利根輪太郎競輪人間学 出目作戦の背景

2023年08月31日 21時47分00秒 | 未来予測研究会の掲示板

競輪仲間の虎さんが言っていたことが思い出された。

「俺は、競輪を知り過ぎたのだ。だから、車券が当たらないんだ」

利根輪太郎は、「言わんとすることが、分かるような気持ちもした」。

皮肉なことに、元競輪選手たちの予想は、意外と的中しないのだ。

そこで、利根輪太郎は出目作戦へとシフトしていった。

例えば、「外した車券をどこまでも追い駆ける」

これは、根気と強い執念が欠かせない。

あるいは、自身のラッキーナンバーである2-7と7-2を買い続ける。

利根輪太郎は7月27日生まれであるのだ。

ある時期は、5-8を  追いかけた。

愛した女が5月8日生まれだったので、5-8-4 5-8-6を各1万円買ったのだ。

200万円を超える大穴車券の的中であり、花月園の競輪場から、タクシーに乗って彼女が勤める浅草橋の店へ向かった。

だが、競輪はそんなに甘いものではなかった。

そこで、思いついたのが、出目の下がり目、上がり目。

本命◎の人気選手のとなりが車券の軸。

本命◎が1番なら2番か9番が軸。

本命◎が2番なら1番か3番が軸。

本命◎が3番なら2番か4番が軸。

本命◎が4番なら3番か5番が軸。

これが、利根輪太郎考案の出目作戦なのだ。

結論!

ボックス車券が一番かもしれない。

本命5-1-9

結果 9-1-5

競輪には、魔物がいるのだ。

盲点があるとすれば、人気薄の9番か8番流しである。

これは、地方競馬に身を入れていた友人の若さんの出目作戦なのだ。

 

 

 

 

 

 

 


カザフスタンで核実験450回以上

2023年08月31日 21時34分50秒 | 社会・文化・政治・経済

カザフスタン共和国のセミパラチンスク核実験場においては、旧ソ連時代に450回を越える核実験が行われた。この核実験は多くの被害をもたらし、今日でも一説によれば100万人を越える被害者がいるとされる。被害の実態の科学的解明は、旧ソ連時代核実験であることが秘密とされていたこともあり、ソ連崩壊後漸く始まった。

現在では、放射線物理学、生物学、医学の分野で研究が徐々に蓄積されている。

本論文は、自由記述の証言を含むアンケート調査という方法によって、セミパラチンスク核被害の実態の一端を明らかにするこ
とを目的とする。
広島大学原爆放射線医科学研究所は、1994年以降セミパラチンスク核実
験場近郊の被曝の実相解明を研究テーマの一つとし、星正治を代表とする研究
グループが、セミパラチンスク市を中心とする広い範囲において、核実験場近
郊での被曝線量評価、住民の甲状腺の検診、血液中のリンパ球の染色体異常等
の調査研究を行い、10年間の実績を積んできた。その結果、放射線の影響が
住民の健康に影響を与えていることを学術的に証明してきた

同研究グループはその調査過程において、放射線障害が原因と考えられる健康不良を訴える多くの被曝者と接し、被曝体験に関わる重要な証言を聞く機会を得た。
そこで、我々の研究グループは、セミパラチンスク核実験場近郊住民を対象としたアンケートによる被曝実態調査の必要性を痛感し、2002年より被曝実態に関するアンケート調査を開始した。

広島と長崎の場合、多数の被爆手記や証言が公表され、記録されている。

また、被爆者団体や公的機関によって大規模なアンケート調査も行われてきた。

これに対して、セミパラチンスク核実験の被曝者について、手記、証言、アンケート調査は、旧ソ連時代は言うまでもなく、ソ連崩壊とカザフスタン独立後も、ほとんどないと言って過言ではない。

少なくとも、本格的なアンケート調査は皆無である。

それゆえ、アンケートという手法を用いたセミパラチンスクの被曝実態の解明は、はじめての試みである。

 


利根輪太郎の競輪人間学 ズブズブの展開に!

2023年08月31日 15時17分38秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 向日町競輪 開設73周年記念 

6レース

並び予想 5-1-9 8-2-6 7-3-4

レース評

オールスターでの2連対を評価して志田に◎としたが、積極性が増した坂本は脅威で番手の阿部を軸の手も。山口翼に穴の魅力

1番人気 5-1(4・2倍) 

5-1-9で固いと勝負する。

だが、いわゆる、ズブズブとなる。

本命の◎が逃げてしまうと、こんな惨敗となるのだ。

どうしても、1-5-9のボックス車券も買えないのだ。

結果 9-1 2万1,400円(38倍) 9-1-5 4万5,280円(107倍)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 9 山内 卓也   11.6   3番手交し
2 1 山口 泰生 1/2車輪 11.7   残し交され
3 5 志田 龍星 1/2車身 11.9   B 鐘前押先行
× 4 3 阿部 力也 1/8車輪 11.5   S 前不発追込
  5 2 関 貴之 1/2車身 11.5     山口翼一緒
6 8 山口 翼 1車身 11.7     中団内被り
7 7 坂本 紘規 1/2車輪 11.7     外併走捲ず
  8 6 小林 潤二 微差 11.5     失敗ライン
9 4 佐藤 雅春 3車身 11.9     外併走遅れ

7レース

並び予想 9-3 1-5 4-2 7(単騎) 6-8

レース評

予選は目下5連勝中の蕗沢。好機に仕掛けて前団を飲み込む。磯田が続いてG前勝負。若手の高田に託す山本の抜け出し一考。

 

1番人気 9-3(4・4倍) 2番人気 9-2(7・7倍)

9-3 9-2の3連単で勝負する。

9番の捲り不発である。

結果 7-2 9,270円(24番人気) 7-2-9 3万8,450円(105番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 7 石塚 孝幸   11.3   単騎好位鋭
× 2 2 山本 伸一 1/2車身 11.5   併せ番手捲
3 9 蕗澤 鴻太郎 1/2車輪 11.3   S 大外捲届ず
4 3 磯田 旭 1車輪 11.3     蕗沢マーク
  5 8 愛敬 博之 1/2車輪 11.3     前不発切替
6 5 石丸 寛之 1/2車身 11.4     竹内が不発
7 4 高田 修汰 3車身 11.9   B 踏合い捲れ
8 1 竹内 翼 2車身 12.0     捲り併され
  9 6 三浦 貴大 大差 15.9     踏合い後退

戦うのも、勝利するのも自分自身だ

2023年08月31日 10時54分07秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼感情の対立はよくあることだ。

それは結局、自己の立場を固執するところからくる破綻にほかならない。

しかし、ひとだれびともに家庭や組織を構成している一員であるとの共通感情に立つならば、事態は意外にたやす好転するはずである。

その共通感情が、崇高なものであればあるほど、自分と異なる、さまざまな生き方を包容することができ、対話が実り多いになることは言うまでもないことだろう。

▼親の言いとおりにして、順調に進んでいる場合も多い。

だが、若干、親が古い考え方である場合とか、親の思いやりの過重さが災いとなって、子どもに納得と理解をさせないで、強引に、その方向にいかせようとしている恐れもある。

時代とともに変化するものも大きいし、結論的には、自分自身の希望の道を、自分自身が責任をもって、自分自身つくりあげ、自分自身が苦労して、悔いのない道を決め、歩んでいくことが正しい方向である。

なずなら、一生は長いからだ。

歩むのは自分自身であり、戦うのも、勝利するのも自分自身だ。

いつまでも、親がいるわけではない。

親は、子どもの希望の方向へ、力強く支援していく姿勢の方が、親子ともに満足の方向が見いだせるのではないか。


利根輪太郎の競輪人間学 本命◎ライン競り負ける

2023年08月31日 09時19分33秒 | 未来予測研究会の掲示板

競輪仲間であった荻(オギ)さんが言っていたのだが、「競輪は簡単!」

彼曰(いわ)く、競輪は「1-2-3-5-7」のボックスで決まることが多いんだよ」

5点ボックス車券なら、6000円。

6000円を1レースに投じるかどうかの問題。

それを、利根輪太郎は実践した時期があった。

1レースに1点500円なので3万円を投じた。

醍醐味(破壊力・突破力)、ワクワク感あるが、結局、長続きはしなかった。

 

 FⅠ 前橋競輪 報知新聞社杯

最終日(8月30日)

8レース

並び予想 1-7-4 3(単騎) 2-5-6

レース評

初日に逃げた神田はシャープ。最終日は南を目標に勝利で締める。笠松が3番手となり中近本線。鈴木−河野−飯嶋が抵抗。

 

1番人気 7-1(2・9倍)

2番人気 1-7(6・2倍) 

以下の車券で勝負!

7-1-4(4・6倍)

7-1-2(29・4倍

7-1-5(16・3倍)

7-2(23・6倍)

7-5(14・9倍)

まさか 、2番に競られて、本命◎の7番が落車するとは!

これが、走る格闘技なのだ。

結果 1-2 5,100円(13番人気) 1-2-5 1万5,480円(42番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 南 潤   9.8 B  
2 2 鈴木 玄人 1/2車輪 9.8    
× 3 5 河野 通孝 3/4車身 9.8      
  4 6 飯嶋 則之 6車身 10.1      
5 3 佐藤 愼太郎          
4 笠松 信幸       S  
7 神田 紘輔

8レース

並び予想 6-1 2-5 4(単騎) 7-3

レース評

初日に逃げた神田はシャープ。最終日は南を目標に勝利で締める。笠松が3番手となり中近本線。鈴木−河野−飯嶋が抵抗。

1番人気 7-3(3・7倍) 3-7(3・7倍)

以下の車券を買う

3-7-4(8・0倍)

3-7-2(12・7倍)

3-7-5(31・4倍)

3-4-7(23・8倍)

3-4-1(158・8倍)

3-4-2(62・0倍)

3-4-5(132・4倍)

3-2-7(37・9倍)

期待の本命◎の7-3ライン2-5ラインに競り負ける!

結果 5-2 3,550円(11番人気) 5-2-1 2万6,300円(65番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 5 松永 将   9.8    
× 2 2 河村 雅章 1/8車輪 9.9 SB  
3 1 勝瀬 卓也 1車身 9.7      
4 4 須永 優太 1車身 9.7      
5 7 中井 俊亮 1車身 10.1      
6 3 志智 俊夫 1/2車身 9.9      
  7 6 小林 則之 8車身 10.7

 


友情を如何に育むかである

2023年08月31日 06時13分03秒 | その気になる言葉

▼女性の教育と地位の向上なくして日本の真の発展はありえない―津田梅子

明治時代に日本人女性としてはじめての海外留学生となり、帰国後は津田塾大学の前身となる女子英学塾を開いて、女性の教育に尽くしました。 また、ヘレン・ケラーやフローレンス・ナイチンゲールという、同じ時代を生きた世界の偉人とも対面をしています。

▼相手の話に耳を傾け、飾らず本音で語り合う。

これが対話の要諦だ。

▼どんな苦難にも負けない姿勢に、感銘を受ける。

▼学は光、無学は闇。

知は力、無知は悲劇。

▼魂は良き同志なしでは枯渇する―ガンジー

▼16歳以上の4割「孤独感がある」。

孤立化が進む現代。友情を如何に育むかである。

▼防災週間―安易な想定や「大丈夫だろう」という油断は禁物である。

▼野暮な服装の友人が、見違えるほどのオシャレになっていた。

オシャレは快活に「生きる力」とも思われた。


<多様性を徹して大切にする>

2023年08月30日 10時29分49秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼政治とは、日々の生活の中で直面する課題を解決することであると言っても過言ではない。

その意味で、家事や育児などの携わる時間が多い女性は、暮らしの課題を鋭く感じ取れる有権者である。

▼子育て現場を取り巻く課題は深刻だ。

今を生きる子どもや親が幸せになれる骨太の施策こそ、全ての人の尊厳を保障する社会と平和につながる。

▼信念を持った報道を続けることで、次の時代の扉を開くことが可能となる。

▼常にその時々の課題に真摯に向き合う姿勢。一貫して庶民の側にあり続ける姿勢が期待される

▼ともすれば数字で語られがちな時代や社会の状況を、生身の一人の人間の声として語るのが短歌などだ。

時代や社会の問題点も、そして希望も、そこにあるのではないだろうか。

▼社会保障の分野で人間尊重の哲学を掲げ、政策実現までの道筋を示し続ける政治姿勢。

▼新聞を開くと、多様な意見や情報が目に飛び込んでくる。

<健康的情報>を維持する上で、新聞媒体の価値はますます高まっている。

▼子どもや子育て世代への支援について快く思わない人もおり、国民全体の理解がまだ足りない。

▼<半径5㍍>という生活現場からの課題を捉える政治の姿勢。

▼手元に残る新聞の活字情報は読む人に立ち止まって深く考える機会を与える。

その意味で、新聞は活字情報を保存する大切な文化だ。

▼「政治でなければ救えない命がある」

▼対立が深化し、分断が広がっている。

この状況をどう乗り越えて、日本社会を再び穏やかな統合へと向かわせるか。

今こそ政治の力量が問われている。

▼<多様性を徹して大切にする>という本来のリベラリズム(自由と平等な権利に基づく政治的・道徳的哲学)。それに基づいた政策を推進する政治の役割。

 


最盛期の路面電車

2023年08月30日 10時07分32秒 | 社会・文化・政治・経済

 路面電車とは道路上に敷設された軌道(「併用軌道」)を走行する電車である。路面電車向けの「軌道法」により敷設されるが、同法による道路以外の「新設軌道」もある。

最盛期は1日193万人利用 銀座や浅草を走っていた時代も 都電荒川線は東京都荒川区、北区、豊島区、新宿区にまたがる12.2キロの路線で、全30カ所の停留場を備える。

東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例[1]及び東京都電車条例[2]に基き東京都(交通局)が経営する路面電車である。一般には都電(とでん)と呼称される。1972年以降は、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ12.2 kmのみが運行されている。

前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となった。

最盛期(1955年頃)には営業キロ約213 km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。

1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、残存区間は1974年に荒川線として恒久的な存続が決定し今日に至っている。

歴史
創業期
東京馬車鉄道の開業

東京における都市交通の歴史は、1872年(明治5年)頃に日本最初の鉄道が開業したのと相前後して乗合馬車(通称:円太郎馬車)と人力車が登場したことに始まる。1876年(明治9年)には乗合馬車は170台、人力車は2万4000台以上が活躍していた[3]。

一方、東京の人口は1873年(明治6年)の60万人から1881年(明治14年)には114万人に増加していた[3][4]。そこでより大量輸送に適した交通機関として馬車鉄道の計画が持ち上がり、1880年(明治13年)2月、元薩摩藩士の谷元道之、種田誠一らによって新橋から日本橋本町、上野、浅草を経て再び本町に至る全長10マイル(約16km)の循環線敷設が出願された[5][4]。谷元らの出願は同年12月28日付で認可され、日本最初の私鉄[注釈 1]となる東京馬車鉄道株式会社(資本金30万円、本社芝区汐留町二丁目[6])が設立された。

馬車鉄道の営業は1年半後の1882年(明治15年)年6月25日にまず新橋 - 日本橋間で開始され、同年10月1日には循環線が全線開業した[4]。開業当初こそ失業を恐れた人力車夫たちの反対運動に遭ったものの、東京市の人口増加や上野・浅草方面への行楽輸送を背景に馬車鉄道は大きな成功を収め、開業20年目の1902年(明治35年)度には年収140万円、客車300両と馬匹2000頭を擁し、多客時には1時間に60 - 70台もの高頻度運転を行うほどの盛況ぶりとなった[4]。また1897年(明治30年)12月には品川・八ツ山下 - 新橋間に品川馬車鉄道が開業したが、1899年(明治32年)に東京馬車鉄道に吸収合併された[4]。

しかし馬車鉄道は東京市民の生活を便利にした反面、課題も少なくなかった。経営的にはウマの飼育に莫大な費用がかかること[7]、乗客の増加に対し運転回数が限界に達していてこれ以上の需要拡大に対応できないことが課題であった[8]。またウマの蹄によって路面が損傷し、馬糞混じりの砂塵が飛び散ることへの沿線住民の苦情は跡を絶たなかった[4][8]。

電車開業までの経緯

そこでより近代的な交通機関として路面電車が計画されるようになり、1889年(明治22年)には大倉喜八郎、藤岡市助ら東京電燈関係者や実業家の立川勇次郎らが政府に敷設計画を出願した[4]。だが当時は電気鉄道そのものがまだ誕生して間もない技術であり[注釈 2]、これらの出願は時期尚早とみられ認可されなかった[4]。そこで翌1890年(明治23年)に東京・上野公園で第三回内国勧業博覧会が開催されると、東京電燈は同社技師長であった藤岡市助主導のもと会場内に170間(約300m)の軌道を敷設し、藤岡らが米国視察の折購入した電車のデモ運転を行った[4][9]。入場料3銭に試乗料2銭と決して安くはなかったが、電車の静粛さや物珍しさも手伝ってデモ運転はたちまち大評判となり、内国博をきっかけに電車敷設の動きは本格的なものとなった[4][9]。こうした経緯を経て、1895年(明治28年)に開業した京都電気鉄道[注釈 3] を皮切りに名古屋電気鉄道[注釈 4]、大師電気鉄道[注釈 5]小田原電気鉄道[注釈 6] など、全国各地で電気鉄道が続々と開業していった[4][10]。

ところが東京では1893年(明治26年)から1899年(明治32年)の6年間で35社もの出願が相次ぎ、特許権獲得をめぐって対立しあっていた[10][11][12]。特に有力な出願者だった東京馬車鉄道、雨宮敬次郎らの東京電車鉄道、藤山雷太らの東京電気鉄道、利光鶴松らの東京自動鉄道の4社の対立は激しく、許認可が自由党と進歩党の政争の具にされたり、電車を民営とするか市営とするかで東京市会や市参事会が紛糾するなど、大きな混乱が生じた[10][11][12][13]。また当時東京市内の都市計画を担っていた東京市区改正委員会が電気鉄道の敷設条件について介入[注釈 7]したことも混乱に拍車をかけた[10][11][12]。デモ運転から10年が過ぎた1900年(明治33年)、紆余曲折の末内務省は東京電車鉄道、東京電気鉄道、東京自動鉄道の3派が合同して組織した東京市街鉄道、岡田治衛武[注釈 8]らが四谷信濃町 - 青山 - 渋谷 - 池上 - 川崎間などの路線を計画して設立した川崎電気鉄道、そして既設の東京馬車鉄道の3社に対して特許を与えた[10][11][12][13]。

東京市電の誕生[編集]

3社のうちまず最初に開業したのは東京馬車鉄道から改称した東京電車鉄道(通称:電車[15]、東電[15]、電鉄[16]。前節の東京電車鉄道とは別会社)で、1903年(明治36年)8月22日に馬車鉄道線のうち品川 - 新橋間を電化して三重県の宮川電気線[注釈 9] に次ぐ日本8番目の電気鉄道となった[4][13]。運転未熟と軌道に石が入るなどで終点まで約1時間30分を要し(3銭。乗客8872人)、11月25日上野まで開通した[17][18]。東京電車鉄道は1904年(明治37年)3月までに全ての路線を電化し、馬車鉄道の運行を廃止した[13]。

東京電車鉄道に遅れること25日後の1903年9月15日には東京市街鉄道(通称:街鉄[15][16])が数寄屋橋 - 神田橋間で開業した[13]。その後同社は同年11月に日比谷 - 半蔵門間、12月には神田橋 - 両国、半蔵門 - 新宿間などを開業させていき、営業キロや乗客数、運賃収入などの面において3社中最大の会社となった[13][19]。

1900年に川崎電気鉄道から改称した東京電気鉄道(通称:外濠線[16]、電気[15])は、1904年12月8日に土橋[注釈 10] - 御茶ノ水橋間で開業し、その後皇居外堀に沿って飯田橋、四谷、赤坂などを経由し土橋に戻る環状線を建設した[13][15]。

この様に、東京市内の路面電車は3つの会社によって別々に整備された。だが市民にしてみれば、こうした状況は電車を乗り換える度に運賃が嵩む[注釈 11] 不便さがあり、次第に運賃の共通化を求める声が大きくなった[19]。一方各社の経営陣は、当時日露戦争の戦費調達を目的に通行税が新設されたこと、また内務省の要請で運賃の早朝割引を開始したことなどが経営の負担になっているとして運賃の値上げを計画しており、1906年(明治39年)には利用者の要望に応えるという建前で運賃の共通化と同時に値上げを申請していた[19]。そして同年9月11日に3社が合併して東京鉄道(通称:東鉄)を設立すると、翌12日には運賃を4銭均一に引き上げた[19]。しかし日露戦争に伴う増税や物価高が負担になっているのは市民も同じであり[注釈 12]、合併と値上げが認可された直後から激しい反対運動が起こり、同年9月5日には日比谷公園で開かれた集会の参加者が暴徒化して電車が投石される事件まで発生した(詳細は東京市内電車値上げ反対運動を参照)[19][20]。

折しも当時は1903年に大阪市が市営電車を開業したことで電車事業の公益性が意識され始めた時期で、この一件をきっかけに東京でも電車の市有市営を求める世論が高まった[20]。そこで東京市はかねてからの市営派だった尾崎行雄市長の音頭で東京鉄道の市有化に乗り出し、1907年(明治40年)12月には同社との間に買収価格6750万円で仮契約を締結した[20]。ところが東京市が内務省に提出した買収認可申請が翌1908年(明治41年)1月に却下されてしまった上、その直後に東京鉄道が突如買収を拒絶したことから、東京市は市有化を一時見送ることにした[20]。

買収が不発に終わった同年の12月、東京鉄道は再び5銭均一への運賃値上げを申請し、前回にも増して猛烈な反対運動が起ったことで政府もついに東京鉄道の市有化を本格的に検討するようになった[20]。1909年(明治42年)10月、時の逓信大臣[注釈 13]後藤新平は尾崎市長に3か条からなる覚書を示して、一定の条件の下で東京鉄道の市有化を認めることを約束した[20]。この覚書をもとに東京市は再び東京鉄道の買収に臨んだが、東京鉄道が市の提示した買収価格5800万円を不服としたので物別れに終わった[20]。

だが市有化問題が長期化すると、最初買収を却下した内務省も次第に市有化容認に傾き、1911年(明治44年)6月になり平田東助内務大臣は後藤逓相、一木喜徳郎内務次官列席のもと、尾崎市長に対して東京鉄道の買収を勧告した[20][23]。勧告を受けた東京市は同年7月1日から買収交渉を再開し、政府の仲裁もあって7月6日には買収価格6416万5518円[注釈 14] で合意し改めて買収仮契約を締結した[23]。買収案は7月9日に東京市会、7月24日に東京鉄道の臨時株主総会でそれぞれ承認され、7月31日付で政府の買収認可が交付された[23]。こうして東京市内の路面電車は1911年8月1日から新設された東京市電気局に引き継がれ、東京市電が誕生した[23][24]。

市電時代[編集]
第一次世界大戦と市電黄金期[編集]
大正時代の絵葉書。1910年代後半から20年代初頭にかけて、東京市電は流行歌(パイノパイノパイ)に「東京の名物 満員電車いつまで待っても 乗れやしねえ」と歌われるほどの混雑を呈した。

東京市電の発足後、東京市電気局は路線網の大規模拡充を図り、1913年(大正2年)度から1916年(大正5年)度までの4年間に総額1317万6000円を投じて未成線128.7kmを整備する第一次継続事業計画に着手した[25][26]。東京市電は発足時点で既に営業キロ98.8km(軌道延長192.4 km)、局員7861名、車両1054両、1日の乗客数約51万人という規模を有していたが、東京鉄道時代に特許権を取得して開業に至っていない未成線も180km余り引き継いでおり、市有化で電車の整備が進むと市民から大きな期待が寄せられていたためであった[24][25][26]。当初は全ての未成線を4カ年計画で整備する予定であったが、財政への悪影響を懸念した監督官庁の指導で計画を第一期と第二期に分割し、このうち第一期線が第一次継続事業計画の対象となった[26]。

積極的な拡大方針により、東京市電の営業キロは市有化から1914年(大正3年)度末までの5年弱のうちに30km以上伸びて128.0 km(軌道延長255.3 km)となり、市内のみならず目黒、渋谷、新宿、大塚、巣鴨など当時まだ東京市外の郡部だった地域にも電車が開通した[26][27][28][29]。ところが1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、金融市場の混乱で市債発行による資金調達が難しくなった上、日本国内では大戦景気と呼ばれる好景気で物価が著しく高騰し路線整備にも支障をきたすようになった[27]。やむなく市電気局は第一次継続事業計画の見直しを行い、1915年(大正4年)2月には市会の議決を得て修正予算案と事業期間の2年延長を決定したが、1915年度の新規開業はわずか0.4 km、1916年(大正5年)度は皆無に終わり、大規模な新線建設は市有化後の数年間推進されただけで頓挫してしまった[27]。運賃も物価高騰に伴い1916年7月には片道4銭から5銭(往復9銭)、1920年(大正9年)6月には7銭(往復14銭)へと値上げされた[27][30][31]。

一方で好景気とあって交通需要も増大著しく、1日の乗客数は1916年度の約72万人から1919年(大正8年)度には約108万人、1922年(大正11年)度には約131万4000人と6年あまりで約1.8倍の増加となった[27][30]。これにより営業係数34.3[注釈 15] を記録した1917年(大正6年)頃から経営状況は好転し、以降も1921年(大正10年)度、1922年度には減債基金の積立や市経済への繰入を行ってなお400万円以上の剰余金を計上するなど大幅な黒字経営に転換した[30][32]。この時期の東京市電はほとんど唯一の近代的交通機関として市内交通の8割を担っており、1910年代後半から20年代前半にかけての時期はまさに東京市電の「黄金期」であった[30][33]。

もっとも、乗客が増えてもそれを輸送する路線や電車の整備が進んでいなかったため、黄金期の市電では慢性的な混雑が大きな問題となった。特に1910年代から出現した通勤ラッシュ時の混雑は深刻で、乗車まで30分から1時間待ちになることや乗り切れない乗客が車外にまで鈴なりにぶら下がるといったことが常態化し、「東京名物満員電車」として当時の絵葉書や俗謡(東京節)の題材にされるほどであった[27][30][34][35][36]。この事態に市電気局は日本の路面電車車両としては初の3扉電車1653形200両を製造したほか単車と呼ばれる小型電車の2両連結運転を行うなどの対策を採ったが、より抜本的な解決策として1920年度から新たに第二次継続事業計画に着手した[30]。第二次継続事業計画は総事業費1億3230万円を投じて未成線約80kmの建設と車両2050両の新造及び改造、車庫15か所と変電所20か所の新設、さらに既設線の架線や軌道の改良も行う一大プロジェクトであったが、結局関東大震災の発生で見直しを余儀なくされた[30]。

関東大震災からの復興[編集]

1923年(大正12年)9月1日、いわゆる関東大震災が発生すると、東京市電は電力設備の機能停止で送電が途絶したちまち全線で運転不能となった[37]。さらに地震後の大火災によって電気局本庁舎をはじめ営業所4か所、車庫5か所、車両工場などが全焼し、焼失した電車は779両に及んだ[37]。設備の被害は軌道152km、架線66km、橋梁26か所などで、被害総額は市電だけで2500万円、市営電灯を含めた電気局全体では4000万円に上った[注釈 16][37][38]。

本庁舎を失った電気局は、9月2日に東京市役所、次いで9月3日に桜田門外にあった資材置き場に仮本部を設置し、大阪市電気局などの協力を得て復旧に取り掛かった[39]。市電の復旧は比較的被害の少なかった山の手方面から着手され、早くも9月6日には神明町車庫前 - 上野三橋間、9月8日には青山六丁目 - 桜田門、四谷塩町 - 泉岳寺前間で運転再開に漕ぎ着けた[37]。被害の大きかった下町方面も同年10月20日柳島 - 亀沢町間で運転を再開したのを皮切りに復旧が進められ、1924年(大正13年)6月12日には市電全線の復旧が完了した[39]。また1924年(大正13年)1月18日からは市電復旧までの代替措置として都営バスの前身である東京市営バスの運行が開始され、市電復旧後も引き続き東京市民の足として活躍することとなった[40]。

震災後の経営不振

しかし関東大震災後、東京市電の利用者数は1924年度(大正13年)の1日平均136万人をピークに減少傾向となり、1934年度(昭和9年)度にはピーク時の6割ほどの約78.8万人まで減少した[41]。

これは関東大震災を契機に自動車の有用性が広く認識されたことで、日本国内でも初期的なモータリゼーションが始まり[注釈 17]、雨後の筍の如くに乱立した路線バスやタクシー事業者との激しい競争に見舞われたためである[注釈 18][41]。また震災後は郊外の宅地開発や都心部のビジネスセンター化など都市構造の変化が進み、省線電車や私鉄が郊外へと路線網を拡大した一方、既存の市街地にしか路線を持たない市電は交通需要の変化に十分対応できなかったことも不振の一因であった[41]。

さらにこの頃になると、路線の拡充などのため度々発行してきた市債の償還が大きな負担となり、乗客の減少と相まって1935年(昭和10年)度には市債費が運賃収入の96%にまで膨れ上がっていた[注釈 19][41]。

年表
前史[編集]
1903年(明治36年)
8月22日:馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(電鉄[16])が、品川 - 新橋間を開業。
9月15日:東京市街鉄道(街鉄)が数寄屋橋 - 神田橋間を開業[42]。
11月1日:街鉄 日比谷(日比谷公園) - 半蔵門間が開業。
11月25日:電鉄 芝口(芝口一丁目) - 上野間が電化開業。
12月29日:街鉄 神田町 - 両国間・半蔵門 - 新宿間が開業。
1904年(明治37年)
1月31日:街鉄 須田町 - 本郷四丁目間が開業。
2月21日:電鉄 本銀町角 - 馬喰三丁目 - 浅草橋間・浅草橋 - 横山町三丁目 - 本町角間がそれぞれ単線一方通行で電化開業。
2月25日:電鉄 浅草橋 - 雷門間が電化開業。
3月18日:電鉄 雷門 - 田原町 - 菊屋橋・合羽橋 - 上野停車場前 - 上野間が電化開業。田原町 - 上野停車場前間は菊屋橋経由が上野方面、合羽橋経由が雷門方面への単線一方通行。東京電車鉄道が全線電車化。
5月15日:街鉄 数寄屋橋 - 茅場町 - 両国間・茅場町 - 亀住町間が開業。数寄屋橋を数寄屋橋内に改称。
6月21日:街鉄 日比谷(日比谷公園) - 三田(本芝)間が開業。
9月6日:街鉄 三宅坂 - 青山四丁目間が開業。
11月8日:街鉄 本郷四丁目 - 上野広小路間が開業。本郷四丁目の須田町方面を本郷三丁目に改称。
12月8日:東京電気鉄道(外濠線)が土橋(新橋駅北口) - 御茶の水間を開業。
12月17日:街鉄 小川町 - 俎橋間が開業。
1905年(明治38年)
4月3日:外濠線 土橋 - 虎ノ門内間が開業。
4月5日:外濠線 御茶ノ水 - 東竹町(竹町)間が開業。
5月12日:外濠線 東竹町(竹町) - 神楽坂(神楽坂下)間が開業。
6月3日:街鉄 両国 - 亀沢町間が開業。
7月18日:街鉄 上野広小路 - 西町間・亀沢町 - 小島町間が開業。
8月12日:外濠線 神楽坂(神楽坂下) - 四谷見附間が開業。
9月15日:外濠線 四谷見附 - 葵橋間が開業。
9月17日:街鉄 西町 - 小島町間が開業。
10月:東京の地理教育を目的に、3社による当時の路線をうたった歌として「東京地理教育電車唱歌」(全52番)が発表される。
10月11日:街鉄の桜田門 - 霊南坂間と外濠線の葵橋 - 虎ノ門間が開業。街鉄霞ヶ関 - 霊南坂間の一部と外濠線葵橋 - 虎ノ門間の一部が被るために共用線として同時に開業。路線としての外濠線が全通。
11月23日:外濠線 師範学校前 - 神田松住町間が開業。
12月29日:街鉄 半蔵門 - 三番町間が開業。
1906年(明治39年)
1月20日:街鉄 三番町 - 市ケ谷見附間が開業。三番町を招魂社脇(招魂社横)へ改称。
3月3日:外濠線 信濃町 - 天現寺橋間が全線専用軌道で開業。外濠線と線路が繋がっていないため車両のやり取りは街鉄線を経由して行われた。
3月21日:街鉄 俎橋 - 飯田橋が開業。
4月13日:街鉄 三原橋 - 蓬莱橋間が開業。
8月2日:電鉄 菊屋橋経由の上野停車場 - 田原町間が複線化。それに伴い合羽橋経由が廃止。
9月11日:電鉄・街鉄・外濠線の3社が合併し、東京鉄道(東鉄)成立。
9月12日:東京鉄道としての運行が開始。
1907年(明治40年)4月:東京市会において東京鉄道の買収を決議。
1911年(明治44年)
7月31日:東京鉄道の買収について東京市営の許可がおりる。
8月1日:東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市電となる。
8月22日:王子電気軌道(王電)が大塚 - 飛鳥山上間を開業。
12月31日:東京市電で日本の交通事業史上初のストライキが行われる[43]。
1917年(大正6年)12月30日:城東電気軌道、錦糸町 - 小松川間を開業。
1921年(大正10年)8月26日:西武軌道、淀橋 - 荻窪(現・荻窪駅南口)間を開業(10月1日、武蔵水電に合併[44]。さらに1922年(大正11年)6月1日帝国電燈に合併)。
1922年(大正11年)
6月11日:玉川電気鉄道(玉電・1907年(明治40年)開業)渋谷 - 渋谷橋間を開通。
11月16日:帝国電燈、西武鉄道(旧社)に鉄軌道事業を譲渡[45]。
1924年(大正13年)3月29日:京浜電気鉄道品川駅(現・北品川駅)と接続、直通運転を開始。
1925年(大正14年)3月20日:女性の車掌68人が乗務を開始[46]。
1926年(大正15年)6月11日:東京市電自治会(労働組合)が15年度大会を開催。全自治会員15000人が労働農民党へ入党することなどを議決[47]。
1933年(昭和8年)4月1日:京浜電気鉄道との直通運転を取り止める。
1935年(昭和10年)12月27日:西武鉄道(旧社)、東京乗合自動車(青バス)に新宿軌道線の経営を委託。
1937年(昭和12年)3月25日:城東電気軌道、青バスに吸収合併される[48]。
1938年(昭和13年)
4月15日:玉電、東京横浜電鉄に合併。
4月25日:青バス、東京地下鉄道に吸収合併される。同社は城東軌道線を引き続き経営し、西武鉄道(旧社)から新宿軌道線の経営を受託する。
10月14日:東京横浜電鉄、旧玉電路線の渋谷以東部分(下記)の経営を東京市へ委託する。
渋谷東横百貨店前(現・渋谷駅東口) - 天現寺橋間
渋谷橋 - 中目黒間
1941年(昭和16年)10月13日:三原橋 - 下板橋間で配給米の運搬が始まる。トラックのガソリン使用を軽減する目的で、専用車が用意された[49]。
1942年(昭和17年)2月1日:東京市が王電と東京地下鉄道の城東軌道線(下記)を買収し、東京地下鉄道から新宿軌道線の運営管理を引き継ぐ。
(旧王電路線) 早稲田 - 王子駅前間、赤羽終点 - 三ノ輪橋間
(旧城東路線) 錦糸町 - 西荒川間、水神森 - 洲崎間、東荒川 - 今井橋間
(運行管理路線) 新宿駅前(現・駅ビル「ルミネエスト新宿」の北端辺り) - 荻窪間
1944年(昭和19年)新宿駅前 - 角筈一丁目(新宿大ガード西交差点)間休止
1943年(昭和18年)
3月9日:東両国二丁目 - 両国駅間休止
4月28日:土橋ループ、若松町引込線、白山上 - 本郷肴町(のちの向丘二丁目)間休止

この路面電車は現在、どのように利用されているのか。 東京都交通局によると、2018年度の1日平均乗車人数は約4万7000人。

また専用の通行空間をもつ鉄道は、「鉄道事業法」に基づいているが、例外的には道路に敷設が可能である。例えば鉄道路線である江ノ島電鉄は一部に道路併用区間(江ノ島~腰越)を有する。

 最も長い路線をもつ路面電車は、土電(とでん)の愛称で親しまれている土佐電気鉄道であり、延長は25.3キロである。

 広島電鉄は市内線と直通で路面電車が走る鉄道路線として宮島線16.1キロ(JR山陽本線とほぼ並行)を有しており、これを加えると広島電鉄が最長の路面電車ということになる。

・日本初の路面電車は1895(明治28)年に京都で誕生

・全盛期1932年には全国67都市、83事業者、路線延長1479キロ

・1965年以降、急速なモータリゼーションやバス、地下鉄への転換により衰退

・年間利用者数、戦後最盛期1957~62年は約26億人。近年は2億人を下回る。

・現在17都市、19事業者、路線延長約238キロ(うち鉄道区間約32キロ)

・最近、海外の再評価に合わせて日本でも中心市街地の活性化、環境負荷の軽減、高齢化対応の点から路面電車に再び光が当てられ、バリアフリーの低床車両化や運行方法の改良を進めたLRT(ライトレール・トランジット)として、富山ライトレール(富山駅北~岩瀬浜間7.6キロ)が2006年に旧JR富山港線を継承する形で導入されるなど地域密着型乗り物として見直されている。

 


映画 満たされたい人妻

2023年08月30日 09時23分01秒 | その気になる言葉
満たされたい人妻
 
8月30日午前2時からCSテレビのムービープラスで観た。
主演女優が若くもなく、美しくもないが、感情の表現など演技力には観るべきものはあった。

2021年製作の映画)

フィンランド

映時間:97分

フィンランドの孤島で夫と暮らす人妻の前にかつて彼女が恋焦がれた男性が出現したことから、彼女の胸の内に抑えがたい愛欲の感情が生じるさまを描いた北欧製の官能ドラマ。

日本ではアキ・カウリスマキ監督の映画「白い花びら」の原作者として知られる、フィンランドの国民的人気作家J・アホ。「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」でその年のフィンランド映画の興収No.1ヒットを飛ばしたA・ロウヒミエス監督が、19世紀末に発表されたアホ原作の二つの古典的恋愛小説を、現代風に翻案して映画化。

自然豊かな孤島で牧師の夫と静かに暮らす人妻の前に、夫の友人で実はかつての彼女の憧れの男性が出現したことから、3人の男女の間に波風が生じるさまを、官能的なタッチで綴る。

フィンランドの孤島で、牧師の夫ミッコと暮らすエッリ。ミッコは妻を愛していたが、都会育ちのエッリにとって自然に囲まれた島での生活は寂しく、心の内にどこか満たされない想いを抱えていた。そんなある日、ミッコは大学時代の友人のオラヴィを家に招いたことをエッリに告げる。

実はオラヴィはエッリの昔の知り合いで、かつて彼女は彼に恋心を抱いていた。彼と十数年ぶりに再会して、エッリの胸に抑えがたい感情が湧き出し……。 

全裸で泳ぐ二人の姿は、官能的。

 

出演者

出演

役名 役者名
エッリ インカ・カレン
ミッコ アク・ヒルヴィニエミ
オラヴィ アンドレイ・アレン
リーナ アデリーナ・アラユーリ
 
孤島に二人きりで自由にのんびり暮らしているものの孤島と言ってもどうやらフェリーが通ってくるようで
一応は二人きりではなく、人里離れた土地で暮らしているようで、ほとんど人がいないからビーチでは全裸で泳げるっていうようなところに住んでいる。
夫ミッコは友人のオラヴィをパリから招くことになり、数日間を夫婦と一緒に過ごすことに・・・
実はオラヴィはエッリの大学時代に彼女の実家に居候していたことがあり、その時に若きエッリはオラヴィに男としての感情を抱いていたことがある。
これは夫も知らないこと。

今の生活や夫とのセックスに不満はないが、心の隅のどこかに満たされていない何かを感じてた日々を過ごしていたエッリが十数年ぶりオラヴィに出会ったことで忘れようとしていた感情がふつふつ湧き上がってくる・・・
そんなこととはつゆ知らぬミツコは二人を残して仕事で都会に出張していく。
 
オラヴィとエッリは二人して孤島の生活を満喫することで、エッリの心は穏やかでは無くなっていく。
その過程を丁寧に描いていくことでエッリの“満たされたい”感情が湧いてくる様が見事に描かれている。
遂に二人は結ばれるんですが、そこはオラヴィは旅人。
エッリも十数年抱いてきた裡にはしまっていた炎を一瞬燃やすことで、ミツコとの安定した生活に戻っていく。
やっぱ幸せそうに見えていても相手の心の中までのパイプライン見えないということである。
 
エッリは十何年ぶりに見事に心の中の隙間を埋めることでこれからも安定した人生を今後は送っていくんでしょうね
実に大人のお話しでしたねぇ
 
妻目線の不倫(焼けぼっくいに火が着いた的な)かと思いきやの旦那目線NTRオチで着地した不倫物

フィンランド、孤島、神父(牧師?)ミッコと暮す妻のエッリ。
そこに論文執筆のため15年振りに会う夫の大学時代の友人・オラヴィが滞在することになった
が、エッリは彼と過去に面識があり、かつての感情が蘇ってくる

若干AV的な邦題なうえ微妙に齟齬がある
中身は焦らしと匂わせ、そして連続寸止めという抑制の効いた内容
酸いも甘いも噛み分けた男女というか、興味と狡さと性欲と打算が入り交じり水面下で駆け引きし合っている感じだ。

台詞は多くなく、甘い口説き文句もなく、ただ目線、欲望の色に濡れる。
 
彼女の欲望の色を察して受け止めるオラヴィ(そしてようやく寸止めではなく欲望のままに乱暴に致したいところを背後から髪を掴むだけで抑制しているところがままエロい)
 
男漁りをしてきた過去を語るエッリ。

1階に夫がいるに2階の男の部屋へ向かう妻。
当然、二人のセックスは夫に知られる。

彼女の選択を尊重すると言いつつオラヴィにライフルの銃口を向けて至近距離から狙いを定める夫(悪い夫ではない寧ろ善良)

それなりに全員が良い年齢で、生活は穏やかで安定、不満はないけど、どこか満たされてなかった(冒頭の野外オナニーにつながる)。
エッリが、かつての気持ちを置き去りにしたままの(過去に好意を持っていた)男性と再会し、しんぼーたまらんくなってくってところが主筋なのだけど、他の要素も控え目ながら演出されていた

オラヴィはシングルなので不倫することへの罪悪感は友人でもあったミッコとの関係が頭を過るくらいだろうが、心理的な負担は明らかにエッリのほうが重い……のだけど、着地も穏やかに締められる
夫が神職者という背景のせいかも知れない
今回の件で夫はただ貧乏くじを引いてしまっただけ、いくぶん気の毒
 

 毎回寸止めはキツい、主に男性(笑) 神職者と結婚したならば、それなりに我慢も必要と覚悟してなかったんかいw でも旦那が貧乏くじ引いちゃうんですねww

 

邦題がダメすぎだけど、内容はよかった。

旦那さんの器の大きさよ。。
邦題がへん。ミスマッチでもったいないな〜。
自然と光、色味が良かった。
なんて酷い邦題なんだ…

実際のストーリーはもっと深く夫婦という関係について考えさせられる内容。

それにしてもこの夫は、なんて器の大きいよく出来た男なのか…
愛の大きさもまた感じられた。
完全に邦題で損してる!
もう今の時代無理やり邦題つけなくってもいいんじゃないかなあ たしかに官能的なシーンはあるけどそっち方向の映画じゃないでしょう
主人公の心の隙き間がじわじわ広がっていく感じ 繊細な心の動きにぴたっとはまる言葉選び その心地よさ 最後の終わり方もよかったなあ この主人公とても上手い役者ですね

利根輪太郎の競輪人間学 発想の転換が不可欠だ!

2023年08月29日 15時26分46秒 | 未来予測研究会の掲示板

利根輪太郎は、いわゆる33バンクとの相性がよくないのだ。

前橋競輪と松戸競輪で惨敗する。

前橋競輪2日目(8月29日)

6レース

並び 7-1 4-2 5-3 6(単騎)

レース評

南の初日はどうしたという走り。2日目こそは持ち味を発揮だ。タテ型の小堺がマーク。菅原の仕掛けに乗る桐山が逆転の候補

 

1番人気7-1(3・1倍) 7-1(3・1倍)

1番人気では、なるべく勝負したくないが、1-7と7-1の3連単で勝負する。

1-7-2(8・0倍) 1-7-3(12・6倍) 1-7-4(20・5倍) 

7-1-2(7・1倍) 7-1-3(12・2倍) 7-1-4 (20・5倍)

1番が7番から離れてしまったのだ。

2車単で押させるのが、利根輪太郎流であるのだが、1-7と7-1に拘り過ぎたことが敗因!

結果 7-3 2,720円(6番人気) 7-3-2 1万3,980円(27番人気




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 7 南 潤   10.0 B  
2 3 泉 慶輔 3/4車輪 9.6    
× 3 2 桐山 敬太郎 3/4車身 9.8      
4 4 菅原 裕太 1/4車輪 10.0      
5 6 柿本 大貴 1車身1/2 9.7      
6 1 小堺 浩二 1車身 9.9   S  
  7 5 金澤 竜二 大差 11.3

7レース

並び予想 7-4-1 2-5 3-6

レース評

五日市は初日のリベンジマッチ。今度は真船をマークから勝利を掴みたい。2日目の三好は自力戦。地元で見せ場以上の走り。

5-2 5-4 5-7の3連単で勝負する

5-2-7(6・4倍) 5-2-4(8・0倍)

5-4-2(29.1倍) 5-4-7(37・5倍)

5-7-2(14.9倍  5-7-4(21・4倍)

結局は、先行有利の33バンクなのだ。

5番の軸は固いと期待したのだが、捲り不発となる。

別のラインは押さえに必要なのだ。

4-7と7-4は買える車券だった。

発想の転換が不可欠。

結果 4-7 1,680円(8番人気)  4-7-3 1万5,500円(40番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 4 松永 将   9.8    
× 2 7 三好 恵一郎 1/4車輪 9.9 B  
3 3 飯田 憲司 1車身 9.8      
4 6 山田 和巧 1車輪 9.7      
5 2 真船 圭一郎 1車身1/2 9.9      
6 5 五日市 誠 1/2車身 9.7      
  7 1 伊藤 亮 2車身 10.0   S

 

8レース

並び予想 3-6 5-1 7-4-2

レース評

星野は自力を基本に何でもやれる。2日目は力を出し切りたい。佐藤がマークで福島が本線。伊藤の頑張りで関東勢が浮上。

5-1 5-2 5-4 5-3の2車単勝負にする。

対抗を軸にする我孫子の勝負師は、1-5 1-2 1-4 1-3の3連単流しであった。

5-1(5・5倍)2000円 

5-2(62・2倍)500円

5-3(32・1倍)500円

5-4(18・9倍)1000円 

結果 1-2 6,120円(23番人気)  1-2-5 2万570円(61番人気) 




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 佐藤 愼太郎   10.1    
2 2 飯嶋 則之 1/2車輪 9.8    
3 5 星野 洋輝 1/4車輪 10.2   B  
× 4 4 藤原 憲征 1/2車身 10.0      
5 3 古賀 勝大 3/4車身 9.7   S  
  6 6 松田 治之 2車身 9.8      
7 7 伊藤 慶太郎 5車身 10.8

5-3(32・1倍)500円

結果 

 

 


自分以上の宝はないのだ。

2023年08月29日 09時44分57秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼教育こそ希望である。

教育の本義とは、人間生命の可能性への信頼である。

▼教育の力を軸に、人間性の花を開花させることだ。

▼多様性を成長の糧にする。

教育の連帯による人類の勝利―を悲願する。

▼日本は「ジェンダーギャップ指数」146か国のうち125位

▼政治にも、しっかりと耕された大地が必要だ。

▼新聞は教科書のようなものだ。

また、心を潤し足り、温めたりするものだ。

▼労苦こそ青春の宝だ。

▼精神の糧を求める「宗教の時代」、宗教を忌避する「無宗教の時代」世界には二つの潮流がある。

この一見、矛盾するかに見える動向も、じつは「権威的でない信仰」を人々は求めていることを表している。

▼「法」の高さと「人」の振る舞いが調和した「人間主義の宗教」が必要である。

▼最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、人生の勝負を決していくのだ。

▼どんな時にも、めげず、挫けず、悠々と、前へ前へと進んでいくこだ。

▼自分以上の宝はないのだ。

自分を離れて幸福はない。

本来、自分ほど素晴らしいものはないのである。

これが真実の哲学である。

人を見ると、自分と比べてしまう。

だけど人をうらやんでも、つまらない。

何にもならない。

自分自身を磨いて、自分自身に生きがいを感じて、生きていくのが勝利の人なのだ。

 


理性と中庸の精神

2023年08月29日 09時13分14秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼人々に限りない啓発と希望を与える―それが人生の師匠なのである。

▼核兵器は人類の生存の権利を脅かす深刻な脅威であり、絶対悪である。

もしも核戦争が起これば、人類は亡ぶのだ。

▼気候変動や環境問題も深刻である。

▼対話が人々の間に信頼を醸成し、社会の平和を促進するための根源的な方途である。

▼宗教のための人間ではない。

宗教は人類共通の利益に奉仕すべきだ。

▼仏教の神髄は慈悲の精神であり、一人一人の無限の可能性を引き出すものだ。

つまり、宗教は人間主義を教えるものだ。

そこには、理性と中庸の精神がある。

▼教育の神髄は人に投資し、人の秘められた可能性を見出し、伸ばすことにある。

教育は知識を与えるのみならず、人間的な思考を形成し、個人の可能性を育む。

▼教育は、他者とのつながりに目を向け、無知や偏見、悪意のある思想を根絶し、暴力的な傾向から心を開放する。

▼教育は、気候変動と戦い持続可能性を推進する上でも重要だ。

 


創作 人生の方程式

2023年08月29日 07時56分46秒 | 創作欄

木島紀夫は、何度か人生に躓(つまず)いてきた。

ギャンブルに明け暮れ、多額の借金を重ねてもきた。

最後は、30歳の時に思い余って、母の菊枝に借金を打ち明けたのだ。

「年率48%?借金は200万円もなの!」夫の次郎の不祥事にも泣いてきたので、呆れかえる。

「あんたは、お父さんと同じなんだね」怒りも覚えてが、情けなさから涙ぐむ。

20歳の時、紀夫は、父親の不祥事のために、父親の上司の荒井源治に頭を下げ詫びた。

紀夫は荒井の3女の五月女(さつき)と恋愛関係にあった。

「会社の金を使い込んだのだ。刑事上は業務上横領などの犯罪に当たるんだ。だが、君が保証するなら許そう」

東京・大田区田園調布の邸宅の応接室。

荒川専務は和服姿で、パイプの煙をくゆらせていた。

五月女(さつき)が紅茶を運んできたが、笑顔がない。

「これで、恋もおわったな」紀夫は絨毯を見つめて、うつむくばかりであった。

結局、母親が福島の実家から300万円を借りて、夫の不祥事の穴埋めをしたのだ。

あれから10年の歳月が流れ、今度は息子の借金である。

「人生には方程式があるの。分かる?」母親は息子の穴埋めの条件として、自身が信奉する宗教に入信することを約束させた。

「仕方ない。一時しのぎだ」紀夫は母親の条件を飲んだのだ。

 

 


冤罪事の本質

2023年08月29日 00時55分35秒 | 沼田利根の言いたい放題

冤罪事の本質は、単純明快である。

警察が、真犯人を逮捕せず、逃したことに他ならない。

つまり、国家権力の威信に関わる問題に帰着する。

そこで、警察の威信を取り戻す必要性から、誰でもいい、犯人にしたてる人間の確保の必要性が迫まられる構図となる。

被疑者をとりあえず、別件逮捕し、それからは拷問に近い取り調べの続行に至る、これか国家権利のもとでの必然の帰結となる。


警察の権力

2023年08月29日 00時36分54秒 | 社会・文化・政治・経済

日本は「立法」「行政」「司法」という3つの独立した機関を設けることで、それぞれのバランスを保ち、国民の権利と自由を保障するよう機能しています。これを三権分立と言い、権力(権限)を分割することで、それぞれの抑制と均衡を図っています。民主主義を採用する近代国家で多くみられる国家統治のシステムです。

三権分立は、フランスの政治思想家であるモンテスキューが著書『法の精神』で提唱した考え方で、政治権力を分立することで独裁制を防ぎ、国民の権利と自由を確保し保障するという考え方に基づいています。「立法=法を定立する権力」、「行政=法に基づき政策を行なう権力」、「司法=法規を執行する権力」に分かれています。つまり、立法が規則を設け、行政がその規則を運用、司法が規則を守れているかを判断する、というように権力を分散させているのです。日本の政治では、立法を国会、行政を内閣、司法を裁判所が担当しています。

警察は、この三権のうち、「司法」と深い関わりがあります。

裁判には、主に「民事裁判」と「刑事裁判」があり、それぞれの裁判は訴訟によって申し立てられます。民事裁判とは、社会生活における個人の権利関係の争いを解決するもので、例えば「財産に関する紛争(遺産相続などのもめごと)」などがこれに該当します。

もう一方の刑事裁判は、公共の秩序を維持する観点から、法を犯した人の罪と刑罰を法律に基づいて決めるものです。つまり、殺人や窃盗、放火などの罪を犯した人は、刑事裁判にかけられることになります。

これらの決定的な違いは、民事裁判は当事者である国民の誰もが起こせる裁判であり、刑事裁判は司法の代表者として検察官が訴えを起こすという点です。

この刑事裁判に大きく関係しているのが「警察」という組織です。事件が発生したら、まずは警察がその事件の捜査をして情報を収集し、その捜査結果や捕まえた被疑者の身柄を検察に送ります。検察官は、警察から送られた証拠をもとにさらなる調査をし、ときには検察官の指揮で警察が調査にあたることもあります。そして十分な証拠をもとに、被疑者に対して刑罰を科するべきであると判断した検察官が起訴して、刑事裁判となるのです。

つまり、社会の秩序を乱した者に対して法による裁きを与え、そして事件や事故などの解決をする刑事裁判の、その最前線で捜査を行なっているのが警察なのです。

では?冤罪事件の責任は、なぜ問われないのか?

 

【第109回】

冤罪の責任は誰が取るのか~「布川事件」の国家賠償請求訴訟

 「警察官や検察官や裁判官は、責任を取らないで済むのか。結果を問われない公務員で良いのか。それを訴えたい。だから冤罪はつくられるのだ、と」

 11月12日、国家賠償請求訴訟を東京地方裁判所に起こした桜井昌司さん(65)は、記者会見で提訴の狙いを力説した。

 桜井さんは、1967(昭和42)年に茨城県利根町で起きた「布川事件」の犯人にされ、いったんは最高裁で無期懲役が確定した。仮釈放になるまで29年間もの身柄拘束を強いられ、昨年5月に再審で無罪を勝ち取った2人のうちの1人である。雪冤まで、事件発生から実に43年余を要した。

 事件に確たる物証はなく、桜井さんらは裁判で犯行を否認したものの、捜査段階での「嘘の自白」を有罪の決め手にされた。再審の水戸地裁土浦支部判決は、供述の変遷や客観的事実に照らして不自然な点があることを指摘したうえで、「自白調書が捜査官らの誘導等により作成されたものである可能性を否定できない」と判断して信用性を認めず、無罪を導いた。

 これを受けて、桜井さんが今回賠償を求めた相手は、国(検察)と茨城県(県警)である。請求額は1億9044万415円。「濡れ衣を着せられたのは、捜査・起訴の段階や裁判で、警察官や検察官による違法行為があったため。だから、それによって生じた不当な長期間の身体拘束をはじめとする甚大な損害に対する賠償をさせよう」という裁判だ。国・公共団体の賠償責任を定めた憲法17条に基づいている。

 どんな行為を違法と訴えているのだろうか。訴状の内容をもとに、事件の経緯をたどる形で桜井さんの主張を紹介する。

 まず、捜査段階。

 62歳の男性が殺害されて現金11万円が奪われた布川事件の発生は、67年8月28日だった。桜井さんは10月10日に、知人のズボン1本とベルト1本を盗んだ疑いで逮捕され、3日後から布川事件の調べが始まった。別件逮捕である。

 警察の取り調べは、まず留置場の中の看守の仮眠室(3畳)で行われた。「お前らを事件現場前で見た人がいる」「お前の母ちゃんも、早く素直になって話せと言っている」と騙され、「否認していれば死刑だってある」「(自白しても)新聞には発表しない」と脅迫的・利益誘導的な言葉を投げられた。そのうえで嘘発見器にかけられて「すべて嘘と出た。もうダメだから本当のことを話してみろ」と偽られ、自暴自棄になって同15日に「嘘の自白」をしてしまった。8日後、布川事件の強盗殺人容疑で逮捕された。

 その後、桜井さんは検察官に犯行を否認。供述が現場の客観的状況に一致しないといった矛盾や食い違いがあったことから、検察は11月13日、強盗殺人容疑について処分保留で釈放した。振り返れば、賢明な判断だった。

 一方で、別の窃盗容疑で身柄を拘束され続けた桜井さんは、拘置所から警察署(代用監獄)に移送されて再び警察の取り調べを受けた。「否認しても無駄だ」「否認すれば死刑だ」。こう迫られて、再び自白をしてしまう。代わった検察官からも「早く改心しろ、証拠もある」などと言われ屈服した。

 取調官は同時に、目撃証言が矛盾しないように、目撃者に内容を変更させたり曖昧にさせたりした。桜井さんらのアリバイを支える証言に対しては、否定する方向で関係者の調べを進めた。桜井さんが強盗殺人罪で起訴されたのは、12月28日だった。

 訴状では、別件逮捕したことをはじめ、起訴まで76日間もの長期にわたり、しかも偽計や脅迫によって自白させた取り調べは違法だったと強調。警察官は殺害方法や偽装工作などの供述が客観的な事実に反することを分かっていながら、検察官も処分保留にした段階で証拠の脆弱性を認識していたのに、強要や誘導で供述を変遷させたのは「証拠の捏造」にあたり、違法な職務行為だったと断じている。目撃者やアリバイ証人への暗示・誘導についても、同様の主張をしている。

 次に、起訴段階。

 事件現場の被害者の周囲で採取された8本の毛髪は、うち3本は被害者のもの、残る5本は被害者のものでも桜井さんらのものでもないという鑑定書が出ていた。第三者の犯行だった可能性が十分に考えられたのだ。さらに、被害者方から桜井さんらの指紋は検出されていなかった。「桜井さんらの犯人性と結びつく客観的証拠は一切ない一方、無罪であることをうかがわせる証拠は多数存在していた」

 殺害行為、金品の奪取・分配、犯行現場での工作行為、逃走状況など、自白のすべての要素で変遷があり、犯人とされた桜井さんら2人の不一致も多い。しかも、犯行そのものや犯行に直結する重要な部分に、多岐にわたって客観的な事実と整合しない点が見られる。それゆえ、桜井さんらの自白には信用性がないことを、検察官は少なくとも容易に認識することができた。

 にもかかわらず、代わった検察官は相互の矛盾がないように自白や目撃証言を操作した。そして、桜井さんらを起訴した。こうした職務行為は違法だと訴えている。

 最後に公判段階。

 検察官は、前述の毛髪鑑定書や目撃者の供述調書など、桜井さんに有利となり、裁判所の判断に大きな影響を与える証拠を持っていながら、あえて提出しなかった。

 また、自白の任意性・信用性、目撃証言の信用性にかかわる証拠に対して、弁護団は再三、開示するよう求めたが、検察はほとんど応じなかっただけでなく、裁判所の開示命令を避けるために原型と異なる証拠を示したり、虚偽の回答をしたりした。さらに、のちに多数の編集痕があることが分かった自白録音テープについて、警察官は公判で存在を否定する偽証までした。

 こうした検察官の証拠隠しや警察官の偽証といった違法行為によって、裁判所に誤った判断をさせたと結論づけた。もし再審請求審の段階で開示された証拠が、もとの裁判の時に提出されていれば、桜井さんらが有罪判決を受けることは万が一にもなかったと、訴状はつづっている。

 国賠訴訟の弁護団によると、布川事件は「冤罪原因のデパート」と呼ばれるほど、冤罪を生む要素を多く含んでいたそうだ。なるほど、こうした経過を見ただけで納得させられてしまう。そして、それは決して他人事ではない。時代は変われど、誰にとっても、自分が絶対に同じ境遇に置かれないという保証などないのだ。

 会見で桜井さんは「今も検察は『私たち2人が犯人。たまたま有罪を立証できなかった』と公然と言っている」と、半ば怒り、半ばあきれながら語っていた。無罪判決が確定したにもかかわらず、「警察や検察は謝罪や反省はおろか、無罪判決をいまだに受け入れず、自ら誤りの原因を検証しようともしていない」という。違法行為があったかどうかを措くとしたって、無実の人間を間違って犯人にしてしまったのだから、まずは謝って反省するのが常識だろうに。

 何が正義なのか、と考えてしまう。桜井さんは「まじめに治安を守ろうとしている検察官・警察官の正義感が通じる組織になってほしい」と訴訟の意義を説き、「検察が反省や改革を言いながら何もせずに社会を欺いていることを、今回の訴訟を通して社会の皆さんに訴え、判断してほしい」と呼びかけた。

 もっとも、国家賠償請求訴訟で勝訴するのは、再審を実現するのと同じくらい難しいらしい。最近では、郵便不正事件で冤罪被害を受けた厚生労働省の村木厚子さんが起こした国賠訴訟で、国が判決前に3770万円の賠償を呑んだが、再審で死刑から無罪になった松山事件(1955年発生)でも国家賠償は認められていない(2001年に確定)。

 捜査や起訴段階での行為が「その当時の判断として合理的だったならば適法」とされるからである。国家賠償法は違法行為に「故意または過失」があったことを賠償の要件としており、それらの立証は訴訟を起こした側がしなければならない。今も事件にかかわるすべての証拠を握っている権力側の方が、そもそも有利な立場なのだ。

 これに対して、谷萩陽一弁護団長は「再審で無罪の根拠となったのは、大部分が当時から存在していた証拠。つまり、起訴時点の事実を見ても、検察官が合理的な判断をしていれば起訴すべきではなく、『(起訴が)当時としては正しかった』とは言えない」と反論していた。

 もう一つ。谷萩弁護団長は、今回の国賠訴訟で裁判所に求められる役割として、桜井さんへの十分な償い、冤罪の原因・責任の明確化と並んで、「冤罪を生まない刑事司法の改革に結びつく判断」を求めていた。

 国賠訴訟の被告にこそなってはいないが、裁判所にも冤罪の原因があると考えるのが庶民感覚に違いない。検察の言い分を鵜呑みにする形で有罪判決を出してしまった事実は消しようがなく、司法への不信を高めているのは確かだ。弁護団が言うように、裁判所がこの訴訟の審理や判決を通じて、自らを含む刑事司法の歪みや病理をつまびらかにして断罪するよう期待したい。それが、冤罪を見逃してしまった裁判所の責任の取り方でもあるだろう。

どん・わんたろう約20年間、現場一筋で幅広いジャンルを地道に取材し、「B級記者」を自認する。
派手なスクープや社内の出世には縁がないが、どんな原稿にも、きっちり気持ちを込めるのを身上にしている。関心のあるテーマは、憲法を中心に、基地問題や地方自治、冤罪など。
「犬になること」にあこがれ、ペンネームは仲良しだった犬の名にちなむ。「しごと」募集中。