2012年3 月26日 (月曜日)
徹の義父佐吉は、その年の11月頃から、毎週土日、外に出掛けることが多くなった。
後で判明したのであるが、高崎競馬へ行っていたのである。
きっかけは、農協の同僚に、「競馬は面白いぞ、行ってみないか?」と誘われたのだ。
そして、ギナーズラックと言われているが、初めての競馬で12万円余の大金を手にした。
佐吉は競馬が初めてで予想のしようもない、遊び心から6月2日生まれなので、2-6の馬券を1000円買った。
2枠の馬と6枠の馬は全く人気なかった。
7枠と8枠の馬に人気が集中していた。
佐吉が勝った2-6の馬券を見せられて、同僚の高野進は、苦笑した。
「そんな馬券を買って、馬鹿だな。来るわけないよ。次のレースは俺の教えるとおりにかいな。2-6を買うなんて金を溝に捨てるようなもんだ」
佐吉は馬券が外れても、1000円を失うの過ぎないと思っていた。
だが、レースは波乱を呼んだ。
スタートと同時に、8枠の1番人気の馬に乗った騎手がゲート内で立ち上がったために馬から振り落とされたのだ。
競馬場内が騒然となった。
だが、8枠には3番人気の馬もいて、外から勢いよく先頭に立って走っていた。
2番人気と4番人気の7枠の馬も先頭集団の位置を走っていた。
佐吉は自分が買った2番の馬と6番の馬を見ていた。
全くの人気薄の馬であったが、比較的良い位置を走っていた。
競馬ファンの大半は、7-8か7-7で決まるだろうとレースを見守っていた。
だが、ゴールまえ10メートルくらいの位置で、人気馬が失速したのである。
ゴール板を人気薄であった6番と2番の馬が1、2着で駈け抜けた時、場内に大きなどよめきが起こった。
佐吉はスローモーションの場面を見ているような思いがした。
同僚の高野進は顔面が蒼白となって、正面スタンドの座席にへたり込んでいた。
本命に畑を売って工面した50万円を投じていたのだ。
場内放送は、配当金1万2570円を告げていた。
佐吉は1000円を投じて、12万5700円を手にした。
昭和35年のことであり、農協に勤務してる佐吉にとっては、それは大金であった。
同僚の高野進はその後、破滅の道を辿っていくが、佐吉も競馬にのめり込んでいった。
2012年3 月26日 (月曜日)
創作欄 徹の青春 26
徹の義父佐吉は、その年の11月頃から、毎週土日、外に出掛けることが多くなった。
後で判明したのであるが、高崎競馬へ行っていたのである。
きっかけは、農協の同僚に、「競馬は面白いぞ、行ってみないか?」と誘われたのだ。
そして、ギナーズラックと言われているが、初めての競馬で12万円余の大金を手にした。
佐吉は競馬が初めてで予想のしようもない、遊び心から6月2日生まれなので、2-6の馬券を1000円買った。
2枠の馬と6枠の馬は全く人気なかった。
7枠と8枠の馬に人気が集中していた。
佐吉が勝った2-6の馬券を見せられて、同僚の高野進は、苦笑した。
「そんな馬券を買って、馬鹿だな。来るわけないよ。次のレースは俺の教えるとおりにかいな。2-6を買うなんて金を溝に捨てるようなもんだ」
佐吉は馬券が外れても、1000円を失うの過ぎないと思っていた。
だが、レースは波乱を呼んだ。
スタートと同時に、8枠の1番人気の馬に乗った騎手がゲート内で立ち上がったために馬から振り落とされたのだ。
競馬場内が騒然となった。
だが、8枠には3番人気の馬もいて、外から勢いよく先頭に立って走っていた。
2番人気と4番人気の7枠の馬も先頭集団の位置を走っていた。
佐吉は自分が買った2番の馬と6番の馬を見ていた。
全くの人気薄の馬であったが、比較的良い位置を走っていた。
競馬ファンの大半は、7-8か7-7で決まるだろうとレースを見守っていた。
だが、ゴールまえ10メートルくらいの位置で、人気馬が失速したのである。
ゴール板を人気薄であった6番と2番の馬が1、2着で駈け抜けた時、場内に大きなどよめきが起こった。
佐吉はスローモーションの場面を見ているような思いがした。
同僚の高野進は顔面が蒼白となって、正面スタンドの座席にへたり込んでいた。
本命に畑を売って工面した50万円を投じていたのだ。
場内放送は、配当金1万2570円を告げていた。
佐吉は1000円を投じて、12万5700円を手にした。
昭和35年のことであり、農協に勤務してる佐吉にとっては、それは大金であった。
同僚の高野進はその後、破滅の道を辿っていくが、佐吉も競馬にのめり込んでいった。
投稿情報: 06:49 カテゴリー:
2012年3 月29日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 27
連続強姦事件の初公判は、前橋地方裁判所で3月第1週の火曜日の午後1時から始まった。
高校を中退していた徹は、母の江利子とともに裁判を傍聴した。
拘置所の係官に連行されて、手錠をはめられ腰縄姿の3人が入廷してきた。
徹は被告である3人の姿を凝視した。
先頭に居たのが勝海で、手錠を外されると長椅子の左端に係官に両脇を挟まれた形で座った。
頭は角刈りで中肉中背であり、24歳であったのに猫背であり気弱な感じで精気が感じられないようなタイプに映じた。
勝海を溺愛していた義母が農薬を飲んで自殺したことを、警察の取調べの中で聞かされて以来、それまでのふてぶてしい態度を一変させていた。
横顔をみて、徹は勝海がハンサムな男だと思った。
強姦などせずとも、女性に好かれたのではないか、などと徹は想いを巡らせた。
徹は報復してやりたいと憎しみを抱いていたのに、被告を目の前にすると複雑な感情となる。
戦争がなければ、勝海は別の人生を歩んでいたかもしれない。
戦死した勝海の父親は、東京府立1中の教師であった。
東京府立1中は、徹が生まれた年の1943年(昭和18年)からは都制施行により都立一中に改称し、その後は都立日比谷高校になった。
東大へ進学する生徒を数多く輩出した名門校である。
勝海の母は沼田高等女学校から東京女子大学に学んでいた。
公判の中で勝海の生い立ちを聞くにつけて、徹は不思議と人を憎む感情が薄らいでいった。
「親孝行をするんだ。お母さんを悲しませるようなことをしてはいけないよ。お母さんは人間ができた人だ。肝っ玉も座っている人だね。」
徹は高校の教師の言葉を思い浮かべていた。
「学校へ戻りなさい」と先日、街中で出会った時に言われていた。
母の江利子も背後から被告たちの姿を見つめていた。
最愛の娘を強姦され、母親としてどのような気持ちであったのだろうか?
徹は母の横顔を見つめた。
江利子は今回の事件を、宗教の立場から受け止めていた。
「世の中のすべては、因果から成っていており、宿命である。その宿命は祈りによって転換できるはずだ」と確信をしていた。
徹にはその宿命ということがほとんど理解しがたかった。
江利子は娘の君江に「事件に遭ったことは、あなたの宿命なの」と説き聞かせていた。
徹は、「宿命で片付けるとは、不条理ではないか」と反発した。
江利子は、「徹も何時か、分かる時が来る」と毅然としていた。
2012年3 月30日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 28
自分の欲望やエゴイズムは、生命に巣食うの魔の働き。
人を犠牲にしてまで、我欲を貪る。
「人のために、今、何ができるのか。それを考えよう」
宗教の根本思想を確信して、日々の社会生活のなかで実践している江利子はそのように諭されてきた。
信仰をしている人たちが、人のために尽くせるのは、日頃からの言動が基底にあるから。
「宗教のため」「人のため」「社会のため」という、宗教の根本理念を精神に刻み、実践しているからであり、自然の発露でもある。
裁判を傍聴した江利子は、徹に向かい自分の思いを伝えた。
前橋地方裁判所での初公判を徹は母と肩を並べて傍聴した。
帰り前橋駅から新前橋を経て上越線に乗り、列車は津久田駅、岩本駅へ向かう、その沼田駅までの車窓の風景は、母の言葉とともに徹の心に刻み付けられた。
「徹、お前も宗教をやろうね。君江は見違えるように変わったわ」
江利子は慈愛を込めて、徹に語りかけた。
「人を憎んでも、自分の心も傷つけることになるから、幸せにはなれない」
徹は憎悪した勝海と、法廷で眼前にした勝海との落差に戸惑った。
強姦容疑者は極悪人に違いはないが、徹の前に姿を見せた勝海はどこにでもいる普通の若者の容貌であった。
徹は自分の努力次第で人生を切り開いていけるので、“宗教はやる必要がない”と思っていたので母親の話を理解できなかった。
だが、17歳の徹にとって35歳の母親は肝っ玉が据わったは女性だと思った。
夫が浮気をしていても、「私は北風ではなく、太陽でいく」と覚悟を決めていた。
また、娘の君江を夫が溺愛していたので、君江が男たち3人に強姦されたことも硬く胸の内に収めていた。
夫が浮気をして新潟県の湯沢温泉に愛人と行っていた夜に、娘が強姦されたのだ。
同時に江利子自身は、川場村の実家にその日は帰省していた。
目的は兄嫁たちに信仰を勧めに行っていたのだ。
2012年4 月 1日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 30
徹は強姦事件の裁判の傍聴の帰りに、前橋の図書館で戦後に沖縄の女性たちが米兵によって強姦された事件の内容を克明に記したの本を偶然探して読んだ。
1945年米軍が沖縄に上陸後、強姦が多発していた。
1951年 5月の調査では、戦後6年間の強姦事件は278件。
実際はもっと多かったとされる。
それはまさに「沖縄戦後女性哀史」であった。
強姦され妊娠し、混血児を出産するケースも多かった。
また乱暴された後、自殺する娘も多かった。
母、娘とも同時に強姦されたケースもあった。
ある事件では、夜11時頃、那覇市内で芝居見物帰りの2人の女性が米兵にカービン銃で脅迫されて連れ去られ、一人の女性は6人の米兵に、またもう一人は8人の米兵に強姦される。
徹はその本を読んで沖縄に強い関心を抱いた。
昭和31(1956)年7月17日、経済企画庁がこの年の経済白書を報告した。
日本経済は、復興需要を通じ急速な成長をとげて戦争の傷跡は癒え、もはや“戦後”経済ではない、と宣言した有名な白書だ。
だが戦後は終わっていなかった。
沖縄の米兵による強姦事件は、治外法権であり日本に裁判権はなかった。
米兵が犯罪を起こしても米軍施設敷地内に逃げ込めば、施設内では憲兵隊及び軍犯罪捜査局が第一管轄権を持ち、日本の警察が関与することは出来なくなり、不当に軽い処分で済まされる疑いさえ生じていた。
徹は不条理を感じた。
5歳の女児も強姦され、殺されていた。
また米兵による強姦以外の射殺事件なども多発していたのだ。
数多くの米兵よる沖縄での犯罪は、学校の教科書にはまったく出ていない事実であり、前橋の図書館の本を読み進めるなかで徹は愕然とした。
徹は強姦された妹の君江と重ねて、沖縄の女性たちの哀愁を心に引き寄せた。
そして、テレビで見るアメリカの映画の世界との大きな落差に戸惑いを覚えた。
徹は本を読んで以来、拘り続けて沖縄は格別の存在となった。
それまで、新聞をまったく読まなかった17歳の徹にとって、世の中は知らないことばかりであった。
徹の義父佐吉は、その年の11月頃から、毎週土日、外に出掛けることが多くなった。
後で判明したのであるが、高崎競馬へ行っていたのである。
きっかけは、農協の同僚に、「競馬は面白いぞ、行ってみないか?」と誘われたのだ。
そして、ギナーズラックと言われているが、初めての競馬で12万円余の大金を手にした。
佐吉は競馬が初めてで予想のしようもない、遊び心から6月2日生まれなので、2-6の馬券を1000円買った。
2枠の馬と6枠の馬は全く人気なかった。
7枠と8枠の馬に人気が集中していた。
佐吉が勝った2-6の馬券を見せられて、同僚の高野進は、苦笑した。
「そんな馬券を買って、馬鹿だな。来るわけないよ。次のレースは俺の教えるとおりにかいな。2-6を買うなんて金を溝に捨てるようなもんだ」
佐吉は馬券が外れても、1000円を失うの過ぎないと思っていた。
だが、レースは波乱を呼んだ。
スタートと同時に、8枠の1番人気の馬に乗った騎手がゲート内で立ち上がったために馬から振り落とされたのだ。
競馬場内が騒然となった。
だが、8枠には3番人気の馬もいて、外から勢いよく先頭に立って走っていた。
2番人気と4番人気の7枠の馬も先頭集団の位置を走っていた。
佐吉は自分が買った2番の馬と6番の馬を見ていた。
全くの人気薄の馬であったが、比較的良い位置を走っていた。
競馬ファンの大半は、7-8か7-7で決まるだろうとレースを見守っていた。
だが、ゴールまえ10メートルくらいの位置で、人気馬が失速したのである。
ゴール板を人気薄であった6番と2番の馬が1、2着で駈け抜けた時、場内に大きなどよめきが起こった。
佐吉はスローモーションの場面を見ているような思いがした。
同僚の高野進は顔面が蒼白となって、正面スタンドの座席にへたり込んでいた。
本命に畑を売って工面した50万円を投じていたのだ。
場内放送は、配当金1万2570円を告げていた。
佐吉は1000円を投じて、12万5700円を手にした。
昭和35年のことであり、農協に勤務してる佐吉にとっては、それは大金であった。
同僚の高野進はその後、破滅の道を辿っていくが、佐吉も競馬にのめり込んでいった。
2012年3 月26日 (月曜日)
創作欄 徹の青春 26
徹の義父佐吉は、その年の11月頃から、毎週土日、外に出掛けることが多くなった。
後で判明したのであるが、高崎競馬へ行っていたのである。
きっかけは、農協の同僚に、「競馬は面白いぞ、行ってみないか?」と誘われたのだ。
そして、ギナーズラックと言われているが、初めての競馬で12万円余の大金を手にした。
佐吉は競馬が初めてで予想のしようもない、遊び心から6月2日生まれなので、2-6の馬券を1000円買った。
2枠の馬と6枠の馬は全く人気なかった。
7枠と8枠の馬に人気が集中していた。
佐吉が勝った2-6の馬券を見せられて、同僚の高野進は、苦笑した。
「そんな馬券を買って、馬鹿だな。来るわけないよ。次のレースは俺の教えるとおりにかいな。2-6を買うなんて金を溝に捨てるようなもんだ」
佐吉は馬券が外れても、1000円を失うの過ぎないと思っていた。
だが、レースは波乱を呼んだ。
スタートと同時に、8枠の1番人気の馬に乗った騎手がゲート内で立ち上がったために馬から振り落とされたのだ。
競馬場内が騒然となった。
だが、8枠には3番人気の馬もいて、外から勢いよく先頭に立って走っていた。
2番人気と4番人気の7枠の馬も先頭集団の位置を走っていた。
佐吉は自分が買った2番の馬と6番の馬を見ていた。
全くの人気薄の馬であったが、比較的良い位置を走っていた。
競馬ファンの大半は、7-8か7-7で決まるだろうとレースを見守っていた。
だが、ゴールまえ10メートルくらいの位置で、人気馬が失速したのである。
ゴール板を人気薄であった6番と2番の馬が1、2着で駈け抜けた時、場内に大きなどよめきが起こった。
佐吉はスローモーションの場面を見ているような思いがした。
同僚の高野進は顔面が蒼白となって、正面スタンドの座席にへたり込んでいた。
本命に畑を売って工面した50万円を投じていたのだ。
場内放送は、配当金1万2570円を告げていた。
佐吉は1000円を投じて、12万5700円を手にした。
昭和35年のことであり、農協に勤務してる佐吉にとっては、それは大金であった。
同僚の高野進はその後、破滅の道を辿っていくが、佐吉も競馬にのめり込んでいった。
投稿情報: 06:49 カテゴリー:
2012年3 月29日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 27
連続強姦事件の初公判は、前橋地方裁判所で3月第1週の火曜日の午後1時から始まった。
高校を中退していた徹は、母の江利子とともに裁判を傍聴した。
拘置所の係官に連行されて、手錠をはめられ腰縄姿の3人が入廷してきた。
徹は被告である3人の姿を凝視した。
先頭に居たのが勝海で、手錠を外されると長椅子の左端に係官に両脇を挟まれた形で座った。
頭は角刈りで中肉中背であり、24歳であったのに猫背であり気弱な感じで精気が感じられないようなタイプに映じた。
勝海を溺愛していた義母が農薬を飲んで自殺したことを、警察の取調べの中で聞かされて以来、それまでのふてぶてしい態度を一変させていた。
横顔をみて、徹は勝海がハンサムな男だと思った。
強姦などせずとも、女性に好かれたのではないか、などと徹は想いを巡らせた。
徹は報復してやりたいと憎しみを抱いていたのに、被告を目の前にすると複雑な感情となる。
戦争がなければ、勝海は別の人生を歩んでいたかもしれない。
戦死した勝海の父親は、東京府立1中の教師であった。
東京府立1中は、徹が生まれた年の1943年(昭和18年)からは都制施行により都立一中に改称し、その後は都立日比谷高校になった。
東大へ進学する生徒を数多く輩出した名門校である。
勝海の母は沼田高等女学校から東京女子大学に学んでいた。
公判の中で勝海の生い立ちを聞くにつけて、徹は不思議と人を憎む感情が薄らいでいった。
「親孝行をするんだ。お母さんを悲しませるようなことをしてはいけないよ。お母さんは人間ができた人だ。肝っ玉も座っている人だね。」
徹は高校の教師の言葉を思い浮かべていた。
「学校へ戻りなさい」と先日、街中で出会った時に言われていた。
母の江利子も背後から被告たちの姿を見つめていた。
最愛の娘を強姦され、母親としてどのような気持ちであったのだろうか?
徹は母の横顔を見つめた。
江利子は今回の事件を、宗教の立場から受け止めていた。
「世の中のすべては、因果から成っていており、宿命である。その宿命は祈りによって転換できるはずだ」と確信をしていた。
徹にはその宿命ということがほとんど理解しがたかった。
江利子は娘の君江に「事件に遭ったことは、あなたの宿命なの」と説き聞かせていた。
徹は、「宿命で片付けるとは、不条理ではないか」と反発した。
江利子は、「徹も何時か、分かる時が来る」と毅然としていた。
2012年3 月30日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 28
自分の欲望やエゴイズムは、生命に巣食うの魔の働き。
人を犠牲にしてまで、我欲を貪る。
「人のために、今、何ができるのか。それを考えよう」
宗教の根本思想を確信して、日々の社会生活のなかで実践している江利子はそのように諭されてきた。
信仰をしている人たちが、人のために尽くせるのは、日頃からの言動が基底にあるから。
「宗教のため」「人のため」「社会のため」という、宗教の根本理念を精神に刻み、実践しているからであり、自然の発露でもある。
裁判を傍聴した江利子は、徹に向かい自分の思いを伝えた。
前橋地方裁判所での初公判を徹は母と肩を並べて傍聴した。
帰り前橋駅から新前橋を経て上越線に乗り、列車は津久田駅、岩本駅へ向かう、その沼田駅までの車窓の風景は、母の言葉とともに徹の心に刻み付けられた。
「徹、お前も宗教をやろうね。君江は見違えるように変わったわ」
江利子は慈愛を込めて、徹に語りかけた。
「人を憎んでも、自分の心も傷つけることになるから、幸せにはなれない」
徹は憎悪した勝海と、法廷で眼前にした勝海との落差に戸惑った。
強姦容疑者は極悪人に違いはないが、徹の前に姿を見せた勝海はどこにでもいる普通の若者の容貌であった。
徹は自分の努力次第で人生を切り開いていけるので、“宗教はやる必要がない”と思っていたので母親の話を理解できなかった。
だが、17歳の徹にとって35歳の母親は肝っ玉が据わったは女性だと思った。
夫が浮気をしていても、「私は北風ではなく、太陽でいく」と覚悟を決めていた。
また、娘の君江を夫が溺愛していたので、君江が男たち3人に強姦されたことも硬く胸の内に収めていた。
夫が浮気をして新潟県の湯沢温泉に愛人と行っていた夜に、娘が強姦されたのだ。
同時に江利子自身は、川場村の実家にその日は帰省していた。
目的は兄嫁たちに信仰を勧めに行っていたのだ。
2012年4 月 1日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 30
徹は強姦事件の裁判の傍聴の帰りに、前橋の図書館で戦後に沖縄の女性たちが米兵によって強姦された事件の内容を克明に記したの本を偶然探して読んだ。
1945年米軍が沖縄に上陸後、強姦が多発していた。
1951年 5月の調査では、戦後6年間の強姦事件は278件。
実際はもっと多かったとされる。
それはまさに「沖縄戦後女性哀史」であった。
強姦され妊娠し、混血児を出産するケースも多かった。
また乱暴された後、自殺する娘も多かった。
母、娘とも同時に強姦されたケースもあった。
ある事件では、夜11時頃、那覇市内で芝居見物帰りの2人の女性が米兵にカービン銃で脅迫されて連れ去られ、一人の女性は6人の米兵に、またもう一人は8人の米兵に強姦される。
徹はその本を読んで沖縄に強い関心を抱いた。
昭和31(1956)年7月17日、経済企画庁がこの年の経済白書を報告した。
日本経済は、復興需要を通じ急速な成長をとげて戦争の傷跡は癒え、もはや“戦後”経済ではない、と宣言した有名な白書だ。
だが戦後は終わっていなかった。
沖縄の米兵による強姦事件は、治外法権であり日本に裁判権はなかった。
米兵が犯罪を起こしても米軍施設敷地内に逃げ込めば、施設内では憲兵隊及び軍犯罪捜査局が第一管轄権を持ち、日本の警察が関与することは出来なくなり、不当に軽い処分で済まされる疑いさえ生じていた。
徹は不条理を感じた。
5歳の女児も強姦され、殺されていた。
また米兵による強姦以外の射殺事件なども多発していたのだ。
数多くの米兵よる沖縄での犯罪は、学校の教科書にはまったく出ていない事実であり、前橋の図書館の本を読み進めるなかで徹は愕然とした。
徹は強姦された妹の君江と重ねて、沖縄の女性たちの哀愁を心に引き寄せた。
そして、テレビで見るアメリカの映画の世界との大きな落差に戸惑いを覚えた。
徹は本を読んで以来、拘り続けて沖縄は格別の存在となった。
それまで、新聞をまったく読まなかった17歳の徹にとって、世の中は知らないことばかりであった。