五平のいうとおりに、ここは軽傷だったと答えるべきだろう。
時間かせぎだとしても、その間に対策を講じねばならない。
だがしかし、小夜子はどうなるのだ。会社のことばかりを優先させてもいいものだろうか。
それになにより、この事態をなんと伝えればいいのか、真実を話すのか、軽傷だと安心させるべきなのか。
思案に暮れる竹田だった。
「よし、決まった。とうめんは箝口令をしいてしのぐとして、長期にわたった場合には銀行との折衝だな。
なんとしてもこの案をのませなくちゃ。竹田、これから言うことは、秘密中のひみつだ。
俺とおまえだけの話だ。徳江にも言うな、絶対だぞ。会社の存亡に関わることだからな」
気迫のこもった、ついぞ見たことのない五平の目だった。
目の中でギラギラと炎が燃え上がり、体全体に熱いマグマのような血液がめぐり回りまわっている、そんな威圧感を感じさせるものだった。
“これが「気骨」というものか、時を生き抜いて、いまを作り上げた者の正体なのか”。
「は、はい。肝に銘じます」。それだけしかなかった。
さっきまでのセンチメンタルな思いは、片隅に追いやられてしまった。
「とりあえず、おれが会社の指揮をとる。むろん、社長が短期に復帰されれば、笑い話ですむ。
しかし医者の言うとおりに長期となったら、迷走することになるからな。
でだ、当面の資金繰りは、きびしい時期ではあるが――まずい時期を選んでくれたものだ。
そうか、これが狙いか。長期の入院をさせるための、あのナイフの使い方か」
ひとり、合点するように頷く五平に「どういうことです? ナイフの使い方がなんです?」
「いやな。医師が言うとおりに、まっすぐに刃を刺せば、場所が悪けりゃ重大な結果となるがな。
たとえば、臓器に直接に刺さるとかな。しかし普通は、それほどにひどくはならん。
けども、刃を回転させるということは。そうだな、果物を例にとれば、まっすぐに切ればきれいな断面だ。
けども、真ん中あたりで刃をまわしてみろ。グチャグチャになるだろ。それと同じだよ。
修復するにも時間がかかるし、場合によっては死亡の可能性だってある」
竹田は、五平の目を正視できなかった。
そんな恐ろしい方法で人を傷つける、ひとを殺すことができる人間が存在するとは思えなかった。
竹田のそんな思いに気づいたのか、五平がやさしい目で語りかけた。
「信じられんよな、竹田には。人間がそんなに残虐なものだとは。
戦争だ、せんそうだよ。戦争は人をかえる。どんなに善良な人間でも、悪鬼になる。
もしなれなかったら、おそらくは還ってこれないだろう。
まあなかには、そんな経験をせずにすむお方もいらっしゃるだろうがな」
誰のことを指しているのか、竹田にはわからない。
五平はそうではないらしい。やけにナイフについて詳しすぎる。
しかし五平は内地で終戦をむかえたと聞いた。そして社長も。
そうだ、社長は、そんな幸運なひとりなのかもしれない。そう考えた。
では五平はどうなのだ。さきほどの疑念が消えない。
“いやいや、たまたまさ。たまたまナイフについて詳しいだけで、そんなお方じゃない”
なんとか黒いよどんだ澱を飲み込まないように吐き捨てた。
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