四季折々

~感じるままに~

お祈りの日

2023-08-06 15:42:17 | 日記・エッセイ・コラム
今日は78回目の原爆忌でした。
私は昼前にお祈りしてきました。日差しが厳しい午前でした。
あの日も朝から青空が広がっていたそうです。

慰霊碑前に着いた10:15頃、長さ約50mのお祈りの列ができていました。

警備員の整理で4列縦隊に並んで待ちました。

12分くらい並んで先頭まで進み、お祈りすることができました。

私達母子の身代わりで直接被爆死した叔父をはじめ、母や祖父などたくさんの身近な身内が眠っています。
ご冥福をお祈りするとともに、平和で平穏な社会になるようお願いしました。

お祈り後振り返って見ると、列はさらに長く、100mくらいになっていました。


花もすぐにしおれそうでした。


この後、先日(7月22日)本川沿いを歩いた際、通り過ぎた慰霊碑が気になり行ってみました。
平和公園内の国際会議場西側です。本川(旧太田川)左岸緑地に3つの慰霊碑がありました。

左の植え込みの左が国際会議場です。先日は時間の都合上横目で見ながら通り過ぎていました。

一番南側は、「広島市商・造船工業学校慰霊碑」でした。



戦争末期に国策により造船工業学校に転換させられていたそうです。
「被爆当時、建物疎開作業に出動中の生徒270名、付き添い職員3名が全滅の悲運に遭った」
旨記されていました。

裏面には氏名が記されていました。


中の慰霊碑は、「県立広島第二中学校慰霊碑」でした。


詳細は不明でしたが、裏面には大勢の名前が記されていました。


大部分が第一学年でした。

他の資料(ネット)によると、次のような記述がありました。
「被爆当時、爆心地から600m、中島新町で建物疎開作業に従事していた生徒と教員は本川河岸に整列して訓示中に被爆し、
ほとんどが即死、その多くは遺骨の判別も、拾い集めもできない状況でした。
最終的には当日現場にいた1年生321人と教員4人全員が被爆で亡くなりました」
(この1年生とは12~13歳のようです)

一番北側の慰霊碑は、「義勇隊の碑」でした。


裏面には地名と名前が列挙されていました。その多くは女性のようでした。


こんな説明がありました。

「軍の至上命令とはいえ174名の尊き犠牲者 当日早朝より家屋疎開の作業に従事す
その名 川内村義勇隊 旧安佐郡川内村温井部落居住者なり・・・」
などと記されていました。

「建物疎開」「学徒動員」という言葉は聞き及んでいましたが・・・
こんな悲惨なことが・・・
この3つの慰霊碑は、そのほかの学校等の多くの犠牲者のほんの一部だろうと思います。
12~13歳のこどもや、村に残っていた女性たちが、朝早くから出動させられ、一瞬のうちに・・・
大きな衝撃を受けました。
こんなことは絶対に繰り返されてはなりません。
なお、いずれの慰霊碑も、碑文などが風化により消えかけており、心が痛みました。

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