その前に、部品を集めていたキングクォーツの部品が揃いましたので組立を先にします。今回は文字盤は右側のギョーシェ風のものを使います。しかし、入手した時点で6時位置の音叉マークが欠落していましたので、ジャンクから調達して移植してあります。
キャリバーは4823Bで、初期のクォーツユニットは、カレンダー機構などは機械式時計とあまり変わらず、手が混んでいますね。しかし、歯車は樹脂が多用されています。分解・注油をして行きます。
コイルや基板などは初期と高級機ということもあって、がっちりとした作りですね。
ケースは傷を研磨してあります。風防ガラスは社外新品を使います。左のベセルに右のリングを圧入でガラスを固定します。リングに腐食がありましたので、めっき屋さんへロジウムの再めっきを依頼しましたが、仕上がり今一でした。高価な費用を取って、職人のプライドはないのかなぁと思います。
完成したユニットに文字盤と針を取り付けます。
風防ガラスを組み込んだベセルをケースに圧入します。
完成したケース。風防ガラスはクリーナーやアルコールで拭き取っても、なかなかクリアーにはなりません。その時は、レンズクリーニングクロスが一番きれいになります。
このタイプは電池蓋が開かなくなるトラブルが多いようです。ゴムパッキンが変質して固着してしまうからです。残念ながら、新品が入手できませんので清掃、シリコングリス塗布で再使用とします。
超音波洗浄とヘアライン再生をした純正KQ入りのベルトを取り付けて完成です。構造的にはTYPEⅡと同じですが、キングの高級感はありますね。
では、本題です。このPEN-F #2443XXは女性オーナーさんですが、アンティークショップで購入されたとのことです。骨董屋さんてこと? フリーズ状態とのことで、これは手ごわいかな?と思っていましたが、いえいえ、PEN-Fとしては、中々きれいで保存状態も悪くはないですよ。しかも、未分解機ですね。
分解をして、フリーズの原因を探りましたが、懸念したような破損は無いようです。全体のフリクションが高くなっていたのでしょう。洗浄したダイカスト本体は、変更後のタイプで、状態はよろしいです。では、組立てて行きます。
スプロケットのクラッチの足がペンチで潰されたようになっていますね。これは、Rボタンとのストロークが足りずに工場で潰して長くしてあるということ。シャッタースピードを制御するカムも同じ方法でカム山の高さを調整してあります。
巻上げ関係の組立が終りました。使い込まれたPEN-Fですと、この辺りがガタガタになっているのですが、この個体は殆ど磨耗がありませんね。非常に良い個体だと思います。ただし、スプール軸とスプールギヤのねじ山が、強いトルクで締め込まれたため一部、螺旋状に剥離しています。これは、コンパクトPENでも見られる不具合で、工場では適正なトルク管理はされずに、「緩まないように目一杯締め込む」ような組み方だったんでしょうね。違う見方をすれば、一度組んだら分解は考慮しない組み方。SSで分解する時は、新しい部品を使うという感じですかね。
シャッターユニットは、スローガバナーの低速不調がありましたが、すべて洗浄、注油で改善しています。奇跡的にブレーキも利いていて、良いユニットでした。
ご希望により、全反射ミラーは新品と交換します。
どうでもよいことですが、リード線の処理を工場では、透明テープで留めていますので、私もオリジナルに拘って、同様に再現しています。
今朝、目覚めてラジオを着けたらオリンピックの開催地が東京に決まったらしい?ような放送をしていました。早速テレビで確認しましたが、放射能問題で諦めていたので決定は意外で国民としてうれしく思います。まぁ、隣国の執拗なネガティブキャンペーンの中、よく頑張りましたね。1964年の東京オリンピックは小学生でしたが、今でも鮮烈な記憶が残っています。夢の持てない今の子供たちにも、あの感動を味あわせてあげたい。あと7年かぁ、それまで生きていたいですね。
F用の38mm標準レンズですから、おそらくカメラとセットの個体でしょう。ヘリコイド油の流出と軽い曇り、絞りレバーの作動不良があります。洗浄して組み直しているところ。
終ってみれば、殆ど使用されずに保管状態もよく眠っていた個体が、アンティークショップに出て来たのでしょう。Fとしては、1965-11製とFT発売の1年前に製造された中期以降の個体で、非常に良いコンディションを回復しています。
10月10日の真っ青な秋晴れを忘れません。すでに聖火の最終ランナー、坂井義則君の手によって、聖火が灯されています。坂井選手は、広島の出身で、原爆投下の昭和20年誕生の若者。テレビ画像を見ていて気になったのは、聖火の後ろ側で長い棒の先にカメラのようなものが付いて風に揺れていたものはなんだったのでしょうね? 今だに気になっています。
「褐色の弾丸が飛んでくるようだ」今なら人種差別的発言とも採られかねない形容をした実況アナウンサー。アメリカ、ボブ・ヘイズ10秒00
80mハードル、日本期待の依田郁子。はち巻きをして、スタート前にレモンをかじるのを覚えている。リッカーミシン在籍で、立川の市営グラウンドで練習する光景を見たことがあります。しかし、すでにピークは過ぎていて5位入賞に留まる。
現在の棒高跳びの記録は6mを超えているようですが、この時のアメリカのハンセンとドイツのラインハルトの死闘は覚えています。暗くなって家に帰ってもまだ決着がついていない。結局、アメリカのハンセンが5m10を飛んで優勝。棒高跳びはアメリカとドイツがライバルだったんです。まだ、戦後20年だからね。記録の伸びは、グラスファイバーの進歩によるところが大きいと思いますが、優勝のハンセンの大学卒業論文がグラスファイバーの反発・・と言っていた記憶があります。
ちょうど、テレビ中継がお昼ぐらいだったかなぁ。東洋の魔女とソビエトとの決勝戦。最後は、ソビエトのオーバーネットでゲームセット。
現在のように、子供のような体形でないと勝てない体操女子は、当時は、成熟した女性でしたね。チェコのチャフラフスカ選手。
マラソンはゼッケン77は日本の円谷幸吉選手。彼は、本命として期待されてはいなかった。マラソンの前にトラックの10.000mにも出場して5位入賞を果している。ちょっと無理な出場にも思えます。トラック勝負でイギリスのヒートリー選手に抜かれて3位入賞。「スタジアムに日章旗が上がります」のアナウンサー実況を覚えています。
http://www6.ocn.ne.jp/~tomys800/