「いらっしゃいませ、御手洗さま。ようこそのお越しで」
うやうやしく礼をするボーイに、ニッコリと微笑んで「おひさしぶり。小夜子でいいわよ」と応える小夜子だ。
鮮やかなネオンサインで、キャバレー:ムーランルージュとある大きな建物のなかに、小夜子がすいこまれていく。
あわてて追いかける竹田に「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」と、ふかくお辞儀をする。
「あ、いえ、こちらこそ。お世、」と、慌てて竹田が返事をかえすと、すぐさま竹田の卑屈さをかんじとった小夜子の、いらだつ声が飛んできた。
「竹田、早くいらっしゃい!」
「申し訳ありません。久しぶりの場所なもので、なにをどうしていいのか分かりません」
ペコペコと米つきバッタのように頭を下げつづける竹田に、周りから失笑がもれた。
己が詰ることには良しとしても、他人に蔑視されることには我慢がならぬとばかりに、小夜子の怒りが頂点に達した。
声の主をじろりと睨みつけると、
「はじめての人間がまごついて、なにが可笑しいのかしら!」と、つよい声を発した。
そのあまりの剣幕に、座がシンと静まりかえった。
“こんな小娘ごときに”といった表情を一瞬見せたものの、相手が富士商会の御手洗武蔵の連れ合いだと知るや、下を向いてだまってしまった。
「御手洗さま、申し訳ございません。うちの者がいきとどきませんで、失礼いたしました」
慌てて飛んできたマネージャーが、平謝りする。
「高木くん、もっと気を配らなくちゃだめだぞ」と声をひそめて、ボーイに注意をあたえた。
「さ、御手洗さま。こちらへどうぞ」と、中二階へと案内した。
己の失態で小夜子にまで恥をかかせた竹田は、身をちぢこませて後にしたがった。
ビッグバンドの奏でる甘い調べなど、とんと耳に入らぬ竹田だった。
生前に勝子が興奮気味に話していた曲だとは分からずにいた。
「ねえねえ、勝利。あなた、ムーンライトセレナーデという音楽、知ってる?
素敵なのよ、本当に。小夜子さんに聞かせていただいたのだけれど、うっとりするわ。
小夜子さんね、お家でよく聞くんですって。
イン・ザ・ムードとか茶色の小びんとか、色々レコードをお持ちだってよ。
今度ね、キャバレーとかいうお店でね、生演奏を聞かせていただくの。
楽しみだわ、本当に。お幸せよね、本当に。
でもね時折、ふっとお淋しそうなお顔をされるの。
どうしてかしらねえ。早くに亡くされたお母さまに関係していらっしゃるのかしら。なんでも、
お母さまに抱いていただいたことがないと仰ってたけれども」
「姉さん。いつも言ってることだけど、外でべらべらと小夜子奥さまのことをしゃべらないでくれよ。
お淋しいなんて、絶対にだめだよ。そんな小夜子奥さまじゃないんだからね」
いつになく強い口調で勝子をたしなめる竹田だが、そのことは竹田自身も感じていることだった。
“社長がお忙しくされているから、我がままだろうとなんだ、きっと。お気の済むようにして差し上げねば……”
それが竹田の思いだった。
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