明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(113) 気仙沼を訪れて・・・東北の旅第5信

2011年05月15日 02時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110515 02:00)

みなさま。今、僕は岩手県一関のアビス亭にいてこの通信を書いています。
アビスさん宅から気仙沼までは数十分。もともと気仙沼出身のアビスさんは
各地を回って、この地に戻ってきたときに、山側のこの地に住居を求めた
のでした。

この3日間、ここを拠点にいろいろな場所に行き、いろいろな人と出会い、
いろいろなことを聞いてきました。あまりに密度が濃くて、なかなか文字に
落とせませんでしたが、今宵はできるだけ聞き取った内容を文字にして
おこうと思います。ちなみに明日、早朝にここを出て、仙台に向かいます。

さて僕がここについたのはもう3日前のこと。以降、ちょっと休んでからさっそく
気仙沼に連れていってもらいました。気仙沼は・・・とにかく凄かったです。
津波のもの凄さが表れている。僕は阪神大震災直後の神戸の街を
歩いたことがあるので、それと比較しながら被災状況を見てまわりました。

一番の違いは、阪神大震災にはなかった津波の被害の激しさが表れて
いること、とくに大きな漁船が何艘も、陸地に乗り上げて、そのまま横たわって
いることでした。ひときわ大きな船が水産加工工場の横に今もデンと置かれて
いる。ここはよくテレビにも映るところで、11日には追悼会も開かれたそうです。

アビスさんが船をさして、「実はあの船の下敷きになっている家が、僕の
友人の実家なんですよ。15日に仙台にいったときに泊めて頂く友だちです」
と教えてくれました。津波がきて、船が入ってきて、波が引くと、船は家を
押しつぶしてしまった。そんな場所が幾つかありました。

町の中にはところどころに、津波に現れた建物や家が残っていました。どの
建物も、窓という窓が壊され、ときには壁まで奪われていました。その周りに
小さな船が転がっていたりしています。建物の枠組みだけが残っている
コンビニらしきものなどもありました。

海岸線に出ました。そこには真っ黒になった船が3隻、停泊している。津波が
来たときに重油タンクが流され、船に火をつけたのだそうです。船は燃えた
まま、あちこちを漂流し、火を広げていった。それは数十隻にもなったらしい。
そのため人々は必死でこの漂流する燃える船を消し止めようとしたそうです。

重油タンクそのものも油を流しながらその海岸線まできて、水産加工工場の
壁にぶつかって、ひしゃげて止まっていました。そこから数十メートル離れた
海中にもひしゃげたタンクが浮いている。まだまだ何ら片づけられていない
状態です。

重機が数台、音を立て、トラックが入ってきて、廃材やひしゃげた車を
運び出していましたが、一方で多数の警官たちが、手に手に棒を持って、
各地を捜索していました。まだ遺体を探しているのでしょう。ここにいたのは
福岡県警のおまわりさんたちでした。

秋田から一緒にきた佐藤生美さんと、僕と2人で、暫く無言で写真を撮ったり
ビデオを回したりしていました。アビスさんは特徴的な何か所かに案内して
くれました。町が全体として地盤沈下していること、海も引き波で底がかなり
えぐられているなどの説明も印象的でした。

その後、アビスさんに、ご家族や友人などの被害はなかったのか聞きました。
アビスさんの実家は市内にあり、お母さんが1人でおられますが、幸いにも
津波が手前まできて、家は被災されなかったそうです。しかしアビスさんの
男友だちのお連れ合いが亡くなられてしまいました。

彼女は、親御さんが海岸線の近くに住んでいたため、地震直後に車で助けに
向かったそうです。ところが2人で逃げてくるときに、車ごと、津波に飲まれて
しまった。そのことはずいぶん後になって、車ごと遺体がでてきて分かった
そうです。彼女のように、車で避難中に亡くなった方も多い。


その後、車に乗って、海岸線を北上していきました。少し上り勾配になると
何軒かの無事だった家が見えてくる。ああ、無事だったのだなとホッとして
いると、道が下り勾配になり、いきないたくさんの家が流されたところに
出る。土地の高さ、低さが、被害の分かれ目になっていることを痛感しました。

車は県境を越えて、陸前高田市に入りました。市街地に入る前の気仙町福伏
(ふっぷし)という集落の避難所に立ち寄りました。ここはリアス式海岸の一角で、
道がくねって陸前高田の市街地に下っていくところにあります。家々がそこから
海岸へとはり出すように立っていたところです。

ちなみにフップシとは、アイヌ語なのだそうです。ここ三陸海岸にはアイヌ
由来の地名が多い。それに漢字をあてているのだそうです。気仙沼もその
一つ。美しい港を意味するケセモイが語源だとも、端を意味するケセが
語源だとも言われるようです。

そのフップシの避難所は、ここの集落の人々によって自治的に運営されていま
した。まず僕が乗ってきたランドローバーから物資を下ろしました。特に重要だった
のは祖牛さんが京都で買ってくれた衣装ケース。梅雨に向けて必須の品でした。
この他、女性たちに保湿クリームと化粧水のセットなどを配りました。

その後、避難所のリーダーの小松隆司さんから避難所横に張り出したテント
の中でお話を聞くことができました。このテントの中は、避難所本部であり、
避難所と言うより、福伏災害対策本部と言った方がぴったりする場所でした。
若者を含む、数名の方がつめておられました。

小松さんは今年51歳の方です。地震が起こった時は自宅の2階にいました。
あまり激しい揺れに柱につかまったそうです。1階にお父さんがいたので
危ないから家を出るなと叫び、その後、揺れが収まってから外に出て、すぐに
地域の人々を高台へと誘導し始めた。

揺れが今までとは違ったものだったので、すぐに津波が来ると思ったそうです。
また大津波警報が出たことが、防災無線で告げられた。それで人々を誘導し、
高台に行き、そこのお堂にいた。やがてやってくる津波を、茫然とお堂から
見ていたそうです。

ここで僕が、「ご家族やご友人はご無事でしたか。亡くなられた方はおられますか」
と聞くと、小松さんは、ふっと目線を下に向け、ため息をつかれました。そうして
顔をあげて「同級生を5人失いました。おじさんとおばさんも亡くしました」と語られ
ました。

「特にショックだったのは、毎日、いろいろなことを語り明かしていた知人を
失ったことです。彼とは陸前高田駅前のジャズ喫茶、ジョニーでよく一緒に
コーヒーを飲みました。彼の名は菅野有恒さんといいます。56歳でした。
たかこさんという奥さんと一緒に、波にのまれて、4月4日にでてきました」

「彼は反戦、反原発の活動を行ってきた人でした。そういうことを本当によく
話しあいました。一度は一緒にチェルノブイリの写真展を行いました。
本当に大事な友達で、いろいろなことを教えてくれる先輩でもありました」・・・。
小松さんはとても悲しそうにそう語られました。

ちなみにこのジョニーという店。ジャズ喫茶といっても、日本人の曲しかかけ
ないので、有名だったところだそうです。小松さんも菅野さんもお酒が飲め
ないことがあって、ここに集まってくる仲間たちの話を、2人だけコーヒーを
飲みながら聞いていたのだそうです・・・。

続く

コメント
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