5日(土).クラシック音楽のフリーペーパー「ぴあクラシック」秋号に掲載の「マエストロ曽我大介の知っ得!納得!クラシック」に「おしえて そがさん!」というコーナーがありますが,この号の質問は
「指揮棒を使わない指揮者もいるが,どうしてか? また 指揮棒を使う人でも,ある楽章に入ると指揮棒を置いて指揮する場面がある.どういう理由か?」
というものです これに対して東京ニューシティ管弦楽団正指揮者の曽我大介氏は概ね次のように答えています
「指揮棒は,指揮者の動きを拡大し,見やすくするツール オペラの暗いピットや大きな舞台で視認性が求められる時には必要 それ以外の場面では無くても差し支えない 指揮棒を使った方が腕を動かす量が少なくて済み,指揮者にとっての省力 ツールでもある」
指揮棒が「省力 ツール」という指摘には目から鱗が落ちました 指揮者の中には最初から最後まで指揮棒を使わず,両手で指揮をしている人もいますが,相当体力を使っているのでしょうね でも拍手喝さいを受ければ,指揮者の”手がら”になるわけで,奮闘努力が報われるのでしょうか
ということで,わが家に来てから今日で768日目を迎え,韓国の朴大統領が機密文書を支援者のチェ・スンシル容疑者に渡していた問題で,大統領が 必要なら検察の調査に応じると語ったというニュースを見て,韓国を取り巻く情勢を懸念するモコタロです
コリア~大変だ! この機に"北"がキターッてならなきゃいいな
閑話休題
今飲んでいるワインがなくなりそうなので,新しく3本買ってきました 2本はボルドーの赤で,1本は今年秋収穫の 山梨特産デラウェア種の白です 「夏はビール,冬は熱燗」の中間ということでもないのですが,秋はワインがいいですね 早速,夕食時に白ワインを開けて,買ってきたプチ・チーズ・セットをつまみながら飲みましたが,フルーティーでとても美味しく,味にうるさい娘も絶賛していました
も一度,閑話休題
チケットを2枚買いました 1枚目は来年1月29日(日)午後2時から池袋の東京芸術劇場コンサートホールで開かれる「新交響楽団第236回演奏会」です プログラムは①ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」,②同「バレエ音楽”遊戯”」,③ストラヴィンスキー「バレエ音楽”火の鳥”」(全曲版)です 指揮はフランスものに定評のある矢崎彦太郎です
2枚目は2月12日(日)午後3時から上野の東京藝大奏楽堂で開かれる「東京藝大チェンバーオーケストラ第28回定期演奏会」です プログラムは①モーツアルト「交響曲第35番ニ長調K.385”ハフナー”」,②イルジー・パウエル「ファゴット協奏曲」,③モーツアルト「交響曲第39番変ホ長調K.543」です 指揮者なしで,②のファゴット独奏は藝大客員教授・岡崎耕治です これはK.543狙いです
最後の,閑話休題
村上春樹著「職業としての小説家」(新潮文庫)を読み終りました 今更ですが,村上春樹のプロフィールを簡単にご紹介しておきます 1949年 京都市生まれ.早稲田大学第一文学部卒業.1979年「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞してデビュー 最近では毎年のようにノーベル文学賞候補に挙がりながら毎年受賞を逃していることで有名な小説家です
この本は,分かり易い言葉で書いた「小説の書き方入門書」と言っても良い本です まず,自分自身がどのように小説家になったのか,その後どのように歩んできたのかを語り,オリジナリティーとは何か,何を書けば良いか,長編小説はどのように書けば良いのか,といったことについて持論を述べています 「あとがき」に本人が書いているように,この本は「出版社から依頼を受けて書いた文章ではなく,最初から自発的に,いわば自分のために書き始めた」文章を集めたものです
小説家になるきっかけは野球観戦だったそうです もうすぐ30歳になる頃の1978年4月,ヤクルト スワローズ ファンである村上春樹は神宮球場にヤクルト・スワローズ対広島カープの試合を観に行ったそうです 1回裏,ヤクルトのヒルトンがレフト前にヒットを飛ばしたのを見たとき,村上は,ふと「そうだ,僕にも小説が書けるかもしれない」と思ったとのこと この”啓示”がキッカケになり「風の歌を聴け」を書き始め,これが彼の小説家としてのスタートになったそうです なお,この年ヤクルト スワローズは日本シリーズを制し,日本一に輝きました 村上春樹がヤクルト ファンだということは知っていましたが,野球観戦が小説家になるきっかけになったことは初めて知りました
「オリジナリティーについて」という章の中で,彼はストラヴィンスキーの「春の祭典」を引用しています
「『春の祭典』を聴いても,現代の聴衆はそれほど戸惑ったり混乱したりしませんが,今でもやはりそこに時代を超えた新鮮さや迫力を体感することはできます そしてその体感はひとつの大事な『レファレンス』として人々の精神に取り込まれていきます.つまり音楽を愛好する人々の基礎的な滋養となり,価値判断基準の一部となるわけです 極端な言い方をすれば,『春の祭典』を聴いたことのある人と,聴いたことのない人とでは,音楽に対する認識の深度にいくらかの差が出てくることになります」
これは実感として分かります.同じクラシック音楽を聴くにしても,より多くの作曲家の より多くの作品を聴いている人の方が,音楽史の中でのその作品の位置づけを理解して聴くことが出来るので,作品への理解が深いはずです
また,同じ「オリジナリティーについて」の中で,奇しくも今年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランについて触れています
「ボブ・ディランも1960年代半ばに,アコースティック楽器だけを使ったいわゆる『プロテスト・フォークソング』のスタイルを捨てて,電気楽器を使うようになったときには,従来の支持者の多くから『ユダ』『商業主義に走った裏切り者』と悪し様に罵られました でも今では彼が電気楽器を使い出したことを批判するような人はほとんどいないはずです.彼の音楽を時系列的に聴いていけば,それがボブ・ディランという自己革新力を備えたクリエーターにとって,あくまで自然で必須な選択であったことが理解できるからです」
このように書いた 小説家としての村上春樹は,ボブ・ディランの歌をどのように評価しているのでしょうか? ”文学”としてノーベル文学賞に値すると捉えているのでしょうか? 彼がどのように思っているか興味のあるところです
これに関連して「文学賞について」の章の中で,彼は次のように書いています
「賞の価値は人それぞれによって違ってきます.そこには個人の立場があり,個人の事情があり,個人の考え方・生き方があります いっしょくたに扱い,論じることはできない.僕が文学賞について言いたいのも,それだけのことです.一律に論じることはできない.だから一律に論じてほしくもない」
村上春樹という人は,何か賞を取っても取らなくても,外野からいろいろと言われてきたので,ここでは開き直っているのかも知れません また,上の文章から推測するに,彼はボブ・ディランのノーベル文学賞受賞については「個人の立場があり,個人の事情があり,個人の考え方・生き方がある」ので,あえてコメントしようとは思わない,とでもコメントするのかも知れません