昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百五十六)

2024-12-31 08:00:07 | 物語り

 自宅にもどり、千勢からきょうの武士を聞くにつれ、すやすやと眠っている武士を見るにつれ、小夜子のこころにまた、たゆたう想いがうまれた。
〝武士のいまは、千勢だけが知ってるのよね。
つかまり立ちした、ヨチヨチ歩きをした、ことばを発した。
千勢のことばでしか、わたしは武士を知らないんだわ〟

 いま。家のあちこちにあった武蔵のにほいが、日いち日とうすれていく。
おとといは玄関からにほいが消えた、そして廊下のかべからも。
「ガラガラ」と音をたてて、武蔵がかえってくる。
ドタドタと音をたてて。千勢が走ってくる。
「騒々しいぞ、千勢。せめてパタパタにしてくれ」。そう武蔵が言う。

ところが二階からは、ドカドカという音をたてて、こんどは小夜子が下りてくる。
苦笑いをしながら、こりゃだめだと肩をすくめる武蔵だ。
「おかえり!」。そのひと言に、武蔵のつかれがふっ飛んでいく。
千勢が目の前にいるにもかかわらず、靴を脱ぐのももどかしげにとっちらかして小夜子を抱きあげる。
「うーん。小夜子のににほいだ、どんな花よりかぐわしいにほいだ」

 千勢が、脱ぎ捨てられた革靴を、カマホゾ組みと称されるつくりの下駄箱にしまい込む。
最近になって武蔵が、造りにこだわりはじめた。
高価な品を求めているのではない。
質の良いものを欲するようになってきた。
行く先々で、美術品やら骨董品に接する機会がある。
そしてその本物に出会えたときの高揚感が、武蔵の琴線にふれた。
ものの善し悪しがわかるのではない。
ただ本物が醸しだす、武蔵には表現ができない――味わい、にほいといったものが、武蔵を虜にした。

木炭をならべてにほいをとっているが、ムッとするにほいは残ってしまう。
「もっとたくさん入れて! くさいんだから、武蔵の靴は。
あたしの靴ににほいがうつらないようにして」
 そんなことばが、いまは懐かしい。もう武蔵のにほいは消えてしまった。

 そしてきのうには、居間から消えた。
武蔵が愛用したソファからは、小夜子のにほいだけが――武士が飲みこぼした、ゲップで吐き出した母乳のにほいだけがある。
ゆったりとソファに体をあずけて、庭の樹木を愛でながらラッキーストライクのたばこをくゆらす武蔵が、小夜子の脳裏にあざやかに浮かびあがる。
うたた寝をした武蔵がつけた、たばこの焦げあと。
武蔵が愛飲したラッキーストライクの香りがしないかと嗅いでみるが、それも詮ないことだ。

 そしていま。
2階の寝室でベッドに横たわる小夜子のとなりには、武士がスヤスヤとねむっている。
ふたりして武蔵のにほいにつつまれながら、スースーと寝息を立てる武士を見やっている。
「ごめんね、武士。あたし、ムキになっていたわ。ほんと、ごめんね」

〝そうだった。
わたしの、いちばんの仕事は社長業なんかじゃないわ。
武士をそだてることだった。
武士をいち人前の男にそだてることだった〟

〝いますぐに新しい女になる必要はないわ。先はながいんだもの。
武士をそだてあげてからでもおそくはないわ〟
〝新しい女は、新しいことをする女じゃない。
自立した、自立できる女のことなのよ〟
 小夜子のこころがきまった。

――・――・――
*令和6年も、残りわずかとなりました。
 ことし1年、ありがとうございました。
 新作・旧作のリニューアル等、わたしの持てうる限りの引き出しから、
 傾向のちがう作品群をお送りしてきました。
 そのうちにはタネが切れてしまうかもしませんが、
 どうぞそれまではよろしくお願いします。

 それでは、どうぞ佳いお年をお迎えください。



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