「その先物取引の借金をチャラにしたのは、御手洗なんだよ」
「な、な、な、、、」
言葉が出ない、思いも寄らぬことを告げられた。
「督促が来なくなったろうが。まだあるぜ、竹田さんよ。毎月の仕送り、あれも御手洗だ。
小夜子お嬢さまはご存知ないことだがね。
御手洗のおかげで、三度三度のおまんまやら晩酌が出来てるんだ」
へなへなと座り込んでしまった。
「あれは、小夜子が、小夜子が……」と、呪文のように呟き続ける。
「いや、大丈夫じゃ。佐伯の本家に嫁げば、そんなもん返せる」
「空手形は切るものじゃない、竹田さん。正三とか言う若造のことかね。
さあてね、どういうことになっているのか」
「そ、そうじゃ。まだおる。ロシア娘がおる、ロシア娘が」
勝ち誇ったように言う茂作に、五平は薄ら笑いを浮かべた。
「やれやれ、アナスターシアのことかね?」
「そ、そうじゃ。わしの娘になりたいと言うロシア娘が、そんなことぐらいなんとでもしてくれる」
「ま、生きてればね。何とかしてくれたかもしれないねえ。
しかしあの世に行っちまった今となってはねえ。
悪いことは言わない、御手洗の世話になりなさい」
座り込んでいる茂作の肩に手を置き、優しく声をかけた。
「御手洗はねえ、とに角ベタ惚れなのよ。
小夜子お嬢さまにしても、御手洗との生活に満足されているんだから」
五平の声が耳に入っているのか、いないのか。
茂作は頭をうな垂れたまま、身じろぎひとつしない。
「それじゃ。近いうちに、御手洗本人があいさつに来ますので」と、ぶ厚い封筒を茂作の前に置いた。
「タキよお。わしゃ、どうしたらいい? 小夜子を取られちまう。
どこの馬の骨とも分からん奴に、取られちまうぞ。
わしの、わしの小夜子を、取られるよお……」
茂作の妻であり、小夜子の祖母にあたるタキに話しかける。
小夜子がいなくなってから、とみに増えた茂作の合掌すがただ。
産後の肥立ちが悪かったタキは、澄江が二歳のおりにかえらぬ人になってしまった。
タキを嫁にもらって分家した茂作は、一心に働いた。
一番鶏のなくころには畑を耕し、家路に着くのはてどっぷりと暮れてからのことだった。
そして夜は夜とて、土間にゴザを敷いてのわらぞうり作りにはげんだ。
次男に生まれたが為に味わった苦汁。
次男に生まれたが為に味わった苦悩。
次男に生まれたが為に味わった悲哀。
相思相愛の初江を、次男に生まれたが為に諦めさせられた。
“見返してやる。本家より金持ちになってやる”
取り憑かれたように、働きつづけた。タキもまた、茂作同様にいやそれ以上に働いた。
澄江を身ごもった折も、周囲の懸念をよそに働きに働いた。
澄江を産み落としてのち、少しの産後の休養をとることもなく畑に出た。
そしてそれらの無理がたたり、茂作の畑からの帰りを待たずに、他界してしまった。
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