第2番の極楽寺から第3番への移動は早い。車だと5分。
山門。
本堂。奥に大師堂。背後に多宝塔が見える。先を急いでいたので見学する時間はない。特に初日はそうである。
ここは「弁慶の力石」の伝説がある。弁慶が持ち上げたという巨石である。
第4番にあわただしく向う。
四国八十八ヵ所霊場めぐりの初日はいそがしい。札所間の距離が短い。せめて30分ぐらいの移動時間があれば、忙しない気持ちにならなかっただろう。追い立てられるように一日が過ぎる。
発願の第1番霊山寺から第2番の極楽寺へ移動する。霊山寺の前には巡礼用品店が多く、ここで巡礼用品の補充を行った。実際にお詣りすると、足りない品物に気付くことがあるので店に立ち寄る時間を設けてあった。
1番から10番までは横並びに近い状態に札所が存在する。時間がかからずに次の札所へ行けるが、初めてだと、これが困る。慣れないうちに次々と次の札所に移動するからだ。慌てることは間違いない。
仁王門。
本堂の写真だと思うが、だいたい本堂・大師堂など気にしない。特徴のある本堂なら記憶があるが、それ以外は記憶に残らない。ゴッチャになる。ともかく、勤行を無事に済ませることに気が向いてしまうのだ。
弘法大師お手植えの長命杉がある。これは覚えている。
四国八十八ヵ所霊場巡りは慌ただしいが、それは他の観音霊場巡りや不動霊場巡りとは異なり、本堂ばかりではなく、大師堂でも勤行を行うからである。一つの札所で本堂、大師堂と2回勤行を行う。
バスに戻る。こういう恰好でお詣りしたわけだ。
境内が整えられている。これは印象に残る。
駐車場。奥に仁王門が見える。写っているバスで移動した。他の巡礼ツアーと遭遇することはなかった。二組も三組もツアーが押し寄せると待ち時間ができる。ルールがあるらしい。
昔の四国八十八ヵ所霊場をめぐったときの写真を整理する。もっとも肝心なものが落ちている所もあるので、その後に巡ったときのもので補充することにする。
結局、四国八十八ヵ所は3回目の途中(第70番)で頓挫したままで、今の体力ではもう残りをまわることは無理になった。四国八十八ヵ所は元気なうちに巡るべきである。
四国八十八ヵ所霊場の第1番は霊山寺である。徳島空港から12キロほどの距離であるが、旅行会社のツアーは高松空港でおりる。旅行の心得を説明するのに時間がかかるから、わざわざ遠方の空港に下りるのだ。
高松空港から霊山寺へ行く途中で、巡礼用品店に立ち寄り、身支度を整える。
写真は最初にツアーに参加したときのもの。桜の季節だった。日付と時間を写し込んでいるので行程が分かる。
多宝塔がある。
本堂は奥にあり、狭かった。
大師堂は池の横。先達さんが写っている。思い出した。
山門が見える。
山門を正面から見たもの。次の時に撮影した。
全部の写真が11時半頃である。勤行のあと、急いで撮影したものらしい。この日はバタバタしたという記憶しかない。
私は、1番の霊山寺には3度お参りしたことになるので、御朱印は重ね印で三つの印が押してある。
浦和に鎮座する調(つき)神社を参拝する。風変わりな読み方をする。漢和辞典で調べると、調を”つき”と読むこともあるらしい。
この神社のご朱印は注意を要する。まず、書き置きの朱印はない。全部直筆である。
また、朱印帳は、お寺の朱印帳はダメ。また、普通の朱印帳でもお寺の朱印をもらっているものはダメ。まぁ、普通の朱印帳で、寺院のご朱印を貰っている場合、書いてある朱印を全部見るわけではないから、大丈夫な時もある。私の場合、前のページを調べたが神社の朱印だったので、OKだった。
実は、川崎大師のご朱印が一つあったのだが、私も気付かなかった。
こういうのは、神道原理主義と私は読んでいる。たまに、こういう神社がある。原理主義者だから、対応はキツい。怒られるような感じになる。それは覚悟してほしい。
調神社の入口。ウサギの石像が狛犬代わりに置かれている。鳥居はない。
もともとは、律令制の税にあたる租庸調の「調」(=布)を収蔵した倉庫があったらしい。倉庫なのだから、鳥居は存在しない。
ウサギは調→月→ウサギの連想が働いたものという。神社のシンボルである。
手水場。ウサギの口から水が流れて出ている。
社殿。1858年のもの。これ以前のものは稲荷社になっている。
稲荷社は池の近くにある。ここは鳥居がある。
保護されている。見た目、東照宮風である。