昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

恨みます (十三)

2022-06-05 08:00:34 | 物語り

「良かったら、お茶でも」。小百合から、思いもかけぬ言葉が口から出た。
初対面の男を部屋に入れることに抵抗感がなくはなかったが、このまま返してはいけないという気持ちをすてることができなかった。
お礼をならにもせずに帰すなんて、人間としてそれはしてはいけない、そう思ってしまった。
「あちゃあ!」。心内でつぶやいたつもりが、運転手の声となって出てしまった。
「すみません。ちょっと思い出しちゃって」。あわててあやまったものの、小百合にはとんと響かないものだった。

「ご迷惑ですよね。お仕事のじゃまをしてはいけませんよね」と、耳たぶまで赤くした。
“やったあ! 落としたぞ”。声に出せない言葉が、一樹のなかで跳ねまわる。 
「ありがたいなあ。正直、喉がカラカラで」と、これでもかとばかりに笑顔を作った。
さゆりのが会社を早退するまでの2時間が――新規オープンした店の前で、ただただ無為につぶした時間が、いま報われた。
 その間に飲んだ2杯のコーヒーが、たっぷんたっぷんと揺れている。
“この女、マニュアルどおりじゃんか”と、ほくそえむ一樹だった。

 築50年が経っている古びたビルで、1階が店舗、2階から4階がアパートになっている。
1階にはふたつの店舗があり、ひとつにこのビルのオーナーである花屋が入り、そのとなりは空き店舗になっている。
オーナーの母親が駄菓子屋を営んでいたが、4年ほど前に他界してそのまま店を閉めてしまった。
「コンビニでも……」という話があがり、その折に「いっそ新しく建て替えては」と持ちかけられた。
しかし同一町内にふたつのコンビニが、すでにあることから断念した。
ビルの建て替えについても、コンビニ話の消滅とともに立ち消えになっていた。

 ビルの中央に階段口があり、ガラスの扉を開けて階段を上がっていく。
エレベーターがないため、階段を使っての上り下りとなる。
階段の踊り場に設置してある階数を示す表示灯がもうしわけ程度の明るさで薄暗い。
さらには階段幅がせまく、すれ違うたびに体をななめにしなくてはいけない。
住人とすれ違うおりに、「チッ!」と舌打ちされている気がする。
そのたびに“あたしがブスなせいなんだわ”と、くらい気持ちになってしまう。



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