明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(107) プルトニウム飛散の可能性あり!

2011年05月11日 11時30分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110511 11:30)

今回は、深刻な情報をお伝えしたいと思います。放射性物質の中でも非常に
猛毒のプルトニウム、さらにもっと恐ろしいアメリシウムやキュリウムが
私たちの周りを汚染しているのではないかという推論です。
根拠となるのは4月27日の読売新聞の次の記事です。短いので引用します。


***

核燃料損傷で放出?放射性物質2種、敷地で検出

東京電力は27日、福島第一原子力発電所の敷地内土壌から、原子炉の運転で
生成される放射性物質アメリシウムとキュリウムをごく微量検出したと発表した。

事故に伴う核燃料の損傷で放出されたとみられる。
東電によると、土壌は敷地内の2地点で、3月28日に採取された。うち1号機
の西北西約500メートル地点の土からは、1キロ・グラムあたりアメリシウム
241が0・033 ベクレル、キュリウム242、243、244が0・2~4
ベクレル検出された。量は通常 の土壌から見つかるのと同程度という。この土
からは、微量のプルトニウムやウランも見つかっている。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110427-OYT1T00904.htm
***

ここで少し解説しておくと、プルトニウムやアメリシウム、キュリウムが毒性が
高いのは、これらの物質が、α線を出すからです。α線は、β線やγ線に比べて
粒子が格段に大きい。その分、遠くには飛びませんが、エネルギー量が多い。

そのため他の放射線に比べて、人体の細胞に対する破壊力が著しく高いのです。
しかも粒子が大きいために、透過性が低く、あまり飛ばないので、ごく直近の
細胞にそれだけ激しくダメージを与えることになる。

プルトニウム(239)は半減期が2万4千年もあり、なかなか減らない点も厄介なの
ですが、反対にアメリシウムやキュリウムは、半減期が短い分だけ、より単位
当たりの時間の中で、α線を出す回数が多い。その点では危険度はより高い。

ちなみに半減期についていえば、キュリウム242は163日。243は29.1年。244は
18.1年。アメリシウム241は432.2年です。アメリシウムの同位体は他にも
たくさんありますが、ほとんど1時間以内に半減していきます。


問題はこれがどこから出てきたかです。考えられるのは、3号機で起こった爆発が
燃料プール由来の即発臨界爆発であったこと。このときに燃料棒の中に含まれて
いたプルトニウムとともにアメリシウム、キュリウムも出てきた。

もう一つは炉心から出てきた可能性。とくに3号機にはMOX燃料が装荷されて
いたため、これが溶融などで崩れ、ペレットに焼き固められていたプルトニウム、
アメリシウム、キュリウムが漏れ出てきたということです。

そもそもプルトニウムは、自然界にはほとんどない物質で、原子炉で人間が人工
的に作りだしたものです。どのようにして生まれるのかと言うと、核分裂しない
ウラン238に中性子があたって取り込まれ、プルトニウム239になります。

このため使用済み核燃料の中には、新たに生成されたプルトニウムが含まれて
いますが、これを他の放射性物質と分けて抽出する作業が、燃料の「再処理」
工程です。この技術は難しく、たびたび放射能漏れを起こします。

今、説明したのは通常のウラン燃料で燃やしている原子炉のことですが、福島
3号機ではプルサーマルという新たな方式が行われていました。ウラン燃料に
プルトニウムを混ぜた燃料=MOX燃料で行う発電のことです。

もともとの原子炉はこうしたことを想定していません。しかもプルトニウムは、
ウランより核分裂性が高いので、その分、制御も難しい。そのためプルサーマルは
通常の原発以上に危険だと指摘され続けてきたものです。

しかし主にプルトニウムを燃料とする実験段階の炉=高速増殖炉もんじゅ事故
により、今、日本はプルトニウム使用の目処が立っていません。原爆の材料で
あるプルトニウムは大量保管が国際的に禁じられていて政府は困ってきました。

そのために高速増殖炉がだめなら、通常の原発でプルトニウムを使ってしまえと
いうのが、「プルサーマル」であり、福島第一原発3号機は、多くの人々の反対を
押し切って、ついにこれを始めたばかりでした。

この3号機のMOX燃料が溶解してしまい、ペレットが砕けて、プルトニウムとともに
アメリシウムやキュリウムが出てきている可能性があります。その意味で、今回の
事故は人類が初めて遭遇した、MOX燃料事故という要素も孕んでいそうです。


しかし3号機プールの即発臨界爆発=小さな核爆発が起こって、これらの物質が
大量に飛び散ったのか、またMOX燃料を含む、炉内の燃料溶解によって、これらが
出てきているのか、決定的な判断を下せる状態ではないようです。

しかしいずれにせよ、これらの物質が、原発の敷地内だけで観測されているのは
不合理ではないか。爆発で飛散したか、炉内から漏れ出してきているのかにより
大きな違いがあるにせよ、少なくとも敷地のすぐそばでも計測されうるのではないか。

実はこの記事が出たときから、僕はこの点ついて、科学者の友人と、頻繁にメール
交換を行ってきました。誰かこの件について論じている人はいないかと、リサーチ
もしてきました。

しかしなかなかデータがでてきません。またプルトニウムの危険性を指摘する人でも
プルトニウムは重金属なので、固体の場合は重く、それほど遠くには飛散しない
だろうという意見が多くあることも分かりました。

プルトニウム漏れは、さほど重要ではない(!?)という科学者の指摘もあります。
過去、1950年代ごろは大気圏内核実験の影響でプルトニウムの日本における
大気中濃度が2000年代の平均値に比べて100-1000倍だったからだそうです。

しかし、その科学者からは、今回の事故によるプルトニウムの大気中濃度はどう
なのかという議論がありません。さらにそもそも現代人の多くがガンになるのも
この核実験のせいなのではないかという重大な洞察も聞かれない・・・。


そうこうしているうちに、グアム、ハワイ、米西海岸などで、アメリカ政府機関・環境
保護局の環境放射性物質モニタリングシステムによって、ウラン、プルトニウムなどの
固体の放射性物質が検出されたという報告が入ってきました。

しかも通常時の数倍~数十倍の値で検出されたといいます。これが3号機プールの
即発臨界爆発=核爆発説の有力な根拠となっていました。この説を採ると相当の
プルトニウム等々の飛散があったことになります。

どう判断すればいいのか。友人とは、核爆発であったかどうかは、今の段階で
われわれには確かめようがないので、いずれにせよ、福島原発由来のプルトニウム
等々が出ていること、それはハワイまで飛散しうることに注目することにしました。

そうなるとますます福島原発周辺でのプルトニウムやアメリシウム、キュリウムなど
(ウランに中性子をあてたことから出てくるこれらの物質は、超ウラン元素とも
言われます)による汚染が懸念されている。

ところがこれが一向に計測されている気配がない。なぜかと探るうちに、原子力
安全委員会によって作成され、2008年に改定された「環境モニタリング指針」にいき
あたりました。なんとそこに、敷地外の超ウラン元素は測る必要がないと書いてある。

具体的には以下の通りです。

「原子炉施設等においては、多重の物理的防護壁により施設からの直接の放射
線はほとんど遮へいされ、また、固体状、液体状の放射性物質が広範囲に漏え
いする可能性も低い。したがって、周辺環境に異常に放出され広域に影響を与
える可能性の高い放射性物質としては、気体状のクリプトン、キセノン等の希
ガス及び揮発性のヨウ素を考慮すべきである。また、これらに付随して放射性
物質がエアロゾル(気体中に浮遊する微粒子)として放出される可能性もある
が、その場合にも、上記の放射性物質に対する対策を充実しておけば、所要の
対応ができるものと考えられる。」

なんということか。超ウラン元素はでるはずがないから、測らなくてよいというのです。
今回もこの規定が採用されているのではないか。規定の前提が覆っているにも
関わらず、これを楯にとって?計測がなされていない可能性がある。

となると、ますます超ウラン元素は、そこに存在しながら測られていないだけなので
はないだろうか。福島原発の周りのどれぐらいの範囲かは分からないけれど、
これらの物質が飛び散っているのではないか。

例えそれが重くて一度に遠くに飛ばなくても、繰り返し風にさらされることによって
これらの粒子は大きな移動を行う場合があります。とくにこれから夏にかけて東北に
は南からの強い風が吹く。非常に強い風です。それがこれらを運ぶのではないか。

こう考えると、小佐古氏の辞任劇のもやもやさも、もう少し理由が見えてくるように
思えます。小佐古さんは、もうこれ以上、住民を被ばくさせる共犯者になりたくないと
思って、涙したのではなかったか・・・。


まとめます。
福島原発の敷地内から、ウラン、プルトニウム、アメリシウム、キュリウムなど、α線
を出す放射性物質が検出されました。またウランやプルトニウムなどが、ハワイなど
でも観測されており、これらの物質が広範囲に飛散した可能性が高くあります。

にもかかわらずこれらの物質は充分に計測されていない。だとすると現在、様々な
地域で観測されている放射能汚染の度合いは、重大な欠損がある可能性がある。
端的に、測られていない重大な物質があるのではないかということです。

そうなると、周辺の被ばく量も、これまで考えていたものよりも、かなり高いことが
予想されうるし、今後の被ばくの危険性も今までもよりも更に高いものとして考える
必要性が出てきます。

ありていにいえば、すでに被ばくしてしまったものは、もはや嘆いていも元には
戻らない。それが由縁の健康の悪化の可能性に対して、さまざまに抗っていくしか
ない。しかし今後予想される被ばくはまだまだ避けることができる。

その点では、超ウラン元素、プルトニウムなどの飛散は、高い蓋然性をもったものと
受け止め、それを前提に被ばくからの防護体制を作っていくべきではないでしょうか。
いや、していくべきなのです。そうすることが命を守ることにつながります。

超ウラン元素以外にも、ストロンチウムなど、まだまだ充分に計測できていない
放射性物質は他にもたくさんあります。それらも考慮に入れるならば、今の段階で
空間線量だけを放射能汚染の目安にするのは危険です。

なぜなら超ウラン元素の出すα線も、ストロンチウムが出すβ線も、普通のガイガー
カウンターでは測りにくいからです。各地で測られているのは、主に空間に飛んでいる
放射線量であり、その多くはγ線です。ごく短距離しか飛ばないα線は測れない。

その点で、福島の学校での年間許容値の20ミリシーベルトを大きく引き下げることは
とても大事なことですが、その際に、そもそもこの攻防が、測られていない放射線も
ありうる中でのものになっていることを見据えておく必要があります。

プルトニウムの飛散をもしっかりと見据えて、何重もの被ばくからの防護体制を
築き上げていきましょう!
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明日に向けて(106) 秋田より・・・東北の旅第2信

2011年05月11日 11時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110510 10:00)

みなさま。僕もツイッターをはじめました。@toshikyotoです。
いつも案内が送れるので、はじめに書いておきます・・・。

さて秋田からの第2信をお届けします。

昨日秋田に上陸してから、あらかじめ調べていたネットカフェに向かい、
そこから「明日に向けて」を発信したのちに、ついにアビスさんたちと
合流しました。アビスさんの他、秋田の受入れの中心を担ってくださる
ヤナティさん、明るい青年のマロ君も合流して下さった。

市内の象徴的なところを見たいとの僕の願いで、久保田城(秋田市
千秋公園)に連れて行ってもらいました。久保田城主佐竹氏の居城で
江戸時代には「秋田城」とも呼ばれましたが、古代、奈良時代から平安
時代に東北平定にために作られたものとは別のお城です。

どの土地でもそうですが、秋田にも深い歴史があります。まず久保田城
について言うと、幕末の動乱の中で、この城と久保田藩は、東北諸藩の
集中攻撃を受ける立場にありました。東北でほとんど唯一、勤皇を
貫き、維新政府に味方したからです。

東北のことを知る時に重要なのは、この地が、明治維新のときに、維新
政府に攻撃され、平定される側にあったということです。反対に言えば
そこから何百年かさかのぼると、この地の多くの藩は、関ヶ原の乱で
東軍側に立ち、後の徳川幕藩体制を支える位置にありました。

このため幕末の動乱でも多くの藩は、幕府の側に立ちました。その先頭に
たったのが言うまでもなく会津藩でした。会津藩は配下に新撰組を
抱え、京都守護職の要職を引き受けた。そのためとくに長州の恨みをかい
戊辰戦争で過酷な攻撃を受けました。

このとき東北の諸般は、奥羽列藩同盟を作って、会津を支えようとしました。
ところが久保田藩は事情が違った。勤皇派の活動が活発だったためでした。
そのため久保田藩は、維新政府の側につき、他藩の攻撃を受けることに
なったのです。戦火は久保田城の寸前にまで及びました・・・。


さて「秋田城」の歴史を見る時には、さらに大きく歴史をさかのぼる必要が
あります。古代、この地は、近畿を中心に形成され、やがて「日本」として
自らを形成する政権にとっての勢力範囲の及ぶぎりぎりのところにありま
した。その先はアイヌ民族につらなる人々の聖地でした。

当時の名で言えば、蝦夷(えみし)になります。それに対して、奈良や京都から
繰り返し討伐軍が送り込まれ、その拠点として形成されたのが、古代の
秋田城でした。しかし秋田城はたびたび、蝦夷によって奪われ、争奪戦が
繰り広げられた。

・・・そんな話をしていると俄然、アビスさんが乗ってきました。岩手出身の
アビスさんは古代の蝦夷の闘いへの思いが深い。とくにアビスさんがよく
知っているのは、主に現在の岩手県で活躍した、アテルイとモレのことでした。
彼らも京の都から送り込まれた平定軍を何度も敗走させた。

やがてこの夷的をやっつける将軍としておくりこまれたのが、坂上田村麻呂
でした。かれは征夷大将軍と呼ばれた。この名は幕末まで引き継がれるもの
となった名前です。やがて坂上田村麻呂は、アテルイとモレと和議を結び
あるいは降伏させて京都に連れて行く。

このとき田村麻呂は、彼らに朝廷に東北の独立を進言させようとしたという
解釈があります。しかし朝廷はまったく東北の人々の願いを受け入れず、
アテルイとモレは処刑されてしまいます。それらを契機に、東北の平定が
進んでいったのです。

奥羽山脈をはさんで、秋田城での攻防戦と、岩手側のアテルイ・モレたちの
闘いがどのような連携を持っていたのか、あるいは持っていなかったのか、
よくは分かりません。ただいずれにせよ、ここでは平定作戦が行われ、その
のちに「日本」ができあがってきたことを私たちは知っておく必要があります。

さらに明治維新でもまた、東北は平定の対象になった。その中で久保田藩は
維新政府の側についたわけですが、このため、後に明治維新政府や、その後の
政権が行った戦争では、常に東北の人々が、もっとも過酷な戦場に送り込まれる
構造も生まれました。天皇政権に忠誠をつくすことが問われたのです。

そんな話をしていると、アビスさんがこう言いました。自分は関西にも住んだことが
あるし、岩手にも住んでいるわけだけれど、行政と人の関係の違いを感じる。
どうも西日本では行政に対して人々が対等な感じがするけれど、東日本では
行政が高圧的で上から目線で接してくるように思う・・・。

これがどこまで正確な洞察なのか、今の僕には確かめるすべがありませんが、
さまざまな土地を見てきたアビスさんの感覚は、かなり的確にそれぞれの土地の
特徴を見通すものがあるように思えます。これらのことを頭に入れながら、
さらにいろいろな土地をみていきたいと思います。


さて、歴史の洞察を終えて、その後のお話をしましょう。久保田城の見学を
終えてから、僕らがいったのは、「あきこうまえ茶屋」です。秋田工高前にある
「駄菓子軽食屋」さんとのことなのですが、何とも不思議な空間です。45年間、
5代の方が運営を引き継いできた・・・。

現在の店主さんは、土井卓さん(32歳)。広島出身で、各地を旅をしながら
この地にたどりつき、前の店主さんにお店を託されました。このお店には
秋田工高の高校生たちが次々と訪れてくる。駄菓子屋なので、子どもたちも
遊びに来る。そうすると高校生たちと子どもたちが遊びだす。

土井さんは「ここにはこれからの進路を考える若者たちが、3年間も通って
くれます。その高校生たちがここでは子どもたちと接することができます。
大人たちもここにやってくる。普段は接することのないいろいろな世代が
ここで交流できるのです。そこに僕は可能性を感じました」と語ります。

「高校生たちは、未来を見通す力は弱いけれど、その分、今を生き抜く力は
すごいんです。3年間の中のたった1回の大会にすべての力を注いだりする。
その力を大人の人に知って欲しい。またその大人の方たちの笑っている姿が
また若い子たちの力になるんです。そんなふれあいがここにはあります」とも。

「若い人だけでなく、おばあちゃんたちも来るんです。すべての世代がやって
きます。今日のように旅をしている人もよってくれます。いろいろなイベントを
したり、ここから高校生たちと被災地にボランティアにも行っています」と
土井さんの説明は生き生きと続きます。

この場所の雰囲気はとてもこれ以上、文字では伝えられません。とにかく
駄菓子屋さんで軽食屋さんで、カフェで、子どもと大人が集っていて、その上、
古着が売られ、楽器が集められていて、マンガが並んでいます。これ以上、
知りたい方は、ぜひご自分で訪れてください!


さてここでゆったりとした時間を過ごしていると、だんだんと今日のスタッフに
なってくれるヤナティさんのお仲間たちが集まってきました。みなさん、音楽系
の方たちなので、次々にスピーカーや機材も集まってくる。講演会に大きな
スピーカー?僕にはちょっと驚きです。

やがて時間になって、今日の講演と交流の場である秋田大学に赴きました。
会場につくと、てきぱきとセッティングが始まる。黒板の前に大きなスピーカー
二つが設置され、マイクもスタンドつきでおかれます。コンサートみたい。
プロジェクターやらの設置も実にスムーズ。

そうこうしているうちに参加者が集まってきました。急きょの呼びかけだったし、
岩手からきたアビスさんにもぜんぜん数は読めなかったそうなのですが、
思ったよりたくさん集まってくださって、最終的には40人近くになりました。
20人ぐらいはと思っていたので驚きましたとアビスさん。

講演会の前に、東京渋谷でもデモの映像を流し、やがて僕の話をはじめ
させていただきました。僕は簡単な自己紹介の後に、原発の今の状況、
放射線被ばくからいかに身を守るか、脱原発の方向性について、話を
させてもらいました。

その後、質疑応答と意見交換に移りましたが、みなさん、実に活発に
意見と質問をだしてくださる。次々といろいろな意見が飛び出す。
例えば「デモをやって意味があるのだろうか。それで何かが変わるのだろうか」
という切実な質問が飛び出してきました。

僕は「流れが変わりつつあるのではないか。菅首相が浜岡原発の停止要請を
出したのも、僕はデモの力だと思う」と答えました。すると質問した方は大きく
首を立てにふってくださった。この方だけでなく、多くの方が、共感のサインを
それぞれに示して下さいました。

そうこうしているうちに、だんだん質問よりも意見が多くなってくる。原発を
止めるためにこんなことがいいのではないか、あんなことがいいのではないかと
面白い意見が続きました。アビスさんも黙ってられなくて?次々と発言。
今、すべてを紹介できませんが、討論には講演の倍の時間が費やされました。

いい場ができた!と僕はそう思いました。僕はちょっとだけ火をつけただけで
みなさんがそれぞれに温めてきた思いがバッと出てきた感じでした。そして
その中で、秋田での初めてのデモをしようという話もでてきました。僕からは
6月11日、12日の全国一斉行動のときに歩いてはとアドバイスしました。

また今回、僕は自然エネルギーの考え方を伝えるために、友人の古谷桂信さんが
編集してくださった岩波ブックレット『地域の力で自然エネルギー』を持ってきて
いるのですが、机に出していた5部があっという間に売れ切れ、さらにつぎたした
2部もすぐに売れてしまいました。嬉しい悲鳴でした・・・。

とまあ、秋田の交流会は大盛況のうちに終えることができました。新しい
出会いに感謝するばかりです。とくにヤナティさんに大感謝です。
今日はこれから車で奥羽山脈を越えて宮城県に入り、大崎市を目指します。
あたらしい出会いに期待を膨らませつつハンドルを握ります。


補記
昨夜は、「あきこうまえ茶屋」の2階に泊めていただきました。アビスさんと
2人でした。実はアビスさんも僕も、311以降、かなり睡眠時間が減っている
ことが分かりました。3,4時間寝るとパッと目が覚めてしまう。すると何か
やることがあって、そのまま一日起きていてしまうとアビスさん。

僕も同じなのです。多分、これは「コンバットハイ」なのですね。原発に
何か起こってはと、常に神経をとがらせてきたためでもある。同じような
感覚をアビスさんも持っていると聞いて、どこかでホッとするところがあり
ました。

そんな話をしたせいもあったのか、昨夜はひさしぶりに長く、ゆっくりと
寝ることができました。あるいは「あきこうまえ茶屋」の不思議な力なの
かもしれません。ここに素敵なオーラを漂わせてくれている、店主の
土井さんと、高校生たちに感謝です!

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