差しつさされつ飲む、このひとときは、たがいにとって至福の時間だった。
ときおり、ふすまの外から「女将さん、申し訳ありません」と遠慮がちに声がかかる。
しかしすこしの時間を離れるだけで、すぐにまた戻ってくる。
武蔵はその間、所在なく庭先に目をやっている。
本館の池泉回遊式庭園とは異なり、熱海地区では珍しい枯山水の庭園様式をとっている。
大女将の決断で造り上げたということで、その真意については光子も知らないという。
ただ、石や砂などを用いて水の流れを表現するのは「あたくしの人生そのものなのです」と、珍しく酔ったおりに繰り言が飛び出したという。
「無味乾燥だったということじゃないのよ」。
「光子さん、あなたなら分かってくれるわね」。
正直のところは、大女将の真意は分からないという。
ただ推測するに、おのれを偽りつづけたその悔悟の念ではないのか、しかしまた十分に満足できる人生を送ってきたという自負ではないのか。
そう思えると言う。
この離れに腰を下ろしたときからその機会を探っていたが、武蔵としては珍しく躊躇してしまった。
光子に対してこの申し出が、下心があると思われるのではないか、武蔵という男に対する評価を下げることはないか、そんな思いから揺れ動いていた提案を思い切って口に出すことにした。
「どうだろう、女将。復興めざましい東京に出てみないか。
いまならぼくにも資金援助ができる。純粋に商売として考えてのことなんだけれど。
女将の度量と采配があれば、十分に勝算はあると思うのだが」。
つかみかねる武蔵の本音をうかがうように、目線が武蔵の表情ひとつ見のがすまいとおそってくる。
「いや待ってくれ。もうしばらくぼくの話を聞いてくれないか。
たしかに、商売だけじゃない。女将、光子さん。
ぼくはあんたに惚れている。本気だ、ぼくは。
男と女ということじゃない。人間としての光子さんに敬服した。
いやそれも違うな。とにかくだ、光子さん。
あんたと離れるのがつらいんだ。
距離的なものじゃない、そう、こころだ。
こころで触れあいたいんだ」。
すがるような視線を送ってみるが、光子の口はひらかない。
「今すぐにとは言わない。考えてみてくれ。
来月あたりには、また来るつもりだから。返事はそのときに聞かせてくれ」。
さかずきを空にして喉をうるおしながらの、武蔵の長広舌だった。
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