毎日が怖い、自分が嫌い…
菜保子さんの自殺後、11月16日に両親がみつけた日記は次のようなものだった。
報道では、日記の内容がわずかしか紹介されていなかったので、テレビ(TBS「News23」(2017年5月29日放映)、NHK「クローズアップ現代」(2017年7月18日放映)など)の録画画面に映った日記から筆者がメモしたものを大幅に加えた。
「もうやだ…あんなに学校が楽しいって思ってたのに…たのしくない
気づかってばっかで自分がだせない。自分の性格もきらい。いやだ…
…がいなかったら、自殺してた。ありがとう。あと、ごめんね。本当に…なんか変わっちゃった。どうしたの?自分は何もしてないのに
ひどい…。傷つく。ストレスがたまる。
気分屋がきらいって…言ってたけど…
おまえもだよ なんにも自覚してない
…には、めいわくかけてると思う
あまり うちといてもたのしくは…
ホッとしたい。
明日は、ぼっちにされるのかな?
それとも上手くすごせるかな?
不安。
…大丈夫。大丈夫って、自分に言いきかせても、目に涙があふれてくる
それを自分でごまかそうとしている。
いや…ごまかしている。
目は涙目だけど。
おねがい
…これ以上苦しめないで。
…苦しい、悲しい、さびしい」
「いやだ もう 学校きらい…3年のある日突然から。2年は、こんなことなかった」
「ピアノも 勉強も 友達も なにもかもが上手くいかない。だから死にたい」
「いじめられたくない。ぼっちはいやだ」
「(他の女子生徒の名前)お願いだから、耳打ちは、やめて おねがい。本当に」
「毎日が怖い。今日はうまくいくのかいかないのか。家に帰ってからも、そのことばかり考えて、疲れた。明日も(ひとり)ぼっち?それとも上手くいくのかなって…怖くてしかたがない。毎日、不安な夜を過ごしてる。疲れがピーク」
「友達が居なくなるのが怖い、本当にこわい」
「おねがい…私を一人にしないで。おねがいだから。今日みたいな日が毎日だったらどれだけ楽しいか。(複数の女子生徒の名前)…」
「…にもんくばっか言ってる。自分が嫌い。死にたいくらい」
報道を読むかぎりでは、加害者たちが行った一連の行動は、一回かぎりと考えれば、それほど大きなダメージを与えるようなものではないはずだ。
では、なぜ加害者が怪物になり、被害者は死ななければいけなかったのか。
人格を壊して遊ぶ…
「いやだ もう 学校きらい…3年のある日突然から。2年は、こんなことなかった」
「ピアノも 勉強も 友達も なにもかもが上手くいかない。だから死にたい」
「いじめられたくない。ぼっちはいやだ」
「(他の女子生徒の名前)お願いだから、耳打ちは、やめて おねがい。本当に」
「毎日が怖い。今日はうまくいくのかいかないのか。家に帰ってからも、そのことばかり考えて、疲れた。明日も(ひとり)ぼっち?それとも上手くいくのかなって…怖くてしかたがない。毎日、不安な夜を過ごしてる。疲れがピーク」
「友達が居なくなるのが怖い、本当にこわい」
「おねがい…私を一人にしないで。おねがいだから。今日みたいな日が毎日だったらどれだけ楽しいか。(複数の女子生徒の名前)…」
「…にもんくばっか言ってる。自分が嫌い。死にたいくらい」
報道を読むかぎりでは、加害者たちが行った一連の行動は、一回かぎりと考えれば、それほど大きなダメージを与えるようなものではないはずだ。
では、なぜ加害者が怪物になり、被害者は死ななければいけなかったのか。
人格を壊して遊ぶ…
多くの人が見逃しがちな盲点
加害者が「怪物になる」しくみについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)で論じつくした。これは学術書『いじめの社会理論』(柏書房)をわかりやすく新書化したものだ。TEDxスピーチでも要点を説明した。
筆者による最先端の理論は、「学校の秩序分析から社会の原理論へ――暴力の進化理論・いじめというモデル現象・理論的ブレークスルー」『岩波講座 現代 第8巻』第9章(岩波書店)で提出した。いじめ加害者については、これ以上書くことはない。
だが、被害者については、いくつか世に問わなければならないことがある。
菜保子さんのように、もっぱらコミュニケーション操作系のいじめ(物理的暴力ではなく、もっぱら言葉やしぐさによるいじめ)によって大きなダメージを受けた被害者について、多くの人が見逃しがちな盲点がある。
なぜ、敵であり、赤の他人である加害者グループに服従し、連れまわされ、<友だち家畜>のような状態にされてしまうのか。
ひどい暴力的な処遇が人間を無力化してしまうことは、よく知られている。
たとえば、殺されていく数千人のユダヤ人の列を監視するナチスの人員がほんの数人なのに、なぜ逃げずに従順に従うのだろうか。
東京都足立区で、女子校生が不良少年のグループに監禁され、輪姦され、なぶり殺された。遺体はコンクリート詰めにされて捨てられた。
有名な女子校生コンクリート詰め殺人事件で話題になったのは、逃げるチャンスがいくらでもあったのに、どうして女子校生は逃げようとしなかったのか、ということだ。マフィアやゲリラに誘拐されたり、捕虜になったりした人たちも、よく似た状態になる。
心理学者のフィリップ・ジンバルドーは大学の地下に模擬監獄をつくり、十数人ずつの健康な若者を、看守役と囚人役にわけて共同生活をさせた。すると、看守役は囚人役をいたぶって遊ぶ怪物になり、囚人役は精神に変調を起こし、無力化されてしまった(TEDトークを参照)。
このようなことは、もっぱら激しい暴力的圧迫のもとで生じ、通常の非暴力的な生活レベルでは生じるはずがない、と思われるかもしれない。
しかし、上で紹介した記事と菜保子さんの日記、そして多くのいじめ被害の記録をあわせ読むと、閉鎖空間に閉じこめ強制的にベタベタさせる学校では、悪口、しかと、嘲笑といったコミュニケーション操作系のいじめだけで、ナチ収容所、女子校生コンクリート詰め殺人、ゲリラやマフィアによる拉致誘拐、ジンバルドーの監獄実験と同形の、人間破壊が多かれ少なかれ生じうることがわかる。
この「多かれ」の局面で、さまざまな偶然がかさなり、菜保子さんのように死に追い詰められる犠牲者が一定数でてくる。
私たち、日本の中学校で3年間の集団生活をさせられた者は、多かれ少なかれ、菜保子さんと同じ形の、人間破壊を受けているのではないか。
わたしたちがまわりの空気を気にして、何か自分が滅ぼされてしまうような不安をおぼえるとき、その後遺症が出ているのではないか。
わたしたちは菜保子さんを「かわいそう」と言う前に、過度に集団化された学校生活のなかに埋められた過去の自分を抱きしめるべきではないだろうか。
そして痛みとともに、頭に埋められた洗脳チップを引き抜くべきではないだろうか。
私たちは、たまたま生き延びることができた菜保子さんではないだろうか。
義務教育による集団洗脳
学校という閉鎖空間の有害作用
「なんでこんなことぐらいで」「この子は弱いのではないか」と言う人には、この図を頭に叩き込んでもらいたい。
いじめによる苦痛の大きさと生活空間が閉鎖的である度合いの関係
同じことをされても、広い生活圏で自由な市民として生きているほど苦痛は小さく(図のA)、狭い世界で絶えず周囲に運命を左右されて生きているほど苦痛が大きい(図のB)。
特に小学校高学年から中学校では、それが極端なまでになりうる。裁判官やジャーナリストや研究者は、大人の平均以上に自由で広い世界を生きている。
自分が同じことをされたとしても「どうということはない」という図のA地点の感覚で、極端に狭い世界で自由を剥奪されて生きている中学生(図のB地点)を評価しないでほしい。特に裁判官は、閉鎖空間の有害作用を考慮に入れて「自己過失割合」を計算するよう注意してほしい。
自由な市民であるあなたが自殺する場合と、きわめて有害な閉鎖空間で<友だち家畜>にされてしまった中学生が自殺する場合では、まったく事情が違うのだ。
ところでこの有害な閉鎖空間は、国や地方公共団体が制度的に設定し、強制したものだ。それならば、国や地方公共団体には、閉鎖空間による有害作用によって人を害した責任があるのではないだろうか。
たとえば公営プールの設計ミスによって排水溝付近に渦巻きが発生し、それによって溺死者が続出した場合、公共団体にはその設計ミスの責任がある。訴訟になれば損害賠償の義務が生じる。
また、すぐにプールを閉鎖し、プールを設計しなおし、安全を確認したのちに、はじめて再開することができる。危険なまま有害プールを市民に提供してはならない。
これと同じことが、学校という閉鎖空間の有害作用についても言える。
筆者はここで、国や地方公共団体による「閉鎖空間設定責任」という概念を提出する。
法律関係者には、いじめ関連裁判のための、閉鎖空間設定責任の法理を磨き上げることをお願いしたい。この責任概念が法曹関係で効いてくると、日本の学校が改善され、子どもたちの苦しみを減らすことができるかもしれない。
戦争中の全体主義を超えた瞬間
最後に、日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることを指摘したい。このことについて、『教育新聞』(2017年5月22日)に書いたことをもういちど繰りかえす。
昭和初期から敗戦までの日本は、天皇を最高尊厳とし、天皇を中心とする高次の集合的生命である「国体」を最高価値とする、現在の北朝鮮とよく似た全体主義社会であった。
一人ひとりが「日本人らしく」天皇の赤子になり続ける「くにがら」を守ること(国体護持)がなによりも重視された。一人ひとりの命は鴻毛(羽毛)のように軽い。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、人として生まれた最高の栄誉であり、華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。親はそれを光栄ですと喜び祝うことが強制された。
「国体」については、「世界が警戒する日本の『極右化』〜私たちはいま、重大な岐路にいる」で詳しく書いたので、そちらを参照されたい。
戦時中の「国体」の「日本人らしく」を、戦後の集団主義学校の「生徒らしく」に、「くにがら」を「学校らしさ」に置き換えれば、戦争中の日本と学校は同じ全体主義の形をしていることがわかる。
学校の全体主義(中間集団全体主義)について知りたい方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を参照されたい。
最後に、学校の全体主義が、戦争中の大日本帝国の全体主義を超えた瞬間を記録した動画があるのでご覧いただきたい。
中学校運動会の巨大組体操の崩落事故で、親たちは盛大に拍手している。事故のありさまを見れば、障害が残るけがをしても、あるいは死者が出てもおかしくない。
赤子のころから大事に育てた、なによりも愛しい子どものはずである。交通事故なら、すぐに駆け寄り、わが子を探して、生きているか、けがをしていないか確認し、無事であれば泣いて喜ぶような事態である。
だが、学校の集合的生命が生き生きと躍動する運動会で、親たちは、子どもが集団的身体として散華する姿に拍手している。戦争中の日本ですら、親は強制されて喜ぶふりをさせられていただけで、このような自発的な拍手はありえない。
「共に生き」るはずの「ともだち」は、うずくまっている他人を無視して、軍隊まがいの整列で、「ぴしっ」と兵隊のまねごとをしている。
義務教育によってこのような集団洗脳をすることによって、他の先進諸国であればナチスまがいの発言をしたとして絶対に国会議員になれないような人物に、何も感じずに投票する大衆が生み出される。
また、ブラック企業と呼ばれる職場を、あたりまえに感じる大衆が生み出される。学校教育のおかげで、市民は育たない。自由も民主主義も社会に根づかない。
学校は、習慣化された感情反応に包み込んで「国体」を護持し、国を再全体主義化するための、貴重なインフラストラクチャーになっている。その成果が実り、今、全体主義勢力が社会を飲み込もうとしている。