生産性とマネー資本主義とは別世界
前回も申しあげましたが、ここでの生産性は、実質労働生産性と理解していただきたいと思います。もともと生産性とは生産の効率を測定するための指標で、利用目的は、生産性を上げれば、それだけ人類がより豊かで快適な生活を享受できるからということです。
多くの皆様がご承知のように、いかなる形の生産性を測定すれば、その目的に最も役に立つかということで、全要素生産性(生産の3要素の生産性を総合する試み)とか実質国民経済労働生産性(実質GDP生産性)とかの研究がされてきているわけです。
ところがマネー資本主義というのは、実体経済という世界に対して従属関係にあったマネーの世界を、いわばパラレルワールドに切り離し、マネー経済を「純粋」に「原理主義的」な形で取り上げることで、実体経済の成長(生産性の向上)とは関係がない、価格の変動の「演出と活用」だけの関係に変えていくように変態を遂げたようです。
もともと、マネー(貨幣)は実体経済の活動に役立つために発明されたものなのでしょうが、今のマネー資本主義(金融工学と言替えればもっとはっきりすると思います)は、その役割は放棄して、前述のように「純粋に」マネーの動きだけで「マネーの増殖」を図ろうというものです。
実体経済に奉仕することを止めたところで、マネー資本主義は、評価額の差でマネーの増殖を図る「キャピタルゲイン」の世界のものとなります。同じ資本主義と呼ばれながら、行動の基本原理、基本哲学が全く違ったものとなったのです。
御承知のように、キャピタルゲインの世界は基本的に『ゼロサム』です。こうしてマネー経済学は、生産性とは無縁になり、別世界のものとなり、人間全体に豊かさをもたらすものではなくなります。A氏が豊かになれば、B氏がその分貧しくなるのです。
戦後世界が目指してきた、他者を収奪しなくても、自らが生産性を上げる事でだれもが豊かになれるというwin=winの経済モデルは崩れ、win=loseの植民地時代に逆戻りです。但し今度は、版図の拡大ではなく、金融自由化の拡大がそのベースを提供します。
これがマネー資本主義、マネー原理主義、金融工学の本当の意味ではないでしょうか。
前回も申しあげましたが、ここでの生産性は、実質労働生産性と理解していただきたいと思います。もともと生産性とは生産の効率を測定するための指標で、利用目的は、生産性を上げれば、それだけ人類がより豊かで快適な生活を享受できるからということです。
多くの皆様がご承知のように、いかなる形の生産性を測定すれば、その目的に最も役に立つかということで、全要素生産性(生産の3要素の生産性を総合する試み)とか実質国民経済労働生産性(実質GDP生産性)とかの研究がされてきているわけです。
ところがマネー資本主義というのは、実体経済という世界に対して従属関係にあったマネーの世界を、いわばパラレルワールドに切り離し、マネー経済を「純粋」に「原理主義的」な形で取り上げることで、実体経済の成長(生産性の向上)とは関係がない、価格の変動の「演出と活用」だけの関係に変えていくように変態を遂げたようです。
もともと、マネー(貨幣)は実体経済の活動に役立つために発明されたものなのでしょうが、今のマネー資本主義(金融工学と言替えればもっとはっきりすると思います)は、その役割は放棄して、前述のように「純粋に」マネーの動きだけで「マネーの増殖」を図ろうというものです。
実体経済に奉仕することを止めたところで、マネー資本主義は、評価額の差でマネーの増殖を図る「キャピタルゲイン」の世界のものとなります。同じ資本主義と呼ばれながら、行動の基本原理、基本哲学が全く違ったものとなったのです。
御承知のように、キャピタルゲインの世界は基本的に『ゼロサム』です。こうしてマネー経済学は、生産性とは無縁になり、別世界のものとなり、人間全体に豊かさをもたらすものではなくなります。A氏が豊かになれば、B氏がその分貧しくなるのです。
戦後世界が目指してきた、他者を収奪しなくても、自らが生産性を上げる事でだれもが豊かになれるというwin=winの経済モデルは崩れ、win=loseの植民地時代に逆戻りです。但し今度は、版図の拡大ではなく、金融自由化の拡大がそのベースを提供します。
これがマネー資本主義、マネー原理主義、金融工学の本当の意味ではないでしょうか。