おいてけぼり~9060家族~ 35年間ひきこもり続ける女性、「いざとなれば殺す」父の苦悩 求められる第三者

2022年02月28日 18時14分42秒 | 医科・歯科・介護

2/28(月) 16:03配信 中京テレビNEWS

おいてけぼり~9060家族~

2019年、家族が高齢化し80代の親が子を支える「ひきこもり家族の高齢化問題」、いわゆる「8050問題」がクローズアップされました。「ひきこもり」は家からまったく出ない人のことだけではありません。内閣府などによりますと、ひきこもりの定義には、たとえ家から出ても、家族以外との交流がほとんどない状態やコンビニや趣味以外に外出しない状態が半年以上続くことも含まれます。中高年(40~64歳)のひきこもり当事者数は約61万人。若年層(15~39歳)の約54万人を上回ります。

「自分はおいてけぼり…」自宅に引きこもって35年が経ったある日、女性はつぶやきました。

抜け出したくても抜け出せない、ひきこもる中高年の苦しみの告白でした。
本記事では、あるひきこもり女性とその家族を通じ、ひきこもりの“家族”だからこそ伝えられる「8050問題」の現実を伝えます。

■人も社会も怖くなった…18歳の時、ひきこもりに
91歳の父と暮らす52歳の娘・敬子さん

2019年。愛知県の市営団地で91歳の父と暮らす52歳の娘・敬子さん。
“敬い 敬われる子に育つように”と願って名付けられた4人兄弟の末っ子です。
敬子さんは昔から人と話すのが苦手で、感情を表に出せません。専門学校を1年ほどで退学し、工場でのパート勤務も話さないことで簡単なことしかできず、2年で辞めさせられました。当時18歳。人も社会も怖くなりました。「明日からは…」とずっと思ってきましたが、ひきこもり続けています。

敬子さん「みんなは結婚したり、働いたり、子どもがいたりしていると思ったら、自分だけ何も変わっていない。自分だけ“おいてけぼり”というか、変わってないというか、いつまでも一緒というか」

■家族を“1人で”支える91歳の父「なんでこんな世の中に」
1日のほとんどスマホが手放せない敬子さん

敬子さんの話し相手は父だけ。
父は大手メーカーを定年退職後、余生をゆっくり過ごすはずでした。しかし、2005年、77歳のときに認知症の妻に先立たれ、それからというもの、父はずっと1人で家事をこなしています。普通は子どもが親の面倒を見る年齢…。しかし、父はいつしかそんな希望すら抱かなくなっていました。

家族の食事をコンビニに買いに行くのも父。帰宅しても、敬子さんからは御礼のひとつもありません。敬子さんはスマホに夢中…。しかし父は怒りません。

父「半分あきらめた。今でも働いてもらいたいとは思いますよ。自分のことは自分で決める。それが強すぎたんですかね」

一方の敬子さんは、「働きなさいと周囲から言われたら言われたで嫌なんだけど、何も言われなくなったらなったでちょっとさみしい…」と話します。


生活は月18万円の父の年金だけが頼りです。生活保護など行政からの経済的支援は受けていません。家賃2万4000円の市営住宅。節約のために洗濯は4日に1回、入浴も2日に1回。敬子さんの将来のため、毎月1万6000円ほどを娘の年金にあてています。

生活を切り詰めるのにはもう1つの理由がありました。父は、63歳の長男の面倒も見ています。長男もけがにより55歳で仕事を辞めた後、ひきこもるようになっていました。さらに、長男は勝手に父の年金に手を付け、ギャンブルやタバコなどに費やしていました。月に5万円。父には切り崩す貯金すらもうありません。

父「一生こんな生活だったような気もしますね。ともかく毎日毎日生きていくだけですね。何にも望みません。1日ゆっくりできればそれだけでいいです。お金のことを考えないでゆっくりできれば、それだけでいいです。なんでこんな世の中になったんかな」

■社会問題にもなった『8050問題』 「いざとなれば殺す」死と向き合った父
自殺を図った当時の思いがつづられた父の日記

まだ子どもの面倒を見ている――
2016年、現実に嫌気がさした父は近くの山に足を運びました。

「ひとりで死のう」

自殺を考えていました。
父の日記には当時の思いがつづられています。

「刃を腹に当てる。迷う」
「一週間、死のみを考えても死ねなかった」
「生きることは難しい。どんなに恥をかいても生きていくのか」

1週間後、山で焚火をしているところを発見されました。
死にきれなかったといいます。

黙っていても、「死」と向き合わざるを得ない年齢。そんな年齢になっても自ら死を選ぶほかない境地でした。誰かに相談できなかったのでしょうか。

父「嫌なことはなるべく言わないほうがいいだろうなぁと思っていますね。自分の意志でなくこの状況になったのなら助けてくれと周りに言うかもしれないが、これは自分で勝手になったことだから。世の中に許してもらいたい。しょうがない子どもを作っちゃったということを」


家族が高齢化し80代の親が50代のひきこもりの子を支える「8050問題」。2019年には、キャリア官僚だった父が、ひきこもりがちだった息子を殺害するなど、社会問題になりました。

父「自分が子どもの面倒を見るのが限界になれば、いざとなれば殺す以外ないと思いますね。自分の子どもだからこそ」

■親への支援こそが重要 周りに甘える勇気も必要
NPO法人ふらっとコミュニティ(山口・宇部市)

精神看護の専門家で、8050問題の解決に取り組む山根俊恵さんは、「子どもだけでなく、親への支援こそが最も重要」だといいます。山根さんは理事長として12年前に「NPO法人ふらっとコミュニティ」を山口県宇部市に設立し、子どもだけでなくひきこもりで悩む親も含めてひきこもりの当事者たちと向き合っています。

ひきこもりの子どもに対して将来の話をすると、逆鱗に触れる可能性があるため、子どもに相談しづらい親が多く、立ち止まることが多いそうです。しかし、そのような悩みは、一人で解決できるものではありません。周りに助けを求めたり、甘えることが解決の第一歩だと訴えます。

ひきこもりの家族と向き合う山根俊恵さん(左奥)

山根さん「ひきこもる本人に外に出るよう働きかけるのは家族であっても難しく、親の些細な一言が子どもを刺激するかもしれません。そうなると、流れを変えるためには親が意識を変える方が早い。待てば良いとか、子ども自身がそのうち動くだろうってのは絶対にない」

■“家族”だからこそ伝えられる『8050問題』の現実
時折家族を見に来るもう一人の兄・俊光さん

ある日、敬子さんのもとに、離れた場所で暮らしているもう一人の兄・俊光さん(57)がやってきました。心を閉ざしてひきこもる長男や敬子さん、そしてなにより父のことが心配で、月に1回ほど実家を訪れます。

俊光さん自身こんな家族から目を背けたいと思っていました。実は俊光さんも10年前、過労が原因で心を病み、仕事を辞めたことがあります。社会で生きづらいと感じた過去があるからこそ、周囲の関わり方がいかに重要か身をもって感じていました。そんな俊光さんは引きこもる兄や妹、そして彼らを支える父を見ていて、「父や兄妹が変わるのを待っていたら家族は崩壊する」――そう感じたと言います。そして、自分たちの家族だけでなく、他にも同じ悩みで苦しむ人がいるのではないか。そう感じ、心を閉ざす人の“居場所”を作ろうと「NPO法人名古屋サーティーン」を立ち上げました。

この団体でのルールはお互いに干渉しすぎないこと。悩みを探り合わないこと。スポーツなどを通じて人と接することに徐々に慣れていけるよう取り組みます。

また、定期的に開く当事者同士の勉強会では、すべてをさらけ出します。

俊光さん「私の家族は、一切外部の支援を受け入れてくれなかったです。私がどんなに『保健所は味方だから、相談にのってくれるから』と言っても、敬子さんは『来るな、来たら殺す』、そんな感じだったんです。父親からも『そっとしておいてくれ』と手紙が届いて。民生委員さんも心配だから実家を見に行ってくれたのですが、『ご家族の方は?』と父親に聞くと『仕事いってます』とうそをつくんですよね。本当にうちの実家はいつ事件が起きてもおかしくないような現状でした」

“家族”以外の人が関わる大切さ。
そして、“家族”だからこそ伝えられる『8050問題』の現実――

■誰しもが当事者 求められる第三者の支援
社会情勢が大きく変わっていく昨今、ふとしたことがきっかけで、誰しもが孤立状態に陥る可能性があります。

社会との接点を一度喪失すると元に戻すのは困難です。

ひきこもりに対しては、個人と社会をつなぐ第三者の介入が必要不可欠です。

敬子さんの父は、ひきこもる子どものことを、誰にも相談できず、「死」を選びかけました。

悲惨な結末を避けるために、ひきこもりの当事者だけではなく、その親が助けを求められる場所が求められています。

「おいてけぼり~9060家族~」
この記事は、中京テレビとYahoo!ニュースの共同連携企画です。あるひきこもり女性とその家族を通じ、ひきこもりの“家族”だからこそ伝えられる「8050問題」の現実を追いました。

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こども家庭庁、23年度創設 政府、縦割り解消へ基本方針―保育所・こども園を移管

2022年02月28日 12時38分07秒 | 新聞を読もう

2021年12月21日09時26分 時事通信

政府は21日の閣議で、子どもに関する諸施策の司令塔となる「こども家庭庁」の創設に向けた基本方針を決定した。各府省庁が担当する機能を同庁に集約。縦割り行政の弊害解消を図り、年齢による支援の切れ目を生じさせない対応を目指す。2023年度の創設に向け、来年の通常国会に設置法案を提出する。
新組織「こども家庭庁」に いじめ対応も分担

 現在、子ども行政は厚生労働省や文部科学省、少子化対策は内閣府、児童に対する性犯罪対策は警察庁がそれぞれ担当。例えば就学前の受け入れ先として、保育所は厚労省、幼稚園は文科省、認定こども園は内閣府が所管している。こうした複数の行政組織にまたがる縦割りの弊害や、各法律で対象年齢が区切られていることで支援が途切れがちになることが問題視されていた。

基本方針によると、こども家庭庁は首相直属の機関と位置付け、内閣府の外局として設置。各省への勧告権を持つ担当相も置き、企画立案・総合調整、成育、支援の3部門を設ける。子ども政策に関する新たな大綱も策定する。
 保育所と認定こども園はこども家庭庁に移す。幼稚園の所管は文科省に残すが、「幼稚園教育要領」にも関与する。幼稚園と共通の教育を受けられるよう「保育所保育指針」は同省と共同で策定する。いじめ問題については、同省と情報共有するなど連携して対応する。

 


侵略と侵攻と進出の明確な違いって何でしょうか?

2022年02月28日 12時05分08秒 | 社会・文化・政治・経済

戦争史をひも解くと、侵略と侵攻と進出(統治)がすごく曖昧な気がします、どのような明確な違いがあるのですかね。

もしかして同じようなことをしてても明確に敗戦国になったら侵略にされて、明確な勝敗が付かなければ侵攻で、明確に戦勝国になれば進出(統治)にされたりするでしょうか?

そんなあいまいなものなのですかね、それとも侵略・侵攻・進出(統治)の明確な違いはすでに定義されているのでしょうか。

明確な違いはありません。ニュアンスの問題です。教科書次第で同じ場面でも侵略としてあるものと侵攻としてあるものがあります。

侵略:国際法上のアグレッションに相当する日本語。アグレッションは「相手の”主権や独立”を軍事的手段で奪い取る」ことです。100%相手への攻撃なので、一方的に侵略側が悪であるというマイナスイメージが強くなります。

となると侵攻と侵略は場合によっては同じ意味になるシーンがあります。例えばアレクサンドロスによるペルシャ遠征は侵攻とも侵略ともいえますね。

一方で一部の記述ですが日本の朝鮮植民地化は朝鮮に国家レベルで攻撃を加えていないので侵攻ではないですが、政治を乗っ取ったので侵略とか征服とは言えます。そのほか当然ですが進出とも書けます。

日本が朝鮮に進出といえばイメージはよく、朝鮮侵略と書けばイメージは悪いです。このようにそれぞれニュアンスによって使い分けということもあるのです。

侵攻:単純に軍事的手段で攻撃すること。例えば自国に侵略してきた敵国
陣地を撃破するのも敵陣侵攻になります。なので自衛戦争だろうがなんだろうが軍事的手段で攻撃していくので中立的あるいはプラスイメージがあります。

進出:新天地に出ること。新店が関東進出というように、軍事的要素一切なしでもありえることで、相手国とか政治体制を乗っ取るとかでなく、無人地帯を開拓したりそういうのも含む広い概念です。例えばアポロ計画によって人類の月進出を果たしましたと使います。人類は月を侵略したとか侵攻したとは普通言いませんね。月には国家も相手もないからです。


「侵攻」と「侵略」の違い
「侵攻」とは、他国や他の領地に侵入して軍事的な手段をもって攻め込むことで、侵略してきた敵国の陣地に攻め込むことも含まれます。

「侵略」とは、他国や他の領地に攻め込んで土地や財物などを奪い取ることで、軍事的な手段をとって行う「直接侵略」と、外国や組織などの指導や干渉などにより被侵略国内の内乱を引き起こす「間接侵略」があります。

「侵攻」は、他国や他の領地に侵入して軍事的な手段をもって攻め込むことなのに対し、「侵略」は、奪い取ることを目的としている攻撃という違いがあります。

 

 


「プーチンは制御不能」 元英外相が指摘する「帝国」の意思と弱点

2022年02月28日 11時57分52秒 | 新聞を読もう

服部正法  毎日新聞 2022/2/26 16:29(最終更新 2/26 19:30)

国民向けの演説で、ウクライナ東部の独立承認を表明するロシアのプーチン大統領=モスクワで2022年2月21日、スプートニク通信AP

 近代の英露関係史を詳述した著書を昨年発表したばかりのデービッド・オーウェン元英外相が、ロシアによるウクライナ本格侵攻直後の24日、毎日新聞の電話インタビューに応じた。オーウェン氏は侵攻の背後にあるプーチン露大統領の世界観や、北大西洋条約機構(NATO)を巡る外交、地政学上の機微について語った。【聞き手・ロンドン服部正法】

 プーチンはもはや通常のロシアの指導者ではなくなっプーチンはもはや通常のロシアの指導者ではなくなった。完全に制御不能で、政治勢力であれ軍であれ、誰も彼(プーチン氏)を抑えることはできない。世界にとって大変危険だ。NATO部隊がウクライナでロシアと戦うのは論外としても、まずウクライナを、そしてロシアに近く潜在的に攻撃を受けやすいNATO加盟国を全力で支援しなければならない。

 彼は「ロシア帝国」「ソビエト帝国」の地理的な再建と、ウクライナがロシアの影響圏から西側へと引きずり出されるのを止めることを自身の義務としている


コロナ治療薬開発のインサイダー事件 会社社長ら3人を刑事告発

2022年02月25日 15時35分45秒 | 事件・事故

2022年2月24日 21時25分  NHK 

東京の医療ベンチャー企業による、新型コロナウイルスの治療薬開発をめぐるインサイダー取り引き事件で、証券取引等監視委員会は、横浜市の会社社長ら3人が公表前の内部情報をもとに不正に株を買い付けたとして、金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に刑事告発しました。

横浜市にある建設会社の社長 久保田俊明容疑者(53)や、神奈川県の投資関連会社の社長 山崎平馬容疑者(49)ら3人は、東京の医療ベンチャー企業「テラ」と業務提携先が新型コロナウイルスの治療薬開発に乗り出すことなど、公表前の内部情報をもとに不正に株を買い付けたとして今月4日、インサイダー取り引きの疑いで警視庁に逮捕されました。

証券取引等監視委員会によりますと、3人は内部情報が公表される前のおととし4月から5月にかけて、合わせておよそ4000万円分の株を不正に買い付けていたということで、監視委員会は3人を金融商品取引法違反の疑いで東京地検特捜部に刑事告発しました。

テラはその後、開発事業から事実上撤退していますが、捜査関係者によりますと、3人は値上がりした株を売り抜けることで合わせておよそ5000万円の利益を得ていた疑いがあるということです。

監視委員会と警視庁は引き続き詳しい経緯を調べています。

監視委員会は3人の認否を明らかにしていません。

コロナ治療薬情報でインサイダー容疑 監視委告発

2022年2月24日 20:24 日本経済新聞


ジャスダック上場のテラによる新型コロナウイルス治療薬の開発事業に絡みインサイダー取引に関与したとして、証券取引等監視委員会は24日、不動産会社「内田建設」(横浜市)代表取締役の久保田俊明容疑者(53)ら3人と法人としての同社を金融商品取引法違反(インサイダー取引)容疑で東京地検に告発した。

ほかに告発したのは投資助言会社役員の山崎平馬容疑者(49)と不動産会社役員の山本寅容疑者(43)。

監視委によると、3人は治療薬開発に関する情報をテラの提携先企業の元役員から入手し、公表前の2020年4~5月、テラ株を約90万~2230万円で購入した疑いが持たれている。捜査関係者によると、3人は取引により900万~3000万円超の利益を得たという。

テラ社を巡り監視委は21年3月、警視庁捜査2課と連携し、同社などの関係先を金商法違反容疑で強制調査。捜査2課が今月4日、久保田容疑者ら3人を同法違反容疑で逮捕した。

 


はんぶん-じょくれい【繁文縟礼】

2022年02月25日 15時35分45秒 | 社会・文化・政治・経済

礼儀や規則・形式などがこまごまして煩わしいこと。▽「文」はあや・飾り、また礼儀・規則の条文などの意。「繁文」はこまごました飾り。規則などがこまごまと煩わしいこと。

「縟」は煩わしい、込み入っている意。「縟礼」は込み入った礼儀作法のこと。略して「繁縟」ともいう。


数年来の体調不良である

2022年02月25日 15時32分38秒 | 新聞を読もう

風邪の症状であるが、咳がとならない。
家人は先に風邪となり、新ルルAゴールド飲んでいた。
家人に勧めるままに、その薬を服用したら、副作用で<唇がただれてきた>のだ。
酒を飲んだら、薬は飲むべきではないが、寒気がするので、熱燗にして飲む。
連日(2月20日~24日)寒気がするのに、友人たちに会うために外出もした。
次男は「おやじ、死んでも自業自得。葬式は出してやらないぞ!」と嫌味言う。
次男とは会話が全く途絶えて家人は無言のままだった。
ところで、次男は1昨年(7か月間)と昨年から今年の8か月間も家人に反発して、家人が作る食事を一切食べていない。
家に毎月、3万円の食事費を入れているのに、不貞腐れているのだ。「お米が余ってしようがない」と家事は言う。
その余った米は、長男のとことへ。


「再び増加懸念も」 新型コロナ感染者数

2022年02月25日 09時14分29秒 | 医科・歯科・介護

FNNプライムオンライン   2022/02/25 06:39

疲れた心に沁みる!風情ある日本の神秘的な風景 17選
米欧、ハイテク輸出規制視野=対ロシアで日本も検討―世界経済へ打撃必至

新型コロナ対策を厚生労働省に助言する専門家会合が開かれ、「新規感染者数が、再び増加傾向に転じる可能性もある」との分析が示された。

厚労省アドバイザリーボード・脇田座長「新規感染者数の減少が非常に緩慢であるということで、全国的に再び増加傾向に転じる可能性もある」

専門家会合の脇田座長は、新規感染者数の減少が緩やかなことから、再び増加に転じる可能性があるほか、海外の一部地域で拡大している、いわゆるステルスオミクロン株「BA.2」への置き換わりにも、注意が必要だと指摘した。

一方、専門家からは、感染者の濃厚接触者を特定して行動制限を求めることについて、「オミクロン株に対しては有効性が低下している可能性があり、社会活動維持の弊害の要因になる」と、見直しを求める提言が出された。


牧野富太郎生誕160年

2022年02月25日 08時42分20秒 | 社会・文化・政治・経済

高知県出身の植物分類学者 牧野富太郎博士は令和4年4月24日に生誕160年を迎えます。
これに先駆け、令和4年4月以降に牧野植物園が開催する特別企画展の情報や、牧野博士自筆の植物図などを展示している「牧野蔵」の情報などをご紹介する特設ページが登場しました。

植物を心から愛し、植物研究に生涯を捧げた牧野博士。
来年は、みんなで博士の生誕160年を盛り上げましょう!

牧野 富太郎(1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。

「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。
その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。
小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。
個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数える。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以である。

10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年-1895年)[3]に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

名教館は学制改革により校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[4]。

酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた[4]。15歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。

そして、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草綱目啓蒙」[5]に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した[4]。

東京では博物局の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。

富太郎は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京する。そこで帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。マキシモヴィッチからは、図を絶賛する返事が届いており、富太郎は天性の描画力にも恵まれていた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。同雑誌には澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加している。2014年現在も刊行されており、日本で最も古く権威ある植物学誌となっている[注釈 1]。

同年、育ててくれた祖母が死去。

26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された[注釈 2]。

この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった[4]。

1889年(明治22年)、27歳で新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を

得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。同年、小澤寿衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった[注釈 3]。

一旦、郷里の高知に帰郷し、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽会を開き、自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、知人らの助力により、駒場の農科大学(現・東大農学部)にて研究を続けることができるようになり、帰京。

31歳で、矢田部退任後の東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。助手の月給で一家を養っていたが[注釈 4]、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどしていたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある[注釈 5]。

その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされなかった[4]。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。

1900年から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だかこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。

1926年(大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)[6]の協力を得て、個人で『植物研究雑誌』[7]を創刊したが、3号で休刊した。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている[注釈 6]。

1912年(大正元年、牧野50歳)から1939年(昭和14年、77歳)まで東京帝国大学理科大学講師。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。

1927年4月(昭和2年)、65歳で東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。

同年に発見した新種の笹に翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。

1940年(昭和15年)、退官後、78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員。

1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた[8]。同年設立された文化功労者第1回の対象者となる。

1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。

1954年(昭和29年)頃から病気がちになり、病で寝込むことが多くなった。

1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。同じく同年、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。

1957年(昭和32年)、94歳で死去。

 

 


輪太郎の競輪人間学 小金を貯められない人間は・・・

2022年02月22日 04時51分06秒 | 未来予測研究会の掲示板

「輪太郎さん、小金を貯められない人は、結局、大金も貯められまん」
信託銀行に勤務していた生真面目な高橋優斗のアドバイスだった。
彼は、ギャンブルの一切をやらずに、地元自治会の役員に徹していた。
若くして胃がんを患い、肺にがんが転移して40代で亡くなっている。

電電公社の武蔵と呼ばれていた宮本こそ、小金を貯めることに余念がない人だった。
コロナ禍以来、2年余り競輪場へ姿を見せていないが、頭(軸)を決めて、2点か3点の3連単勝負をしていた。

武蔵は勝負勘に長けた人だ。

「競輪は、複勝で十分なんだ」我孫子の勝負師は強調する。

だが、競輪に絶対はない。

お金を貯めるには2つの方法がある

ひとつは、収入を増やすこと。

もうひとつは、支出を減らすこと。
収入が増えなくても、支出が減れば使うお金が減るので、貯蓄を増やせます。

GⅠ 取手競輪 読売新聞社杯全日本選抜競輪2日目

本命党にとっては、「お手上げ状態」の読売新聞社杯全日本選抜競輪であった。

特に11レースは、取手地元の吉田 拓矢選手が人気を集めた。

並び 5-1-9 8-2 3-7 4-6

レース評
初日は勝負どころで内に詰まって失敗の吉田。今度こそ地元でファンにアピールする走りだ。穴の匂いは一撃力ある北津留。

だが、吉田選手は、初日同様に内に詰まる。

三谷 竜生選手に内側に押し込まれて、外へ出られなかったのだ。

楽をして勝とうとして、裏目に出る。

一見、経済コースと想われる内側を掬うことは、現実にが、魔物待っているのだ。

最近にの吉田選手の戦法に<疑問符>がつく。

外から、豪快に捲る吉田選手を、多くの競輪ファンたりは観たいのだ。

2日目は大荒れに

1レース 1-6 4,700円(16番人気)   1-6-8 1万6,110円(51番人気)
2レース 9-5 9,040円(28番人気)   9-5-6 7万5,980円(192番人気)
3レース 6-9 1万3,290円(29番人気)  6-9-2 5万2,490円(136番人気)
4レース   2-9 4,670円(19番人気)        2-9-8 2万9,580円(95番人気)
5レース   7-6 5,740円(21番人気)        7-6-2 2万7,700円(82番人気)
6レース   1-5    930円(3番人気)            1-5-7 1万1,710円(34番人気)
8レース 5-9 1,780円(6番人気)         5-9-8 3万7,600円(125番人気)
9レース 6-4 2万3,300円(59番人気)  6-4-7 14万6,040円(354番人気)
10レース 7-2 4,770円(20番人気)      7-2-5 2万690円(72番人気)
11レース 8-2 7,870円(20番人気)      8-2-9 9万6,210円(183番人気) 
12レース 2-5 4,440円(19番人気)      2-5-9 1万3,180円(47番人気)

11レース




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 8 松井 宏佑   12.4 B 逃げ粘って
2 2 松坂 洋平 1/2車身 12.3   松井マーク
3 9 神山 拓弥 1/2車身 12.0     直線外伸び
  4 4 三谷 竜生 1/2車輪 12.3     外々堪えて
5 5 吉田 拓矢 1/8車輪 12.2     内に詰まり
6 7 山田 庸平 3/4車輪 11.6     北津留離れ
7 1 吉澤 純平 1/2車身 12.2   S 前捨て捲上
× 8 3 北津留 翼 1/2車身 12.0     後方不発で
  9 6 松岡 健介 1/2車身 12.0     切り替えて

戦い終わって

戦い終わって写真

 打鐘前に松井宏佑が仕掛けて前に出ると吉田拓矢と三谷竜生で三番手併走。三番手がもつれて外併走の三谷が捲るが一車。別線は捲れずペースを掴んだ松井が逃げ切り。「風が強くて行けるかなと思ったんですけど自分らしく先行して押し切れて良かったです。僕たちが前か前中団取って、斬って斬っての上を行ければと思っていた。内から吉田拓矢君が来てるのが見えたけど、前出れば後ろがもつれるかと思ったので作戦通り。バックが向かい風がきついので追い風の所でスピード乗せて踏み切れるようにと思っていたが決まって良かったです。松坂洋平さんはアマチュア時代から面倒見てもらっていてトレーニングの先生です。恩がある人です。決まって嬉しいです。二次予選でSS班の吉田拓矢君相手に逃げ切れたのは自信になります」。
 松井宏佑をマークして二着の松坂洋平。「松井君の気持ちが嬉しかった。特に作戦はなく好きなように走ってくれと。後ろが併走になったのは分かったので内を空けないようにして脚にきた。松井君はアマチュア時代から一緒に練習やってきた後輩なのでワンツー決まって嬉しい。12レース(スタールビー賞)は南関勢がたくさんいるので準決で連係出来れば」。
 地元勢マークから直線外伸びて三着の神山拓弥。「打鐘での吉田拓矢君の判断は良かったと思う。前は地元の二人なので仕掛けてからじゃないと踏めないので。風の影響は特に感じないし悪くないです。初日1レース終わってリラックスできた。それも良かった。三人で勝ち上がりたかったが…。(その前に同県)後輩二人が勝ち上がってくれていたので」。

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11レースを吉田選手から5番の車券を落として、輪太郎は12レースは5番の松浦悠士選手の2車復車券に賭けたのだ。
2車復車券を軽視しては、小金は貯められない!
2-5 500円 1-5 500円 3-5 500円
結果は
2=5 2,010円(10番人気)

小金が少し貯まる。

 


戦争の文化: パールハーバー・ヒロシマ・9.11.イラク (上)

2022年02月21日 21時45分46秒 | 新聞を読もう

ジョン・W.ダワー (著), 三浦 陽一 (翻訳)

自らに都合の良い思考、異論や批判の排除、過度のナショナリズム、敵の動機や能力の過小評価、文化的・人種的偏見――今もなお世界を覆う「戦争の文化」の本質を、真珠湾攻撃から原爆投下、九・一一事件、イラク戦争に至る日米の愚行を通じて描き出す。

『敗北を抱きしめて』で知られる碩学の長年にわたる研究の集大成。

 

第二次世界大戦と9・11およびイラク戦争に関する本書は、時代が異なるこれらの戦争の相違点・類似点について考察しており、とても興味深い内容である。
本書で相違点・類似点が述べられている出来事は、たとえば以下のようなペアである。
「真珠湾攻撃」と「9・11」
「9・11というテロ」と「ヒロシマ・ナガサキというテロ」
「真珠湾攻撃」と「イラク攻撃」
アメリカによる「日本占領」と「イラク占領」
「日本軍による捕虜への虐待」と「アメリカ軍による捕虜への拷問」
など。
途中にいろいろな写真が挿入されているのもいい。インパクトがある写真が多い。
一つ残念なことは、本書の原著が2010年に出ているのに、この翻訳版が出たのが十年以上も経った2021年だということである。もう少し早く出していただけるともっと良かったと思う。

ジョン・W・ダワー (John W. Dower, 1938年6月21日 - ) は、アメリカ合衆国歴史学者マサチューセッツ工科大学名誉教授。専攻は、日本近代史。妻は日本人。米国における日本占領研究の第一人者であり、1970年代の日本近代化論の批判でも知られる

ロードアイランド州プロビデンス生まれ。アマースト大学卒業、1972年にハーヴァード大学博士号取得。

アマースト大学時代はアメリカ文学を専攻していたが、1958年に来日し金沢市滞在を契機に日本文学に関心を移し、ハーヴァード大学大学院に進学後、1961年に森鷗外の研究で修士号を取得。その後、アメリカ空軍勤務や、1962年より金沢女子短期大学の英語講師、1963年より東京の出版社ウェザーヒル社の編集助手を務める。

1965年に帰国後、博士課程では日米関係を専攻し、後に刊行される『吉田茂とその時代』の前半部分に相当する戦前の吉田茂の研究で博士号を取得した。1968年には親中派の在米左翼団体“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮するアジア学研究者委員会)をハーバート・ビックスらとともに組織。

ネブラスカ大学講師、ウィスコンシン大学マディソン校助教授・准教授・教授、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授、マサチューセッツ工科大学基金授与教授として教鞭をとり、2010年退職。

MIT在職中の2002年には宮川繁とともに、日米の視覚文化を扱ったオンラインサイト「MIT Visualizing Cultures」を制作した。

業績[編集]

Empire and Aftermath(1979年、邦題『吉田茂とその時代』)では、従来論じられることが多かった「リベラルな自由主義者」としての吉田茂像に対して、保守主義者帝国主義者としての吉田の側面を強く押し出した解釈を提起した。

War without Mercy(1986年、『容赦なき戦争』)では、従来の太平洋戦争研究で十分に論じられてこなかった日米の人種観に焦点を当て、戦争が苛烈になった一因を日米両国の有していた相手国への選民意識・蔑視意識にみとめる解釈を示した[2]

Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (1999年、『敗北を抱きしめて』)では、終戦直後の日本にスポットを当て、政治家や高級官僚から文化人、数々の一般庶民にいたるまであらゆる層を対象として取りあげ、日本に民主主義が定着する過程を日米両者の視点に立って描き出した。

この作品はピュリツァー賞などを受賞すると共に、日本でも岩波書店から「敗北を抱きしめて」の題で出版され、ベストセラーになった。

 

2010年刊『Cultures of War』の邦訳下巻。上巻には全三部構成のうち上巻から引き継いで第Ⅱ部「テロ」の後半部分と第Ⅲ部「国家建設」が収録されている。
下巻に収録されている第Ⅱ部の部分は、日本への原爆投下の論理(第10章)と心理(第11章)が広範な資料をもとに論じられている。

第Ⅲ部は、比較されることが多いアメリカによる日本とイラクの占領を扱う。ここでは、イラク占領の迷走について多くの紙幅が割かれ、その論理の破綻を明確にした第14章「法、正義、犯罪」、そして迷走の実態を克明に描いた第15章「市場原理主義」の最後の2章はここまで十分な分量があったにもかかわらずに、一気に読ませる程に興味深かった。

著者が言う「戦争の文化」は、「「選択としての戦争(war of choise)」すわなち先制攻撃への衝動、大国意識による傲慢hubris、希望的観測wishful thinking、内部の異論を排除して戦争に走るグループ思考groupthink、宗教的・人種的偏見、他者の立場に対する想像力の欠落、説明責任の無視、無差別殺戮、拷問、虐待といったものである。

こうしたソフト面とともに、ハード面ではつねに相手よりも優位に立とうとして「発達」し続ける兵器体系も含まれる。」(「監訳者あとがき」本書352ページ)とされる。「アメリカにおける」という限定が必要な要素もあるが、多面的な戦争の文化を彫琢することに成功していると思う。

2010年刊『Cultures of War』の邦訳上巻。上巻には全三部構成のうち第Ⅰ部「開戦」と第Ⅱ部「テロ」の半分が収録されている。

焦点が当てられるのは日本とアメリカ。原著の副題に、「パールハーバー、ヒロシマ、9・11、イラク」とあるとおり、第Ⅰ部ではパールハーバーと9・11が対比される。なぜ、アメリカはいずれの奇襲攻撃も許してしまったのか。そして、イラク戦争という戦略的愚行になぜ走ってしまったのかが考察される。
続いて第Ⅱ部は「テロ」と題されているが、扱うのは第二次世界大戦で英米が採用した無差別テロ爆撃であり、日本への空襲や広島や長崎への原爆投下について考察がなされる。

市民への無差別な攻撃が都合良く正当化されることによって進められた経緯が綴られており、それは、広島や長崎の原爆投下に関わり使われた「グラウンド・ゼロ」が都合良く世界貿易センター跡地を呼ぶのに使われていることとも結び付けられる。
「本書の分析は、戦争の言葉で満ちている。」

(本書プロローグxxxページ)とあるように、時々の言葉の使われ方に着目する点が大変興味深く、またそのための膨大な文献考察に支えられている点が特徴となっている(上巻の時点で2段組み70ページ弱の膨大な注がある)。

「戦争の文化」と題し、アメリカや日本の過去の行動から、その文化の実相を浮かび上がらせるに相応しい大著である。

 

 


小鳥を捕獲する猫のタマ

2022年02月19日 20時39分44秒 | 日記・断片

西田さんの猫のタマほど、木に登ることだ好きな猫は他に見たことがない。
タマは木に登って、小鳥が飛来するのをじっと待っているのである。
取手市内の小鳥のなかで、雀、カワセミ、メジロなどを捕獲する。
生きたままの小鳥を咥えて家に上がり込んでくるタマに西田さんはあきれ顔だ。

木に登り小鳥を待つ猫のタマ 2022年2月15 日

挑戦と応戦の繰り返しが歴史を作る

2022年02月19日 20時18分10秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

イギリスの歴史家であるアーノルド・トインビーは、「文明を興すものは何か」を探った結果、それは人種でも恵まれた環境でもなく、かえって劣悪な気候の変化や外の文明からの圧力、刺激、困難に立ち向かうなかで生まれてくるものだと結論。

それを外部からの「挑戦(チャレンジ)と内からの応戦(レスポンス)」と説明。

挑戦と応戦の繰り返しが歴史を作る。

「トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげた。状況に振り回され、応戦ができない文明は衰退する。」これを機に改革を断行できるかどうかが復興の成否を決するとの内容。

「英国の歴史家アーノルド・J・トインビーが、着想から40年、大著「歴史の研究」を書き上げたのは半世紀前の1961年だった。

トインビーによれば、文明は逆境で生まれる。自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。
例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。
 このプロセスは、国の盛衰にもあてはまる。

 トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげた。状況に振り回され、応戦ができない文明は衰退する。


挑戦と応戦の繰り返しが歴史を作る。

2022年02月19日 20時18分10秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

イギリスの歴史家であるアーノルド・トインビーは、「文明を興すものは何か」を探った結果、それは人種でも恵まれた環境でもなく、かえって劣悪な気候の変化や外の文明からの圧力、刺激、困難に立ち向かうなかで生まれてくるものだと結論。

それを外部からの「挑戦(チャレンジ)と内からの応戦(レスポンス)」と説明。

挑戦と応戦の繰り返しが歴史を作る。

「トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげた。状況に振り回され、応戦ができない文明は衰退する。」これを機に改革を断行できるかどうかが復興の成否を決するとの内容。

「英国の歴史家アーノルド・J・トインビーが、着想から40年、大著「歴史の研究」を書き上げたのは半世紀前の1961年だった。

トインビーによれば、文明は逆境で生まれる。自然的環境や人間的環境からの挑戦(チャレンジ)に人々の応戦(レスポンス)が成功したときに興る。
例えば「古代エジプト文明」は、気候の変化による砂漠化で生存の危機に直面した人々が、ナイル川沿いの沼沢地を豊かな農地に変えることで生まれた。
 このプロセスは、国の盛衰にもあてはまる。

 トインビーは挫折した文明の共通項に「自己決定能力の喪失」をあげた。状況に振り回され、応戦ができない文明は衰退する。


高齢者、心臓や呼吸器などの持病のある人、肥満はとくに注意

2022年02月19日 20時06分14秒 | 医科・歯科・介護

公開日2021.08.30

※当コンテンツの内容は2021年7月時点の情報となります。

新型コロナウイルス感染症で、重症化する人には共通のリスク因子がみられます。また、回復後も後遺症に悩む人も少なくありません。
監修:岡部信彦(川崎市健康安全研究所 所長)

 

高齢者、心臓や呼吸器などの持病のある人、肥満はとくに注意

60代から死亡率が高くなる

新型コロナウイルス感染症にかかると、約20%の人が重症化するといわれています。その人たちの傾向を調べた結果、年齢が高いほど重症化する確率も、亡くなる確率も高くなることがわかっています。ただし最近は、重症化(酸素・人工呼吸器を要する)が、40~50代の年齢層に下がってきています。20~30代の重症者もいるので「若いから大丈夫」と過信はできません。

持病が重なると、リスクも高まる

年齢のほかに、持病があることも重症化や死亡につながるリスクと考えられています。
慢性腎臓病、肝疾患、脂質異常症、高血圧、糖尿病の持病がある人、肥満の人は、重症化する割合が高くなります。持病は、二つ、三つと重なれば重なるほど重症化する可能性が高くなると考えられています。

一方、心疾患、慢性肺疾患、脳血管障害、慢性腎臓病のある人は、死亡する割合が高い傾向にあります。重症化しやすい人の持病と、死亡につながりやすい人の持病は、異なる可能性があります。

他方、今のところ小児年齢は大人に比べて感染しにくく、感染しても重症になりにくく、国内での小児死亡例は、2021年5月現在、0例です1)

1)公益社団法人 日本小児科学会 小児における新型コロナウイルス(COVID-19)の現状と感染対策についての見解 2021年5月20日

後遺症に悩む人は少なくない

人によって、さまざまな症状が長引く

新型コロナウイルス感染症が回復したあと、数週間~数カ月にわたって、さまざまな後遺症に悩まされる人が少なくないことが明らかになっています。

症状はとても多様です。倦怠感、息苦しさ、胸の痛みや違和感、せきなどが多くみられる症状ですが、そのほか、嗅覚障害、関節痛、頭痛、目や口の乾燥、鼻炎、味覚障害、食欲低下、めまい、筋肉痛、不眠症、脱毛、発汗、下痢、精神や認知の働きの障害などの症状が続く人もいます。

重症の人に限らず何らかの後遺症が

後遺症がみられやすい人の特徴として、重症だった人、高齢者、女性、肥満などが挙げられていますが、軽症で回復した人であっても、症状が続いたり、しばらくして何らかの症状が出てきたりする人もいます。

表1 重症化のリスクが高いと考えられる因子

・65歳以上の高齢者
・悪性腫瘍(がん)
・慢性閉塞性肺疾患(COPD)
・慢性腎臓病
・2型糖尿病
・高血圧
・脂質異常症
・肥満(BMI30以上)
・喫煙
・固形臓器移植後の免疫不全

生物学的製剤の使用、HIV 感染症、妊婦については、重症化リスクが高いかどうか評価中です。
「新型ウイルス感染症COVID-19診療の手引き第4.2版」より作成
https://www.mhlw.go.jp/content/000742297.pdf

監修者紹介 岡部信彦

川崎市健康安全研究所 所長

1971年東京慈恵会医科大学卒業。同大学小児科で研修後、帝京大学小児科助手、その後慈恵医大小児科助手。国立小児病院感染科、神奈川県衛生看護専門学校付属病院小児科などに勤務。1991年~1994年、世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局(フィリピン・マニラ市)伝染病疾患予防対策課課長。1994~1997年慈恵医大小児科助教授。1997年国立感染症研究所感染症情報センター・室長。2000年、同研究所感染症情報センター長。2012年から現職。内閣官房新型コロナウイルス感染症対策分科会委員、厚生労働省新型コロナウイルス対策アドバイザリーボード委員を務めている。

岡部先生からのメッセージ
新型コロナウイルス感染症も、インフルエンザも、ノロウイルスも感染症です。感染症はまずは自分が病気にならないよう、そして人にうつさないように、自分を大切にし、人を思いやることによってその数を減らし、重症になる方、亡くなる方を減らすことができます。病気になった時の治療は医療機関で行いますが、病気にならないための予防は、一人ひとりが生活の中でやらないとできません。糖尿病や肥満などの生活習慣に係る慢性の病気を早く見つけ、いい状態に保っておくことも、感染症を悪化させない重要な点です。健康診断や慢性疾患の息の長い治療も飽きずに、きちんと続けてください。
新型コロナウイルス感染症は、インフルエンザやノロウイルスほどかかりやすい感染症ではありません。それだけに身近に感じないのかもしれませんが、かかった時の重症化の割合や後遺症の問題はインフルエンザやノロウイルスよりもはるかに高くなることも忘れずにいてください。
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