昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (三百五十)

2023-05-11 08:00:24 | 物語り

「小夜子、小夜子。どうした、ボーっとして。気分でもわるいのか? 
久しぶりのキャバレーは、体に良くないか? 空気がわるいからな」
「気分がわるいですって! とんでもないわ。いま、あたし、猛烈に感動しているんだから」
「そうか、感動しているか。それじゃ感動している中、悪いんだがな。
課長さんに、ビールを注いでくれないか。
小夜子が注ぐビールは格別だ、なんて口を滑らせてしまったんでな」
武蔵に耳元でささやかれ、くすぐったさをこらえ切れない小夜子だ。
吹き出しながら、「いやあよ、そんなの。あたし、お酌なんてししたことはないでしょ。
武蔵だって、いつも手酌じゃないの」と、つっぱねる。
「すまん、すまん。つい見栄を張っちまってな。たのむよ、小夜子。
大事な取り引き先の課長なんだよ。ご機嫌をな、取っておきたいんだよ。
その代わり、小夜子のたのみを聞いてやるから」

手を合わせて拝みかねない風の武蔵に、「どうしてもして欲しいの? しないと、会社に良くないの?」と、いたずらっぽく尋ねてみる。
「ああ、どうしてもだ」
 これ以上武蔵を困らせるわけにもいかないと、精一杯の笑顔を作りながら
「上手じゃないので、ごめんなさい」と、女給のさとみとふざけあっている課長のコップにビールを注いだ。
「おお、こりゃ感激だ。女優のような奥さんにお酌をして頂けるとは。
ハハハ、男冥利につきますなあ」と、破顔一笑になった。
「もう、いけすかんタコ!」と、隣のさとみが課長の太ももをつねった。
「痛っ!」。「あっ!」。
さとみの故意か、それとも不慣れな小夜子のぎこちない酌ゆえか、コップから溢れたビールが課長のズボンを襲った。

「だめ! あたし、悪くないわよ。課長が急に動いたからよ。
やっぱり、慣れないことはするものじゃないわ。武蔵にもしてあげてないことだもの」
 謝罪のまえに、自己弁護をはかる小夜子。苦笑しつつ、武蔵があやまった。
「課長、申し訳ない。小夜子の言うとおりです、なれないことはやらせるものじゃないですわ」
「ごめんなさいね、課長。あたしがいたずら戯したばっかりに。小夜子さんも、ごめんね」
 こぼれたビールを拭きとりながらも、さとみの目は笑っている。
「さとみ、中まで濡れたみたいだよ。面倒見てやんな」
 武蔵に耳打ちされた梅子が、声をかけた。
「はーい。じゃ、課長おいで」と、道行きよろしく手を取った。

「ごめんよ、社長。さとみが不都合をやらかしたのかい?」
 事情が分からぬまま、武蔵の頼みでさとみを立たせた梅子。
「いや、小夜子さ。ビールをこぼしちまったのさ」
さも、小夜子の失敗だと言わんばかりの武蔵のことばに
「わざとじゃないもん! 向こうが動いたから、こぼれちゃったんだもん」と、頬をふくらませた。
「良いって、良いってことよ。怪我の功名だよ。
ま、案外さとみの策略かもな。あいつも、中々やるじゃないか。
これで、常連をつかんだわけだ。そして俺も、目的を果たしたってわけだ」

「なんだい、そりゃ。小夜子に接待させるのは、やっぱり無理なんじゃないのかい? 
第一、人妻なんだよ。しかも、その旦那が目の前にいるんだ。ただ、見てるだけなんてさ」
「いいんだよ、それで。男ってのは、どうしようもないものなんだよ。
ただ愛でるだけの桜よりも、食せる桃の方が好きだってことさ」と、梅子にうそぶく武蔵だった。



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