【村上義弘の生き方】
アクシデントは悔いても仕方がない 自分がその時に出来るベストを考える
2022/04/14 (木) 18:00 netkeirin
2021年度終了時点で総出走回数2207回、通算652勝、KEIRINグランプリ2勝、GI6勝を含め、優勝91回…。もともと体格的に恵まれたわけでも、周囲から期待されていたわけでもない自分が、これだけの成績を残せたのは、誰よりも競輪に向き合い、誰よりも練習してきたからだ思う。
昔も今も、趣味らしい趣味を持ったことはなく、四六時中、競輪のことばかり考えている。
もちろん図抜けた才能があれば、そこまで真剣に取り組まなくても、勝ち星を重ね、ビッグタイトルを獲得することができるかもしれない。
実際、1993年に入学した競輪学校では、自転車競技の経験がない同期の多くが、高校時代に全国大会で優勝した自分よりもはるかに速く走っていたため、「世の中には素質に恵まれた人間がこんなにいるのか…」と思い知らされたものだ。
しかし、彼らに対してコンプレックスを抱くことはなかった。
幸い競輪は、スピードやダッシュ力、持久力など、さまざまな要素が必要であり、どれか1つが優れていれば必ず勝てるというわけではない。
確かに才能は大切だが、自分のような選手でも、それらの要素を総合的に高めていけば、彼らと対等に戦い、いずれ追い抜くことができるのではないか。
だから、そのためのプランをしっかりと立てたうえで、常に競輪のことだけを考え、地道に練習を積み重ねていくしかない。
デビュー前から影響を受けた滝澤さんの存在
そう思えたのは、日本一の競輪選手を目指して、たった一人で自転車に乗り始めた中学2年生の頃から、「たくさん練習すれば勝てる」という意識を強く持っていたからだ。
それは、当時憧れていた滝澤正光さん(43期・現日本競輪選手養成所所長)が、1日200kmの乗り込みなど、ものすごい練習量をこなしたからこそ、あれほど偉大な選手になったということを知ったのがきっかけだった。
デビュー前から憧れの存在だった滝澤正光さん。フレームの色は滝澤さんと同じ色を使っている(撮影:村越希世子)
高校時代に日本一になれたのも練習を積み重ねた結果という手応えがあっただけに、競輪学校の同期にコンプレックスを抱いている暇があったら、とにかく練習した方がいい。
もし負けたら、もっと練習すればいい。今もなお、練習以外に勝つための方法はないという考えは変わっていない。
何より辛いのは計画通りに運ばないこと
競輪選手は落車などのアクシデントが付き物なので、怪我をすることも多い。
そのため、時にはレースに対する恐怖心を抱くこともあるかというと、自分の場合はほとんどない。
基本的に前向きなことしか考えないタイプなので、避けようにも避けられないことをいちいち気にしたりはしない。もし大怪我に見舞われたら、そこから復帰までの練習やリハビリのプランを新たに立て、それに沿って実践していけばいいだけの話だ。
手術後は僅かな感覚にズレを感じて苦しんだ(撮影:桂伸也)
プランといえば、実は2年ほど前、葛藤に苦しんだことがある。
自分にとって、アクシデントよりも辛いことはプラン通りに進んでいかないことだ。
主な要因は加齢による体力の低下なのだが、そのときは腹膜炎を発症したことが大きく影響していた。
2020年1月に腹膜炎の手術をし、約1か月半後にはレースに復帰したものの、想定していたプランとは程遠かった。手術の影響なのか、それ以前にくらべると、心身ともに感覚がズレ、なかなか自分の思うように走ることができなくなってしまった。
そんなときである。「こんな状態で選手を続けていいのか?」という感情と「いや、このまま終われるか!」という感情の葛藤が生まれたのは…。
さすがに、このときばかりは前向きに捉えることができず、ストレスが溜まる一方だった。
そうした日々を過ごしていた自分を救ってくれた、あるファンの方のこんな言葉がある。
「村上君は走ってくれているだけでいい」
その方も体調があまり良くなかったのだが、それを聞いたときに痛感したのだ。「たとえいい結果を残せなくても、もし自分の走りが少しでも誰かの力になるのなら、もっとできることがあるんじゃないか」と。
そして、そうした人たちに喜んでもらうことは、自分にとっても力になるし、大きな支えにもなるのは間違いない。その言葉のおかげで、つくづく競輪の世界で長年生きてきてよかったと実感することができた。だからこそ、まだまだ現役の競輪選手として戦い続けなければいけないと考えている。
最終回となる次回も引き続き、「村上義弘という生き方」をテーマにして話を進めていくつもりだ。
(取材・構成:渡邉和彦)
プロとして大切にしている軸と尊敬する2人の先輩
前回は「村上義弘という生き方」をテーマに、競輪選手として、そして人として、どのように考え、どのように生きてきたのかということについて触れた。最終回となる今回も引き続き、自分のさまざまな思いや経験などを綴ってみたい。
28年を超える競輪人生を振り返ると、これまで数え切れないほどの素晴らしい出会いがあった。もちろんそれらに優劣をつけることなどできないものの、花園高校自転車競技部の3年生のときに15歳上の松本整さん(45期)と出会い、同じ京都に所属する競輪選手として交流を持てたことは幸運としか言いようがない。
自分のやるべきことはすべて自分で決めたかったので、競輪界に正式な師匠を持ったことはないが、すぐそばにいる松本さんのことは、いつも“心の師匠”としてお手本にしていた。有益なアドバイスをもらうことも多く、中でも「最も重要なのは、24時間、競輪のことを考え、レースでは、車券を握りしめて応援してくれるファンのことをどれだけ大切に思えるかどうか」という言葉は、プロフェッショナルとして生きていくうえで揺るぎない軸になっている。
松本さんは、2004年に45歳で現役を引退するまでトップ選手であり続け、同年に達成したGI最年長優勝記録はいまだに破られていない。まさに、40代でも競輪界の第一線で活躍できるという道を切り拓いた人であり、たえず間近で見てきたからこそ、「40歳を超えてからは、あんなトレーニングをしていたな。レースではこんなふうに戦っていたな」というように、当時の松本さんの姿を思い出し、参考にすることもできる。それが、47歳になった今もなお、自分が何とか頑張ることができる要因にもなっている。
業界は違うが、プロフェッショナルという点で、松本さんと共通しているのが騎手の武豊さんだ。豊さんもまた、競馬やファン、競馬界全体のことを考え続けるだけではなく、実際に新しい道を切り拓き、日本の競馬の発展に貢献してきた第一人者なので、心から尊敬している。
そのことを強く感じるようになったのは20年くらい前。豊さんと朝まで一緒に飲む機会があったのだが、話してくれた内容のほとんどが競馬のことだった。すでに国民的スターだったのにも関わらず、決して驕ることなく、競馬界の現状や未来などについて広い視野で見続けている姿を目の当たりにし、ホッとしたことを覚えている。
というのも、当時の自分は、周囲から「競輪のことばかり考えすぎだ」と言われることが多かったからだ。しかし、「松本さんもそうだけど、やはりトップにいる人たちはずっと考えているんだな。絶対に誰かに任せない」と理解した瞬間、「じゃあ、俺もこのままでいよう」と思えることができたのである。
ファンを、仲間を、人を裏切らない
そのうえで、長い間大事にしてきたことを挙げるとしたら、人を裏切らないということだ。日常生活ではもちろん、競輪選手としても、近畿の仲間や関係者、そしてファンを裏切ってはいけないと思っている。そうすれば信頼してもらえるようになるし、信頼されればされるほど、ますます裏切りたくなくなる。
思えば、仲間にはずいぶん恵まれてきた。今の近畿も、みな信頼できる選手ばかりだし、おそらく自分のことも信頼してくれているのではないだろうか。まあ、口が悪いので、「あのオッサン、うっとおしいな」と思われているかもしれないが、それでも「あのオッサンがいてくれる」と受け入れてもらえているとしたら、裏切りたくないという気持ちを抱き続けてきたからに違いない。
口が悪いのでうっとおしいと思われているかも(苦笑)(撮影:桂伸也)
レースで仲間を裏切らないということはつまり、常に、ラインで任されたポジションでベストを尽くすということだ。それはビッグレースであろうとなかろうと変わらない。自分としては、毎回、「これが最後のレースになるかもしれない」という緊張感を持って臨んでいる。レースでの緊張感は、どれだけ経験を積んでも、必ず自分の中に生まれてくるものだ。ただ、もしも完全にリラックスすることを意識するあまり、集中力の欠如や油断につながるぐらいなら、まだ緊張していた方がいいと思う。
その際、緊張しすぎてもよくないし、あまり緊張しないのもよくない。20代前半までは、そのバランスをうまく取れなかったことも災いし、なかなか結果を残すことができず、特に注目されることのない普通のS1選手に過ぎなかった。
それでも、競輪選手として日本で一番練習していると自負していたし、自分にとって最も適した緊張状態をキープできるようになれば、心身すべてが噛み合い、大爆発するという予感もあった。
それを現実のものにしたレースが2000年のふるさとダービー。25歳のときに初めて特別競輪で優勝したことを境に、それまでが嘘のように勝ち星を重ね、半年後には、マスコミやファンから「先行日本一」と呼ばれるまでになった。競輪選手は、タイトルを獲ることによって自信や責任感が生まれ、さらなる成長を遂げることができる。
たとえば近畿の古性優作(100期・大阪)も、昨年のKERINグランプリで初出場・初制覇を達成してから、レースを見ていても、全身から滲み出る闘志やオーラが増し、それまで以上に頼もしさを感じられるようになった。
自分も過去にKERINグランプリ2勝、GI6勝を記録しているが、競輪界においてステイタスが最も高いGIである日本選手権競輪で4度の優勝を果たせたことは、選手としても人としても、大きな成長につながったことは間違いないだろう。
大目標の日本選手権競輪、脇本や古性と組んだ時に動けるように
そんな日本選手権競輪が、今年も5月3日から8日までの6日間、いわき平競輪場で開催される。昨年11月の競輪祭で落車してからというもの、体調面が優れず、あちこちに痛みを抱えながら、ギリギリの調整を続けてきているが、それでも、コンディションは確実に上向いているし、日本選手権競輪に照準を合わせ、心身ともピークに持っていくことは毎年自らに課しているノルマ。競輪界を牽引する脇本雄太(94期・福井)や成長著しい古性など、近畿の選手たちとラインを組んだとき、任されたポジションで力を十分に発揮できるように、しっかりと身体を作ってきたつもりだ。
先週行われた武雄記念では準決勝1着で決勝進出を決めた(橙・7番)(撮影:島尻譲)
そして、競輪選手である以上、日本選手権競輪にとどまらず、再びタイトル戦線に戻って活躍すること。それが、自分にとっての今後の目標だ。決して不可能なことではないはずだし、少しでもチャンスがある限り、いつまでも「魂の走り」で勝負していきたいと考えている。
というわけで、この連載コラムは終了するが、毎回、自分の過去を振り返る機会を得たおかげで、競輪に対する新たなモチベーションになることもあったし、自分がいろいろな人たちに支えられてきたということを再確認することもできた。もちろん、数多くのユーザーのみなさんに読んでいただき、好評を得られたことも、競輪選手として大きな励みになっただけに、感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。
これからもファンのため仲間のために力を尽くして走りたい(撮影:桂伸也)
(取材・構成:渡邉和彦)