路面電車とは道路上に敷設された軌道(「併用軌道」)を走行する電車である。路面電車向けの「軌道法」により敷設されるが、同法による道路以外の「新設軌道」もある。
最盛期は1日193万人利用 銀座や浅草を走っていた時代も 都電荒川線は東京都荒川区、北区、豊島区、新宿区にまたがる12.2キロの路線で、全30カ所の停留場を備える。
東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例[1]及び東京都電車条例[2]に基き東京都(交通局)が経営する路面電車である。一般には都電(とでん)と呼称される。1972年以降は、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ12.2 kmのみが運行されている。
前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となった。
最盛期(1955年頃)には営業キロ約213 km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。
1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、残存区間は1974年に荒川線として恒久的な存続が決定し今日に至っている。
歴史
創業期
東京馬車鉄道の開業
東京における都市交通の歴史は、1872年(明治5年)頃に日本最初の鉄道が開業したのと相前後して乗合馬車(通称:円太郎馬車)と人力車が登場したことに始まる。1876年(明治9年)には乗合馬車は170台、人力車は2万4000台以上が活躍していた[3]。
一方、東京の人口は1873年(明治6年)の60万人から1881年(明治14年)には114万人に増加していた[3][4]。そこでより大量輸送に適した交通機関として馬車鉄道の計画が持ち上がり、1880年(明治13年)2月、元薩摩藩士の谷元道之、種田誠一らによって新橋から日本橋本町、上野、浅草を経て再び本町に至る全長10マイル(約16km)の循環線敷設が出願された[5][4]。谷元らの出願は同年12月28日付で認可され、日本最初の私鉄[注釈 1]となる東京馬車鉄道株式会社(資本金30万円、本社芝区汐留町二丁目[6])が設立された。
馬車鉄道の営業は1年半後の1882年(明治15年)年6月25日にまず新橋 - 日本橋間で開始され、同年10月1日には循環線が全線開業した[4]。開業当初こそ失業を恐れた人力車夫たちの反対運動に遭ったものの、東京市の人口増加や上野・浅草方面への行楽輸送を背景に馬車鉄道は大きな成功を収め、開業20年目の1902年(明治35年)度には年収140万円、客車300両と馬匹2000頭を擁し、多客時には1時間に60 - 70台もの高頻度運転を行うほどの盛況ぶりとなった[4]。また1897年(明治30年)12月には品川・八ツ山下 - 新橋間に品川馬車鉄道が開業したが、1899年(明治32年)に東京馬車鉄道に吸収合併された[4]。
しかし馬車鉄道は東京市民の生活を便利にした反面、課題も少なくなかった。経営的にはウマの飼育に莫大な費用がかかること[7]、乗客の増加に対し運転回数が限界に達していてこれ以上の需要拡大に対応できないことが課題であった[8]。またウマの蹄によって路面が損傷し、馬糞混じりの砂塵が飛び散ることへの沿線住民の苦情は跡を絶たなかった[4][8]。
電車開業までの経緯
そこでより近代的な交通機関として路面電車が計画されるようになり、1889年(明治22年)には大倉喜八郎、藤岡市助ら東京電燈関係者や実業家の立川勇次郎らが政府に敷設計画を出願した[4]。だが当時は電気鉄道そのものがまだ誕生して間もない技術であり[注釈 2]、これらの出願は時期尚早とみられ認可されなかった[4]。そこで翌1890年(明治23年)に東京・上野公園で第三回内国勧業博覧会が開催されると、東京電燈は同社技師長であった藤岡市助主導のもと会場内に170間(約300m)の軌道を敷設し、藤岡らが米国視察の折購入した電車のデモ運転を行った[4][9]。入場料3銭に試乗料2銭と決して安くはなかったが、電車の静粛さや物珍しさも手伝ってデモ運転はたちまち大評判となり、内国博をきっかけに電車敷設の動きは本格的なものとなった[4][9]。こうした経緯を経て、1895年(明治28年)に開業した京都電気鉄道[注釈 3] を皮切りに名古屋電気鉄道[注釈 4]、大師電気鉄道[注釈 5]小田原電気鉄道[注釈 6] など、全国各地で電気鉄道が続々と開業していった[4][10]。
ところが東京では1893年(明治26年)から1899年(明治32年)の6年間で35社もの出願が相次ぎ、特許権獲得をめぐって対立しあっていた[10][11][12]。特に有力な出願者だった東京馬車鉄道、雨宮敬次郎らの東京電車鉄道、藤山雷太らの東京電気鉄道、利光鶴松らの東京自動鉄道の4社の対立は激しく、許認可が自由党と進歩党の政争の具にされたり、電車を民営とするか市営とするかで東京市会や市参事会が紛糾するなど、大きな混乱が生じた[10][11][12][13]。また当時東京市内の都市計画を担っていた東京市区改正委員会が電気鉄道の敷設条件について介入[注釈 7]したことも混乱に拍車をかけた[10][11][12]。デモ運転から10年が過ぎた1900年(明治33年)、紆余曲折の末内務省は東京電車鉄道、東京電気鉄道、東京自動鉄道の3派が合同して組織した東京市街鉄道、岡田治衛武[注釈 8]らが四谷信濃町 - 青山 - 渋谷 - 池上 - 川崎間などの路線を計画して設立した川崎電気鉄道、そして既設の東京馬車鉄道の3社に対して特許を与えた[10][11][12][13]。
東京市電の誕生[編集]
3社のうちまず最初に開業したのは東京馬車鉄道から改称した東京電車鉄道(通称:電車[15]、東電[15]、電鉄[16]。前節の東京電車鉄道とは別会社)で、1903年(明治36年)8月22日に馬車鉄道線のうち品川 - 新橋間を電化して三重県の宮川電気線[注釈 9] に次ぐ日本8番目の電気鉄道となった[4][13]。運転未熟と軌道に石が入るなどで終点まで約1時間30分を要し(3銭。乗客8872人)、11月25日上野まで開通した[17][18]。東京電車鉄道は1904年(明治37年)3月までに全ての路線を電化し、馬車鉄道の運行を廃止した[13]。
東京電車鉄道に遅れること25日後の1903年9月15日には東京市街鉄道(通称:街鉄[15][16])が数寄屋橋 - 神田橋間で開業した[13]。その後同社は同年11月に日比谷 - 半蔵門間、12月には神田橋 - 両国、半蔵門 - 新宿間などを開業させていき、営業キロや乗客数、運賃収入などの面において3社中最大の会社となった[13][19]。
1900年に川崎電気鉄道から改称した東京電気鉄道(通称:外濠線[16]、電気[15])は、1904年12月8日に土橋[注釈 10] - 御茶ノ水橋間で開業し、その後皇居外堀に沿って飯田橋、四谷、赤坂などを経由し土橋に戻る環状線を建設した[13][15]。
この様に、東京市内の路面電車は3つの会社によって別々に整備された。だが市民にしてみれば、こうした状況は電車を乗り換える度に運賃が嵩む[注釈 11] 不便さがあり、次第に運賃の共通化を求める声が大きくなった[19]。一方各社の経営陣は、当時日露戦争の戦費調達を目的に通行税が新設されたこと、また内務省の要請で運賃の早朝割引を開始したことなどが経営の負担になっているとして運賃の値上げを計画しており、1906年(明治39年)には利用者の要望に応えるという建前で運賃の共通化と同時に値上げを申請していた[19]。そして同年9月11日に3社が合併して東京鉄道(通称:東鉄)を設立すると、翌12日には運賃を4銭均一に引き上げた[19]。しかし日露戦争に伴う増税や物価高が負担になっているのは市民も同じであり[注釈 12]、合併と値上げが認可された直後から激しい反対運動が起こり、同年9月5日には日比谷公園で開かれた集会の参加者が暴徒化して電車が投石される事件まで発生した(詳細は東京市内電車値上げ反対運動を参照)[19][20]。
折しも当時は1903年に大阪市が市営電車を開業したことで電車事業の公益性が意識され始めた時期で、この一件をきっかけに東京でも電車の市有市営を求める世論が高まった[20]。そこで東京市はかねてからの市営派だった尾崎行雄市長の音頭で東京鉄道の市有化に乗り出し、1907年(明治40年)12月には同社との間に買収価格6750万円で仮契約を締結した[20]。ところが東京市が内務省に提出した買収認可申請が翌1908年(明治41年)1月に却下されてしまった上、その直後に東京鉄道が突如買収を拒絶したことから、東京市は市有化を一時見送ることにした[20]。
買収が不発に終わった同年の12月、東京鉄道は再び5銭均一への運賃値上げを申請し、前回にも増して猛烈な反対運動が起ったことで政府もついに東京鉄道の市有化を本格的に検討するようになった[20]。1909年(明治42年)10月、時の逓信大臣[注釈 13]後藤新平は尾崎市長に3か条からなる覚書を示して、一定の条件の下で東京鉄道の市有化を認めることを約束した[20]。この覚書をもとに東京市は再び東京鉄道の買収に臨んだが、東京鉄道が市の提示した買収価格5800万円を不服としたので物別れに終わった[20]。
だが市有化問題が長期化すると、最初買収を却下した内務省も次第に市有化容認に傾き、1911年(明治44年)6月になり平田東助内務大臣は後藤逓相、一木喜徳郎内務次官列席のもと、尾崎市長に対して東京鉄道の買収を勧告した[20][23]。勧告を受けた東京市は同年7月1日から買収交渉を再開し、政府の仲裁もあって7月6日には買収価格6416万5518円[注釈 14] で合意し改めて買収仮契約を締結した[23]。買収案は7月9日に東京市会、7月24日に東京鉄道の臨時株主総会でそれぞれ承認され、7月31日付で政府の買収認可が交付された[23]。こうして東京市内の路面電車は1911年8月1日から新設された東京市電気局に引き継がれ、東京市電が誕生した[23][24]。
市電時代[編集]
第一次世界大戦と市電黄金期[編集]
大正時代の絵葉書。1910年代後半から20年代初頭にかけて、東京市電は流行歌(パイノパイノパイ)に「東京の名物 満員電車いつまで待っても 乗れやしねえ」と歌われるほどの混雑を呈した。
東京市電の発足後、東京市電気局は路線網の大規模拡充を図り、1913年(大正2年)度から1916年(大正5年)度までの4年間に総額1317万6000円を投じて未成線128.7kmを整備する第一次継続事業計画に着手した[25][26]。東京市電は発足時点で既に営業キロ98.8km(軌道延長192.4 km)、局員7861名、車両1054両、1日の乗客数約51万人という規模を有していたが、東京鉄道時代に特許権を取得して開業に至っていない未成線も180km余り引き継いでおり、市有化で電車の整備が進むと市民から大きな期待が寄せられていたためであった[24][25][26]。当初は全ての未成線を4カ年計画で整備する予定であったが、財政への悪影響を懸念した監督官庁の指導で計画を第一期と第二期に分割し、このうち第一期線が第一次継続事業計画の対象となった[26]。
積極的な拡大方針により、東京市電の営業キロは市有化から1914年(大正3年)度末までの5年弱のうちに30km以上伸びて128.0 km(軌道延長255.3 km)となり、市内のみならず目黒、渋谷、新宿、大塚、巣鴨など当時まだ東京市外の郡部だった地域にも電車が開通した[26][27][28][29]。ところが1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、金融市場の混乱で市債発行による資金調達が難しくなった上、日本国内では大戦景気と呼ばれる好景気で物価が著しく高騰し路線整備にも支障をきたすようになった[27]。やむなく市電気局は第一次継続事業計画の見直しを行い、1915年(大正4年)2月には市会の議決を得て修正予算案と事業期間の2年延長を決定したが、1915年度の新規開業はわずか0.4 km、1916年(大正5年)度は皆無に終わり、大規模な新線建設は市有化後の数年間推進されただけで頓挫してしまった[27]。運賃も物価高騰に伴い1916年7月には片道4銭から5銭(往復9銭)、1920年(大正9年)6月には7銭(往復14銭)へと値上げされた[27][30][31]。
一方で好景気とあって交通需要も増大著しく、1日の乗客数は1916年度の約72万人から1919年(大正8年)度には約108万人、1922年(大正11年)度には約131万4000人と6年あまりで約1.8倍の増加となった[27][30]。これにより営業係数34.3[注釈 15] を記録した1917年(大正6年)頃から経営状況は好転し、以降も1921年(大正10年)度、1922年度には減債基金の積立や市経済への繰入を行ってなお400万円以上の剰余金を計上するなど大幅な黒字経営に転換した[30][32]。この時期の東京市電はほとんど唯一の近代的交通機関として市内交通の8割を担っており、1910年代後半から20年代前半にかけての時期はまさに東京市電の「黄金期」であった[30][33]。
もっとも、乗客が増えてもそれを輸送する路線や電車の整備が進んでいなかったため、黄金期の市電では慢性的な混雑が大きな問題となった。特に1910年代から出現した通勤ラッシュ時の混雑は深刻で、乗車まで30分から1時間待ちになることや乗り切れない乗客が車外にまで鈴なりにぶら下がるといったことが常態化し、「東京名物満員電車」として当時の絵葉書や俗謡(東京節)の題材にされるほどであった[27][30][34][35][36]。この事態に市電気局は日本の路面電車車両としては初の3扉電車1653形200両を製造したほか単車と呼ばれる小型電車の2両連結運転を行うなどの対策を採ったが、より抜本的な解決策として1920年度から新たに第二次継続事業計画に着手した[30]。第二次継続事業計画は総事業費1億3230万円を投じて未成線約80kmの建設と車両2050両の新造及び改造、車庫15か所と変電所20か所の新設、さらに既設線の架線や軌道の改良も行う一大プロジェクトであったが、結局関東大震災の発生で見直しを余儀なくされた[30]。
関東大震災からの復興[編集]
1923年(大正12年)9月1日、いわゆる関東大震災が発生すると、東京市電は電力設備の機能停止で送電が途絶したちまち全線で運転不能となった[37]。さらに地震後の大火災によって電気局本庁舎をはじめ営業所4か所、車庫5か所、車両工場などが全焼し、焼失した電車は779両に及んだ[37]。設備の被害は軌道152km、架線66km、橋梁26か所などで、被害総額は市電だけで2500万円、市営電灯を含めた電気局全体では4000万円に上った[注釈 16][37][38]。
本庁舎を失った電気局は、9月2日に東京市役所、次いで9月3日に桜田門外にあった資材置き場に仮本部を設置し、大阪市電気局などの協力を得て復旧に取り掛かった[39]。市電の復旧は比較的被害の少なかった山の手方面から着手され、早くも9月6日には神明町車庫前 - 上野三橋間、9月8日には青山六丁目 - 桜田門、四谷塩町 - 泉岳寺前間で運転再開に漕ぎ着けた[37]。被害の大きかった下町方面も同年10月20日柳島 - 亀沢町間で運転を再開したのを皮切りに復旧が進められ、1924年(大正13年)6月12日には市電全線の復旧が完了した[39]。また1924年(大正13年)1月18日からは市電復旧までの代替措置として都営バスの前身である東京市営バスの運行が開始され、市電復旧後も引き続き東京市民の足として活躍することとなった[40]。
震災後の経営不振
しかし関東大震災後、東京市電の利用者数は1924年度(大正13年)の1日平均136万人をピークに減少傾向となり、1934年度(昭和9年)度にはピーク時の6割ほどの約78.8万人まで減少した[41]。
これは関東大震災を契機に自動車の有用性が広く認識されたことで、日本国内でも初期的なモータリゼーションが始まり[注釈 17]、雨後の筍の如くに乱立した路線バスやタクシー事業者との激しい競争に見舞われたためである[注釈 18][41]。また震災後は郊外の宅地開発や都心部のビジネスセンター化など都市構造の変化が進み、省線電車や私鉄が郊外へと路線網を拡大した一方、既存の市街地にしか路線を持たない市電は交通需要の変化に十分対応できなかったことも不振の一因であった[41]。
さらにこの頃になると、路線の拡充などのため度々発行してきた市債の償還が大きな負担となり、乗客の減少と相まって1935年(昭和10年)度には市債費が運賃収入の96%にまで膨れ上がっていた[注釈 19][41]。
年表
前史[編集]
1903年(明治36年)
8月22日:馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(電鉄[16])が、品川 - 新橋間を開業。
9月15日:東京市街鉄道(街鉄)が数寄屋橋 - 神田橋間を開業[42]。
11月1日:街鉄 日比谷(日比谷公園) - 半蔵門間が開業。
11月25日:電鉄 芝口(芝口一丁目) - 上野間が電化開業。
12月29日:街鉄 神田町 - 両国間・半蔵門 - 新宿間が開業。
1904年(明治37年)
1月31日:街鉄 須田町 - 本郷四丁目間が開業。
2月21日:電鉄 本銀町角 - 馬喰三丁目 - 浅草橋間・浅草橋 - 横山町三丁目 - 本町角間がそれぞれ単線一方通行で電化開業。
2月25日:電鉄 浅草橋 - 雷門間が電化開業。
3月18日:電鉄 雷門 - 田原町 - 菊屋橋・合羽橋 - 上野停車場前 - 上野間が電化開業。田原町 - 上野停車場前間は菊屋橋経由が上野方面、合羽橋経由が雷門方面への単線一方通行。東京電車鉄道が全線電車化。
5月15日:街鉄 数寄屋橋 - 茅場町 - 両国間・茅場町 - 亀住町間が開業。数寄屋橋を数寄屋橋内に改称。
6月21日:街鉄 日比谷(日比谷公園) - 三田(本芝)間が開業。
9月6日:街鉄 三宅坂 - 青山四丁目間が開業。
11月8日:街鉄 本郷四丁目 - 上野広小路間が開業。本郷四丁目の須田町方面を本郷三丁目に改称。
12月8日:東京電気鉄道(外濠線)が土橋(新橋駅北口) - 御茶の水間を開業。
12月17日:街鉄 小川町 - 俎橋間が開業。
1905年(明治38年)
4月3日:外濠線 土橋 - 虎ノ門内間が開業。
4月5日:外濠線 御茶ノ水 - 東竹町(竹町)間が開業。
5月12日:外濠線 東竹町(竹町) - 神楽坂(神楽坂下)間が開業。
6月3日:街鉄 両国 - 亀沢町間が開業。
7月18日:街鉄 上野広小路 - 西町間・亀沢町 - 小島町間が開業。
8月12日:外濠線 神楽坂(神楽坂下) - 四谷見附間が開業。
9月15日:外濠線 四谷見附 - 葵橋間が開業。
9月17日:街鉄 西町 - 小島町間が開業。
10月:東京の地理教育を目的に、3社による当時の路線をうたった歌として「東京地理教育電車唱歌」(全52番)が発表される。
10月11日:街鉄の桜田門 - 霊南坂間と外濠線の葵橋 - 虎ノ門間が開業。街鉄霞ヶ関 - 霊南坂間の一部と外濠線葵橋 - 虎ノ門間の一部が被るために共用線として同時に開業。路線としての外濠線が全通。
11月23日:外濠線 師範学校前 - 神田松住町間が開業。
12月29日:街鉄 半蔵門 - 三番町間が開業。
1906年(明治39年)
1月20日:街鉄 三番町 - 市ケ谷見附間が開業。三番町を招魂社脇(招魂社横)へ改称。
3月3日:外濠線 信濃町 - 天現寺橋間が全線専用軌道で開業。外濠線と線路が繋がっていないため車両のやり取りは街鉄線を経由して行われた。
3月21日:街鉄 俎橋 - 飯田橋が開業。
4月13日:街鉄 三原橋 - 蓬莱橋間が開業。
8月2日:電鉄 菊屋橋経由の上野停車場 - 田原町間が複線化。それに伴い合羽橋経由が廃止。
9月11日:電鉄・街鉄・外濠線の3社が合併し、東京鉄道(東鉄)成立。
9月12日:東京鉄道としての運行が開始。
1907年(明治40年)4月:東京市会において東京鉄道の買収を決議。
1911年(明治44年)
7月31日:東京鉄道の買収について東京市営の許可がおりる。
8月1日:東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市電となる。
8月22日:王子電気軌道(王電)が大塚 - 飛鳥山上間を開業。
12月31日:東京市電で日本の交通事業史上初のストライキが行われる[43]。
1917年(大正6年)12月30日:城東電気軌道、錦糸町 - 小松川間を開業。
1921年(大正10年)8月26日:西武軌道、淀橋 - 荻窪(現・荻窪駅南口)間を開業(10月1日、武蔵水電に合併[44]。さらに1922年(大正11年)6月1日帝国電燈に合併)。
1922年(大正11年)
6月11日:玉川電気鉄道(玉電・1907年(明治40年)開業)渋谷 - 渋谷橋間を開通。
11月16日:帝国電燈、西武鉄道(旧社)に鉄軌道事業を譲渡[45]。
1924年(大正13年)3月29日:京浜電気鉄道品川駅(現・北品川駅)と接続、直通運転を開始。
1925年(大正14年)3月20日:女性の車掌68人が乗務を開始[46]。
1926年(大正15年)6月11日:東京市電自治会(労働組合)が15年度大会を開催。全自治会員15000人が労働農民党へ入党することなどを議決[47]。
1933年(昭和8年)4月1日:京浜電気鉄道との直通運転を取り止める。
1935年(昭和10年)12月27日:西武鉄道(旧社)、東京乗合自動車(青バス)に新宿軌道線の経営を委託。
1937年(昭和12年)3月25日:城東電気軌道、青バスに吸収合併される[48]。
1938年(昭和13年)
4月15日:玉電、東京横浜電鉄に合併。
4月25日:青バス、東京地下鉄道に吸収合併される。同社は城東軌道線を引き続き経営し、西武鉄道(旧社)から新宿軌道線の経営を受託する。
10月14日:東京横浜電鉄、旧玉電路線の渋谷以東部分(下記)の経営を東京市へ委託する。
渋谷東横百貨店前(現・渋谷駅東口) - 天現寺橋間
渋谷橋 - 中目黒間
1941年(昭和16年)10月13日:三原橋 - 下板橋間で配給米の運搬が始まる。トラックのガソリン使用を軽減する目的で、専用車が用意された[49]。
1942年(昭和17年)2月1日:東京市が王電と東京地下鉄道の城東軌道線(下記)を買収し、東京地下鉄道から新宿軌道線の運営管理を引き継ぐ。
(旧王電路線) 早稲田 - 王子駅前間、赤羽終点 - 三ノ輪橋間
(旧城東路線) 錦糸町 - 西荒川間、水神森 - 洲崎間、東荒川 - 今井橋間
(運行管理路線) 新宿駅前(現・駅ビル「ルミネエスト新宿」の北端辺り) - 荻窪間
1944年(昭和19年)新宿駅前 - 角筈一丁目(新宿大ガード西交差点)間休止
1943年(昭和18年)
3月9日:東両国二丁目 - 両国駅間休止
4月28日:土橋ループ、若松町引込線、白山上 - 本郷肴町(のちの向丘二丁目)間休止
この路面電車は現在、どのように利用されているのか。 東京都交通局によると、2018年度の1日平均乗車人数は約4万7000人。
また専用の通行空間をもつ鉄道は、「鉄道事業法」に基づいているが、例外的には道路に敷設が可能である。例えば鉄道路線である江ノ島電鉄は一部に道路併用区間(江ノ島~腰越)を有する。
最も長い路線をもつ路面電車は、土電(とでん)の愛称で親しまれている土佐電気鉄道であり、延長は25.3キロである。
広島電鉄は市内線と直通で路面電車が走る鉄道路線として宮島線16.1キロ(JR山陽本線とほぼ並行)を有しており、これを加えると広島電鉄が最長の路面電車ということになる。
・日本初の路面電車は1895(明治28)年に京都で誕生
・全盛期1932年には全国67都市、83事業者、路線延長1479キロ
・1965年以降、急速なモータリゼーションやバス、地下鉄への転換により衰退
・年間利用者数、戦後最盛期1957~62年は約26億人。近年は2億人を下回る。
・現在17都市、19事業者、路線延長約238キロ(うち鉄道区間約32キロ)
・最近、海外の再評価に合わせて日本でも中心市街地の活性化、環境負荷の軽減、高齢化対応の点から路面電車に再び光が当てられ、バリアフリーの低床車両化や運行方法の改良を進めたLRT(ライトレール・トランジット)として、富山ライトレール(富山駅北~岩瀬浜間7.6キロ)が2006年に旧JR富山港線を継承する形で導入されるなど地域密着型乗り物として見直されている。
邦題がダメすぎだけど、内容はよかった。