2015年2月2日
特集1 戦後70年 「泣き声が耳から離れない」 戦地で出会った「慰安婦」 元従軍看護婦 中里チヨさん
今年は戦後七〇年にあたります。「戦争を知らない世代」が増えたのも、不戦を誓った日本国憲法第九条の存在があってこそ。ところが安倍政権は、日本をふたたび戦争のできる国にするため憲法改正をねらっています。過去の戦争で日本が犯した過ちについても、“日本軍が性奴隷にした”というのは「言われなき中傷」(「慰安婦」問題について二〇一四年一〇月、安倍首相)と述べるなど、真実を歪めようとしています。
中里チヨさんは、元従軍看護婦。「日本軍の管理下に慰安婦さんがいた」と証言します。
中里チヨさん 1926年新潟生まれ。元・川崎協同病院(神奈川民医連)看護部長、全日本民医連看護委員。第二次大戦中に従軍看護婦を経験。
私が従軍看護婦として、中国の海南島に行ったときに見聞きしたことをお話しします。
18歳で従軍看護婦に
私は一九四四年三月二五日に看護学校を卒業し、志願して軍属の従軍看護婦になりました。一八歳でした。
四月一日からは、従軍前の訓練を受けるため、東京の目黒雅叙園にあった海軍第二病院に召集され、「日本の軍隊として恥ずかしくない看護婦になれ」と指導されました。私は日赤の看護婦ではなかったので、丸い赤十字の帽子ではなく、三角巾をかぶり白衣を着ていました。毎日の朝礼では「一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ…」と、とても速いスピードで軍人勅諭を暗唱させられました。
一一月五日朝、まだ夜が明けないうちに、トラック四台に八〇人の看護婦が乗せられ、横須賀港へ行きました。そこから船に乗り、台湾へ。高雄海軍病院で働いたあと、中国・海南島の三亜海軍病院で働きました。ここで慰安婦さんたちと出会ったのです。
夕方になると号令が
病院に勤務していたとき、驚いたことがありました。それは夕方六時五分前になると「外出員整列五分前!」という号令がかかるのです。すると二〇人くらいの海軍の軍人が集まってくる。ニコニコしながら集まってきて交代で外出するのです。私は不思議に思って、「どこにいくのか」とたずねました。すると「おもしろいところに行くんだ。そのうちわかるから」と言ったきり、具体的なことは何も言いませんでした。
あとになって、外出は「慰安婦」と呼ばれる女性がいる小屋へ行くためだと知りました。号令をかけて整列させたということは、軍が外出時間を保障し、公認していたということです。日本の軍隊が組織的にそのような形をつくりあげたことを、私は許せません。
軍が慰安婦の検診をおこなっていた
あるとき、婦長さんから呼ばれて、「いまから慰安婦の検診をおこなうので、軍医の介助をするように」と言われました。それは婦人科の検診でした。
彼女たちはトラックに乗ってやってきました。四台に一〇〇人を超す人たちが乗っていました。私の役割は、彼女たちの腕に注射をして、内診をするためのベッドまで連れて行き、消毒をすることでした。病気があるかどうかは、一目みればわかります。淋病だとわかっても、できることは消毒しかありません。痛がってワンワン泣く彼女たちの声は、いまでも私の耳から離れません。
検診のとき、彼女たちの名札には「兵隊用」「軍属用」「将校用」と書かれていました。「兵隊用」「軍属用」と書かれた名札をつけていたのは、台湾や韓国の女性たちでした。「将校用」と書かれた女性は、日本人なのに韓国名で呼ばれていました。彼女たちは「特殊看護婦」の名で連れてこられ、アパートのようなところに収容されて暮らしていました。私は検診で出会ったひとりと仲良くなり、彼女の部屋に遊びに行ったこともありました。当時の私の月給は九〇円、彼女は二五〇円ほどだと言っていました。
一九歳だった私は、「慰安婦」と呼ばれる人たちがいること、軍が彼女たちを管理して検診している事実を知り、とてもショックでした。三亜というところは、当時、日本の海軍の司令部があったところですから、海軍・陸軍問わず軍隊が集中していた場所で、慰安所も無数にあったようです。こんなに恥ずかしいことを、日本はしていた。どういう事情があっても、こんなことは許されませんよ。
終戦後も二年半、海南島にいて、アメリカの捕虜を手当する仕事をしました。戦後も引き揚げるまですごく苦労して、ようやく日本に帰ってきたのは二三歳のときでした。
戦争する国づくりは許しちゃだめ
私が、このように戦地で見たことを話すようになったのは、民医連に入職してからです。それまでは絶対に話さなかった。話すことができませんでした。
いまの安倍政権は、戦争中におこった真実を伝えようとしない。「慰安婦」はいなかったことにしようとしています。しかし実際に私は、従軍看護婦として慰安婦さんの検診に携わり、いまお話ししたようなことを何度も目にしたのです。もし「そんな事実はないんだ」と言う人がいたら、「私は三亜にいたとき、こういうことを何度も目にした。不審でしょうがなかった」と直接申し上げてもいいという気持ちです。
今年は戦後七〇年。これまで以上に真剣に政治について考えなければならないと思います。みなさんには自分の考えをしっかり持ってほしい。絶対に戦争をする国づくりは許しちゃだめ、妥協してはだめです。私は妥協して、戦争に反対することもせず、自分から率先して戦地に行ってしまいました。そのことをとても後悔しています。当時は「お国のために尽くせ」と教育されていたのです。
民医連のみなさん、共同組織のみなさんは地域でとても大切なことを実践しておられます。どうか、社会をよくする運動の先頭に立ってください。私も、自分にできることをやり続けたいと思います。
「毎週、検診の介助をつとめた」─中里さんの手記から
医療文芸集団が一九六八年に発行した『従軍看護婦の記録 白の墓碑銘』(東邦出版社発行)。
「戦争の悲劇をふたたびくり返すまい」との思いで従軍看護婦の記録を集めて発行されたこの本には、「江川きく」の名前で中里チヨさんの手記が掲載されています。そのなかから一部をご紹介します。
…外来勤務に代わって初めての日だった。その日は、テントで特別の受け付けがつくられ、産婦人科の軍医が出張して来た。やがて、四台のトラックに満載された百人をこす女たちが運ばれてきた。日本中が地味な色のモンペ姿に統一されているというのに、この人たちは、色とりどりの着物を着流しにしたり、すその長い朝鮮や台湾の服を着ていた。いったいこの人たちは誰なのだろう。そして、何が始まろうというのかしら。私がキョトンとしていると、担当の衛生兵が、慰安婦の検診なのだと教えてくれた。
私はびっくりしてしまった。新潟の村には売春婦とか慰安婦などという人たちはいなかった。だから、そういう人たちがいるということもおぼろげにしか知らない私だった。それなのに、いま私の前にその慰安婦が百人もいる…。
しかし、軍隊はそんな個人の動揺をかまってはくれない。いよいよ検診が始まることになって、ふと衛生兵の机の上を見ると、慰安婦の名前の上に、「将校用」「兵隊用」「軍属用」と書かれてある。
「これ、どういうこと?」
「ああ、これか。将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよー」
その衛生兵は、なげやりな言い方でそう言った。
「まあ、まるで品物!」
私は顔をしかめ、ぶるぶるっと身ぶるいした。
(中略)
その夜、私はなかなか眠れなかった。聖戦を戦いぬき、大東亜共栄圏をつくろうとする皇軍の勇士たちに、そういう女がついていようとは? お国のため立派に戦って傷ついた兵隊さんを看病してあげたいと一途に思って、死ぬような思いまでしてやってきた私には、あまりにも大きな衝撃だった。私は、何度も手で空を切り、けがらわしい想念をふり払おうと努めた。夜はふけて村の祭りの事が次つぎと映り、しだいに涙があふれてきた。そして、涙の中にさっきの女たちの姿や兵隊の顔が浮かんでくるのだった。
少女の頭ではとても想像できない重圧に、つぶされてしまいそうな気持ちで一夜を過ごした。
それから毎木曜日、私は慰安婦検診の介助をつとめねばならなかった。
「慰安婦」とは
日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵の性交の相手をさせられた女性たち(吉見義明氏による定義。岩波新書『従軍慰安婦』より)。1993年に内閣官房長官をつとめた河野洋平氏の「河野談話」によって、長期に広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、慰安所が軍当局の要請により設営されたものであることを、日本政府は認めている。
いつでも元気 2015.02 No.280
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016年2月16日
元日本軍「慰安婦」の証言集会 ハルモニが求めているのは 生きているうちに解決を―姜さん そこは「死刑場」でした―李さん
一月二六日~三〇日、全日本民医連は、市民団体や労組と、韓国から元日本軍「慰安婦」のハルモニ(おばあさん)を招き、東京・大阪五カ所で証言集会を行いました。看学生などを含む八六二人が参加。おりしも昨年末、日韓両政府が日本軍「慰安婦」問題で“合意”を発表した直後の来日です。内容は求めるものと遠く、ハルモニたちは、この“合意”を認めていません。思い出すのもつらい被害の記憶と、日本政府に何を求めるのかが語られました。(丸山聡子記者)
来日したのは、被害者が共同生活をする「ナヌムの家」の李玉善(イ・オクソン)さん(88)、姜日出(カン・イルチュル)さん(87)、「ナヌムの家」所長の安信権(アン・シングォン)さん。現在韓国に生存する被害者は四六人、平均年齢は八九・二歳です。
■“合意”当事者抜き
昨年一二月二八日の日韓合意で日本政府は「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」と責任を認め、「おわびと反省」を表明しました。
ところが“合意”は当事者に連絡もなく決まり、当事者が求める「軍の責任を明確に認めた上での謝罪、法的賠償、真相究明、再発防止」とはかけ離れていました。日本が拠出するとした一〇億円も賠償とは違います。
しかも、合意後には自民党の桜田義孝元文部科学副大臣が「(慰安婦は)職業としての娼婦、ビジネスだ」と発言、政府もこれを正していません。また日本政府は合意後、「慰安婦を強制連行した証拠は見つかっていない」とする見解を国連機関に公式に伝達。“合意”内容を遂行する意思があるのかも疑われる姿勢です。
「ナヌムの家」のアン所長は、「これは個人の人権と請求権の問題ですが、当事者たちは合意をテレビで知った」と経過を説明。「早期に解決し両国が真に交流できるように、ハルモニの証言を次代に伝えたい」と話しました。
■いまも殴打の後遺症が
「日本政府になぜ謝罪を求めるのか、皆さんと考えたい」。証言集会で、イさんは語り始めました。生家は貧しく「養女」の名目でよその家で働いていました。一四~一五歳の時、お使いの途中、道端で二人の男に連行されました。
「行き先は日本軍が中国に作った“慰安所”でした。そこが何をするところか、分かりませんでした。それほど幼い一〇代前半の娘たちが集められていました」と、イさん。少女たちは一日に四〇~五〇人もの日本兵と性交渉を強いられました。耐えきれず自ら命を絶った少女は多数。拒んだ者は、皆の前で殺されました。遺体は通りに捨てられ、野良犬の餌食となり、骨すら残りませんでした。
逃亡を図ったイさんも、激しく殴られた上、日本刀で斬られるなどの制裁を受けました。いまも腕や足に傷跡が残り、耳や目もこの時の後遺症で不自由です。「私たちが居たのは本当に“慰安”の場だったのでしょうか? そうではありません。“死刑場”です」。
カンさんも一五歳で中国の慰安所に。「人間扱いされず、お母さんに会いたいと泣くと殴られた」と、頭の傷跡を見せました。「被害のことを話すたび、心で涙を流しています」とカンさん。時折気持ちが高ぶり、語気を強めます。「お金が欲しいのではありません。日本政府は具体的な加害の事実を認め、私たち被害者に直接謝罪すべきです」。
■証言を聞いた職員は
大阪民医連の林雅大さん(三三、事務)は、初めて証言を聞きました。“合意”発表後、「詫びたのだからいいのでは?」と言う友人がいたり、「韓国では反発が起きている」と報道があったり…。「直接ハルモニから真実を聞きたい」と考えました。参加して、ソウルの日本大使館前で一九九二年から毎週続いている水曜行動(一二〇〇回超)や、史実を遺すため韓国の人たちが大使館前に建てた少女像のことを知りました。
「この事実を歴史から消すのは絶対おかしい。自分の二人の娘と重ねると胸が詰まって…。過ちを繰り返さぬよう多くの人に知らせたい」と話します。この後、大阪で毎月行われている水曜行動にも林さんは初めて足を運びました。
* *
二人のハルモニは語ります。 「敗戦後、日本軍は私たちを山奥に残して逃げました。韓国に戻れたのは二〇〇〇年。嘘はついていません。日本の首相はナヌムの家に話を聞きに来てほしい」(イさん)。「生きているうちに解決を。戦争すれば必ず国民が傷つきます。韓国も日本も、他国を侵略してはいけません」(カンさん)。
当事者たちの尊厳は回復してはいません。早期解決のためにも、この事実を国内に広げる必要があります。
日本軍「慰安婦」…旧日本軍が戦地に設置した「慰安所」で、軍の管理下で兵士との性交渉を強いられた女性。誘拐や暴行・脅迫、人身売買など、当時の刑法や国際条約にも反する形で連行され、外出や性交渉の拒否などの自由はなかった。国際的には「性奴隷」と呼ばれる。朝鮮や中国のほか、フィリピン、インドネシアなど日本が侵略した国の女性が多かった。
(民医連新聞 第1614号 2016年2月15日)