利根輪太郎の競輪人間学 方程式を持ちたい

2023年10月31日 09時15分23秒 | 未来予測研究会の掲示板

利根輪太郎は、改めて「方程式を持ちたい」と痛感したのだ。

「12357」がその方程式である。

これまで何度か、記したが今は亡き競輪仲間の<荻さん>が競輪の結果を綿密に検討してから、

「123は車券に絡む頻度が高い、次は5番と7番だね」と言うのだ。

競輪のフアンたちは、競輪の専門紙やスポーツ新聞を読むと、少なからず影響を受けてしまうものだ。

さらに、オッズを見るうちに「このレースは、固い」と思い込む。

オッズイコール競輪ファンたちの期待値である。

FⅠ 伊東競輪 ジャパンカップ×HPCJC

初日(10月30日)

12レース 

並び予想 7-2-5 1-4 3-6

レース評

直前の寛仁親王牌を盛り上げた深谷と和田がF1戦でタッグを組むなら大本線だ。3番手は大森。河端や松本がどこまで迫るか

1番人気 7-2(3・0倍) 1番人気 2-7(3・1倍)

利根輪太郎が買った車券は以下

3連単

2-7-5(4倍 1000円) 2-7-1(20倍 500円) 2-7-4 (23・2倍 500円)

2-7-3(78・7倍 300円)2-7-6(95・6倍 200円)

2車単 

2-1(32・7倍 500円) 2-4(36・2倍 500円) 2-5(10・8倍 1000円)

だが、7番の番手を1番に奪われる誤算が起こる。2番の油断であろう。

結果は、波乱になる。

これが競輪である。

そこで方程式である。

12357の中の3番(競争得点106.46)をあえて外すのだ。

1番(競争得点112.83) 2番(競争得点112.74) 5番(競争得点111.80) 7番(競争得点114.93)

つまり、12レースは方程式により、1-2-5-7の4点ボックス車券で勝負すべきであった。

オッズなど、観ていたら<とても買えない車券>であるのだ!

 

結果 5-1 1万6,620円(28番人気) 5-1-2 7万5,830円(100番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 大森 慶一   9.5   巧追外一気
2 1 松本 貴治 1/2車輪 9.8 S 踏合い嵌る
3 2 和田 健太郎 1/2車身 9.7     番手を失い
4 7 深谷 知広 1車身 10.1   B 後ろ敵粘ず
  5 6 松村 友和 微差 9.6     殿尻捲上げ
6 3 岡本 総 1車身1/2 9.7     後方外併走
× 7 4 河端 朋之 4車身 10.1     被り動けず

「ひとりではない」という感覚

2023年10月31日 06時34分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼若き人々よ、我々よりも更に幸福であれ―作家・ロマン・ロラン

▼無数の人々のよく聞いて、理解する。

友の言葉に耳を傾け、相手の思いを受け止める。

その誠実な関わりから安心と共感が生まれ、未来を開く知恵と勇気が湧き上がる。

▼人間関係として、「ただつながっている」だけでも。それは困難を抱える人に「ひとりではない」という感覚を与え、時間の経緯に身を委ねることを可能にする。

やがて時間の治癒力が発現される。

▼「普通の相談」には、人の<すぐには変わらない部分>を変えていく深い力がある。

▼何でも話せる友人がいることの大切さ。

人と人のつながりを改めて見直したい。

 


創作 今は亡きナオちゃん 10)

2023年10月31日 06時34分37秒 | 創作欄

喫茶店を出た二人は、手をつないで青山公園を散歩していた。

ジョギングをする中年の男女や、犬を連れて散歩する人たちとすれ違い。

高齢者の男女二人も手をつなぎ散歩をしていた。

「時ちゃん、いいわね、長生きしましょ。共白髪までよ、いいわね」尚子は私の手をギュッと握り絞めた。

3月の後半に二人で観た公園の満開の桜が蘇る。

その桜の木々は、今はすっかり紅葉となり公園の遊歩道を埋めていた。

尚子は「とても、綺麗ね」と桜の紅葉を手にして、私の目の前に掲げた。

その尚子が4歳の娘をのこして、32歳で乳がんで亡くなるとは、実に人生は皮肉である。

「ところで、時ちゃんは、性をどう処理しているの?」尚子は真剣な眼差しであった。

私は戸惑うばかりで、沈黙する。

作家の室生犀星であっただろうか?

記憶は定かではないが、彼は、女と会う前に自慰をしてから女に会いに行ったそうだ。

性の衝動を抑制するためだろうか?

「ナオちゃが、時ちゃんの性を処理してあげる。いいわね?」

尚子はニヤリとして、公園の周囲を見回す。

そして、私の手を引くようにして女性トイレに向かうのだ。

私は、犯罪行為を犯すような気持ちに陥る。

再度、尚子は周囲を伺いながら、女性トイレに私を引き入れる。

そして、尚子は私のバンドを緩めて、私のズボンのみならずパンツまで引く下ろす。

私の飛び上がった陰茎を手でしごきだす。

「ああ、時ちゃんのペニスが段々、大きくなった」尚子はニヤリとして、悪戯をする表情になっていた。

わたしは、尚子の頭を両手を挟んで悶えるのだす。

尚子はやがて、大きくなった私の分身を口に咥えだす。

尚子は目を大きく見開き下から私を見詰めていた。

私は快感が全身に走り、目を閉じながら精液を放出する。

尚子はその精液を飲み干す。

「ママの乳液のようだわ」尚子は恍惚とした笑顔となる。

後年、私は尚子似のフリッピン人のいアグネスの写真を持ち歩く。

尚子に対する男の未練だった。

残念ながら、私の手もとには、尚子の写真は一枚も残されていない。

愛したアグネスも交通事故に遭遇して亡き人となってしまう。

 

 

 

 

 


創作 今は亡きナオちゃん 9)

2023年10月31日 03時11分13秒 | 創作欄

夜の鎌倉の海で見た、尚子の全裸姿が私の脳裏に蘇る。

「時ちゃんも来て」尚子の叫び、あの10月の夜の打ち寄せる潮騒、月光、数々の星の瞬きさえ蘇る。

海で泳ぐ一人尚子は無邪気そのものだった。

天真爛漫な少女そのでもあった。

私はあの夜、浜辺に腰を下ろしたままで、衣服を抜くことはなかった。

あの海で見た尚子の全裸姿が、朝の光が差す部屋の布団の上で、うつ伏せ姿になっていた。

「時ちゃんは、衣服を脱いでは、絶対にダメよ。いいわね」

青山の銭湯での早朝風呂から戻った後のことで、私は唖然として全裸になった尚子の後ろ姿を眺める。

「時ちゃん、ナオちゃんのクビからキスマークを付けてみてね」尚子をうつ伏せのまま、両手で乳房を握りしめていた。

白いレースのカーテンから、まばゆい日が差していた。

私は尚子の命ずるままとなってゆく。

「時ちゃん、とてもいいわ、いいのよ、次は背中にも」私の唇が尚子の背に吸い付く。

その時、尚子はすすり泣くよう呻き声となる。

入浴剤の香りが残る尚子の白い背中は、言い知れず怪しげであった。

「時ちゃん、そこよ、そこよ。いい、いい、いい、とってもいいのよ!」よがる声が段々、大きくなる。

もしも、隣の下宿人が部屋にいたら尚子のよがる声は届いていたらろう。

でも、その人は連休であり福島の実家へ帰っていた。

隣の部屋に住む人は、京橋の銀行に勤める藤間千絵であり、後に私の恋人となった

尚子は、それを承知で、私を尚子の部屋で夜中待たせていたのだ。

私のキスマークは尚子の臀部から太ももにも達した。

尚子はよがりながら、自らのを乳房をずっと揉み解しているのだ。

「ママ、ママ、ママ」最後は鳴き声で叫んで尚子は果てたのだ。

性経験がまだなかった私にとっては、異常な女体に対する初体験であった。

もしも、尚子が過去に3人の男によって強姦されていなかったら、私は野獣となり、尚子を犯していただろう。

「ナオちゃん、こんなに布団を汚してしまった」起き上がったお尚子は自らの愛液まみれの痕跡に指を添えるような仕草をする。

「時ちゃん、いいわね。絶対にナオちゃんの体のことを、二人の秘め事のことを、拘りを残さないように、いいわね」

私はうなずくほかなかった。

そして、二人は手をつないで、青山通りに面するスモーニング喫茶店へ向かった。

 

 

 

 


出来事の本当の意味を知る

2023年10月30日 11時36分07秒 | その気になる言葉

▼人間の善性を信じ続けることが必要だ。

▼自身の変革が社会変革につながる。

▼理想を<生きた現実>に具現化する。

ここでは「探求」の意義を知ることができた。

▼人生の肯定や復興、再構築を探求することによって、人間の暴力がもたらす深い悲しみを、自分自身を見直す機会へと変えることだ。

▼本を読む効果は、教養、知識が身につくほか、語彙が豊かになる。

認知機能の低下をふせぐことにもなる。

▼人間協和の社会を築く。

▼あの出来事には、こんな意味があったのか?

ドラマや小説を読んで、出来事の本当の意味を知る。

事実は小説よりも奇なりである。

▼何かで不採用になっても、可能性は何一つ傷ついてはいない。

卑屈になるな、怯む心の隙間に魔が入る。

▼立派な人が立派な人を創る。

 


誰でもが偉大な可能性を持っている。

2023年10月30日 10時15分53秒 | その気になる言葉

▼そもそも本には、ほとんど人間の悩みや、それぞれの課題(壁)の対処法が綴られ、先人の知恵が山ほど結晶している。

▼本を読むことは、書き手と読み手の魂が打ち合う<精神の格闘>。

読書をし抜いた人が、最後に勝つ。

▼「孤独を解消」孤独防止が不安解消のキーポイントだ。

まず自分から<仲間>をつくることが大切だ。

▼幸福は結局、自分でつかうものだ。

▼本の内容を誰かに伝えることで、記憶が脳に定着するものだ。

▼アンドロイド(ロボット)に対して「人間として残るものは何か」「人間とはなにか」を考える機会でさあり、未来の危険性だけでなく、可能性を考えるチャンスかもしれない。

▼天空よりも壮大なる光景が人の魂の内奥にある―ユゴー

▼自分らしく生きていけばいいのだ。

自分の人生を切り開くのは自分自身である。

▼誰でもが偉大な可能性を持っている。

 

 


人間らしい心とは

2023年10月30日 09時13分33秒 | その気になる言葉

▼釈尊と、ふつうの人の違いはなにか?

それは「自分の尊さ」を自覚しているかどうかだ。

それだけの違いだ。

それを自覚し、実際にその力を引く出すために信仰がある。

つまり、人生の師匠の「生命哲学」「生きる指針」を深く信奉し、生活の場で実践することだ。

▼「人間らしい心とは」

例えば、中学生の友人が自殺した。

学校がどうこうということではなく「今の日本に共通する課題」としての、大事な問題を含んでいる。

友人が亡くなったのだから、ただ呆然と悲しむことが、人間らしい反応である。

そして友人の死に、打ちのめされることが人間らし心だ。

みずからの命を絶った人が、それまでに、どれほど苦しんだかだ。

そして、どれほど「生きたい」と願っていたかだ。

だれが好き好んで、自殺するだろうか?

だれが「自分の命が大切ではい」人がいるだろうか。

それなのに、どうしても生きていられなかった、その苦しさ、悲しさ、ずたずたにさた心。

それを、生きている間に、周囲はわかってあげられなかった。

だから、せめて死後くらいは、「わかろう」と、想像の橋をかけるべきだ。

そして、黙って泣くことが、祈ることが、残された人が、まず、すべきことだ。

それなのに、「自殺した人は、命の尊さをしらない」と言われたり、あつかわれたら、死んだ友人が、あまりにもかわいそうだ。

生きているときも、わかってあげようとせず、死んでからも、悪いことをしたように裁いてしまう現実がある。

それは、あまりのも、冷たい。

言うまでもなく自殺は絶対にいけない。

自分の命も他人の命も、宝物であって、傷をつけてはならない。

今の社会は、「苦しんでいる人といっしょに苦しむ力」が弱まっていることが問題だ。

そういう力が弱まっているから「命の軽視」という風潮が広がっているのではないだろうか。

だから、死んだ人を一歩的に悪くいったりしないで、生きている間に、みんなが敏感に、温かく、友人を支えてあげなければいけない。

「命の大切さ」といっても、それを現実のものにするのが「愛情」であり、人間の「情味」だ。

「温かさ」「優しさ」だ。

それがないと、口だけで、いくら「生命を大切に」と言っても、何にもならない。

言えば言うほど、うそや偽善になっしまう。

勉強すればするほど、心は耕される。

そして、「温かさ」「親切さ」「優しさ」が身に付くのだ。

勉強すればするほど、「冷たい人間」になるのでは、何もならない。

学んだ意味もなくなる。

「生と死」の哲学を学ぶことが大事なのだ。

 

 

 


創作 今は亡きナオちゃん 8)

2023年10月30日 06時52分35秒 | 創作欄

<恋愛経験が少ない男は、過去の恋愛相手に執着する>

ある人の指摘だった。

私は、思えば恋愛経験は乏しかった。

常に、密かに相手を一方的に好きになっただけだった。

だから、心を深く重ねた恋愛経験とは言えないだろう。

小学生の時の白川玲子は、父親が仕事でアメリカに渡り、彼女も4年生の時にアメリカへ行ってしまった。

玲子は常に赤い靴を履いていた美少女だったのだ。

そして、中学生時代は、中井錦子を好きになる。

その彼女は級長で、教師たちが日教組の会合で学校を離れた時間に教師の代行を務めていた。

そして、錦子は「南君、答えて」と真っ先に私のことを指名する。

それは、私が苦手な算数問題であり、私は答えられない。

「では、佐野君」

私は数学が得意な佐野直樹君に嫉妬する。

高校の時に密かに憧れたポニテールの青木純子は、祖母がフランス人で絵画に描かれたの少女肖像に似ていたのだ。

鼓笛隊(ブラスバンド)の先頭で指揮棒を振るドラム・メジャーで、愛想を振りまき颯爽とした優雅な歩行であった。

その青木純子に似た女性が大学の体操科にいて、私は国文科なのに選択科目として体操科の授業を受けることになる。

だが、言葉を交わすこともなかった。

さらに、高校時代には、近所にいた画家の娘の北島美登里にも心を寄せていた。

美登里をモデルとした裸体の油絵を、上野の美術館で観た時は、私にとって大きな衝撃となる。

実は、私も北島画伯に請われて裸体のモデルになったが、その油絵は展示されなかったのだ。

その美登里に似た多田茂子には、同窓生の彼氏が居たことも知らずに、自宅に3度ラブレターを送ってしまった。

思えば、私は何時も誰かに憧れたり、好きな人が居た。

仕事関係の人も好きになったこともあるが、残念ながら既に婚約者がいたのだ。

その人は、偶然にもアイドルの従妹だったのだ。

ここに記すと相手に迷惑をかけるだろうから控えたい。

午前7時に部屋に戻ってきた尚子に、私は文句を一言も言えない立場になっていた。

彼女の過去の日記を盗み読んだことに対する<懺悔の気持ち>からだった。

「時ちゃん、本当に朝まで待たせて、ナオちゃん深く謝るわ。本当にごめんなさいね」

尚子の微笑みは、心外にもとても爽やかだった。

そして、彼女は畳に両手に手付けて、深く頭を下げるのだ。

「今朝はね、ナオちゃん心まで、温めたいわ」二人は手をつなぎ、青山の早朝風呂へ向かう。

 

 

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 良いことは続かない

2023年10月29日 11時21分55秒 | 未来予測研究会の掲示板

利根輪太郎は、このところ競輪で順調にきていた。

つまり、「負けない競輪」それが理想である。

だが、とかく<つまずき>もあるものだ。

7車の競輪は、車券が的中しやすいと思うのだが、そんなに甘いものではない。

FⅠ 向日町競輪 スピチャンスカパー杯ムッチー賞

2日目(10月28日)

6レース

並び予想 1-3 2(単騎) 4(単騎) 4-5-7 6(単騎)

レース評

ほぼ先行一車となった格清。近況安定の平原が番手差しで1勝。吉田が続き上位独占を狙う。今井や水谷、藤木はどうする?

 

結果 4-5 590円(2番人気) 4-5-3 6,270円(15番人気)

1番人気 5-4(4・6倍)

5-4と5-7の3連単で勝負する。

4-5はないと思い込む。

だが、捲くりの展開となり、5番が4番を差せなかったのだ。

5-7ではなく4-5も買うべきだったのだ。

配当を観て、悔いる。

「まだまだな!」と思うばかり。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 4 格清 洋介   11.7 B  
2 5 平原 啓多 1/2車輪 11.6    
3 3 三宅 裕武 1/2車身 11.6      
4 7 吉田 勇人 1車身1/2 11.8   S  
× 5 2 今井 聡 1/2車身 11.7      
6 1 水谷 好宏 大差 13.0      
  7 6 藤木 裕 大差 13.5  

7レース

並び予想 1-7-5 6-2 3-4

レース評

一長一短のメンバーで印に悩むが、積極的な斉木に乗る渡辺を本命にした。一撃魅力の古屋や乗る柴田も展開次第で侮れない。

6レースの反省から3-4 4-3の3連単で勝負した。

3-4-1(20・0倍)3-4-2(34・7倍) 3-4-7(12・3倍)

4-3-1(25・5倍)4-3-2(33・4倍) 4-3-7(16・6倍) 

だが、先行する1-7ラインの3-4ライン捲るものの競り負ける。

1番選手の番手の7番が意外に強かったのだ。

結果 1-7 1,010円(4番人気) 1-7-4 4,290円(12番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 古屋 琢晶   11.7 SB  
× 2 7 柴田 洋輔 1/2車輪 11.7    
3 4 渡辺 正光 3/4車輪 11.5      
4 3 齋木 翔多 1/2車身 11.7      
  5 6 冨尾 享平 1/4車輪 11.5      
6 2 坂本 匡洋 1/2車身 11.4      
7 5 阿久津 修 1/2車身 11.7

8レース

並び予想 1-7 2-5 4(単騎) 3-6

レース評

武田という絶好の目標を得た山田。番手有利に差し切り埼京ワンツー。点数上位の不破や底力ある坂本の一撃には注意したい。

2-5 5-2の3連単で勝負したのに、単騎の4番を見落とす。

思えば3連単に拘らずに、2-5と5-2の2車単勝負をすべきだった。

結果 2-5 1,010円(3番人気) 2-5-4 3,630円(8番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 2 不破 将登   11.5    
2 5 谷口 明正 1/2車輪 11.4    
3 4 佐川 翔吾 1/2車身 11.8   B  
4 7 武田 亮 微差 11.5   S  
5 1 山田 義彦 1/2車身 11.4      
6 3 坂本 周輝 微差 11.3      
  7 6 開坂 秀明 1/2車身 11.3

 

 


ハンナ・アーレント 政治哲学者、思想家

2023年10月29日 10時39分21秒 | 社会・文化・政治・経済
ハンナ・アーレント(アレントとも[1]、Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、思想家である。ドイツ系ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツからアメリカ合衆国に亡命し、教鞭をとった。
 
代表作『全体主義の起源』(1951年)などにおいて、ナチズムとソ連のボリシェヴィズム・スターリニズムなどの全体主義を分析したことで知られる[2][3][4]。
 
生涯
幼年時代
ドイツ、ケーニヒスベルクの旧い家柄である、ドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれる。出生地はハノーファー郊外のリンデン(Linden)。父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。両親ともに社会民主主義者であった。
 
父パウルはギリシアやラテンの古典についての深い造詣を持つ教養人で、ハンナの読書は彼の蔵書から始まった。母マルタは注意深くハンナを育て、詳細な育児記録が残っている。それによると、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、知的にきわめて早熟で、言葉や数学に対しては高い理解力を見せ、音楽を好みつつ音痴だったという。
 
両親ともに信仰を持たなかったが、家族ぐるみの付き合いであったラビのフォーゲルシュタインのシナゴーグに、幼いハンナは通う。一方、法律的な義務からキリスト教の日曜学校にも通う。またアーレント家のキリスト教徒のメイドたちからの影響も大きく、彼女の宗教観は複雑な発展をみせる。もっとも、後年、「子供の時以来、自分はいかなる時でも神の存在を疑ったことはない」[注釈 1]と述べたように、ある種の信仰は生涯通じて持ち続けた。
 
15歳の折、当時在学中だったルイーゼシューレにおいて、若い教師の授業をクラスメートと共にボイコットし、放校処分になる。その後、二学期の間ベルリン大学で学ぶ。神学教授のグァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受ける。半年間の独学ののち、1924年、18歳にして大学入学資格試験に合格、マールブルク大学に入学。
 
大学時代
1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、アーレントは哲学に没頭する。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している[6]。なお、当時既婚であったハイデッガーとは一時不倫関係にあった[注釈 2]。また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。
 
その後、フライブルク大学のエトムント・フッサールのもとで一学期間を過ごした後、ハイデルベルク大学に赴き、カール・ヤスパースの指導を受ける。博士論文は『アウグスティヌスの愛の概念』。この頃、クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想・活動に目を開かれている。
 
1929年9月、ギュンター・シュテルンと結婚。1931年にはフランクフルトに引越し、カール・マンハイムやティリッヒの講義に参加する。ラーエル・ファルンハーゲンの研究は、この時期になされた。
 
ナチズム以降
ナチスが政権を獲得しユダヤ人迫害が起こる中、ブルーメンフェルトに協力し、反ユダヤ主義の資料収集やドイツから他国へ亡命する人を援助する活動に従事する。一度は逮捕される危険にあう。1933年にフランスに亡命。この地でもシオニスト関係の仕事に従事する。1937年ギュンターと別れる。1940年、スパルタクス団やドイツ共産党に参加した活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。彼から政治的思考を学ぶこととなる。
 
第二次世界大戦が始まり1940年にフランスがドイツに降伏する。1941年、アメリカ合衆国に亡命する。
1951年、市民権取得、その後、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任。1967年、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命される。
 
1951年に『全体主義の起源』[7]を著し、全体主義について分析した。その後も、みずから経験した全体主義およびそれを生み出すにいたった西欧の政治思想を考察した。
 
1963年にニューヨーカー誌に『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』を発表し、大論争を巻き起こす[注釈 3][注釈 4]。
 
1975年12月4日、自宅にて心臓発作により死去(69歳)。
 
思想
全体主義批判
「全体主義の起源」および「マルクス主義批判」を参照
アーレントは、身をもって経験した全体主義の衝撃、「起こってはならないことが起こってしまった」ことから、政治についての思索を開始するに至った。
1945年に「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。
つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。
言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」と発言している[10]。
彼女の政治哲学の原点は「人間のなしうる事柄、世界がそうありうる事態に対する言語を絶した恐れ」[11]であった。
なぜ人間にあのような行為が可能であったのかという深刻なショックと問題意識から、彼女は政治現象としての全体主義の分析と、その悪を人びとが積極的に担った原因について考え続けることになる。
 
アーレントは代表作となった『全体主義の起源』(1951年)や、『革命について』(1963年)のなかで、ナチズムの国民社会主義とソ連の共産主義・ボリシェヴィズムの大粛清や恐怖政治の起源をフランス革命に見いだして批判した[2]。
アーレントは、ナチズムとスターリンのボルシェヴィズムの全体主義がそれまでの専制政治とは異なるところは、両者ともに世界征服を目指しており、秘密警察と強制収容所が国家の中核にあり、人間をテロル(恐怖政治)の鉄の箍に押し込んだと指摘する[2]。
 
アーレントによれば、スターリン体制の犯罪性は、数百から数千の著名な政治家や文学者の殺害にだけあったのではなく、何ぴとも、スターリンですらも「反革命的」活動の嫌疑をかけることは不可能だった数百万の無告の民の殲滅にこそあった[12]。
 
フルシチョフによるスターリン批判は、むしろスターリン体制の犯罪性を矮小化するものであり、隠蔽するものだった[12]。
全体主義のテロルは、すべての組織的反対勢力が死滅し、支配者がもはや恐れる必要のあるものは何ひとつないことを知ったときにはじめて解き放たれるものであった[12]。
ボリシェヴィキは、「社会主義国に失業はない」というイデオロギーを貫徹するために、失業給付を廃止し、これにより、「ソ連には失業がない」という嘘は、事実となった[13]。
ソ連の全体主義的独裁では、イデオロギー教義とそこから生まれた嘘を本物の現実に変えるためにテロルが用いられ、スターリンはロシア革命史の書き換えのために旧版の著者を抹殺した[13]。
 
アーレントによれば、ボリシェヴィズム運動は、ナチ運動とよく似ているが、例えば、ナチスがユダヤ資本による世界陰謀というフィクションから出発しているように、ボリシェヴィキもトロツキスト陰謀、「三百家族」の世界陰謀、帝国主義、コスモポリタン、資本家の陰謀といった陰謀論フィクションを必要とし、1930年代以降はこうした陰謀論にもとづいて内政外交を行った[14]。
 
イデオロギーに賛同するかしないかによって敵味方を規定することは、全体主義運動の本質である[15]。
この規定は、当の人物の友好性や敵対性とは関係がないため、警察も特別の調査を必要とせず、イデオロギーによって規定される敵は、自然もしくは歴史の法則によって「客観的に」認定される[15]。
ナチスにおける人種的劣等者(ユダヤ人)も、ソビエトにおける死滅する階級(ブルジョワ)も、体制側の政策によってのみ認定される「客観的な敵」であり、その犯罪は、「主観的因子」を参酌することなしに「客観的」に決定された[15]。
「客観的な敵」は、「客観的な基準」に従って、当人がどういう人間であるかということからいえばまったく恣意的に選定されたが、過去の暴君支配にも、これほど効果的かつ徹底的に人間の自由を否定したものはなかった[16]。ソ連やナチスの全体的支配は、罪の概念を廃棄する代わりに、「望ましからぬ者」「生きる資格のない者」という新しい概念を持ち出し、彼らは、あたかもかつて存在したことがなかったかのように地表から抹殺されていった[17]。
 
中華人民共和国についてもアーレントは批判しており、中国のプロレタリア独裁の初期段階では、相当な流血があり、推定1500万人が犠牲者となったとし、毛沢東の1957年の「百花斉放」政策でも知られる演説「人民内部の矛盾を正しく処理することについて」は、言論の自由を主張したものではなく、反対者は「思想矯正」によって鍛え直されるということが主張されたとする[18]。
これ以降、「ブルジョア右派分子」を摘発する反右派闘争が開始され、55万人の知識人が「右派」のレッテルを貼られて職を失い、労働改造所などに送られ、共産党への批判は不可能となった[19]。
共産党はイデオロギー的には不可謬でなければならず、政治的には世界支配を目指すインターナショナル運動を志しており、すべての国の革命運動に中国の手先を潜入させ、北京の指導のもとでコミンテルンを復活させようとする政策をとったとして、その全体主義的特質は最初から明白だったとアーレントはいう[20]。
アーレントは文化大革命という名の党粛清では、大量殺戮も辞さないという威嚇が公然と行なわれていると述べ、毛沢東を、ヒトラーやスターリンと同様に批判している[21][2]。
 
革命論
 
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アーレントは、革命については戦争と分母を同じくするものであり、すなわち暴力が母体になっているとする。
 
革命は戦争と共に20世紀の様相をかたちづくってきたものであり、戦争が簡単に革命に転化し、革命が戦争への道を開く傾向を示しているのは、暴力がこの両者の一種の公分母になっているからである。聖書と古典が明らかにしているように、人類の伝説的なはじまりは暴力による。「はじめに犯罪ありき」―「自然状態」はそれを理論的に純化して言い換えたものに過ぎない。
また、革命がもたらしたものは「自由の経験」であり[注釈 5]、革命の前提には、近代的な「平等」の観念があったとする。古代においては自然状態における平等は存在しなかった[注釈 6]。
 
アメリカ革命を解放された人間同士の自由な活動として評価し、「地上の生活は稀少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されているはずだという確信の起源は革命に先立つものであり、アメリカ的なものであった」として、近代的な革命の原型を作ったとアーレントはみなしている[注釈 7]。またアメリカ革命の起源になったのはロックとアダムスミスによる労働説にあるとも指摘している[注釈 8]。
 
他方、アーレントは次のようにイギリス革命における「革命」とは「(君主制)の復古」を意味しているとして、批判している[注釈 9]。これに対して、アメリカ革命は、「革命の子をむさぼり食うようなことはせず、したがって「復古」をはじめた人々は、そのまま、革命をはじめ、それを成し遂げ、そのうえ新しい秩序の中で権力と官職に就いた」と評価している。
 
一方、フランス革命とそれに連なるロシア革命を必要と善意による、民衆の自然的な欲求からの解放を目指したものであったとして否定的な見解を示した[22]。すなわちフランス革命は、「自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、不運と悲惨の破壊力を解放した」としている[注釈 10]。
 
フランス革命については、エドマンド・バークのフランス革命論は正しいとし、他方、トマス・ペインのものは誤っていたとする。「人権宣言が過去に耳を傾けることのできたような時代は歴史上存在しなかった」し、したがって、過去の時代に「すべての人間が生まれながらにして譲渡不可能の政治的権利を与えられていると見ることは表現上の矛盾」として、批判した。
 
また、フランス革命における「革命」の観念には、周期的な法則性、「不可抗力的な運動」がみられると指摘し、したがって、フランス革命の結果に、ヘーゲルの歴史哲学があるとしている[注釈 11]。フランス革命におけるこのような「不可抗力的な運動」の観念はのちに「歴史的必然」と言い換えられ、19世紀から20世紀にかけてフランス革命の後継者であると自認する人々は「歴史的必然の代理人」であると主張したとアレントは論じる[注釈 12]。「世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった」とアーレントはいっている。
 
フランス革命を継承したロシア革命については「歴史の道化」として批判した[注釈 13]。また「疑いもなくボリシェヴィキ党の粛清は、もともとフランス革命の進路を決定した諸事件をモデルとし、それとの関連で正当化された。両方とも歴史的必然の概念で導かれていたという点で共通していた。」として、粛清の起源をフランス革命とその産物である「歴史的必然」という観念にみた。
 
ほかにも革命家のヒロイズムにごまかされることなく、彼らが「人間のリアリティに対して無感覚になった」ことをみるべきだとして、批判している[注釈 14]。 アレントは「ロベスピエールは魂の葛藤、つまりルソーの引き裂かれた魂を政治の中に持ち込んだ。しかしその領域では、それは解決不可能であったため、殺人的なものとなった。」としている。
 
また、革命の際に「人民」が求めたのは「政治以前の暴力」であったとしている[注釈 15]。
 
アーレントは『革命論』(1963/65)において、フランス革命の革命家たちには当初、国家形態への情熱的関心や、人間の知識を駆使するといった誇りもあったが、やがて自暴自棄気味の感情に取って代わり、革命それ自体を失っていったと指摘したうえで、ロシア革命も比類なき希望を当初は世界にもたらした分、その後、世界をいっそう深い絶望に陥れたという[23]。
アーレントによれば、ロシアの革命家は、事情も条件も変わっていたのに、フランス革命を模倣しなければならないと考え、これが粛清のための裁判において革命家が、判決に従順に従った理由ともなった[23]。
革命後に「反革命容疑者」狩りが開始されると、ロベスピエールがダントンやエベールを粛清したように、革命家たちは両極端のグループに分裂し、急場を救う者が中間に位置すると称して、極右と極左の両方を粛清した[23]。
フランス革命を念頭に置いて歴史劇を演じていったロシアの革命家たちは、権力に反抗する勇気と気高さを当初は持ちながらも、「歴史的必然」だと彼らが見なしたものにへりくだり、唯々諾々と従っていった[23]。アーレントは、そのありさまには「壮大な滑稽さ」があったとし、「彼らを道化役にしたのは、歴史であり歴史的必然であった。
以来、革命は、道化よろしく愚弄されるという不幸に見舞われている。その不幸にあっては、自由は必然と化すのであり、行為し創設するという経験は、恐るべき無力さの感情を味わっては破滅する」と述べた[23]。
 
このようなアーレントの共産主義や暴力革命に対する批判は当時のアメリカの新左翼に大きく影響を与え、ノーマン・ポドレツ、アーヴィング・クリストルなど、後に新保守主義の源流となったニューヨーク知識人と呼ばれるユダヤ系知識人の政治勢力を生み出した[要出典]。
 
その他、評議会制についてアーレントは政党制を排した議会制度として肯定的に検討した[24]。
 
活動的生活
 
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アーレントは、人間の生活を「観照的生活」(vita contemplativa)と「活動的生活」(vita activa)の二つに分ける。
 
観照的生活とは、プラトンの主張するような永遠の真理を探究する哲学者の生活である。
活動的生活とは、あらゆる人間の活動力を合わせたものである。
活動的生活は主として、活動(action/Handeln)、仕事(work/Herstellen)、労働(labor/Arbeiten)の三つに分けることができる。
「活動」は、人間が関係の網の目の中で行う行為であり、平等かつお互いに差異のある人間たちの間にのみ存在しうる。個々人は自発的に「活動」を開始し、その行為の結果として自身が何者(who)であるかを暴露する。それはちょうどギリシアにおけるダイモーン(守護霊)のように、自身には決して明らかにはならないが他者には明白ななんらかの徴である。
「仕事」は、職人的な制作活動に象徴される目的-手段的行為をさす。ある特定の目的の達成をめざして行われる行為はアーレントにとって「仕事」であった。
「活動」はその結果として語り継がれる物語以外の何物をも残さないが、「仕事」はその達成された目的の証としての最終生産物を残す。最終生産物の産出に示される「仕事」の確実性は古来より高く評価されており、それ故にギリシア人は本来「活動」そのものであった政治を「仕事」によって行われるよう置き換えることを試みた、とアーレントは指摘している。
「労働」は人間のメタボリズム(?)を反映した行為であり、生存と繁殖という生物的目的のため、産出と消費というリズムにしたがって行われる循環的行為である。
「活動」や「仕事」と異なり、人間は生存に伴う自然的な必要を満たすために「労働」を強いられる。
それゆえ古来より労働は苦役であり続けたが、アーレントによればマルクスによって人間が行うもっとも生産的な行為として位置づけられた。
マルクス論
アーレントは「伝統と現代」(1954)で、マルクスについて論じる。
マルクスは、政治思想の伝統に挑戦するなかで、「暴力は、旧い社会が新しい社会を孕んだときにはいつでもその産婆となる。」[25]と述べて、暴力の賛美と言論への敵意を主張した[26]。
マルクスによれば、人間の生産性を発展させる隠れた力は、戦争と革命の暴力を通じてのみ明るみに出るのであり、歴史は暴力の時代にのみ真の顔をみせ、そこでは、イデオロギー上の偽善的な空論が一掃される[26]。
政治思想の伝統において、暴力は、ティラニー(tyranny、暴政、僭主制)の特徴とみなされ、国家間の関係における最終手段であり、自国民へ向けられる暴力は最も不名誉なものとみなされてきたが、マルクスは、逆に暴力を、統治の不可欠な構成要素とみなし、政治的行為の領域を暴力の使用によって特徴づけた[26]。
マルクスが知悉するアリストテレスは、ギリシア人と他民族バルバロイ(夷狄)と区別するために、人間を「ポリス的動物」、および「言葉を持つ動物」と定義し、ギリシア人は暴力に頼らない言論による説得を重視するのに対して、バルバロイは暴力によって支配され、奴隷は労働を強制された[26]。
ギリシア人にとって労働は非政治的で私的な事柄に属するものであり、これに対して暴力は否定的であるが他者との交わりを確立するものであった[26]。こうしてマルクスは、ロゴスすなわち言論を否定し、それに付随して暴力を賛美した[26]。
 
マルクスの理論に不整合があることはほとんどすべてのマルクス研究者が熟知している[27]。しかし、それも、マルクスが、労働と行為を賛美しながら、国家のない、労働のない社会を賛美するという根本的矛盾に比べれば些細なことである。マルクスの根本的矛盾は、政治思想の伝統の前提を根本から覆そうとしたためであった[27]。
 
アーレントは、1958年の論文[28]で、マルクスが「人間は歴史を作る」と考えた背景には、政治と歴史の混同があり、これはマルクス自身にとっては歓ばしいことだったとしても、かれの追随者にとっては命取りとなったとする[29]。
歴史家の態度と制作者の態度が結びつくことは危険である[29]。
人間が知ることのできない「高次の目的」を、計画的・意図的な目的へと転換することが危険なのは、それによって意味が目的へと転化させられてしまうからである。このような転化は、ヘーゲルが歴史に込めた意味(自由の理念が現実化していく)を、マルクスが人間の行為の目的と考え、この目的を制作過程の最終生産物と見なしたときに生じた。
しかし、自由や意味は、人間の活動様式の生産物ではありえない[29]。
 
マルクスは、人間が「歴史を作る」ことが可能であるとすれば、歴史には終わりがあるという結論を逃れるわけにはゆかないということを自覚していた[30]。
マルクスは、過去と未来という二つの無限に延びる時間意識に表れているような歴史過程を放棄した。マルクスは、弁証法的運動として決定可能で、階級闘争のようにその内実が発見可能であるような、始まりと終わりをもつ過程を考えた。
この過程の最終目的は、それまでに起こった事柄をすべて打ち消し、無意味にする。階級なき社会においては、ただ廃棄されるためだけにのみ存在してきた不幸な事柄が忘却されるのであり、不幸な事柄の消失こそが目的である[30]。
マルクスにとって階級闘争は、歴史の秘密を解く鍵であった[31]。
しかし、作ることができるのは「範型(パタン)」だけであり、「意味」を作ることは不可能である[32]。意味は真理と同様に、自らを開示し、自らを顕わにするだけであるから。
マルクスは、範型を意味と取り違えた最初の歴史家だった。マルクスの範型は、重要な歴史的洞察に基づくものだった。
しかし、マルクス以来、過去に対して思い通りの範型が、勝手気ままに押し付けられてきた。その結果、普遍的意味という高次の妥当性によって、事実的なもの、個別的なものが滅ぼされることとなった。
さらに、歴史過程の根底にある事実の構造、事柄の継起の順序(クロノロジー)すら掘り崩されてしまった[32]。
 
人物
生涯にわたって朝の過ごし方を非常に重視し、ゆっくり起床した後に何杯ものコーヒーを飲むことを日課としていた。
その習慣を貫くために、学生時代は朝の8時からのギリシャ語の授業に出席することを拒否し、学校当局と悶着を起こした。交渉の結果、特別の難しい試験を受けることを条件に、独学での勉強を許可されたという[33]。
テオドール・アドルノに対しては、戦後彼がナチスに加担した知識人を非難していたが、アドルノ自身も戦前ナチ党機関誌にバルドゥール・フォン・シーラッハの詩を賞賛する批評を発表していたことなどから、破廉恥であるとして嫌悪感を抱いていた[34]。
マールブルク大学時代、一人暮らしをしていた屋根裏部屋のネズミを手なずけ、来客があると呼び出してエサを食べさせていた。ヨナスに対して、「このネズミは自分と同じようにひとりぼっちなの」と語った[35]。
1948年にメナヘム・ベギン(当時は建国まもないイスラエルの右派ヘルート党(のちリクード)の党首)が訪米した際には、アルベルト・アインシュタインらとともに名を連ね、党の姿勢を批判する書簡を『ニューヨーク・タイムズ』に送っている。
アメリカに亡命したユダヤ人歴史家のラウル・ヒルバーグは、自伝[36]の中で、アーレントを批判している。
によると、彼の書いた「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」を、彼女はプリンストン大学の依頼で査読したが、否定的な評価を送った。結局同大での出版は見送られたが、後にアーレントは『エルサレムのアイヒマン」で、彼の著作内容に大きく頼った論述を展開した。
だが、初版では脚注にそのことは示されなかった(ただし、第2版で示された)。
彼女は、ヤスパースやクラウス・ピーパーに対しても、当の著作の第一章に関する否定的な意見を手紙で書き送った。
著作(日本語訳)
単著
『革命について』(志水速雄訳、合同出版、1968年/中央公論社、1975年/ちくま学芸文庫、1995年)
『革命論』(森一郎訳、みすず書房、2022年)。ドイツ語版を底本とする訳書
『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、1969年、新装版1994年、新訂版『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』2017年)
『過去と未来の間に(1) 歴史の意味』、『―(2) 文化の危機』(志水速雄訳、合同出版、1970年)
新訳版『過去と未来の間-政治思想への8試論』(引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房、1994年、新装版2011年)
『暗い時代の人々』(阿部斉訳、河出書房新社、1972年、改訂版1995年/ちくま学芸文庫、2005年)
『全体主義の起源 (全3巻)』(大島通義・大島かおり・大久保和郎訳、みすず書房、1972-74年、新装版1981年、2017年)
『暴力について』(高野フミ訳、みすず書房、1973年)
新訳版 『暴力について』(山田正行訳、みすず書房〈みすずライブラリー〉、2000年)
『人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社、1973年/ちくま学芸文庫、1994年)、英語版
『活動的生』(森一郎訳、みすず書房、2015年)。ドイツ語版を底本とする訳書
『人間の条件』(牧野雅彦訳、講談社学術文庫、2023年)
『カント政治哲学の講義』(ロナルド・ベイナー編、浜田義文監訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、1987年、新装版2009年)
『完訳 カント政治哲学講義録』(仲正昌樹訳、浜野喬士編訳、明月堂書店、2009年)
『パーリアとしてのユダヤ人』(寺島俊穂・藤原隆裕宜訳、未来社、1989年)
『精神の生活(上) 思考』、『―(下) 意志』[37](佐藤和夫訳、岩波書店、1994年)
『ラーエル・ファルンハーゲン―ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』(大島かおり訳、みすず書房、1999年、新版2021年)
別訳『ラーヘル・ファルンハーゲン―あるドイツ・ユダヤ女性の生涯』(寺島俊穂訳、未来社、1985年) 
『アーレント政治思想集成 1 組織的な罪と普遍的な責任』、齋藤純一・矢野久美子・山田正行訳
『― 2 理解と政治』(ジェローム・コーン編、みすず書房、2002年)
『暗い時代の人間性について』(仲正昌樹訳、情況出版、2002年)
『アウグスティヌスの愛の概念』(千葉眞訳、みすず書房、2002年、新装版〈始まりの本〉、2012年、新版2021年)
『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(大月書店、2002年)
『政治とは何か』(ウルズラ・ルッツ編、佐藤和夫訳、岩波書店、2004年)
『思索日記(1) 1950-1953』、『―(2) 1953-1973』、ウルズラ・ルッツ、インゲボルク・ノルトマン編
(青木隆嘉訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2006年、新装版2017年)
『責任と判断』(ジェローム・コーン編、中山元訳、筑摩書房、2007年/ちくま学芸文庫、2016年)
『政治の約束』(ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳、筑摩書房、2008年/ちくま学芸文庫、2018年)
『ユダヤ論集(1) 反ユダヤ主義』(コーン/フェルドマン編、矢野久美子ほか訳、みすず書房、2013年)
『ユダヤ論集(2) アイヒマン論争』(コーン/フェルドマン編、矢野久美子ほか訳、みすず書房、2013年)
共著
メアリー・マッカーシー『アーレント=マッカーシー往復書簡――知的生活のスカウトたち』(キャロル・ブライトマン編、佐藤佐智子訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、1999年)
マルティン・ハイデガー『アーレント=ハイデガー往復書簡――1925-1975』(ウルズラ・ルッツ編、みすず書房、2003年、新装版2018年)
カール・ヤスパース『アーレント=ヤスパース往復書簡――1926-1969 (1・2・3)』(ハンス・ザーナー、ロッテ・ケーラー編、みすず書房、2004年)
ハインリヒ・ブリュッヒャー『アーレント=ブリュッヒャー往復書簡――1936-1968』(ロッテ・ケーラー編、みすず書房、2014年)
ゲルショム・ショーレム『アーレント=ショーレム往復書簡』(マリー・ルイーズ・クノット編、岩波書店、2019年)
映画
『ハンナ・アーレント』マルガレーテ・フォン・トロッタ監督。2013年10月岩波ホール、2014年8月DVD。
受賞・記念
1967年 ジークムント・フロイト賞
1975年 リッピンコット賞
小惑星100027「ハンナ・アーレント」は彼女に敬意を表して命名された。
 
参考文献
矢野久美子『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年
アーレント, ハンナ  齋藤純一、引田隆也訳 (1994), 過去と未来の間――政治思想への8試論 (原著1968), みすず書房
アーレント, ハンナ  大久保和郎、大島かおり訳 (2017), 全体主義の起原 3 (原著英語版1951,ドイツ語版1955), みすず書房
アーレント, ハンナ  森一郎訳 (2022), 革命論 (原著英語版1963,ドイツ語版1965), みすず書房
豊泉清浩「ヤスパースの全体主義批判における人間の尊厳について:ハンナ・アーレント『全体主義の起源』との関連において」文教大学教育学部紀要53,p 253-270, 2019.
関連文献
マーガレット・カノヴァン『アレント・政治思想の再解釈』(寺島俊穂・伊藤洋典訳、未來社、2004年)
エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』(荒川幾男ほか3名訳、晶文社、1999年)
マルティーヌ・レイボヴィッチ『ユダヤ女 ハンナ・アーレント』(合田正人訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2008年)
日本人による研究書
川崎修『アレント――公共性の復権』(講談社、1998年、新版2005年)
『ハンナ・アレント』(講談社学術文庫、2014年)
太田哲男『ハンナ=アーレント』(清水書院・人と思想、2001年、新装版2016年)
杉浦敏子『ハンナ・アーレント』(FOR BEGINNERSシリーズ:現代書館、2006年)
杉浦敏子『ハンナ・アーレント入門』(藤原書店、2002年)
矢野久美子『ハンナ・アーレント――「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中央公論新社〈中公新書〉、2014年)
牧野雅彦『精読アレント『全体主義の起源』』(講談社選書メチエ、2015年)
『ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』(今を生きる思想:講談社現代新書、2022年)
中山元『アレント入門』(筑摩書房〈ちくま新書〉、2017年)
仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書、2018年)。※以上は入門書
寺島俊穂『生と思想の政治学――ハンナ・アレントの思想形成』(芦書房、1990年)
千葉眞『アーレントと現代――自由の政治とその展望』(岩波書店、1996年)
伊藤洋典『ハンナ・アレントと国民国家の世紀』(木鐸社、2001年)
矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』(みすず書房、2002年、新装版2023年)
森分大輔『ハンナ・アレント研究――<始まり>と社会契約』(風行社、2007年)
森川輝一『〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010年)
中山元『ハンナ・アレント〈世界への愛〉 その思想と生涯』(新曜社、2013年)
小玉重夫『難民と市民の間で ハンナ・アレント『人間の条件』を読み直す』(現代書館〈いま読む!名著〉、2013年)
仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』(作品社、2014年)
『ハンナ・アーレント「革命について」入門講義』(作品社、2016年)
中島道男『ハンナ・アレント 共通世界と他者』(東信堂、2015年)
森一郎『死を超えるもの: 3・11以後の哲学の可能性』東京大学出版会 、2013年
第8章 アーレントと原子力の問題I――大地からの疎外、または「宇宙人」の侵略
第9章 アーレントと原子力の問題II――戦争論への寄与
千場達矢『哲学者アーレントに脚光 思考停止に警鐘 現代に響く』日本経済新聞:2014年7月20日朝刊40面
佐藤和夫『〈政治の危機〉とアーレント――『人間の条件』と全体主義の時代』(大月書店、2017年)
脚注
注釈
^ 友人のアルフレッド・ケイジンに語った[5]。
^ 1950年に再会したときになおハイデッガーへの自分の愛の存在したことについて、彼への手紙で言及している。2人の往復書簡(1925 - 1975年)は公刊されている。
^ アーレントは、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した。紋切り型の文句の官僚用語を繰り返すアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結び付いていることは明らかだった」と述べている。
アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけでは決してないが、ナチを断罪して済む問題でもないと考えていた。また、加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、全体主義の決定的な特徴と考えていた。[8]
^ この時期、ヤスパースは手紙でアーレントが「嘘にたてこもって生きているあれほど多くの人のいちばん痛いところを衝いた」のだと述べている。また、自分の発言がそうした人びとの「生きるための嘘」への攻撃となることにも気がつかない彼女の「ナイーブさ」にも言及している[9]。
^ 「革命がそのコースを走り始めると、それにまきこまれた人びとが自分たちの企ての勝敗を知るずっと前に、物語の新しさとその筋書きの奥深い意味が俳優にも観客にも明らかになりはじめた。筋書きについていえば、それは疑いもなく自由の出現であった。解放(liberation)と自由(freedom)は同じではない。革命が前面にもたらしたものは、この自由であることの経験であった。」
^ 「古代的観念では、全ての人々が自然において平等ではないため、人為的な制度たる法すなわち法律によって人々を平等にする都市国家を必要とした。平等は人々が互いに私人としてではなく、市民として会うこの特殊に政治的な空間にのみ存在した。これは今日の観念、つまり人は生まれながらにして平等であり、社会的・政治的な人工の制度によって不平等にされているという観念と大きく異なる。」
^ 「社会問題が革命的役割を果たし始めるのは、近代になってからであり、それは人々が貧困が人間の条件に固有のものであるということを疑い始めたことによる。地上の生活は稀少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されているはずだという確信の起源は革命に先立つものであり、アメリカ的なものであった。ジョン・アダムズが「私はいつも、アメリカの植民は、無知なる者に光を与え、全地球の人類の奴隷的部分を解放せよという神意の偉大な計画のはじまりであると考えている」と述べた時、社会の完全な変革という近代的意味における革命の舞台ができあがった。」
^ 「理論的に言えば、まずロックが、ついでアダム・スミスが、労働と労苦は貧困の属性ではなく、貧困ゆえに財産なき者に押しつけられたこの労働は、その反対に富の源泉であると述べた時、革命の舞台はできあがった。つまり、ヨーロッパに革命的活力を培養したのは、独立宣言のずっと以前からあってヨーロッパによく知られていたアメリカ的生活条件の存在であって、アメリカ革命ではなかった。」
^ 「革命(revolution)」という言葉は、もともとは天体の周期的で合法的な回転運動を意味していた。したがって、すべての革命の主役たちにとりついた観念、すなわち、自分たちは旧秩序にはっきりと終止符を打ち新しい世界の誕生をもたらす過程の代理人であるという観念ほど、「革命」という言葉のもともとの意味からかけ離れた観念はない。革命が初めて政治的用語として用いられたのは、1660年に英国で残部議会が打倒され、君主制が復古したときであり、それは、既に以前確立されたある地点に回転しながら立ち戻る運動を暗示するのに用いられた。非常に逆説的なことであるが、この用語が政治的、歴史的な言葉としてはっきり定まった事件、すなわち名誉革命は少しも革命とは考えられず、君主の権力が以前の正義と栄光を回復したものと考えられたのである。このように、「革命」という言葉はもともとは復古を意味し、したがって我々には革命の全く正反対と思われる事柄を意味する。イングランドにおける最初の近代革命の短命な勝利は正式には「一つの復古」として、すなわち、1651年の国璽の銘刻文にあるように「神の加護により復活した自由」として理解されていた。」
^ 「フランス革命の人々のうち、生き残って権力の座につくことができたのは、大衆の代弁者となって、法律を大衆が突き動かされていた力、根源的な必然性の力に委ねた人たちだけであった。フランス革命は、自由の創設から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えたとき、忍耐の障壁を打ち壊し、不運と悲惨の破壊力を解放したのである。」
^ 「ルイ16世が「これは反乱だ」と叫び、側近のド・ロシュフコーが「いいえ陛下、これは革命です」と訂正したとき、革命という言葉の強調点が周期的な回転運動の合法則性からその不可抗力性に完全に移っている。不可抗力的な運動という概念は、19世紀になるとすぐに歴史的必然という概念に観念化されるが、フランス革命のページの最初から最後まで響き渡っている。理論面で言えば、フランス革命のもっとも深い帰結はヘーゲル哲学の近代的歴史概念の誕生に見られる。」
^ 「フランス革命の足跡を辿ったすべての人たちが、自分たちはフランス革命の人々の後継者であるばかりか、歴史と歴史的必然の代理人でもあると考えた。この結果、自由のかわりに必然が政治的かつ革命的な思想の主要な範疇となった。世界を火のなかに投じたのはアメリカ革命ではなくフランス革命であった。したがって、アメリカを含め、いたるところで「革命」という言葉の現代的な使い方にその含意と響きを与えたのはフランス革命である。」
^ 「ロシア革命の人びとがフランス革命から学んでいたことは、歴史であって活動ではなかった。彼らは、歴史の偉大なドラマが自分たちに割り当てる役ならどんな役でも演じる能力を身につけていた。だから、悪役以外に役がないばあいにも、ドラマの外に残されるくらいなら喜んでその役を引き受けたのである。彼らは歴史によって愚弄されたのであり、歴史の道化となったのであった。」
^ 「人はしばしば革命家たちの格別な無私の態度に感動するが、それを「理想主義」やヒロイズムと混同してはならない。フランス革命以来、革命家たちがリアリティ一般に対し、特に人間のリアリティに対して無感覚になったのは、彼らの感傷の際限のなさに原因がある。彼らは、自分たちの「教義」や歴史の進路や革命それ自体の大義のために、人々を犠牲にするのに何の良心の呵責も感じなかった。これはルソーの行動、その現実離れした無責任さと信頼性の無さに、きわめてはっきりとあらわれているけれども、ロベスピエールが分派闘争のなかに持ち込んだとき、はじめて重要な政治的要因となった。政治面で言えば、ロベスピエールの徳のもつ悪は、彼の徳がいかなる制限をも受けつかなかった点にあった。」
^ 「革命が勃発すると、問題になったのは経済的・財政的問題よりは人民であった。彼らは政治的領域にただ闖入してきただけでなく、そのなかへ崩れこんできたのである。彼らの要求は暴力的であり、いわば政治以前のものであった。自分たちを力強く迅速に救ってくれるものはただ暴力だけであるように見えた。」
 

悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える

2023年10月29日 10時23分02秒 | 社会・文化・政治・経済
悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書)
 
仲正 昌樹 (著)
 
「安心したい」──その欲望がワナになる
世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか? ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起原』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。

[目次]
はじめに──今なぜアーレントを読むか
序 章 『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?
第1章 ユダヤ人という「内なる異分子」
第2章 「人種思想」は帝国主義から生まれた
第3章 大衆は「世界観」を欲望する
第4章 「凡庸」な悪の正体
終「安心したい」──その欲望がワナになる
世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか? ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起原』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。

世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか?ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起源』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明
かす。
 
■仲正昌樹(なかまさ・まさき)
1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。近年は演劇などを通じて現代思想の紹介にも取り組んでいる。
 
 
 
2019年に購入し、幾度となく読み返しております。
ハンナ・アーレントに興味があり彼女の書籍を手に取る前に読んだ書籍です。
全体主義についてのそもそもの成り立ちや時代背景、当時の人々の意識などを分かりやすい文章で書かれており大変勉強になりました。
私はKindle版で購入しましたが、移動中など思いついたとき
開いて振り返りなどしてます。
おすすめの書籍です。個人的感想ですが、この書籍からアーレントの書籍にチャレンジしても良いのではと思います。
 
 
 
全体主義と言えば。
私の小学校や中学校で。
全体主義による教育が行われていました。
学校教育が教師主体から生徒主体に方針転換したので。
既に全体主義教育は無いでしょう。
陰謀論もナチスが行ったのが最初であると知りました。
自称ジャーナリストの活動家がいましたが。
ファシストの支持者だったのですね。
要するに。
全体主義という悪が現代にもあって。
悪の正体をこれで知ったのです。
全体主義とはファシズムであると知り。
自衛に使えそうです。
悪名高いナチスに何か引っかかって。
ナチスの行為が現代にもコピーされて残っており。
悪を防ぐ情報として使えそうです。
そのまま書籍を引き合いに出して。
全体主義を防げますので。
とても使える訳本ですし。
故きを温ねて新しきを知る。
という格言通りですね。
素敵。
 
 
 
ハンナ・アーレントは「わかりやすさ」を嫌った思想家であった。それゆえ彼女の「わかりやすさを拒否する思想」をわかりやすく概説するというこの手の本には、避けがたい自己矛盾が存在する。
このあたりは著者がべつの本でも触れているとおりで、この本がそうした自己矛盾を踏まえたうえで執筆されたものであることを、我々読者は再三再四胸に刻んでおくべきだろう。

著者の仲正昌樹先生が、この本の最後にも触れているとおり人間という生き物は「すでに語られた、わかりやすい物語」によって、世界をわかった気になってしまう。
なぜなのか、なんなのかという根本哲学を持たないまま、誰かの物語に沿って、与えられた役割を演じる「無思想」的な人々というのは、決して遠い昔の歴史上の愚かな「大衆」だけの問題ではなく、SNSやコメント欄でレスバを繰り返している現代人にも通じるものだ。
現代SNSで、弱みを見せた(ように見える)論敵ばかりを相手取ってつるし上げ、袋叩きにして、一方的に論破したつもりになっている人々などはその典型例に見える。
彼らはSNSやネット動画お手軽に与えられた“奥義(とされるもの)”を習得したことを奇妙なまでに誇り、自分が選ばれし変革者のつもりでいるが、実際の彼らはエコーチェンバーのなかでお決まりの定型文を生成して、「パヨク!反日!」あるいは「ネトウヨ!壺!」を繰り返すだけのチャットBOTである。そんな彼らと反ユダヤ主義のような「世界観」に支配された全体主義の運動員との間には、どれほどの距離があるだろうか。
そういった理由で、今アーレントをもとに全体主義およびそれを成り立たせた世界観と大衆の問題をあらためて冷徹に反省することは、とても重要なことに思える。

しかし、この批判的な反省の目線を社会に向けるだけで終わっていては、不十分であろう。なぜか。
この本の最後でも強調されているように、この世の中は多くの「世界観」や「わかりやすい物語」に支配されている。
それは、あるときは自分たちの定義した「多様性」に従わない人間を社会の敵として排除する“法”を正しさと信じて疑わない人たちのそれかもしれないし、あるいは、その逆の純粋なる意味での排外主義者かもしれない。
または、数学モデルをもたないままに金融緩和を絶対視するMMT論者かもしれないし、その逆の緊縮絶対のハイパーインフレ論者かもしれない。
資本主義を絶対悪とする共産主義者もうそうならば、ノールールの殴り合いを原理的に支持する古典的自由主義者ということもありえる。もしくは、エリートの陰謀に怒りを爆発させるポピュリストかもしれないし、逆に大衆への侮蔑を隠しもしないリベラリストかもしれない。
そして、何より、ハンナ・アーレントを読んで「自分たちのような“わかっている人間”だけはフェアで健全な理性を持っているが、社会には無教養でなにもわからない大衆がたくさんいる」と俯瞰した気になっている人間も、また「世界観」や「わかりやすさ」の内側にいる。
それは余程気をつけなければ、陥ってしまいかねない落とし穴である。この落とし穴は決してわたしとてあなたとて、全く無関係であはいられない問題であるはずだ。
この本がハンナ・アーレントの解説を通じて提示しているのは、そうしたいつのどんな社会やコミュニティにも生じうる“落とし穴”の存在であることは、何度強調しても足りないだろう。
 
 
 
ナチスで行われた残虐な行為は、各党員にとってはただの「仕事」だったということを改めて理解しました。自身がナチスの党員と同じ状況に陥った時、自身の正義を貫き倫理に基づいた行動を起こしたいと思います。
 

創作 今は亡きナオちゃん 7)

2023年10月29日 03時49分52秒 | 創作欄

「ナオちゃんはね、全裸でこの公園の芝生に倒れていたのね」

私は、尚子のあの時の言葉が、ずっと気にかかっていた。

何故、彼女は全裸であったのかと・・・

その公園は彼女が住む下宿から徒歩5分ほどの、青山公園だった。

青山公園、旧陸軍の射撃場跡地と引揚者住宅跡地を整備して昭和45年に公園にしたもので、南北2ヵ所に分かれている。

私は徹夜で、尚子の部屋に寝転びながら彼女の帰りを待っていたのだ。

終電車の時間を過ぎたことで、私は尚子に不信感を抱くことになる。

眠れぬまま過ごすのが段々つらくなる。

そして、午前2時過ぎに青山通に面したコンビニへ酒を買いに行くことになるのだが、同僚である恩田美奈の父親が経営する歌舞伎町の寿司屋では寿司を食べながら ビール1本と日本酒を2合飲んでいたのに、酔った余韻がほとんでなかった。

買った酒は、720mlの純米吟醸酒だった。

尚子の食器棚から小さなコップを取り出し飲み始めた。

「彼女は、どこで、どのように夜を過ごしているのだろうか?」私は死にたい気持ちにもなる。

二人は、友達以上恋人未満の関係ではなく、私の立場では尚子は恋人になっていたのである。

酔いが回ってきて、私は彼女のデスクの書類入れを探る気持ちになる。

「いけないことだ」と気持ちでは躊躇していたのに、尚子が心に秘めていた20歳の時の日記を取り出すこととなるのだ。

その日記には、涙の跡なのだろう、文字の乱れとインクの滲みが残されていた。

ここで、詳しくは記すことは控えたいが、3人の男から、深夜、青山公園内で強姦されたのだった。

何故、深夜に尚子は公園へ行ったのだろうか?

そのことは、日記に記されていなかった。

尚子が深く秘めていた忌まわしい過去を、私は知るべきではなかった―<他人の日記を勝手に盗み読む>私は身分の道義に外れた行為を恥じた。

それは、尚子に対する最大の裏切りだった。

 

 

 

 


だれもが「星の子」

2023年10月28日 09時06分25秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼ただの努力じゃダメだ。強烈な、強烈な努力が必要だ―囲碁の故・藤沢秀行名誉棋聖

▼信じられないほど不幸で悲しくても、現状に負けてはいけません。みんなで変化を起こすのです―ハリウッドスターの

ジュリア・ロバーツさん

2005年12月、『ハリウッド・リポーター』紙が「最も出演料の高い女優ランキング」を発表し、映画1本の出演料が2000万ドル(日本円で約12億円)で1位になった

ちなみに、1967年、ロバーツさんの両親は経済的に困窮していて、誕生後にキング牧師が病院代を払ったそうだ。

キング牧師が凶弾に倒れたのは、ロバーツさん誕生の半年後だった。

ロバーツさんの両親は共に役者で、彼女が幼いときはアトランタで演技学校を経営していた。兄エリックと姉リサの妹として生まれた。ジュリアが幼いころ両親が不仲になり、1972年に正式に離婚(父親はジュリアが10歳のときに44歳で病死[

▼戦いの勝敗は戦術だけではなく、物資の補給や心理的駆け引きなどを含めた総合力で決まるといえるだろう。

▼悩むときこそ、成長の節目となるだろう。

▼一人立つ精神。

<自分発>で能動的に行動することだ。

使命の道に進めば、全てが人生向上の原動力に。

▼人と会い<心ある言葉>で新たな友情を結びたい。

▼人の「命」は最も大切で、かけがいのないもの―それを頭ではなく<実感>として分かっているつもりでも、いざ子どもたちに伝えようとすると、その難しさを感じる人も少なくないではないか。

▼この世に生を受けたこと―は実はすごいことなのだ。

宇宙が誕生して150億年から200億年ともいわれる中で「今、確かなのは、この広大な宇宙の中で、みんなは、こうして地球を選んで、しかも、この<瞬間>とも言うべき今、いっしょに生まれてきたという事実」である。

人の寿命は、せいぜい100年。

宇宙からみれば「一瞬」だ。その一瞬を選んで地球に「生」を受けた。

しかも、同じ「人間」として!

心を静めて考えれれば、「偶然」の一言ですませるには、あまりにも厳粛な事実である。

人体は、「星の中でつくられ、星が爆発して死ぬん時に宇宙に撒き散らされた元素」からできている。

いわば、われわれの体は、星のかけらからできている。

だれもが「星の子」である。

▼人間、誰しもが生まれながらにして、<特別な存在>である。

▼誰もが、宇宙の無限の力を秘めた「小宇宙」。

だから、あの太陽も、自分の心の中にある。

 

 


創作 今は亡きナオちゃん 6)

2023年10月28日 03時39分29秒 | 創作欄

私は、その日、尚子と1泊の予定で箱根へ行く予定であった。
誘ったのは尚子の方であったのに、30分も遅れて小田急新宿南口の改札口姿を見せた彼女は、急ぐ素振りもなくゆったりとした足取りでやってくる。

そして、悪びれる様子もなく、むしろ爽やかな笑顔だった。

私は常に尚子の爽やか微笑みに魅せられていた。

いわゆるお嬢さん育ちの良さと言うのか優雅さが物腰に漂っていた。

社員が100人ほどの飲料水製造や加工食品の中小企業の社長の一人娘であり、母親代わりの乳母や家政婦たちに甘えて育ったようだった。

実は、私は尚子の父親の再婚相手が乳がんで入院している時期に、一度だけ彼女の実家に泊まったことがある。

「お嬢さん、お風呂わきましたよ」中年の家政婦が、尚子の部屋の外で声をかける。

「時ちゃん、お風呂先に入ってね」

私はその言葉に従った。

大きな風呂場で、ヒノキ風呂であった。

誰もまだ入っていないので、湯が透き通るような木の香りが漂う風呂であり、汚していけないと5分ほどで風呂を出る。

「時ちゃん、どうしたの?こんなに早くお風呂を出て」私はパンツ一つの姿だった。

尚子は、わたし用にと用意した真新しい水色模様のパジャマを風呂場まで持って来たのだ。

さすがに、彼女の実家でありこの日は、二人は別々の部屋に寝た。

私は、その夜、尚子から亡き母の写真アルバムを見せられた。

彼女の母親の写真は皆、和服姿ただった。

「ナオちゃんはね。結婚したらママのように着物姿で過ごすわ」

そして、尚子は母の着物を着て私に見せるのだ。

「どう?時ちゃん、ナオちゃんの着物姿は?」彼女は魅惑的ほほ笑む。

私には、26歳の彼女が年上の女のように映じた。

ところで、話は元に戻るが、遅れて姿を見せた尚子は、右足を一歩前に出し、ミニスカートの裾を両手で持ち上げるようにして腰を折る。

それはバレイの挨拶であった。

彼女はその日、珍しく黒いストッキング姿だったのだ。

駅構内を行く人の視線を気にもせずに太ももを露わにする。

「時ちゃん、ごめんなさいね。ナオちゃ用事が出来て、箱根へ行かけなくなったのよ」

「え~!本当ですか?!」私はロマンスカーの二人分の乗車券を既に買っていた。

「なるべき、早く帰るわね。これ部屋の鍵、待っていてね」彼女が肩にかけた黒革のバックから出した鍵を受け取り私は茫然自失となる。

尚子は身を翻して、ゆったりとした足取りで去って行く。

改札口に取り残された私は、何故か、死んでしまいたい気持ちに陥る。

こんなに気持ちが後ろ向きになったことは、過去になかった。

私は新宿で一人映画を観て、それから同僚である恩田美奈の父親が経営する歌舞伎町の寿司屋へ行く。

接客する恩田は愛想を振りまいていた。

それは勤務する新聞社の社内では見せない生き生きとした彼女の姿だった。

「あら、南さんがこの店に姿を見せるなんて、驚きだわ」おしぼりを手にする恩田は和服姿だった。

私はその和服姿が、尚子の和服姿と重なったのだ。

祝日を含め二日続きの連休の夜は、虚しいく更けていった。

そして、尚子の部屋で待つ私は、時計ばかり気にしていた。

彼女の書棚から取り出して、チェーホフの小説を読んでみた。

終電車の時間は既に過ぎていた。

思えば不思議である。

尚子の隣の部屋に住む下宿人が、私の恋愛相手に発展するとは・・・

「大山さんには、過去に異常な性の体験があるのでは、ないかな?そんな気がするんだ」過去に、他社の記者で大学の先輩でもある森勝彦が言っていたことが、突然よみがえる。

「異常な性体験とは、何なのだろうか?」

私はこの夜、大山尚子の過去を感じ取りたい気持ちに突き動かされる。

「尚子の過去を探りたい」その衝動は、あらぬ方向へ、私を向かわせる。

そして私は、彼女の部屋のデスクの奥にしに秘められていた20歳の時の日記を発見する。

その内容に私は大きな、言い知れる衝撃を受けたのだ。


創作 今は亡きナオちゃん 5)

2023年10月27日 21時21分11秒 | その気になる言葉

佐野昌平支社長から、恩田美奈は「君は、限界だ。辞めてもらうよ」退社を迫られた。

だが、恩田美奈は大学の先輩が勤務する女性週刊誌に前から誘われていたので、潮時と判断したのだろうか、すんなりと「分かりました」と退社を受け入れて、社を去ってゆく。

恩田はその後、当時14歳であったアイドルの山口百恵のインタビュー記事も書いている。

一方、大山尚子は彼女を採用時に面接した大阪本社の専務兼主筆に泣きついたものの、「オオちゃん、1、2年、ワイの下で修業するんや。ええな」と説得される。

尚子の追い出しに成功した事務職員の浜地詩乃は、私にアタックしてきたのだ。

そのように仕向けのは、皮肉にも私の上司であり、大学の先輩の能見優斗であった。

「南、大山なんか相手にするな。あんなふざけた女はいないぞ!」私を日本橋の居酒屋に誘った能見は意外なことを言うのだ。

「南は、本当に大山に惚れているのか、どうなんだ」

「大山さんは、同僚以上の関係ではないんです」

「そうなのか。それなら、俺はこれ以上は大山については、何も言ういわない」

私はこの時、「何んのことですか?」と上司に質すべきだった。

尚子に私が知らない「裏の顔」があったことを、知るのが怖かったのかもしれない。

後年に知ったのであるが、尚子は夜の赤坂や渋谷で金銭目的で男漁りをしていたのである。

遅刻、欠勤が増えた尚子に疑心暗鬼となった能見は、退社後の尚子を尾行していたのだ。

「南、浜地詩乃さんと真剣に交際しないか? 彼女は前々から、お前さんに惚れているそうだ。浜地さんは千葉の女で情は深いぞ。どうなんだ?」私は、「自分のことを好きだ」と言う女性が身近にいたことに、言い知れない思いがしてきた。

私は、浜地の尚子に対するいじめは、私への浜地の好意の裏返しなのかと考えてもみた。

だが、浜地は27歳の私より3歳年上であったのだ。

私は母親に、浜地詩乃のことで相談した。

だが、「相手はお前より3歳も年上なの、絶対にダメ!」母親に強い口調で言われ、返す言葉もなかった。

私は情けないこのに、子どものころから、母親にほとんんど逆らえない優柔不断な男だった。