは、日本人の骨の髄までしみ込んだ文化という事のようです。

 このブログでも、安倍総理の出身大学「成蹊大学」の名前の由来が、「桃李言わざれども下自ずから溪を成す」から来ているのだから、安倍さんは多分「李下に冠を正さず」という諺をご存知だろうなどと書きました。

 ところで、平成の次の元号は新天皇即位の1か月前の4月1日に発表されるという事のようですが、今度もまた中国の古典から引いた元号を検討しているのでしょうか。
 最近の世界を眺め、つらつら考えてみれば、これからも元号は中国の古典から引くという事を続けていくというのは、何か大変奇妙な状態というようにも考えられます。

 一方では元号などはなくても、西暦に統一したほうが合理的でいいではないかといった意見も少なくないようですが、今の状況では多くの日本人は、元号があることを当然と思っているようで、急になくすことなどは考えられないという気持ちでしょう。

 「明治は遠くなりにけり」とか「大正デカダンス」とか「昭和もすでにレトロに」など、多様な情緒的表現を好む日本人には、元号は格好のものなのかもしれません。

 いずれにしても、4月1日には「エイプリル・フール」ではなく、本当に次の元号が決まることになるのでしょうが、あえて言えば、もうそろそろ中国の古典にこだわらずに、記紀や、万葉集、17条の憲法などの日本の古典や、そうでなければ、全く新しい発想での元号の制定があっても、それもまたいいのではないかなどと思うところです。

 このブログを読んでくださる皆様は、どんなお考えを持ちなのでしょうか。

本音だけでは世の中は分断、分裂、喧嘩に・・・

2019年01月21日 23時37分49秒 | 社会
本音だけでは世の中は分断、分裂、喧嘩に・・・
 星新一のショートショートの中に、この頃は皆鳥の形をした帽子を被って、知った人に会うと内心「いやな奴に会った」と思っても帽子の鳥が愛想よく挨拶をしてくれるようになっているといったのがありました。
 お蔭で、本音を言わなくてすくむという事で便利だという事を理解しました。

 「嘘は罪」という歌がありますが、嘘には「罪になるような嘘」と同時に「人間関係の潤滑油になるような嘘」もあるのでしょう。
 最近の世界情勢を見ていると、そんなことをつくづく感じることが多くなりました。

 SNSの様なものが世界的に広がり、匿名性も手伝って、人々が軽い気持ちで自分の本音を正直に(些か過激に)言い始めたからでしょうか、聞きたくないような言葉が電子媒体の中にいっぱいです。その時に思っていることを「そのまま」(感情の赴くままに)表現するとこんなことになるのでしょうか。

 そしてだれしも、こんなにはっきりと誹謗や中傷、悪口、憎しみや怒りを表現出来たら気持ちがいいだろうなという思いもどこかに少し持ちながら、こんなことを言い合っていたら、社会は成り立たないなというSocial Animal としての人間のバランス感覚に照らして、恐らく多くの人は、やっぱり「困ったことだ」と判断することになるのでしょう。

 しかし状況は楽観を許さないようです。トランプさんが「民主党は犯罪者の党」(Democrats,Party of Crime)と言ってみたり、セクハラ発言を平気でする人がブラジルで大統領になったり・・、これは社会の上層部の話ですが、巷ではヘイトスピーチがはやったり、ネット上ではむきだしの悪口雑言が氾濫しています。

 紳士の国イギリスでもEU離脱の賛否の論争などや、またフランスのガソリン値上げ反対のデモなどをテレビで見ていますと、その時の感情を自由に表出させて、自分の思う本音だけを主張する姿が、何か知性の低さを連想させるような場面に往々ぶつかり、いわゆる先進国の人間もここまで堕ちるのかと空恐ろしくなったりします。

 翻って、日本人はそこまでやらないのではないかと思いたいところですが、日本人も少しづつ変わってきているのでしょうか。
 和をもって貴しとする日本人が、本音だけを言うようになったら、「和」はどうなるのかななどと心配しながら、ついついこんなことを書いてしまいました。

今年を表す字は「災」だそうですが

2018年12月15日 22時56分15秒 | 社会
今年を表す字は「災」だそうですが
 確かに災害は多かったですね。過日、 自然災害による死亡者、行方不明者の数の推移の図を載せましたが、傾向的に増える様相に、私自身慄然としました。

 今回のカリフォルニアの火災もそうでしょうが、気候変動の状況を考えれば、日本列島の防衛のためには、本当の防衛予算は国土強靭化を主眼とすべきだという主張が現実味を帯びてくるのではないでしょうか。

 そうした意味では、今年の字を「災」にすることになった理由は、政府も国民も、日本のあるべき姿について、何を本当の重点に置くべきか迷いに迷っているからではないでしょうか。本当に必要な所に手が打てていないことの結果が「災」になったのではないでしょうか。

 先ず、国に基本法についてですが、「改憲」について日本人は迷っています。官僚は忖度か正義かの間で迷っています。経済面で言えば、アベノミクスは行き詰まり、消費税総勢を決めたところが軽減税率導入で昏迷状態です。日銀は、円安を狙ってゼロ・マイナス金利にしましたが、物価は上がらず、これからどうするか気迷い状態です。

 企業は、財務的には余裕が出来ましたが、肝心なエネルギー問題ですら主力電源を何にするか迷っています。消費者は1800兆円の個人貯蓄を持ちながら、これをいかに生かすか迷い、金利も付かない貯蓄残高を増やし続けています。

 国際関係では対米関係を中心に、今までの延長線でいいのか、対中、対ロはどうすればいいのか、相手の真意も読みかね、迷いながらの様子見です。対北朝鮮では、拉致問題への対応に迷い、アメリカに頼んでばかりです。

 そんなこんなと考えてみると、今年により適切な字は「迷」ではないかなどと考えてしまいます。これは、私自身、どう考えたらいいかわからあい事ばかりで迷いに迷っているからかもしれません。 

「格差の拡大する社会」は「持続可能」ではない

2018年12月05日 15時07分06秒 | 社会
「格差の拡大する社会」は「持続可能」ではない
 ブエノスアイレス・サミットの首脳宣言のキーワード「持続可能性」について種々見て来ましたが、もう一つ、最近あちこちで問題になっている「格差問題」と「持続可能性」について考えてみたいと思います。

 これも結論から言ってしまえば、格差の拡大する社会や組織には「持続可能性」はないという事になりそうです。

 格差にもいろいろあって、国別格差から国内の所得格差、企業内の賃金格差まで多様です。昔は低開発国援助に先進国が熱心でしたが、今は世界トップクラスの先進国であるアメリカが自国の利益を守ることに汲々としている状態で、そこに貧しい国の人たちが列をなして流れ込もうとしているようです。 こうした国際関係は長続きしないでしょう。

 アメリカ自体の中でも上位5%の人たちが7割の富を持っていると言われる状況は問題で、いわゆるラストベルトの人たちとの格差拡大がトランプさんを登場させ、混乱を拡大させています。

国内格差の問題では、いま中国も苦しんでいます。政府は内陸部の開発など国内格差の縮小に力を注いでいるようですが、共産主義の国でも、13億の多様な人種や宗教の国民を抱え、地理的、地域的な問題も抱えていることを考えれば、対応は容易ではないでしょう。
共産党一党独裁だからこそ、格差の拡大を抑えられるというのが共産主義の理念でしょうが、そう簡単ではないようです。

嘗ては「一億総中流」で格差の少なかった日本でも、最近は格差拡大が進んでいるようで、保育、教育、老後生活まで、問題は多々です。
 政府は、同一労働同一賃金とか、消費税増税に伴う軽減税率だとか、格差縮小に力を入れているようですが、見当違いのことも多く、一層の格差社会化が懸念されています。

 企業内の問題では、日産のゴーン前会長が、カネの魔力に負けたのでしょうか、異常な報酬の格差を隠そうとしたのが発覚しました。

 もちろん人間の能力、意欲、そして努力。さらには運の良し悪しもありますから、個人も社会もある程度の格差は容認するのです。しかしそれには限度があるようで、国際関係やそれぞれの社会や属する組織の中の人間が認める限度を逸脱すると、国際関係も、社会の状態も不安定になり、人間関係も悪化して、安定した成長や発展が巧くいかなくなるというのが、共通した歴史の経験のようです。

 かつて 自由と平等の問題も論じましたが、その際指摘した「真理は中間にあり」といったバランスの限度を逸脱すると、そこに訪れるのは健全な前進、成長、発展へのブレーキ、あるいはその挫折でしょう。

 歴史的には、格差拡大は下克上や、革命をもたらしました。民主主義の世の中では政権交代なのかもしれませんが、やはり格差拡大は社会に混乱をもたらし、その「持続可能性」にとって深刻なマイナス要因のようです。

「持続可能性」のベースはバランスでは?

2018年12月04日 21時30分26秒 | 社会
「持続可能性」のベースはバランスでは?
 このブログの基本テーマは付加価値分析をベースにした経済・経営の問題です。しかし、ここ2回取り上げて来た「持続可能性」という問題を考えますと、社会における多くの現象には、共通して考えられる点が沢山あるような気がしてきます。

 そんな視点で「持続可能性」を確保するための必要条件、あるいは「持続可能性」を阻害する要因など考えてみますと、そこには「バランス」という視点、感覚、状態といった問題が大きく関係しているように思われます。

 人間の体は生物の中でも最も精緻なものでしょうが、健康診断でも正常値をはみ出す所が見付かると、正常値に戻すように指導されます。経営診断でも、経済政策でも全く同じで、重要な比率を時系列に比較して、異常値が出れば危険と判断されることになります。

 人間の体や企業経営や一国経済が正常に動いていれば、重要な比率は安定していてそのまま健全な「持続可能」な状態と判断されるのが一般的でしょう。

 アメリカの経常収支や貿易収支が万年赤字というのは経済のバランスが失われているからで、赤字補てんのために外国からカネを入れなければなりません。人間なら輸血ですが、先ずそれを金融工学を使ったマネーゲームでやろうとし、結果はリーマンショックでした。

 今回はトランプさんが保護貿易政策で対応しようとしていますが、製造業の体力が落ちているのを保護しても、却って製造業の体力を弱めてしまうでしょう。
 農業と、先端産業と、軍需産業が強くても、産業構造全体のバランスが取れていないのでしょう。これは対症療法(輸血や保護)では治りません。

 日本でもバランスの悪い点がいくつかあります。経済成長のペースが低いのに、国の借金だけが増えていくというバランスの悪さ、経済成長 (低いですが) しても、それより伸びない個人消費、その裏で増える個人貯蓄。これもバランスが悪いですね。
 こうしたバランス悪化の状態がいつまでも続けられるわけけはありませんから、これでは財政も経済成長も「持続可能性」がないという事になるのでしょう。

 これらの背後にはゼロ・マイナス金利という「お金の貸借関係のバランス」を無視した金融政策が長く続いていることがあるようです。
 そんなことがいつまでも続けられることはない、というのは「壊れたバランス」が持続可能性を阻害しているという事なのでしょう。
 ところで、千数百年前から「和を以て貴しとなす」といい、「和の国」である日本人は、「和=バランス」には独特のきめ細かい、まさに「バランス感覚」を持っているはずです。
 それを生かせば、政治や経済のバランスを壊している部分、言い換えれば「こんなことは長くは続けられませんよ」という「持続可能性」の判断が容易にできるのではないでしょうか。

 バランスを欠いた状態は、日本では昔から言われる「地震 雷 火事 親父」、今はそれに台風や集中豪雨を加えましょうか、そういったものへの緊急避難として已むを得ない場合もあります。
 しかしそれはあくまで「バランスを取り戻すため」の短期的な「非常時」への対応で、早く正常状態の「バランス回復」をして、「持続可能」な形を整えなければならないのです。

 世の中のいろいろな事を見るのに、日本人の研ぎ澄まされた「バランス感覚」を十分に活用することが、ますます必要な世の中になったようです。

パワハラと忖度

2018年11月17日 12時27分14秒 | 社会
パワハラと忖度
 一昔前でしょうか、セクシュアル・ハラスメントという言葉と概念が入ってきて、セクハラという日本語になり、サラリーマン社会にショックを与えました。
 その後、ハラスメント(困らせる・悩ませるといった意味)の使われる範囲も広がり、最近マスコミに登場することの多くなったのは「パワハラ」で、これはパワー・ハラスメントの日本語です。

 セクハラは性という立場を利用して相手を悩ませる(通常、男性が女性に対して)という事で、一方、パワハラの方は権力を持っているという立場を利用して相手を悩ませるという事でしょう。
 
 通常こうした「○○ハラ」というのは組織の中での問題ですが、ハラスメントという事を一般的に理解すれば、学校での「いじめ」とか、親の子供への「虐待」なども問題の根っこは同じでしょう。

 「 加害者と被害者」でも指摘しましたが、最近は、加害者が加害者であることを自覚しないケースが多くなったように感じられることが多いので、こうした加害の問題が隠蔽されずに取り上げられ、人間同士の不必要な軋轢を少しでも少なくしようというのは大変結構なことと思います。

 こうした組織の中の人間関係の延長線上で考えてみますと、どうしても、最近使われる「忖度」という言葉が出てきてしまいます。

 「忖度」も場合には、暴力的言動や嫌がらせで相手を従わせるのではありません。しかし、相手に、悩みつつも権力に従うしかないと選択させるのでしょう。
 この場合は、相手(部下など)が自分自身に言い聞かせて、あるいは自分自身にそう信じ込ませているので、表面は「自ら進んでやった」ようにしながら権力に従わざるを得ないという状況を作り出しているわけです。

 ある意味では、これは組織というものの在り方を利用した「最も巧妙な」ハラスメントという事になるのでしょう(でなければ人格改造)。
 確りした組織が出来上がりますと、上司は部下の「生殺与奪」とまではいかなくても「それに近い」権力を握ります。

 地位の高い国家公務員や、さらには大臣でさえも、「私を任命してくれた方に尽くすのが本分」などと平気で言ってしまう人が現実にいるのです。組織における権力とは恐ろしいものです。本当の本分「国民のために」などという意識は消えています。

 恐らく、心理的には「名誉」とか「昇進」とか「給与水準」とか「家族の暮らし」といったものが潜在するのでしょう。
 こうした心理的な状況は、組織そのものの強い圧力によって生まれるのだと思われますが、その中核を成すのが「人事権」という事になるようです。

 例えば森友問題では、「適材」と評価され昇進した高級公務員と悩みに耐えられず自らの命を絶った担当の公務員がいたとのことです。

 「パワハラ」の場合は、立場による権力(パワー)の行使が表面に出ます。思慮のない、あからさまで、単純な粗野な行為という事なのでしょう。
「忖度」の場合は、権力の行使といったものは、何も表面には出ません。それだけに恐ろしいのではないでしょうか。

 過度な「忖度」が一般化するとき、その行く末は「権力主義、独裁」につながるように思われます。こうした「忖度」は、かりそめにも「他人への心遣い」などという美しいものとは無縁でしょう。

政治にも流行が? 本音が噴出する時代・・・

2018年10月30日 17時05分09秒 | 社会
政治にも流行が? 本音が噴出する時代・・・
 昨日から今日にかけて、世界が、「秩序」から「混乱」に舵を切るのではないかと思われるようなニュースが飛び込んできて来ています。

 「ブラジルのトランプ」と評され、極右の政治家などと言われる ボルソナロ氏が大統領に当選しました。イケメンの大統領ですが、お得意は「銃」を持つしぐさで、「ブラジルを再び偉大な国に」のスローガンを掲げ、人種差別発言、セクハラ発言などはとんと気にしないお方のようです。

 一方では、ドイツのメルケル首相が引退を表明したというニュースも入ってきました。12月の党首選への立候補を取りやめ、2021年の任期満了で首相退任を表明されたとのことです。
 ヨーロッパの盟主的な役割を果たし、トランプ大統領にも直言をされたニュースなどもありましたが、移民問題で、国内でも寛容すぎという批判が強まっていたようです。

 こうした大きなニュースが立て続けに飛び込んできますと、その背後に何か世界的な潮目の変化があるのではないかといった疑念が出てきたりします。
 過日、権力集中が世界の流行なのかという疑念を書きましたが、何か世界が、というより世界の国々における民意の発現の仕方が変わってきたのではないかといった気がしてきます。

 トランプ政権の誕生から目立つようになったこうした(何となく感じられる)変化は、直接的には、それぞれの国の事情によるのでしょうが、その根底には何か共通点があるように思われてなりません。

 直接の原因としては、トランプ政権の誕生は、一言で言えば、民心の中にある不満を「アメリカは世界の被害者だ」と明言することで掬い取った結果でしょう。ボルソナロ氏の当選は汚職の横行する政権への国民の不満と不信の代弁のように見えます。メルケルさんの退陣表明は、移民問題への寛容な姿勢に国民が自分たちの利害を表明した結果でしょうか。

 しかしこれらの根にあるのは、国民がより良い将来を考える「忍耐とより合理的な解決を選ぶ」か、解決指向を捨てて「忍耐より本音を言う気分良さを選ぶ」かのどちらを選ぶかという選択があるように思います。
 そしてもう一つはエリッヒ・フロムのいう「自由からの逃走」、強いリーダーについて行った方が楽という(安易な)選択があるのではないでしょうか。

 この見方が当たっているかどうかは解りません。しかし、子供にも、「お行儀良くしなさい」と言われて「いい子」にしているという面と、往々どこかで補償行動が暴発する面とがあるのと同様、民心にも同じようなことが起きることは十分考えられるのではないでしょうか。

 これまでの協力・協調の国際秩序、基本的人権をあくまで尊重しようという節度といったものが、息苦しく、国際関係も人間関係も種々の「忍耐(堪忍)」を強いる中で、どこかで自分の「本音」を大声で叫び、スッキリしたいという気持ちが嵩じるのでしょうか。

 しかし歴史の経験から見れば、こうした動きの結果はやっぱり失敗に終わるという事のようです。
 中国には「韓信の堪忍」の故事があります。日本にも「ならぬ堪忍するが堪忍」とか「負けるが勝ち」といった諺があります。
 
 言いたい本音を言う事はすっきりして気持ちがいいかもしれません。しかしそれはその時だけのことで、問題の解決にはつながらないことが多いようです。後からトラブル・シューターがその分苦労をすることになるのでしょう。

 今、歴史がいささか誤った方向に振れているとすれば、世界の行く末を見つめたトラブル・シューターの出現が望まれる時ではないでしょうか。

アメリカはどこまで堕ちるのか:文明退歩の恐ろしさ

2018年09月14日 23時44分02秒 | 社会
アメリカはどこまで堕ちるのか:文明退歩の恐ろしさ
 戦後の日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下におかれましたが、連合国軍最高司令官のマッカーサー(私たち子どもは「マツカサ=松かさ」などと綽名していました)は、もともとの軍人でしたが、それなりに立派な統治をやってくれたように思っています。

 考えてみればあの頃のアメリカは新しい世界の構築に向けて本気で頑張っていたように思います。
 ヨーロッパにはマーシャル・プランで復興を援助し、日本もガリオア、エロア資金で助けてもらいました。

 日本の大学に来て教鞭をとられた方々も、日本を民主主義で平和を愛し、将来、国際貢献をするような国にしようと一生懸命だったような気がします。
教育担当の軍属で来日、その後、年金が出るまで日本にいた方と長いお付き合いもありましたが、日本が平和を愛する民主主義国家になったことを誇りにしていました。

戦後の時期に、フルブライト奨学金でアメリカに留学された先輩の方々も当時のアメリカから大きな影響を受けておられるとしばしば感じたところです。

 ところで、戦後我々の手本であったアメリカの「今」はどうでしょうか。トランプさんのホワイトハウスの内幕暴露本が大売れのようですが、世界を困らせるトランプさんへの批判が出ることは当然として、本当の問題は、その背後にある、アメリカ自体の問題、トランプさんを大統領に選んだ今日のアメリカそのものにあるのでしょう。

 かつての豊かさの上に胡坐をかいたアメリカ経済が次第に力を失うのとともに、その志も地に堕ちて来たという事でしょうか。今では被害者意識も強く、失われつつある権力を振り回し、自らの経済力の回復を目指すのではなく高関税で脆弱な国内産業を保護することに執心するようなことになってしまっています。

 トランプ政権がどうなるのかはアメリカ人次第ですが、民主主義というシステムは立派でも多数が誤った行動(投票)をすれば、それなりのリーダーが選ばれ、国家社会が更に堕ちてゆく事になるのが現実です。
 11月の中間選挙では、今のアメリカを何とか浮上の方向にもっていけるか、このまま堕ち続けるかが、アメリカ国民が問われているのでしょう。

 世界一の超大国、覇権国、基軸通貨国のアメリカが、こうした変化をするという事は、まさに他山の石として、確りと学んでおくべきではないでしょうか。

 日本は今も上り坂にあると思っていますが、国会で「モリ・カケ問題」がうやむやになって以来、あちこちで権力の強弁が見られるようになったような気がします。
 幸い、関係者の中に真面目は人がいたり、第3者委員会などで社会が納得するような結論が出たりすることが多いようですが、日本人が、その本来の姿である「謙虚で生真面目」という特性を忘れてしまうことがないように願うばかりです。

茄子にまつわる諺など

2018年09月08日 22時01分39秒 | 社会
茄子にまつわる諺など
 今日の東京はいい天気でした。一時パラパラと雨が降ったりしましたが、また、多少風が強かったりしましたが、秋の風に吹かれて庭の草かじりをしました。

 狭い庭ですが、先日から雨が多かったせいで、雑草、私の記憶では「地しばり」がランナーを延ばし大変です。
 図鑑などでは花が咲くことになっていますが、花は見たことがありません。

 去年まで花壇だったところに植えた茄子の根元にもどんどん伸びていきます。未だ茄子は元気で花が咲いていますので、雑草は取って、秋茄子を食べようと思っています。

 日差しは結構強く日に焼けますが、それも気持いい感じなのはやはり秋だからでしょう。
 ナスを2つほど収穫して、糠漬けにしようか、焼きナスにしようかなどと考えながら「この堅さは秋ナスだな」など感じていると「秋茄子は嫁に食わすな」なんて言ったな、などという記憶な蘇ってきます。

 これには、「おいしい秋ナスは嫁には食わせない」という嫁姑の葛藤という解説と、「秋茄子を食べると髪の毛が抜ける」という嫁思いの解説(茄子は毒性の「ハシリドコロ」などと同族)があるようで、巧くバランスが取れているな、などと感じます。

 ついでに思い出してしまうのが「親の意見となすびの花は、千に一つの無駄もない」です。
 確かに茄子は、花が咲くと必ず実がなります。秋ナスは少しひねくれた実も多くなりますが、これは諺の通りです。

 一方「親の意見」の方はどうでしょうか。我々の世代は、そう言われて、100%とは言わないまでも「確かにそうだな」などと割合素直に聞いたものですが、最近マスコミでは毒親とか鬼親とかいう言葉も結構出て来て、どうもこの諺は簡単に「そだねー」とは言えないという意見もありそうです。

 最近は情報が多くなって色々な親がいることが知られてしまったからか、それとも、世の中が昔と違ってきたのか、その辺りは解りませんが、折角諺があるのに、何か残念な気持になります。

豊かさと快適さを求めて

2018年08月18日 00時11分17秒 | 社会
豊かさと快適さを求めて
 このブログでは主役は「付加価値」という事になっています。
 勿論本当の主役は人間ですが、経済活動や社会生活それに政治といった活動がきちんと行われて、はじめて人間が豊かさや快適さを感じられるのです。

 では、そうした人間にとって住みやすい社会は何によって支えられているかといいますと、まず人間の善意でしょう。そしてその上に、人間の活動として、付加価値が生産されることで、社会がより豊かで快適になるのです。

 付加価値は通常、GDPという形で示されますが、かつて、GDPが大きくなっても、その一方で大気や水の汚染がひどくなって、人間の健康が損なわれたりもしますから、GDPは「豊かさ、快適さ」の適切な尺度ではないなどと言われました。

 しかしそうした問題の解決のために人類は、より大きな付加価値を創り、公害などをきちんと防除するだけの技術や設備にそれをつぎ込んで豊かさと同時に快適さも実現するよう頑張ってきました。GDPの増加(経済成長)は豊かさ・快適さ実現のための十分条件ではありませんが、「必要条件」なのです。

 「住みやすい社会」を経済面から見れば、それは「豊かで快適な社会」を実現するために「付加価値」を生産し、それをいかに適切に配分するかによって決まるのです。
 勿論付加価値を生産する能力(生産性)は大きい方が良いわけですが、もう一つ、それを「どう配分するか」が決定的に大きな役割を果たすように思われます。

 この配分には色々な側面があるでしょう。まずは技術的な問題として、環境汚染をしないためにかなりの配分をしなければならないでしょう。
 大気や水の汚染対策は進んできましたが、地球環境、気候変動への対応、具体的にはCO2排出や放射能汚染に関わる問題、具体的には自然エネルギーの本格利用や、蓄電技術にはまだまだ人類は生産した付加価値の大きな部分を配分しなければならないでしょう。

 「単純な豊かさ」と「豊かで快適な社会」の違いは、豊かさの負の部分を克服するために、豊かさの中の必要な部分を快適さのために割けるかどうかにあるのでしょう。
 豊さだけを求める社会は、常に快適さを犠牲にすることで、遂には豊かさも失う事になるようです。これは歴史を振り返れば十分に理解可能でしょう。

 具体例で言えば、CO2と放射能汚染対策(含廃棄物処理)ではまだ、当面のコストを優先してサステイナビリティに思いを致さない過ちが続いています。行き詰まるまで気が付かない責任者も多いようです。

 物理的・化学的な快適さを求めるためには今後も自然環境をクリーンにするための技術開発・設備投資に、より多くのGDPを割かなければならないことを、改めて人類は肝に銘ずる必要があるようです。
(三菱化学がKAITEKIを標語に掲げているのは象徴的ですね)
 
 更にもう一つ大きな問題があります。それは「快適さ」の「社会的側面」です。これは人間の権力志向と、豊かさの配分の失敗(言い換えれば格差社会化の問題)です。大きく言えば、国家間から個人間までの格差の拡大をどの程度にすることが人類社会な快適さと両立する範囲かという問題でしょう。この問題については、また論じたいと思います。

戦争を体験した最後の天皇の8月15日

2018年08月15日 22時02分43秒 | 社会
戦争を体験した最後の天皇の8月15日
 73年前の今日、8月15日、日本は、列強に伍して富国強兵を競う国から、戦争をしない平和国家に生まれ変わりました。
 
 あの日は全国晴れて暑かったとこのブログでも何度も書きましたが、今日も東京は晴れて暑い日でした。
 あの日の1か月少し前、7月6日の夜、私の住んでいた地方都市は、一夜にして殆ど焼き尽くされ、我が家も灰燼に帰し、防空壕も金魚池も焼けた壁や瓦で殆ど埋まっていました。

翌日から近くのお寺では、多くの死体の焼却が何日か続き、特有のにおいが焼け跡に広がりました。
 浮遊するような意識の中での心配は、こんな一望千里の焼け跡で、米軍機の機銃掃射にあったら、どうしたいいかという事だったのを覚えています。

 そして8月15日、戦争の終わったことを知り、兵隊になってお国のために戦死することが最も名誉なことと考えていた国民学校6年生は、心のどこかで安堵感を感じていたようでした。

 という事で私は天皇陛下と同じ歳です。
 昭和天皇はまさに波乱万丈の時代の天皇でしたが、今上陛下は、お父上の苦悩と戦争の罪深さを直接お感じなって天皇になられたのだろうと、お言葉をお聞きしたりする時など、何時も感じていました。

 今日、2018年の8月15日は、戦争体験をお持ちの天皇陛下の最後の終戦の日なのです。
 過日「田中角栄語録から:戦争体験の無い政治家たちの危うさ」を書きました。「昭和の日」を大事にしようとも書きました。  
 共通する心は「平和」への絶対的な希求です

 今日の天皇陛下のお言葉には「戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」とありました。
 天皇陛下のお気持ちがにじみ出ていると強く感じました。

 安倍総理の追悼文も読みました。より長く説明調ですが、残念ながら、言葉の羅列という感を禁じ得ませんでした。
 どうも、心からの気持ちが感じられないのです。安倍総理の追悼文には「戦後、我が国は、一貫して、戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。」とありますが、「反省」の言葉はありません。
 「平和を重んずる国」という言葉は過日の、2020年プライマリ―・バランスの達成を先延ばしした時の説明「財政再建の旗は降ろしません」と重なって、「そんなことは当たり前で、平和を重んじなかったり、財政再建の旗を降ろす国などは何処にもない」と言いたくなったりします。

 こうしたことは安倍さんの特異性なのでしょうか、あるいは田中角栄の言のように、戦争体験の無い世代という問題なのでしょうか。
 いずれにしても、これから、日本は本当に難しい時代に入っていくような気がします。

生産性と再生産性:言葉のお遊び

2018年08月04日 13時29分08秒 | 社会
生産性と再生産性:言葉のお遊び
 最近マスコミで生産性という言葉がよく出てきます。このブログでも生産性は大変重要な概念で、「社会の豊かさや快適さは生産性の向上によってのみ可能になる」などと書いてきています。

 生産性はそれほど重要な概念ですから、生産性活動自体を目的にした団体「日本生産性本部」も存在し、その活動の歴史を積み重ねて来ています。
 その意味では国会やマスコミで、「生産性」が取り上げられることは素晴らしいのですが、見たり聞いたりしていますと何か全く違ったことを議論しています。

 「え、なに、それ生産性問題とどう関係あるの」と思ってよく見たら、LGBTなどという言葉が出て来て、「あ、そうか、人間が人間を作ることを『生産』と言ってるんだ」と解りました。
「生産性がない」と言っているのは「生殖能力がない」という意味でした。

 人間が人間を作ることを「生産」と言うのでしょうか。「出産」ならわかりますが、出産能力、生殖能力に「生産性」という言葉を当て嵌めるのはちょっと違うのではないですかと思ってしまいます。
 日本生産性本部も迷惑しているのではないかなどと、生産性本部のご意向を忖度したりしています。

 本当の言葉の使い方から言えば、同じものを作るのは「再生産」という事になっています。
一般的に生物学では、人間が生殖作用で人間を作るのも、人間だけでなくて、生物が子孫を残すことは「再生産」という言葉で定義されています。
英語ではreproduction形容詞にすればreproductiveその能力ならreproductivityです。

でも、「生産性」という言葉がこれだけマスコミで使われていて、みんな子供を作ることだと解っているんだからいいじゃないの、と言えばそれもその通りですね。

 余計なことを付け加えますと、男性同士や女性同士で結婚しても、何時か子供が欲しくなって、他の異性と協力して子供を作ることも可能ですから、「生産性」は潜在しているわけで、無くなってしまうわけではありません。
ただ、それを生かすか生かさないかは、別の問題だったりするのでしょうか。異性同士で結婚しても、子供は作りたくないという人もいたりします。

言葉をきちんとしないで、興味本位に取り上げてもあまり意味はないように感じますがどうなのでしょうか。

「誰でもよかった」という殺人を生む社会とは

2018年06月10日 11時14分39秒 | 社会
「誰でもよかった」という殺人を生む社会とは
 6月8日、秋葉原での歩行者天国無差別殺傷事件から10年という事でした。あの時は偶々総武線から秋葉原の大通りの只ならぬ混乱状態を見掛け、何事かと思っていましたが、後からあの大事件を知って驚いたことを思い出します。

 そして昨日は、新幹線の中での無差別殺傷事件です。何か空恐ろしい世の中です。
 空恐ろしいというのは、数々の通り魔事件なども含め、捕まった犯人が「相手はだれでもよかった」と発言していることです。

 「誰でもいいから人を殺す」、そんなことが人間に出来るとは思われないのですが、現実に起きていて、この所、犯人が逮捕され、「誰でもよかった」と発言する報道を見聞きする機会が、何となく多くなっているような気がするのです。

 人を殺傷するような事件は、もともと理不尽なものですが、そうした中でも「誰でもよかった」というのは、通常の理不尽を越えた理不尽のように感じます。

 それぞれの事件にはそれぞれの背景があり、それぞれの特異な事情があるのかもしれませんが、報道で、「誰でもよかった」という言葉を聞くたびに、やっぱり社会が病んでいるのではないかといった感じを持ってしまいます。

 今の社会体制のどこかに、何かボタンの掛け違いがあるように思われてなりません。格差の拡大、人と人との関係の希薄化などななど、社会の劣化が進むこととも関係があるのではないでしょうか。

 安心・安全を標榜する安倍政権も、カジノなどに力を入れるより、こうした社会の安全を脅かすような問題への抜本対策、人に優しい良質な社会の構築を目指す政策を優先してほしいと思うところです。