かなりの距離があり、小夜子も目をほそめてみるのだが、なかなかにだれもみえない。
「武蔵、武蔵。あそこの木のかげに、だれかいる?」
娘の父親に聞こえぬようにと、耳打ちをする。
「うん? どれどれ。ああ、あの木か? うーん、遠くてわからんなあ」
「こうさんだわ、れいちゃん。お友だちなのよね、ちっちゃい子なの? おとしは?」
娘は、くくっと声をあげながら笑っている。そして指さした手のひらを、まるでおいでおいでと呼ぶように上下に動かした。
「まさか、しっぽをふるってことは、犬かな?」
「せいかい! 大っきな、柴犬なの。でも、のら犬なの。
あたしは飼いたいんだけど、お父さんがだめだって。
どうして? って聞いたら、弟が怖がるからだって。
弟がいけないのよ。石なんか投げるもんだから、犬が吠えたの。
体が大きいでしょ? 声もね、大きいの。
それで、弟のやつ、泣き出しちゃって。情けないったらありゃしない。
もう九さいなのよ。十一月には、十さいになるのに」
「こら! また、野良犬か! いかんと言ったろうが。ほら、もう帰るぞ。
新婚さんのお邪魔をしちゃいかん。さ、来なさい。隼人が待ってるから」
「ええ! あたし、お姉さんたちともっといたい。
あのね、弟はね、隼と人でね、はやとと言うの。
分かるでしょ? 戦闘機の隼よ。いやになっちゃう、ほんとに」
「わたし、こういうものです。よろしかったら、きょう一日お嬢さんをお借りできませんか?
着いたばかりでしてね、正直妻の相手はきついんです。ここ二日ほど、寝ていませんしね」
と名刺をわたしながら、その老人にたのみこんだ。 「そうさせてください、この通りです」と、小夜子もまた手をあわせてみせる。
娘は、老人のへんじもきかずに
「いいでしょ、おじいちゃん。ね、ね、決まりね」と、小夜子の手をとって駆けだした。
「こら、れい。まだ良いとは。まったく、いうことを聞かんやつだ。
えっと、みたらいさん、ですか? ほお、会社経営を。雑貨品といいますと、主にどんなものを?」
しげしげと名刺を見ながら、先ほどまでの警戒心がうそのようなたいどで接してきた。
「なんでもです。GHQ関連からスタートしましてね、いまは種々雑多ですよ。
このあいだ東北にいきまして、南部鉄製の商品をあつかうことにしました。
こちらでは、どんな特産品がありますかな? まだ九州産はあつかっていませんが」
「そうですか、そうですか。まあ九州と言いましても、それぞれの県に特産がありましてね。
この長崎は観光地ですのでねえ。特産もあるにはありますが……。
全国的に有名といえば、陶器なんかもそのひとつでしょうな。
となりの県ですが、佐賀にですな、伊万里焼と有田焼というものがあります……」
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