(三)
しかし小夜子の表情は変わらない。
傲然と立っている。
正三は、蛇に睨まれた蛙そのものだ。
未練だと分かってはいる。
しかし忙しさにかまけて、ないがしろにしてしまった己が怨めしい。
「正三、正三。
小夜子は止めておけ。
お前には似つかわしくない。
お前の伴侶は、源之助に任せてある。」
父親の声が、天の声となって降りてくる。
「どうだ、正三。
お前の伴侶を連れてきたぞ。
お前にぴったりだ。」
と、今度は源之助の声がする。
「坊ちゃん、正三坊ちゃん。
大丈夫ですか?」
かっと見開いた目に、先夜の芸者が飛び込んできた。
「な、なんだ。
どうしてお前がここに?」
先夜の芸者の顔が、正三におおい被さるようにあった。
「な、なんでお前が!」
「あらあら、ご挨拶ですこと。
夕べ、他の座敷に居たあたしを、無理矢理呼び出したのは?
一体どこのどなたさまでしょうかね?」
「呼び出した?
ここは官舎じゃないのか?」
慌てて飛び起きる正三に、芸者が勝ち誇ったように言う。
「相当にお酔いになってらしたのに、ほんとお元気でしたわ。」
「ち、ちょっと待て。確か昨夜は。
うむ、そうだ。ここは橘屋か?
叔父さん宅を出て、官舎に戻って……。
そうか、ここに来たんだ。
で、酒を用意させて……」
(四)
次第に昨夜の記憶が甦ってきた。
宿舎に帰ったものの、襲いくる絶望感と寂しさに耐え兼ねて、
ふらふらとこの橘屋まで来てしまった。
「酒!」
「承知いたしました。
それじゃ、離れの方へどうぞ。」
ぶっきら棒な正三を初めて見る、女将。
尋常ではない正三だと、仲居に告げた。
「いいこと、多少のご無理にも応えてちょうだい。
万が一にも悶着にならないよう、気を付けてちょうだい。」
「はい、心します。」
ベテラン仲居に対応させるなど、最大級に気を使う女将だった。
そして、源之助への報告をした。
「そうか…、相当に堪えたようだな。」
源之助の口調から、
「女性がらみね……。
正三坊ちゃんも、苦しまれるのね。
相手の女性もさぞかし、のことでしょうに。」
と、感慨に耽る女将だ。
源之助が官吏になりたての頃、この橘屋に足繁く通った。
今の正三と同じように、将来を嘱望されていた。
「酒に強くなれ、女遊びもしろ!
しかし飲まれてはならん、溺れてはならん。
己の何たるかを、知ることだ。」
佐伯本家の、先代当主の言葉だ。
源之助、若干二十四歳。
青雲に燃える、青年だった。
「女将さん。今夜は一人ですが、宜しいですか?」
「あらまぁ、お珍しい。
どうぞ、どうぞ。
大歓迎、ですわ。」
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