映画 FALL・フォール

2024年09月30日 16時45分19秒 | 社会・文化・政治・経済

9月29日午後11時からCSテレビのムービープラスで観た。

高度恐怖の立場の身の人には、恐怖ばかり覚えてドラマの展開であった。

映像は、狭い地上600メールの棟の最上部の足場に取り残された女性二人の死の恐怖が迫る中で展開される迫真性に満ちていたドラマであった。

 

画像1
 
画像3
 
画像4
 
画像5
 
画像6
 
突然、上ってきた足場が腐敗していて崩れてしまうのだ。
死と隣り合あわの恐怖の始まりとなる。
 
画像7
 
画像8
 
画像11
 
 
あらすじ

山でのフリークライミングの最中に夫・ダンを落下事故で亡くしたベッキーは、悲しみから抜け出せず1年が経とうとしていた。

ある日、ベッキーを立ち直らせようと親友のハンターが新たにクライミングの計画を立てる。

今は使われていない地上600mのモンスター級のテレビ塔をターゲットとして選んだ彼女たちは、老朽化で足場が不安定になった梯子を登り続け、なんとか頂上へと到達することに成功するのだが…。

出演者

グレイス・カリーベッキー

バージニア・ガードナーハンター

ジェフリー・ディーン・モーガンジェームズ

メイソン・グッディングダン

ジュリア・ペイス・ミッチェル

ジャスパー・コール

 

鑑賞前、多少舐めた気持ちでいた自分が恥ずかしい。シンプルな状況や構造を極めるとそれは一つの発明にもなるし、芸術になる。そのことを強く印象付けてくれた作品だ。物語は単純明快。トラウマを持つ女性が、親友と共に荒野に建つテレビ塔に昇る。

そして世の中と隔絶された頂上にて孤立無援に陥り、壮絶なサバイバルが幕を開けるーーー。映画というものは誕生以来、様々な「絶体絶命」の型を生み出してきたが、海でも山でも宇宙でも戦時下でも殺人鬼との対峙でもなく、こんなカリン塔を思わせる細長い棒が天空へと突き出した尖端で、きちんと丁寧なドラマとサスペンスが展開していくのだから大したものだ。

ぱっと見、低予算をCG描写で埋め合わせたかのような状況設定でありながら、その実、直径1mほどの円形空間は、崇高な演劇舞台にも匹敵する。後半に訪れるちょっとした構成上のひねりも巧い。こういう映画に出会うと「やられた!」という気持ちになる。

 

まず、限られた空間の中でこれだけ面白い作品を作り上げたことがすごい!

人間模様だっなり、ところどころの発言が伏線になっていたりなど、細かな工夫もあって、飽きずに最後まで見られました!

ただ、一つ大きな欠点が、せっかく高所の設定なのにそのハラハラを感じられる場面が少なかったことです。序盤こそあったものの、後半になるに連れて、高所特有の恐怖は無くなり、その点は物足りなかったです。

 

クライマーがエッフェル塔よりも高い地上600メートルの電波塔に登り降りられなくという単純なストーリー。
単純だからこそどうやって降りるの?という先の見えない感じと落ちたら即死の恐怖が観ていてハラハラしました。

ラストはゾッとしたけどまさに適者生存だな、、と少し感心した。

 

愛する夫の遺灰を?そこから?うーん。

『地上600m』という久しぶりにガッチリとハートを掴まれるインパクトあるキャッチコピー。ちなみに高さは東京スカイツリーくらい?どんだけ高い所をハシゴだけで登ったんだ。


鑑賞者のほとんどは感情移入しにくい動機。もう少し入り口が広いと良かったが、まぁ普通の神経で登ろうとは到底思えないので致し方無いか。

塔の頂上という決まりきった構図、限られたカメラワークの中で、思いの外に中弛みさせずの脚本は素晴らしい。
設定段階でのツッコミどころは多々あるが、要所要所で伏線回収もしっかり行い、色々なアイデアが存分に盛り込まれており飽きさせない。
塔の上で、友人、夫婦、親子の様々な人間の愛が見え隠れする、ヒューマンサスペンスな側面も。個人的にはここで少し引いてしまった。難しい。。。

ラストは全く読めず、、、クライマックスの判断は衝撃だった。ベッキー父の、娘へ

 
 
ロッククライミング中に転落して彼氏を亡くした女性とその友人の女性の物語。彼氏を無くして1年間引きこもっていたが、友人に、思い切って弔おうと誘われて600メートルの塔の頂上を目指すことを決意する。怖がりながらも何とか頂上にたどり着いて、亡くなった彼氏を弔う事ができ、スッキリして地上に戻ろうとハシゴに足をかけた瞬間、ハシゴが崩れてしまった。取り残された2人はどのよううに生き残ることができるのかという物語であった。ハラハラなカメラ使いと展開がとても面白かった。
 
 
いかにも欧米人的価値観を全面に出した作品
思い描いた通りのストーリー展開
加えて、決して曲げようとしない価値観
日本の場合、必ずあるのが「教訓」
それがないのが欧米人的価値観
それでも「絶対正しい」という概念
少し話はズレるが、
昨今日本で問題となっている外国人コミュニティ
ほぼすべての外国人が自国の概念を持ち込み、その習慣に妥協せず、日本人の習慣やルールに妥協を求めている。
例えばイスラム圏民族の埋葬
彼らは宗教上決して火葬しない。
土葬は日本で禁じられいるが、足利市などの数か所ですでに土葬が始まっている事実がある。マスコミは決して伝えない。
他人には妥協を求め、自分は決して妥協しない。
この精神はある意味立派だが、この作品全体が見せているものこそ、このような概念に思えてならない。
ベッキーは最後救助され

民衆の声を背景に<下からの改革>のうねりを高めていく

2024年09月30日 13時54分47秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼ただ一つ疑いのない幸福は人の為に生きること―トルストイ

地域に善のスクラムを拡大する。

▼信心とは、まず祈ることから始まる。その中で智慧が生まれ、確信が深まり、人生を開いていける。

▼国連の「未来サミット」が9月22、23日、ニューヨークの国連本部で行われた。

採択されたのは「未来のための協定」である。

コロナ禍で迎えた、2020年9月の国連総会。

パンデミックをはじめとする世界的脅威に立ち向かうには、あらゆる国の人々が協力する「多国主義」が欠かせない。

その重要性が今回のサミットの焦点となった。

今年3月に開催された「未来アクションフェス」には約7万人の若者が東京・国立競技場に集った。

共同声明が発表された。

「気候危機の打開」「核兵器なき世界の実現」「意思決定プロセスへの若者の参画」「国連改革」という4つの柱kらなる声明は、その後、政府機関や未来サミットの準備会議に届けられた。

▼国連を支援する民衆の声を背景とした、<下からの改革>のうねりを高めていくことが、どうしても不可欠である。

「未来のための協定」の履行には、市民社会の後押しが必要だ。

青年を中心に「誰も置き去りにしない」とのSDGsの理念と行動が期待されている。

 


難は乗り越えられるものだ

2024年09月30日 13時09分31秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼「瞬間」には、「過去」も「未来」も含まれる。

▼「師子でるならば、千尋の谷から這い上がれ」

定まらない弱い一念では、宿命を転換することはできない。

言葉はなくとも、一念を変革する無限の広がりを持つ励ましを贈る。

宿命とは、宿命と運命はどちらも自分の意志に関わらずやってくる避けて通れないものという意味である。

だが、それは生きる使命を深く自覚することで、宿命は良い方向へ転換できるのである。

▼師匠と「同じ請願」「同じ理想」「同じ行動」を貫けば師を同じ境涯に達することができる。

境涯とは、生きていく上で、人がおかれている立場。境遇。

▼難は乗り越えられるものだ。

自分自身の強い一念が、一切の人生の戦いの基本でる。

▼多様な生命は地球に突如発生したわけではなく、共通の先祖から進化した結果である―ダーウィンの「種の起源」で提唱したのは165年前のことだ。

その主張は<神によって創造された>とする当時の生命観を一変させた。

 

 


創作 人生の相性 おわり

2024年09月30日 12時17分30秒 | 創作欄

「あなたのナナ、わたしはナナのまま死にます。永遠に愛するみどりのベッドで、天国で会いましょう。きっとよ。いいわね」みどりのテールの卓上の便箋に記したナナの遺書であった。

その日、みどりは12時過ぎまで銀座のクラブ「愛園」で働いていたが、客の一人に誘われ外泊していた。

その客は40台の女の飲食店経営者であり、みどりをお気に入りであり、女同士の愛を迫っていて、みどりは相手の誘いを断りきれなかったのである。

ナナは大量の睡眠薬を飲み、それが致命的な原因で絶命にいたる。

腕には剃刀による躊躇い傷も残されていたそうだ。

司法解剖で妊娠7か月であることが判明した。

さぞかし、みどりは大きな衝撃を受けたであろう。

足立は、ナナの死をみどりからの電話で知らされる。

「みどりです、足立さんに、大きな悲しみをお伝えします。ナナさんが私の部屋で亡くなりました。わたしは大丈夫です。ナナさんの分も生きていきます。さよなら」悲哀を秘めた声であった。

電話はそれきりで切れてしまう。

足立は受話器を握りしめて茫然自失する。

ナナは自ら死を選んだのであるが「何故なんだ!ナナには、死ぬ必然性があったのか?」「人はなぜ、自ら死を選ぶのか?」足立幸雄は自らに問い続けた。

実は、足立の妹の晶子は17歳の若さで自ら死を絶っていた。

当時、大学生2年生であった足立は、両親の深い悲しみをいつまでも見守っていたのである。

人生には出会いがあり、そこに相性も生まれ、そして別れもあることが実に侘しくもあり、腹立ちでもあった。

結局、足立は競馬にはまり、40歳まで独身を貫くこととなる。

 

 

 


創作 人生の相性 19)

2024年09月30日 11時52分39秒 | その気になる言葉

「わたし、みどりです。ナナさんがしきりに足立さんに会いたがっています。電話をしてやってください。要件はそれだけです」電話でそれで切れた。
「なんだろう?!」足立幸雄が胸騒ぎがした。
みどりの声は足立が好む、ソフトで甘い声として余韻を残した。

その日もナナは、帝国ホテルの帝国ホテルのロビーラウンジで足立を待っていた。
彼女は和服姿では、長いスカートの淡いピンクのスーツ姿であった。
「あら、約束どおりに来てくれたのね」席に座った足立の手をナナが握る。
「彼女できたの?」
「いいえ」
「ダメね。あなたは・・・」彼女はブランド品のイタリア製バックからタバコのピースを取り出す」
「ナナさん、何時からタバコを」
「変でしょ。タバコは1年前から吸っているわ」足立はタバコは吸わないがピースの香りを好んでいた。
今は亡き、親友の水野晃の嗜好タバコだったのだ。
「眠れずに、睡眠薬も。あなたを思い出すのね。私の結婚は失敗したの。夫とは相性が合わないの。それであなたの名前も呼ぶことも。夫とのセックスの中で、愚かな女なのね」
「夫は突然、私の裸の体から離れ、<幸雄とは誰だ>と何度も問い詰めたのよ、当然よね」
その夜を境にナナ不眠症になったそうだ。


創作 人生の相性 18)

2024年09月30日 07時43分02秒 | 創作欄

結婚したナナが2年後、足立幸雄を訪ねてきた。

会ったのは帝国ホテルのロビーラウンジであった。

ロビーにありながら、都会的で落ち着いた雰囲気の店内で足立を待つナナは、藤色の和服姿で人妻の雰囲気を醸し出していた。

ミニスカートの当時とはガラリと変貌していていて、ロングの長い髪もアップにしていた。

「あなた、まだ、髭なのね。もう髭を剃ってもいいのよ」ナナはほほ笑む。

ナナの足立への多少の拘り、そして、愛人の大村みどりの関係を未だに断ち切れずにいたのだ。

「もしも、あならが良ければ、みどりと結婚してほしいの」ナナの意外な言葉に、足立はとても複雑な気持ちとなるのだ。

足立はナナへの想いを未だ断ち切れずにいて、心が揺れ動き沈黙するばかりとなる。

足立はみどりと2回、築地のナナのマンションで出会っていた。

みどりはナナより美貌の人でり、行動的なナナとは対照で寡黙な人であった。

彼女は盛岡の生まれで22歳の時に上京し、夜の世界の女となる。

銀座のクラブ「愛園」は、みどりが2軒目に働いた店で、ナナの後輩のホステスとなる。

その時期には、既に足立は「愛園」に行っていない。

足立はナナとは店ではなく、ナナのマンションでの交情となっていた。

「あんないい女と結婚」ナナへの思慕を断ち切るずにいる一方で、ナナの申し入れに、足立は突然にも期待を募らせるのだ。

「その気持ちになったら、私に連絡してね」ナナは夫とホテルで食事の約束をしていて、直ぐに席を立つ。

足立は和服姿のナナの豊かな腰へ視線を向けていた。

2年の歳月でナナはいくらか太っていたのだ。

「わたし、痛いだけで、セックスは好きになれないのね」ナナの言葉にも足立は拘る。

 


創作 人生の相性 17)

2024年09月30日 03時59分09秒 | 創作欄

銀座のクラブ「愛園」のナナは足立幸雄と知り合って1年後に、客で訪れていた私立病院の院長の松平貴康と結婚した。

松平は2年前に妻を子宮がんで亡くしていた。

ナナは亡くなった妻の秋子と容貌が似ていたのだ。

秋子は神戸の芦屋生まれであり、清楚な人であったそうだ。

一方のナナは行動的な女であった。

彼女は仙台の高校から体操をやっていて日本体育大学へ進学したが平均台で着地に失敗し腰を痛めてから競技の体操から離れる。

挫折したナナは学生時代から夜の世界で生きる女となる。

本名は藤間芳子であった。

彼女は足立幸雄とで出会った時は25歳であった。

「私はね、26歳で結婚するの。相手は女よ」ナナは微笑みながら言っていた。

その通りとなるが、相手は男であった。

どのような経緯で性の嗜好が変わったのであろうか、足立には不可思議である。

「子どもは欲しいの」ナナは母性本能に目覚めたのであろうか?

彼女は結婚するまで、男を知らなかった。

ナナは高校生時代から女を愛する人であり、女性的な足立幸雄と相性があって、彼と寝ても性行為は許さなかった。

一方、足立には性情的には常に受け身であり、本能のまま女を犯すほどの野獣性がなかったのだ。

母親を知らないナナは「あなたは、もしかしてママの生まれ代わりかもしれないわ」と言って足立の乳首を吸うのである。

「ママ、ママ」ナナの哀愁を帯びた声が足立には言い知れぬ戦慄を及ぼす。

そして、ナナの手淫で足立は液を垂れる。

「よかったのね。あなた」彼女は自分の胸を足立に触らせることはなかった。

許すのはナナの背中への口づけであった。

ナナの愛人の大村みどりにも背中への愛撫と口づけを要求していて「あなた、愛撫が段々上手になったわ。あ~あ~そこがいいのそこが・・・」足立の愛撫にもナナは歓喜し、身を捩らせ呻き声を上げるのである。

 

 

 


歌手 取手出身の歌手藤 野とし恵の歌

2024年09月29日 22時53分15秒 | 日記・断片

家人の友人のちゃこさんは、取手出身の歌手藤 野とし恵と取手小学校の同窓生である。

今日(9月28日)は、取手・台宿にある「エスカルゴ」に藤 野とし恵がやってきた。

企画したのは、小学校の先輩の一人の藤代さんであり、同級生も多数参加した。

約20名と我々二人。

藤 野とし恵さんの歌手の後輩である岬はな江さんも歌いに来ていた。

彼女は「車椅子あーちゃん号」の協力者であった。

― 岬 はな江 ―
初めて挑戦した「第1回東海岸演歌コンテスト大会」に優勝、獲得した数々の賞品はすべて福祉活動に寄付
その後、プロの歌手となり、日本テレビ「ルックルック こんにちは」 NHK「歌謡天国」地元テレビ福島、FMいわきに度々出演
大望の福祉活動では、1995年いわき市久之浜で岬学園を開設、主な活動の「かもめパン工房」は、全国パン協会会長 林重郎氏のご指導により材料にこだわったパンの味は「うまいもの天国」に選ばれる程好評であった。
学園生の活動はパン作りに止まらず、剣舞・太鼓・写真・俳句等の習得に励み、特に赤い羽根推進標語では「優しさがあなたの胸にゆれている」「一枚の羽根がみんなの愛メール」「ぬくもりの羽根を広げる新世界」「助けあう心をそっと羽根に乗せ」と四回最優秀賞に選ばれ2000年のNHK歳末助け合い運動のTVコマーシャルに当学園が放送される。
しかし2011年3月東日本大震災と原発事故の影響で「かもめパン工房」は休止に至る
現在残った少数の生徒はビーズ制作販売、園長 岬はな江は歌手活動にと「かもめパン工房」再開を目指して、活動中です。

 「これからも子どもたちと一緒に全国を回りたい」と、いわき市の岬学園かもめパン工房施設長の岬花江さんは言う。震災当日は茨城県で子どもたちと一緒のコンサート中で、大災難はどうにか逃れた。

高校2年のとき福祉施設を訪れた岬さんは、将来は目の前に海があって近くには高齢者施設がある所で活動したいと誓った。歌の道へ進みながら慰問を続けた。慰問先の施設ではショウノウの袋詰め作業をしていたが、匂いがあまりにきつく、自分の施設ではパン作りをしたいと考えていたところ、歌の公演を通してパン業者と知り合い、協力を得て今の施設開設につながった。

パン工房の機械は津波の浸水は逃れたものの、原子力発電所から30km圏内にある建物と子どもたちの安全を考え、パンは作れない状況だった。現在は子どもたちとお母さんらが手作りしたビーズのアクセサリーを各地のイベントなどで販売している。

「大人が良い手本となって生きざまを残し、次の世代につないでいくのが教育ではないでしょうか」と言う岬さん

主な曲名「ネオン海峡」「おんなの灯り」「412 マーチ」「両国晴れ姿」「お手締めヨイショ」「涙の燈台」「じゃんがら夢やどり」
新曲「室戸あたりは」「海に降る雨」
Email:misakihanae@gmail.com

 

参考

車いす「あーちゃん号」を輪島へ 病死した娘の遺志継ぐ福島在住の夫妻が寄贈 「必ず復興できる」とエールも

2024年6月25日 17時00分東京新聞から引用
 亡き娘の遺志を継ぎ、缶のプルタブを集めて車いすを全国の福祉施設などに寄付している木村喜隆さん(69)、美奈子さん(66)夫妻=福島県いわき市=が、石川県輪島市の市社会福祉協議会に車いす1台を寄贈した。2011年の東日本大震災で被災した木村さん夫妻は「私たちの街も地震と火災で輪島朝市と同じような光景だった。13年かかったが、頑張れば必ず復興できる」とエールを送った。

◆プルタブ2袋分が娘のロッカーに

 木村さん夫妻は01年、高校2年生だった次女麻美さん=当時(16)=をがんで亡くした。所属していた剣道部の友人から、麻美さんが生前、車いすを贈るためにプルタブを集めていたことを知らされた。ロッカーにはプルタブ2袋分が残されていたという。
 娘の遺志を継ぎ05年、麻美さんの愛称にちなみ「あーちゃん号」と名付けた車いすの第1号を福島県の福祉施設に届けた。1台を購入するのに約300万個のプルタブが必要といい、夫妻の友人で歌手の岬はな江さんも協力。これまで12都県に計16台を贈ってきた。
 17号の寄贈先として石川県輪島市を選んだのは「私たちの境遇と同じだと思ったから」と木村さん。13年前、地震と津波でいわき市にあった自宅は全壊し、街も大規模火災に見舞われた。ただ、現在は人が戻って生活再建を果たしており、「(輪島の)復興が遅くて今は大変だと思うけど、必ず復興できる」と力を込める。

◆「娘を嫁がせる気持ち。使う人を笑顔に」

 車いすは特注品。赤いフレームの他、花が好きだった麻美さんをイメージし、花柄があしらわれている。木村さんは「娘を嫁がせる気持ち。明るいイメージの車いすで、使う人が明るくなってくれたらうれしい」と願った。
 輪島市社会福祉協議会の久岡政治会長(65)は「亡くなった娘さんの気持ちを大切にして使っていきたい」と感謝した。車いすは、障害者や高齢者への貸し出しや、子どもたちの福祉教育に活用していくという。(郷司駿成)

 


利根輪太郎の競輪人間学 本命の隣りを買え

2024年09月29日 22時17分04秒 | 未来予測研究会の掲示板

これは、利根輪太郎のギャンブル仲間の持論の一つである。

彼は、競馬専門であり、競輪は少々。

大きなGⅠレースだけ、競輪は参加するだけだ。

本命が7番なら、6番か8番を馬券の軸として、馬券を買うのである。

馬は隣りの馬を意識して着いてついて行く性質があるとか?!

それで、大穴馬券をゲットするのである。

出目作戦として、競輪に応用できないかである。

結果論であるが、3-5-2 5-3-2の車券で勝負したが、3番の隣りは4番であり5番の隣りは4番であったのだ。

 

 GⅢ 青森競輪 みちのく記念善知鳥杯争奪戦

最終日(9月28日)

12レース決勝戦

並び予想

3-8 2-7 6-1-5-9 4(単騎)

結果論であるが、本命3番の隣の4番か2番を軸にして夢車券を買うことも実践してみたかったのだ。

そうでもしなければ、夢車券で大穴をゲットすることはできない!




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 佐々木 眞也   11.3    
2 2 森田 優弥 6車身 11.7    
3 5 守澤 太志 1車身 11.7      
× 4 1 新山 響平 1車身 12.1   SB  
  5 9 永澤 剛 3/4車身 11.9      
6 7 宿口 陽一 3/4車身 11.9      
7 8 長島 大介 2車身 12.0      
8 3 眞杉 匠 3車身 12.7      
  9 6 高橋 晋也 大差 13.6      

 

2

2=4
2,400円(12)
2

2=4
8,210円(19)
3

2=4=5
21,990円(47)


2=4
1,840円(22)
2=5
830円(10)
4=5
1,340円(17)
4-2
6,960円(23)
4-2
27,920円(45)
4-2-5
286,510円(299)

戦い終わって

戦い終わって写真

 大方の予想通り北日本勢が前受け。後方から眞杉匠が押さえに行くのかと思われたが、とった作戦は高橋晋也のハコで新山響平との競り。両者一歩も引かず1センター辺りで高橋が一杯になったところを新山は内、眞杉は外から捲る形になったが、後方で脚を溜めていた佐々木眞也が渾身の捲りを打って記念初V。2着には守澤を捌いて好位を確保した森田優弥。不意をつかれた守澤が立て直しての3着で3連単は28万円を超える高配当となった。
 優勝した佐々木は「今開催は流れも運もよく優勝する事ができました。北勢が強力だと思っていたが、流れに応じて仕掛けるべきところで仕掛けようと決めていた。道中のスピードも速かったが、行けそうな感覚があったのでタイミングを逃さずにがむしゃらに踏みました。優勝したけど、自分でいいのかなと(笑)。松谷さんを始め兄弟と一緒に練習してこうやって結果が出たのは嬉しい。ご飯でも行って孝行したいと思います」。
 2着の森田は「眞杉の追い上げで前団の人達の脚を削ってくれたが。自分の中では斬り込んだと言うよりかは、何もしてないと思うけど…。今回は勝ち上がりではセッティングの見直し等できたが、まだまだな部分もある。10月は斡旋が止まるので、この期間に新しいセッティングを出したり良い物を見つけていきたい」。
 3着守澤の「セオリー通りに自分達が前受けからレースを進めたが、眞杉の動きも想定はしていたんですよ。自分の外に居た長島をさばいた時に森田にシャクられたんですよね。あの動きは必要なかったかも。その後ももう一度シャクり返すポイントがあったが見逃したのが反省点。今後は安易に前受けしないとか作戦的にも見直す時期にきているのかも。今回は調子自体は良くはなく、展開に恵まれた。地区プロも控えているし団体追い抜きの練習をしながら見直していきたい」。


いかなる逆境も前進の力とするのである

2024年09月29日 21時16分20秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼混迷する時代であり、使命を担う変革のための主体者であり、平和の建設者であることが、期待される。

▼「顧客の立場に立つ」ビジネスの世界ではよく言われるが、相手の側に立って考えることは、日常生活でも必要な姿勢であるだろう。

「相手の立場で」といっても、人によって思いのはせ方は異なる。

相手から見える景色や感じ方そのものに迫ろうとする人もいる。

相手の置かれている状況を<自分だらどう思うか>と考える人もいる。

「相手のことを知ろうと努力した分、共感と理解力は高まる」のである。

▼苦も楽も喜べる力が真の偉大さ―ロマン・ロラン

少年時代からベートーヴェンの音楽を生活の友とし、その生き方を自らの生の戦いの中で支えとしてきたロマン・ロラン(1866―1944)によるベートーヴェン賛歌。

20世紀の初頭にあって、来るべき大戦の予感の中で、自らの理想精神が抑圧されているのを感じていた世代にとってもまた、彼の音楽は解放のことばであった。

▼若い頃の苦労は<苦労>ではない。

全部、自分の<宝>となる。

いかなる逆境も前進の力とするのである。

苦しんだことが、全て、今の自分につながっている。

 

 


寛容の精神を広げることだ

2024年09月29日 07時58分16秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼人は「本人」だけでは救われない。

そこには社会への関心、人との関わりが重要である。

目下かの日本では、自己開発ばかりが説かれる裏では誰もが周囲に敵対的になっている。

政治の世界も同じで、立場が違うと対話すらできない。

▼宗教の本来の目的は「布教」である。

排他的な原理主義の信仰でない限り、布教の前提には「最初は、異なる思想の人がいて当然」という認識のもと、他者にアプローチすることで、徐々に味方してゆく柔軟性が備わっている。

寛容の精神を広げることだ。

▼今後、人口減少が進む日本では外国人労働者の増加が不可避だ。

そこで、東南アジア出身のイスラム教徒はじめ、宗教人口は必ず増える。

「日本に住む人は無宗教だ」とは、もはた言えのくなる。

メディア各社の宗教に対するリテラシーは低いまま。

それが問題だ。

リテラシー(literacy)とは、読み書きの能力を表す言葉で、現在は「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」のことをさします。

▼懸念されるのは、周囲と対話すらできないほど個人化が加速しているこだ。

その結果として、人々の意識が「いま・ここ」に集中してしまっていることだ。

▼過去から現在に続く長い時間軸の中で、自分たちが今どこに位置するか。

その延長上に、どのような未来を目指すべきか。

長期の時間感覚を見失い、瞬間的な情動やブームに流されていては、危機の中であおられ、過激な極論へと飛びつき、沈んでしまうだろう。


創作 人生の相性 16)

2024年09月29日 07時17分19秒 | 創作欄

無二の親友であった水野晃がこの世去って1年が過ぎたころ、都庁の薬剤部長の定例会見で足立は、他者の記者である奈良仁と出会った。

2人はその日、有楽町のガード下で酒を飲んだ。

奈良は貴公子のような容姿であった。

彼は既婚者であったが、男性も好きでもあったのだ。

奈良から突然、手を握られた足立は当然、拒絶する。

「その気はないんだ」

「分かった。許してくれ、二度と手は握らないから・・・」奈良は父親を知らなかったそうだ。

俗論なのだが、父親を知らない男性は「男をも好きになる?!」

育ちを聞くと偶然にも、子どものころには多摩川で遊んでいたという。

「多摩川には巨人の練習場があって、度々、見に行ったんだ」奈良は大学まで野球をやっていたと言う。

「すると、自宅は川崎側?」足立はそのことから奈良に親しみを覚えた。

「そう川崎側」

「僕は大田区側」足立は多摩川で溺れた小学年2年の記憶が蘇る。

「偶然だね。俺も、多摩川で溺れて中学生のお兄さんに助けれた」実は奈良はその時、お兄さんに抱かれたことで、初めて言い知れぬ快感を覚えたのだ。

奈良は24歳の時に、新入社員の秋山春子に惚れて直ぐに同棲し、その後、結婚した。

初対面の18歳の春子は、新潟の湯沢で生まれで白い肌をしていて、その肌に惹かれたのだ。

実は、奈良は他社の出版社から頼まてアルバイト原稿を書いていたことが、同僚に知られたことから、そのアルバイトの後任として、足立を推薦したのだ。

詳細は省くが、それは薬価基準問題に影響する記事であったのだ。

原稿料の他に、製薬企業の広報部長らに赤坂の高級クラブの接待を受ける。

帰りには、自宅までハイヤーで送られた。

帰り際には、10万円入りの白い封筒を製薬企業の広報部長から手渡された。

その金で、足立は競馬を始めたのだ。

何故かと言えば、足立が関わった出版社の社長は中央競馬の馬主でもあって、中山競馬に初めて誘われたのだ。

競馬観戦と馬券購入、それは足立にとって全く初めての異次元の世界であった。

 

 

 

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 競輪は12357で決まる(検証 2)

2024年09月29日 06時16分58秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 青森競輪 みちのく記念善知鳥杯争奪戦

3日目(9月28日)

1レース

7-1
290円(1)
7-1-8
560円(1)

2レース

7-5
2,890円(11)
7-5-6
78,410円(239)

4レース

2-3
1,110円(1)
2-3-1
15,200円(46)

5レース

5-7
1,110円(3)
5-7-6
24,840円(83)

9レース

7-2
1,060円(5)
7-2-3
5,940円(18)

10レース

3-2
3,520円(13)
3-2-8
80,960円(153)

食堂「さかえや」取手競輪場正門 脇です

2024年09月29日 04時04分32秒 | 未来予測研究会の掲示板

利根輪太郎は、柏から来ている人から「昨日、待っていたんだ」と声をかけられた。

その人から先日は、600円の日本酒をご馳走になっていた。

さらに、今日(9月28日)も「お酒あげて」と言ってご馳走になる。

ビール2本を飲む。

目の前には、昨日の8レースで20万円をゲットした人が酎ハイのボトルを飲んでいた。

斜め前の人とはカラオケの話となったのだ。

そして、取手台宿のカラオケの「プチ」へタクシーで向かう。

カラオケは3曲を互いに歌ったのだが、よくぞ家に辿りついたものだ。

記憶を完全になくしていたのだ。

犯罪を犯して「覚えていません」と弁解する人間もこんなように酩酊したのだと思ってみた。

奢ってくれた人の名前は未だ知らない。

「さかえや」で出会う人は名前を名乗らないし、旧知の間柄では顔と顔の付き合いなのだ。

利根輪太郎は、自宅の玄関で倒れていたそうで、起き上がると今度は台所で「死にそうだ」と、うずくまっていたとされるが、その記憶もないのだ。

午前1時に目覚めると浦島の「ウナギ弁当」を食べる。

 

 

 


静岡県警による冤罪事件は4件も

2024年09月28日 11時18分33秒 | 事件・事故

静岡県警による冤罪事件は4件も。

二俣事件(1958年確定)、小島事件(1959年確定)、幸浦事件(1963年確定)

そして、1966年の袴田事件である。

二俣事件――。 1950(昭和25)年1月7日早朝、二俣町(現浜松市天竜区二俣町)で一家4人が殺害されているのが見つかり、容疑者として逮捕されたのが当時18歳の少年、須藤満雄さんだった。 「自白」し、同年3月に強盗殺人罪で起訴された。

小島事件(おじまじけん)は、1950年昭和25年)5月10日静岡県庵原郡小島村(後の清水市、現:静岡市清水区)で発生した強盗殺人事件である。

1950年5月10日深夜、小島村で女性(当時32歳)がで撲殺される事件が発生した。国警静岡県本部から派遣された警部補紅林麻雄らによる捜査の結果、同村に住む男性A(当時27歳)が被疑者として浮上した。Aはほどなく犯行を自白したが、公判の段階では自白を翻し、取調べでは拷問を受けたとして無実を訴えるようになった。また、事件には自白以外の直接証拠も乏しかったが、第一審静岡地裁控訴審の東京高裁はともに無罪主張を退け、被告人Aに無期懲役の有罪判決を言い渡した。

事件名 幸浦事件 状態 確定無罪
事件名(よみ) さちうらじけん 事件発生日 1948/11/29
罪名 強盗殺人事件
事件地都道府県 静岡県 事件地名 袋井市
事件概要
 1948年11月29日,静岡県磐田郡幸浦村(現袋井市)で,一家4人が突然行方不明となる事件が発生した。
 警察は,別件で逮捕されていた被告人2人を一家4人の殺害容疑で取り調べたところ,その内の1人が一家殺害を自白し,共犯として更に他の2人も逮捕された。
 その後,被告人ら4人の自白によって,一家4人の遺体が埋められていたのが発見されたとして,起訴された。

 公判では,4人とも否認し,無罪を訴えたが,1審の静岡地裁では1人を除く被告人ら3人に死刑判決が下され,2審の東京高裁まで死刑は維持された。

 しかし,実際には,被告人らの自白よりも前に遺体は発見されており,自白も拷問によって採取されたものであった。

 結局,最高裁は東京高裁の判断には重大な事実誤認の疑いがあるとして判決を差し戻し,差し戻された東京高裁は被告人ら4人全員について無罪判決を言い渡した。
 検察はこれを上告したが,最高裁は上告を棄却し,無罪が確定した。

 警察による「秘密の暴露」のねつ造と,自白偏重に由来する過酷な取調べが原因となって生じた冤罪である。
判決日
1963/7/9
判決裁判所
最高裁判所
書誌
判例時報340号17頁
1審
死刑
2審
死刑
最高裁
差戻し
差戻し等
東京高裁が無罪判決,最高裁は検察側上告を棄却
再審
 
自白/否認
 
備考
【事件関連書籍】
・上田誠吉・後藤昌次郎『誤った裁判-八つの刑事事件』(岩波書店,1960)。

 

紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年明治41年〉 - 1963年昭和38年〉9月16日)は、日本の警察官静岡県警察の元刑事。担当した事件において、数多くの冤罪被害者を生み出した。

人物

現在の静岡県藤枝市出身。

自身が担当した幸浦事件死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で無実の者から拷問自白を引き出し、証拠捏造して数々の冤罪を作った。その捜査手法は紅林の部下も含めて静岡県警の警察官に影響を与えることになり、紅林自身は直接捜査に関与しなかったが袴田事件(死刑判決確定後、再審第一審にて無罪判決)などの冤罪事件を生む温床ともなった[1]

あらゆる手段を用いて被疑者を拷問し、自白を強要させるなどしたことから「拷問王」、「冤罪王」と称されている[1]

紅林はさまざまな拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず部下に指示を出していた。また、二俣事件における山崎兵八の書籍においては真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。

上記4事件のうち島田事件を除く3事件が一審・二審の有罪判決の後に無罪となり、島田事件も最高裁での死刑判決確定後の再審で無罪が確定した。幸浦事件・二俣事件の有罪判決破棄差し戻しの時点で御殿場警察署次席警部の地位にあった紅林は、非難を浴びた静岡県警上層部によって吉原警察署駅前派出所へ左遷された。しかも交通巡視員待遇という実質的な二階級降任だった。

紅林は世間や警察内部から非難され精神的に疲弊しきっていたが、1963年(昭和38年)7月に幸浦事件の被告人に対する無罪判決が確定したことにより、気力が尽きて警察を退職。同年9月16日に脳出血により藤枝市志太の自宅で死去。55歳没。

紅林の捜査法

前述の通り、紅林は拷問による尋問・自白の強要・自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者だった。また、アリバイが出てきそうになった場合は犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者が推理マニアであることや被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画が上映されていることなどの傍証を積み重ねる手法でアリバイを否定しようとした。

これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ、これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし『妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)』として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑があるほか、主犯とされた男性は拷問によるためか持病(てんかん)の悪化により僅か34歳で上告中に死亡した。

紅林の捜査法に見られるような強制・拷問または脅迫によるなど任意性に疑いのある供述調書は、刑事訴訟法第322条第1項および第319条第1項により証拠とすることができない。

小島事件では実際に紅林の捜査法に最高裁の判断が下された。この最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(局所殺菌剤)を塗るなど治療を受けていたという証言などを認定し被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについて疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された供述調書の任意性を否定し被告人に有罪を言い渡した原判決を破棄差戻しとした(後に無罪確定)

主な時系列

1942年正月、静岡県警察部浜松署署員らの記念写真。
左端に当時磐田警察署所属の刑事、紅林巡査部長
  • 1938年(昭和13年)8月22日、2人の女性が殺害される(浜松連続殺人事件の犯人が最初に犯した犯罪)
  • 1941年(昭和16年)8月18日、1人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件)
  • 1941年(昭和16年)8月19日深夜、3人が殺害される。(浜松連続殺人事件)
  • 1941年(昭和16年)9月27日、犯人の兄、姉、両親、兄の妻とその子供の計5人が殺害される(浜松連続殺人事件)
  • 1942年(昭和17年)8月25日、4人が殺害、1人が負傷させられる(浜松連続殺人事件)

無罪の場合、戦後の4大冤罪死刑事件と数えられる、免田事件(昭和23年、熊本県、同58年無罪)、財田川事件(昭和25年、香川県、同59年無罪)、島田事件(昭和29年、静岡県、平成元年無罪)、松山事件(昭和30年、宮城県、同59年無罪)に、この袴田事件が加わり、5大冤罪死刑判決となる。