「なんとでもおっしゃいまし。
人を見くだすなど、坂田善三さんほどではございませんから。
特高だなんて、みなが怖がるものですから。
それこそ特高の話など、わたくしたち庶民には口にするのもおぞましいですわ。
だかつですって?
そのおことば、そのままお返しします。
へびやさそりのように忌み嫌われていたのは、どちらさまで?」
なんとも気丈なお方です。このように口答えされるとは。
むろん、善三さんもこのままでは終わりません。
「なにを言うか!
われわれ特高警察は、お国のために身を粉にしてはたらいていたのだ。
国家転覆などという大罪をおかす者に、なんで情をかけてやらねばならんのだ!
というてもだ、あの足立なんぞは、下っ端もしたっぱだったよ。
足立自身は幹部連におだてられて、資金の調達やら女の斡旋やらをしておったが。
なもんだから、足立自身も準幹部気取りでおったようだ。
まあアジテーションの原稿づくりは、敵ながらあっぱれ、という部分もありはしたがな」
しかしさきほども申しましたが、小夜子さんも大したものです。
善三さんを相手にいっぽも引かれぬのですから。
怖いものなし、といった具合で。
と言いますよりも、善三さんより一枚も二枚もうわてのようで。
善三さんには申し訳ないのですが、手玉にとられているように見うけられるのです。
と申しますのも、善三さんがお話中だというのに、気に入らぬ話になりますと、素知らぬかおでみなさま方に話をはじめるのですから。
正直のところわたしにしても、席が善三さんのとなりでなければ小夜子さんの話に集中できるのですが。
時々に相づちなり合いの手を入れませんと怒鳴りつけられる事態にもなりかねませんので。
少々、悔やんでおります。
ともあれ、小夜子さんのお話は、足立三郎との馴れ初めに入りましたようで。
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足立三郎さまは、それはもう目鼻だちのはっきりとされました眉目秀麗なおかたでございます。
そうでございますねえ、長谷川一夫さまを思い浮かべていただきましょうか。
あの大きな目でじっと見つめられますと、もう全身がかなしばりにあったようになります。
たとえが悪くはありますが、へびににらまれた蛙でございます。
しばらくそれがつづきますと、体がじっとりと汗ばんでまいりまして、立っていることなど到底できません。
椅子などに座っておりましたなら、背筋をぴんと伸ばしておく力が抜けてしまいます。
もしもとなりに三郎さまがいらっしゃったなら、磁石のちからで引っぱられるのでございます。
わたくしだけ? いえいえそうではございません。
本郷キャンパスに行かれてくださいまし。
そのような光景を毎日のようにお見かけできますから。
いつもいつも誰かしら女性の方がそばにいらっしゃいます。
ソクラテスが「無知の知」を唱えたし、ニーチェの実存主義がサルトルによって発展した。
そしてマルクスという経済学者が資本論を著した、などとむずかしいお話をされているようでございます。
どうして知っている? それは当たり前ですわ。
三郎さまご自身からお聞きしたのですから、本当のことです。
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