医学情報社 9月1日より移転

2016年08月31日 21時26分00秒 | 【お知らせ】
歯学図書出版、通信関係会社 各位

日頃はお世話になりましてありがとうございます。

さて、弊社は9月1日より、下記に移転して業務を行うことに
なりましたので、お知らせいたします。
電話・FAX番号は変わりません。

〒113-0033 文京区本郷3丁目24-6 本郷サンハイツ105

今後ともよろしくご高配のほどお願い申し上げます。
取り急ぎご報告とご挨拶のみにて失礼いたします。

医学情報社
若松明文 拝

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医学情報社
 TEL 03-5684-6811 FAX 03-5684-6812
Mobile 090-7198-5511
 http://www.dentaltoday.co.jp
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阪神は最悪の状態

2016年08月31日 21時06分33秒 | 日記・断片
阪神は、最下位の中日に2連敗、最悪の状態。
長男が来ていて、一緒にテレビ観戦した。
長男は、携帯電話の支払いに来たのだ。

家族割引なので、家族4人がNTTファイナンスの口座振替。
当方は1737円
家人が2050円
長男が1万854円
次男が1万14円
固定電話が6841円
ぷらら利用分1080円
合計7921円

8月の振替金額は合計3万2684円
ちなみに、7月は3万1514円

保険をかけることも必要

2016年08月31日 11時34分27秒 | 未来予測研究会の掲示板
相変わらず利根輪太郎は不調であった。
先日、友人の三田正明にあったら、「今年は、競輪で100万円ほど浮いている」と言っていた。
人には意外な面があることに認識を新たにした。
彼は、これまで競馬をやってきたが、「競馬場に馬券を買いに行けないので、競輪にした」と言っていた。
元は東京で芸能プロダクションをやっていたが、取手に在住し芸術の道に生きている。
平凡な芸術家と想っていたのに、競馬、競輪にも独自の才能があったのである。
「みんな、筋で車券を買っているけど、筋に関係ないんだ」
何時か、酒でも飲んで三田から、車券の推理などを聞いてみたい。
三田が指摘したとおり、「本命の筋はあてにならない」
立川競輪10R準決勝。
本命は山田久徳選手(93期 京都 29歳)
3-7-4が本命のライン
7は坂上忠克選手(71期 石川 42歳)
対抗ラインは6-1-8
土浦の知人の小島三郎が、「6番の清水裕友選手(105期 山口 21歳)の伸び足がいい」と言っていた。
清水をマークするのは、ベテランの三宅達也選手(79期 岡山 39歳)、その後をかためるのは8番柴原政文選手(61期 福岡 48歳)
6-1-8ラインが先行し、3-7-4ラインが捲る(追い込む)展開と想われた。
別線は9番小橋秀幸選手(85期 青森 37歳)2番のベテラン岡部芳幸選手(66期 福島 45歳)
ところが、
9-2ラインで追い上げる展開を予想していたのに、2番は9番に見切りを付けて単独で競争する。
2番選手に捨てられた9番選手はやる気をなくしたように見えた。
結局、知人の小島が指摘したとおり、好調の清水選手が頑張り、本命の山田選手は伸びないで失速。
山田選手は前日の特選で後方から踏み上げるものの3着に終わった。
今日は、3着にも届かず、1-8-6のラインで決まった。
利根輪太郎は、3-1 3-2の表裏の3連単で勝負をして惨敗した。
保険をかけ1-8-6の車券をゲットした小島に取手駅前の居酒屋でお世話になる。
競輪に絶対はない。
「保険をかけることも必要だね」と小島。
納得である。
「前日、失敗した選手は、失敗をまた重ねるもんだ」
納得である。

成長している人

2016年08月31日 10時01分04秒 | 社会・文化・政治・経済
★子どもの成長を左右するのは、環境である。
例えば、夫婦の言い争いが絶えないような家庭では、凍ったような空気が支配する。
それが子どもの成長にとって良い空気であるはずがない。
★家庭に良い空気をつくり出すのは、親の前向きな姿勢や温かい言葉だ。
わが子への働き掛けという点では、「減点主義」なのか「加点主義」なのかで、空気は180度違ってくる。
★親の理想や思い、願いと比べ、子どもの足りない部分ばかり見る「減点主義」だと「ここが足りない」とか「なんで、こんなことができないの」となってしまう。
そうすると空気はよどんでしまう。
★そうではなく、わが子の現状をありのまま受け止めてあげ、成長できた部分を「よくできたね「すごいね」と率直に褒めてあげる。
そうした「加点主義」の声掛けで、家庭の空気は明るく変わる。
★今、教育現場では、子どもの「自尊感情」を育てることが大きなテーマになっている。
社会や家庭を覆う減点主義の厳しい味方も関係している。
★「教育」は「協育」
地域の中で関わる人たちが力を合せて未来の宝を育てていくことが、一人一人の自尊感情を育むことにつながっていく。
★成長している人は、他人の良さ、すごさが見える。
成長が止まると、人の欠点ばかりに目がつく。

自分の運命は自分で変えていける

2016年08月31日 09時34分59秒 | 社会・文化・政治・経済
★「生きるために学べ、学ぶために生きよ」ゲーテの母のモットー
★世間は、嫉妬や憎悪、不信が渦巻いている。
だが、和気あいあいとして、信頼と尊敬と励ましの人間の組織を創る必要がある。
その連帯を社会に広げていくことだ。
★何かを成し遂げるために、大切なのか何か。それは「勇気」である。
正しいことをやり抜く「勇気」。
幸福をつかむ「勇気」。
★自分の運命は自分で変えていける。
“真の幸福”のための要件。
自身の使命を模索する中、自覚する。
幸福の要件とは、使命の道を歩むための要件でもある。
★多くの人が孤立している。
人をつないでいく役割もある。

栄光勝ち取る

2016年08月30日 23時31分19秒 | 日記・断片
落とし穴にはまって泣くはよそう
嘲けられるように人は躓く
油断すれば皮肉な結果が待っている
ここを突きぬけて栄光勝ち取る

落とし穴にはまって泣くはよそう
真剣な恋なのに人は躓く
信頼したのに皮肉な結果が待っている
次の出会いできっと栄光勝ち取る

落とし穴にはまって泣くはよそう
酒と情けにおぼれ人は躓く
川のネオンを橋にもたれて見つめる
今日より明日目指し栄光勝ち取る

イザコザ解決

2016年08月30日 11時48分20秒 | 日記・断片
○ 夏草に虫競い鳴く利根の土手


誰もが1回は天狗になる
教えてくれる人がいなかった
私は我がままで
世間知らずで
最悪の状態だった
仕事がまったく来なくなった

もう一回 スポットライトを浴びたい
テレビに出たい
でも表舞台に出るには
昔の何倍もかかるよ
いっぱい恥をかくことだよ
すごく勇気がいることだけど

許してください
私怒ってないもん

イザコザ泥沼
泥沼の確執とは
イザコザ解決
相手を理解できれば人間関係のいざこざは解決する 加藤諦三 - 名言 ...

『相手を理解できれば人間関係のいざこざのほとんどは解決する』
加藤諦三 「青い鳥をさがしすぎる心理」より 人間関係でイヤな思いをするのは、 相手に対する自分の理解が足りないから 幸せのヒント 「相手を理解する」 ...

全ての人間関係は対等とみるべき

2016年08月30日 09時46分20秒 | 社会・文化・政治・経済
★世の中のできごとの全てを「スポーツ精神で処理していれば、戦争などおきない」
1920年、五輪アントワープ大会でテニスで銀メダルを獲得した熊谷一弥選手は銀行員であった。
それから「96年ぶりのメダル」
錦織圭選手がリオ・オリンピックで銅メダルを獲得。
★「最近、子どもが問題行動を起こしている」
“全ての人間関係は対等とみるべき”オーストリアの精神医学者・アドラー
人間関係のトラブルは、相手の問題に土足で踏み込むような行動をする時に起きる。
相手の人格を尊重し、対等に関わることは人間関係を円滑にするために大切なことである。
このことは親子関係にも通じる大事な視点。
★親子関係も本来、対等であるべきだ。
親子間では、知らず知らずのうちに、子どもに上から目線で言ってしまうことがある。
子どもは自分が下に置かれことを嫌い、反発する。
★子どもは親から信頼されていると実感していれば、あえて問題行動を起こし注目される必要はない。
哲学者・岸見一郎さん

創作欄 徳山家の悲劇 10)

2016年08月29日 18時17分02秒 | 創作欄
2013年2 月 1日 (金曜日)

銭湯へ行くことを口実に浅草の小料理店から逃げ出したみどりは風呂敷包の中に下着と洗面道具と歯ブラシ、郵便貯金の通帳をだけを入れていた。
ボストンバックに身の回りの物や衣類などがあったが持ち出せなかった。
取手駅前の広場でみどりは幼い男の子をおんぶしている少女を見かけた。
東京の下町では見かけない光景であった。
近くの太い銀杏をみどりは見上げた。
葉が一枚もない銀杏の大木は如何にも寒々と映じた。
澄んだ空気のなか青空が広がっていた。
この日は取手から南に遠く富士山が見え、北には筑波山も望めた。
銀杏の大木の向こうに木製のタクシーの看板が見え、運転手がドアを開け運転手仲間たちと新聞を見ながら声高に何かをしゃべっていた。
2月の取手は実に寒かった。
みどりはジャンパーの襟首に巻いた襟巻を二重巻きにした。
みどりは昭和34年2月18歳を迎えた。
「私も一人前になるのね」と思いながら自立することを念じた。
寒さに耐えかねたみどりはためらわず、駅前の食堂へ入った。
10坪ほどの店は意外と朝から満席であった。
この日、取手競輪が開催されており、競輪ファンたちが腹ごしらえをしていたのだ。
男たちの視線が若いみどりの姿に注がれていた。
注視されたみどりは戸惑いうつむいた。
店に70代の女性が居て、お茶を運んできた。
「あんた見ない顔だね。どこから来たの?」
小声でみどりは、「東京の浅草から来ました」と答えた。
「何にするの?」
みどりは壁に掲示されいたメニューを見上げた。
筆文字は達筆であった。
みどりは親子丼を注文した。
ちなみに34年1月には第3次南極観測隊が前年、基地に置き去りにしたカラフト犬5頭中、タロー、ジローの無事 確認され話題となった。
2月黒部トンネルが開通している。
4月皇太子殿下の成婚式が行われた。
取手の映画館では東宝映画の無法松の一生が放映されていた。
銀次じいさは映画好きでみどりをつれ浅草の映画館へ行っていた。
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<追記>
作家:坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日~1955年(昭和30年)2月 17日)は、 私生活では取手の取手病院の離れに 住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで温暖な気候の小田原に転居。
雪国の新潟(新潟市西大畑町:現・中央区西大畑町)に生まれ育った安吾が取手の寒さに答えたことが奇妙でもあるが、事実なのだ。
<参考>
昭和34年の物価
米(10キロ)870円  かけそば35円  豆腐15円 生ビール特大瓶(2㍑)378円 日本酒(1.8ℓ)505円  はがき5円  新聞購読料(1ヶ月)390円  封切り映画館入場料150円 国鉄初乗り運賃10円
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東宝映画の無法松の一生
【概要】 小倉の人力車夫・松五郎(三船敏郎)は喧嘩っぱやいが人情に厚い名物男。
そんな彼が陸軍大尉の家族と知り合いになり、大尉の戦死後、未亡人よし子(高峰秀子)とその子どもに愛情を持って奉仕し続けていくが…。
東宝時代劇の巨匠稲垣浩監督の1943年度作品をカラー・シネスコサイズ・ノーカット版でリメイクした作品。










(左写真:取手駅前のイメージ写真 )
(写真下:昭和30年代の取手ー藤代間の光景)













2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 9)
昭和33年、常磐線にはSLが走っていた。
蒸気機関車の汽笛はみどりには物悲しく聞こえた。
「みどりよく聞きな。女はね生きていくためには身を張るんだよ」
千代子の声が脳裏に疼くように残っていた。
みどりは車窓から景色をぼんやりと見ながら頭をふった。
「嫌だ。身を売るなんて、絶対私にはできない」
直接、千代子には言えなかった。
常磐線は、上野駅を出発すると日暮里、松戸、我孫子、取手の順で停車した。
蒸気機関車の常磐線はC62やC57が客車列車を、D51が貨物列車をけん引していた。
柏駅には停車しなかった。
また天王台駅は我孫子駅と取手駅間(6.1㌔)の新駅としては昭和46年に開業された。
みどりが乗った列車は終点は平駅行であった。
「分かっているだろう? 明日からみんなのように、みどりも男をとりな」みどりは千代子から宣告されて一睡もできくなっていた。
着の身着のままのみどりは松戸駅を過ぎて眠りに陥っていた。
利根川の鉄橋を列車が渡る音でみどりは目を覚ました。
取手駅に降り立った時みどりは戸惑った。
木造の取手駅はあまりんも侘びれたローカルな田舎駅であったのだ。
ホームの外れの左前方には常総筑波鉄道の気動車が2両編成で停車していた。
取手駅から東口に出ると、商店街には映画館や銭湯があり、肉屋、魚屋、八百屋と商店が立ち並んでいた。
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<参考>
昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生した。
昭和40年代の高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、県下初の日本住宅公団による住宅団地の開発や民間による宅地開発、及び民間大手企業の進出により人口が急増し、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が誕生した。
http://www.youtube.com/watch?v=li13bVLSjhc
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 8)
17歳のみどりにとって、世の中まだ分からないことばかりであった。
みとりが働いていた小料理屋は「青線地帯」にあった。
青線はもぐりの集団売春地帯を指す俗称。
佐々木千代子には旦那がいた。
旦那には本妻がいて千代子は情婦であった。
旦那の木嶋剛は西浅草に本拠を置くヤクザのT組に所属していた。
T組の前身は博徒系右翼団体だった。
その木嶋がみどりが妊娠していることを聞くと「相手の野郎から金をふんだくってやろう」とい言いだした。
「そうだね。みどりは下(堕胎)ろすんだから、最低でも中絶代は出させないけばね」と千代子は応じた。
銀じいさんの甥の作治はテキ屋であり、ヤクザの木嶋の脅しに簡単に応じるのかと思われたが、木嶋は大型のアメリカ車に子分3人を乗せて作治の米屋に乗り込んだのだ。
この日、作治は後楽園競輪で大当たりして20万円ほど儲けていたので、「これで勘弁してくれ」と顔を歪めながら胴巻きから1万円札を鷲掴みにしてさし出した。
昭和33年に1万円札が発行された。
岩戸景気と呼ばれるものが始まった年で、大卒の初任給1万3000円くらいの時代であり、20万円は大金であったが、木嶋は「これすまのか、ふざけるな!」と怒りの声を発すると、子分の一人が手にしていた短刀を奪うようにして、鞘を抜くとグサリと畳に突き立てた。
「みどりは、死んだじいさんの養女だろうが、遺産を貰う権利もあるんだよ。みどりを強姦しやがって、犯罪だろうが、サツへ訴え出てもいいんだぞ!」 畳み掛けるように言い放った。

それで驚愕した作治は立ち上がると桐のタンスに仕舞われれいた銀次じいさんが、みどりの将来ために貯めた300万円の郵便貯金通帳を震える手で差し出した。
通帳には印鑑が挟まれていた。
結局、みどりは浅草寺病院で中絶手術を受けた。
浅草寺病院は1910(明治43)年に浅草寺境内念仏堂に設立された「浅草寺診療所」を前身として、1952(昭和27)年に社会福祉法人の病院として設立された 。
木嶋はみどりの郵便貯金300円をおろすと200万円を奪い、100万円をみどりに渡していた。奪った金は組への上納金の一分に流用した。
半年後に千代子から売春を強要されたみどりは銭湯へ行くこと口実にして浅草から逃げ出した。
ヤクザの木嶋が追ってくることを恐れて、みどりは上野駅から常磐線に乗った。
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<参考>
日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していた。
明治5年に、明治政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと試みた。
しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年(明治33年)に至り公娼制度を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。
1908年(明治41年)には非公認の売淫を取り締まることにした。
売春防止法、1956年(昭和31年)5月24日法律第118号)とは、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照らして売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによって、売春の防止を図ることを目的とする日本の法律である。この法律の制定に伴い1958年(昭和33年)に赤線が廃止された。

同法は、「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」という基本的視点に立脚している。
1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)にかけて、第15回、第19回、第21回、第22回国会において、神近市子などの女性議員によって、議員立法として同旨の法案が繰り返し提出された。これらは多数決の結果、いずれも廃案となった。
22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。
青線 は、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。青線地帯、青線区域ともいわれる。
所轄の警察署では、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街(特飲街)を俗に「赤線(あかせん)」あるいは「赤線地帯」、「赤線区域」と呼んだ。
これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、俗に「青線(あおせん)」あるいは「青線地帯」、「青線区域」と呼んだとされている。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 7)
浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界の一つである。
浅草寺病院近くの言問通りの小料理屋の表玄関脇の柱に「住み込み女中(お手伝い)募集」の張り紙があった。
みどりがそれを見つめていると、背後から声をかけられた。
「あんたは、いくつだい?」
気落ちした様子で張り紙を見つめているみどりは、重そうにボストンバックを持っている。
その姿は如何にもわけありの娘の姿であり、家出人のそのものように映じただろう。
振り向くと30代後半と思われる浴衣姿の女性であり、髪方をアップにしていて粋な感じがした。
「家出人だね」相手はまじまじとみどりを見ながら念を押した。
みどりは俯いて肯いた。
「今、銭湯の朝風呂から戻ってきたんだ。ともかく店の中に入りな」と促された。
女は素足に下駄ばきであり、洗面器に化粧品とタオルを入れていた。
「朝飯はまだなんだろう? 一緒に食べよう」
女は佐々木千代子と名乗った。
みどりは戦災孤児で、隣の米屋のおじいさんの養女として育てられたことや中卒で現在17歳であることを告げた。
「あんた今、17歳なのかい。私が福島の会津から出て来た時も17歳だった。実家は子だくさんの貧乏農家でね。私も中卒なんだよ」
みどりは東京の下町育ちであり、東北育ちで少しアクセントに訛りが残る千代子に親しみを感じた。
朝食は卵焼き、海苔、漬物のたくわんとキュウリ、味噌汁であった。
みどりは朝食をべながら涙が溢れてきた。
「家出をしたんだから、辛かったこともあったんだね」千代子も目を潤ませた。
店で働いて2か月後にみどりの体に異変が起こった。
一回の強姦による性交で皮肉にもみどりは妊娠していた。

妊娠2か月の症状は以下。
おりものが増加、便所の回数が増える、下痢や便秘症状になりやすい、胸部や下腹が張る、乳首が黒ずんできくる。
まだ赤ん坊の姿ではなく胎芽 (たいが) といわれる。
妊娠2か月目のおわりの形は、頭でっかちで手や足になる部分の発育がはじまり、外陰部もいちおう識別される。
銭湯で千代子はみどりの裸の様子から「あんた妊娠しているんじゃないかい?」と指摘した。
「妊娠?! そんあことがあるのだろうか?」みどりは言葉を失って、この事態に驚愕した。
2013年1 月29日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 (6
みどりは銀次じいさんが、毎朝お参りに行っていた深川不動尊に立ち寄って手を合わせた後、思い立って浅草へ向かった。
浅草へは銀次じいさんに毎年連れてもらっていた。
初詣、5月の三社祭、7月の七夕やほうずき市、隅田川の花火、10月の菊花展、12月の歳の市、「羽子板市」
また、酉の市は、11月の酉の日(十二支)を祭日として、浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、開運招福・商売繁盛を願う祭りで、江戸時代から続く代表的な年中行事。
江戸時代には「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と芭蕉の弟子其角が詠んだように、正月を迎える最初の祭りとされていた。
浅草花やしきも忘れられない。
浅草花やしき東京都台東区浅草二丁目にある遊園地。
1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。
昭和33年は上野へ出て地下鉄銀座線で浅草へ行っていた。
都営浅草線(浅草橋~押上間)初めて開業したのは昭和35年12月である。
浅草へ向かったのは銀次じいさんの導きとも思われた。
ある意味で、昭和33年(1958年)は17歳のみどりにとって印象に強く残るとしであった。
1月に皇太子明仁殿下と民間人の正田美智子さんの婚約が発表された。
ミッチーブームとなる。
また、この年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。
同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。
翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。
捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。
また、銀次じいさんが上るのを楽しみにしていた12月に東京タワーが完成した。
ところで、浅草寺の現本堂は昭和33年に再建さ鉄筋コンクリ-ト造りである。
当時はいたるところで道路工事が行われていた。
そのため道が雨になるとぬかるんで足をとられ実に歩きにくかった。
また、神風タクシーという流行語があった。
運転手たちには1日1万円のノルマ―が課せられていたので、スピード違反承知で路面電車を縫うようにくねくねとフルスピードで走行していた。
かせられていた。
「あと1人にいないかな。銀座方面、誰か乗らないか」
そして強引に客を力ずくで引き込み、4人を詰め込んで走り去っていた。
ノルマ―達成でくたくたになったタクシーの運転手たちは深夜喫茶で休息をとったり寝込んでいた。
2013年1 月27日 (日曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 5)
戦災孤児となったみどりは、米屋の銀次じいさんの養女となって育てられた。
銀次じいさんの息子は南方で戦死し、妻子は東京大空襲で亡くなり一人身となってしまった。
戦災孤児と孤老が終戦後を生き抜いた。
だが、みどりが14歳の時に、銀次じいさんは脳出血で倒れ病院へ救急車で搬送されたが、約2か月後に意識が戻らぬまま亡くなってしまった。
突然の別れであり、みどりの運命も大きく変わった。
銀じいさんの甥の作治が葬儀の喪主を務めた。
作治はテキ屋を家業としていた。
いわゆる露店商である。
背中に刺青をしていた。
葬儀から半年後、作治は米屋に転じたのであるが、根が遊人である。
店をみどりや店員の貞雄に任せると競輪に明け暮れる。
「おい、みどり店を頼むぞ、わしは後楽園へ行って来る」
朝から店を出て行った。
そして、夜はテキ屋仲間と麻雀か花札賭博である。
作治の指示でみどりは高校へ行かずに米屋の従業員になっていたのだ。
貞雄はみどりと2歳違いの17歳であり、茨城県の取手の中学を卒業すると米屋の住み込み店員になっていた。
実は銀次じいさんは茨城県の取手出身であった。
貞雄は銀次じいさんの実家の隣人の斎藤家の3男であった。
貞雄はよく働いた。
自転車で米の配達もしていた。
みどりは16歳の年齢としては豊かな胸をしていた。
それを作治は好色な目で見ていたのだ。
みどりが台所で食器を洗っていると背後で作治が、「おいみどり、色っぽくなってきたな」と言う。
振り向くとタバコをくわえた作治の三白眼がみどりの豊か腰に注がれていた。
みどりが17歳の夏、寝ているところを作治に強姦された。
二階の部屋で寝ている貞雄に助けを求めようとしたが、丸めた手ぬぐいを口に押し込まれて声を塞がれた。
豆電球が灯る暗い部屋でのことで、実際何が何だか分からず驚愕して声も出なかったのだ。
タバコのヤニの強い不快な匂いがみどりにとってトラウマとなった。
蹂躙される間、銀次じいさんから貰った深川不動の願いお守りを右手で握り締めていた。
翌日、貞雄と顔を合わせることがみどりには辛かった。
貞雄は午前6時には起きてくる。
みどりは身支度を整え、ブストンバックに衣類を詰めると米屋を出た。
みどりは涙を浮かべて店の外に立ち止り、貞雄が眠る2階の部屋に視線を注いだ。
そして意を決して、駅へ向かって歩き出した。
「これからどうしょう?」
「どこへ行こうか?」
不安が募ってきた。
午前5時夏の朝、閉ざされた商店街は既に明るくなっていた。
薄曇りで太陽は見えなかった。

2013年1 月24日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 4)
みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。
全員が確りと防空頭巾をかぶった。
母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。
みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。
炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。
ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。
家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。
行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。
どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。
母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。
そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。
「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。
みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。
それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。
みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。
奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。
深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。
「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。
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<参考>
深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。


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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う
4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町
2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。
300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。
南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。

 正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。
死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。
2013年1 月23日 (水曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 3)
人生の途次、この先に何が起こるかわからない。
タクシーの運転手である彼は、私鉄電車の踏切付近をウロウロしている親子連れの様子を不審に思って車を止めた。
そして車内から窓越しに様子を窺っていた。
線路沿いの道の柵越しの鉄路から電車が近づく音がしてきたので悪い予感がした。

踏切の鐘は高い警告音を発して不気味に響き渡っていた。
彼は思わず車を飛び出して行く。
母親が二人の娘を引きずるようにして遮断機を潜ろうとしていた。
本能的に危険を察知したのだろう娘たちは母の手を振り払いながら後ずさりをして泣き叫び出した。
電車は約500㍍先のカーブを曲がり初めていた。
5歳くらいの女の子が母親の手を振り払い逃げ出した。
3歳くらいの女の子は手を振り払えず母親の腰にしがみついていた。
逃げた娘は助けを求めるように彼のタクシーの方へ向かって走ってきた。
彼は逃げた娘を呆然と見ている母親の青ざめた顔を見て愕然とした。
それの母親は紛れもなく息子二人を残して男と居なくなった彼の別れた妻であった。
「みどり」と思わず彼は叫んだ。
みどりは呆然自失の状態であったが、大きな瞳を見開き声の主を凝視した。
そして相手を確りと認識したのだろう、顔を引きつらせるようにして驚愕の表情を現わした。
みどりは腰を抜かしたように踏切の脇にしゃがみこんだ。
母親の背中に手を添えるようにして下の娘が泣き叫んでいた。
轟音を立て電車が行き過ぎて行く。
みどりの長い髪が疾走する電車の風圧に大きく揺らいだ。
2013年1 月22日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 2)
長男幸吉の暴力は祖母サチに及んだが、2歳年下の弟の次郎も被害者となった。
このため、弟の次郎は生傷が絶えなくなる。
頭を叩く、腹を蹴る、髪の毛を引っ張り引き倒す。
指や腕にかみつく。
さらに頬や腕に爪を立てた。
あまりに酷いので父親佐吉のは長男を諌めた。
「弟をイジメルのはやめな。父さんが同じ目に合してやる。人の痛みを思い知れ!」
性格が温厚なであったが、その日は激情した。
次男の頬に約10㎝の傷ができていた。
その爪痕は歴然であり頬の肉がえぐられ深い溝をなっており、傷は一生治らないと思われた。
「このガキ、もう許さん!」平手打ちを10発ほどくらわせた。
さらに、箪笥に頭を箪笥にぶつけて昏倒した長男の襟首をつかみ、風呂場へ強引に連れ込み、ホースで水攻めにした。
「とうさん許して!」長男が泣き叫ぶ声がさらに佐吉の怒りに火をつけた。
「もう、許さん、思い知れ!」
「自分に、こんな残忍なことができるのか!」
失神した長男を見降ろしながら、佐吉は震えが止まらなくなった。
性格が温厚と言われていた人が凶悪犯になることがあるが、まさにその時の佐吉の状態そのものであった。
佐吉は自分の行為に愕然とした。
買い物から帰ってきた母親のサチは、ずぶ濡れとなって失神している孫の幸吉の姿を見て驚愕した。
「どうしたの? 何があったの!」
サチは身が固まり買い物籠を絨毯の上に落とした。
長そのような折檻があったのに長男の幸吉は反省しなかった。
相変わらず弟をいじめていた。
思い余って次男に空手を習わせた。
自己防衛をさせるためであった。
だが、次男は2年後、兄に暴力を振るわれると兄に反撃するばかりではなく、年下の者に暴力を振るうようになった。
自分の対応が誤っていたことを佐吉は思い知る。実に皮肉であった。

創作欄 「悪運」 1)

2016年08月29日 18時05分43秒 | 創作欄
2013年3 月27日 (水曜日)

出会い系サイトを利用して男とセックスをする女子高校生は心が歪んでいるし、したたかな性格であると考えられる。
自己防衛のために平気で嘘もつくであろう。
電車の痴漢行為の常習犯の真田一樹は、何時も誰かを盾にして痴漢行為に及んでいたので、一度も捕まってはいない。
取り押さえられるのは決まって女の背後にいる気の毒な男であった。
長身の真田は手が長いので、男の背後に密着し、あたかテーゲットの男が痴漢行為をしているように見せかける。
真田が駅のホームで狙いを定めるのが決まって膝上20㎝前後の女子高校生である。
あるいは相手が一般のOLであれば、ストッキングをはいていない、いわゆる「生足の女」である。
真田は失業中だったので電車での痴漢行為を満喫するために、あらゆる電車で行為に及んでいた。
小田急線、京王線、井の頭線、地下鉄線、JR線。
パスモ、スイカなどのカードが普及したので、どの線にも自由自在に乗れた。
良い世に中だと真田が笑みを浮かべながら駅のホームで女子高校生の姿を物色していた。
絶対に捕まらないと自信を深めていた真田の痴漢行為が2年に及んでいた。
真田は悪運の中で、就職できたら痴漢行為は止めようと決意した。
痴漢行為はいわゆるセックスの前技であり、真田は段々痴漢行為だけでは我慢ができなくなった。
そこで出会い系サイトを利用しのだ。
相手は電話でののりがいい女の子であった。
「あなた背が高いの?」
「ああ、高い方だね」
「どれくらい?」
「184㎝だね」
「うわー大きいのね。わたし大きい人が好みなの。今、何処にいるの?」
「渋谷の道玄坂を下っているね」
「私、原宿にいるよ。直ぐに会えるね」
「そうだね。こっちへ来ないかい。ホテルが近いよ」
「あなたいきなりホテルなの?」
「腹も減っているので、一戦の前にビフテキを食べるかい?」
「わたしお肉大好きなの。ご馳走して」
「勿論」
真田はハチ公の銅像前で女と会うことにした。
2013年3 月12日 (火曜日)
創作欄 「悔いを残さない人生」
徹はある時、マイナス思考が人間をダメにしていることに気付いた。
例えば宗教である。
本物と言える人間には例外なく信仰がある。
自分イコール大いなる何かであると確信する。
それは人間に本来備わる直感力で覚ることができる。
ではなぜ、人はマイナス思考になるのか。
そこに不信があるのだ。
自分が尊い存在であることが信じられない。
つまり盲目の状態なので、本質を見ることができない。
開眼することは、信ずることから始まる。
「この先、良くなる」と確信している人と「この先悪くなる」と思っている人では、大きな差が出てくるだろう。
人間は良い方向に必ず変わる。
人生を肯定することで、徹は楽な生き方を知った。
「ダメだ」と諦めたら、新しい道は拓くことはできない。
人は使命がある限り、生き続ける。
「悔いを残さない人生」 徹は、プラス思考で新しい道へ踏み出した。
2013年3 月 8日 (金曜日)
創作欄 チェーホフの影響
あれほどドストエーフスキを信奉していたのに、徹は23歳の時期からドストエーフスキに息苦しさを感じ始めていた。
自分が目指す方向は別にあるのだと思いはじめていたのだ。きっかけはチェーホフを知ってからだ。
自分の感覚はドストエーフスキよりチェーホフに近いことを認識した。
「かれ(ドストエーフスキ)は、疑いもなく、大きな才能だ。しかし、ときどき感覚に欠けるときがある」とチェーホフは個人的印象を記していた。
わずかそれだけの印象であり深く論評しているわけではないが、チェーホフの印象に注目したことで徹はドストエーフスキに違和感を抱き始めていた。
つまりドストエーフスキの病的な側面である『常人を超えたような』非日常的な作品の人物像を受け入れ難くなったのだ。
「医学の勉強がぼくの文学活動に重大な影響をもっていることは疑いありません。医学の勉強はぼくの観察をいちじるしく広げてくれましたし、さまざまな知識でぼくをゆたかにしてくれました。作家としてのぼくの医学知識がもっている真の価値は医師であるひとだけがわかってくれるでしょう。それらの意識は決定的な影響をもっています」
「自分の知恵だけで何でもわかると思っている連中の仲間に入りたくもありません」
「ぼくが生き、考え、闘い、悩むとしたら、それはみな、ぼくの書くものに反映します」
「小説は回想してこそ書けるのです。ぼくは、過去のことを回想してしか書けないんです」
「現代の文化は―偉大な未来のための仕事の端緒なのです。遠い未来において人類が本当の神の心理を認識するために、ドストエーフスキのなかに神を推測したり求めたりしないでも・・・」
「この世は平静であることが必要です。ただ平静な人だけが事物をはっきり見ることができ、公平であることができ、はたらくことができるのです」
思えばドストエーフスキの作品の世界は平静な空間ではないのだ。
つまりドストエーフスキの世界観が、徹を平静な日常生活から遠避けるように思われた。
徹はチェーホフの言葉をノートに書き留めながら、ドストエーフスキの影響から脱していきたいと念じ初めていた。
2013年3 月 8日 (金曜日)
創作欄  ドストエーフスキイの影響
「人を非難、中傷するのは善くない」と先日、知人の歯科技工士と懇談した時に、ズバリ指摘された。
「“田沼の奴を一生飼い殺しにしてやる”。と社長が言ってたよ」と同僚の太田一雄が徹に告げた時、徹は「世の中には傲慢、不遜な人間が存在するのだ」と怒りを覚える前に、何故、そのような屈折した性格になったかを想像してみた。
過去に何かがあって、性格、人格を歪めたのではないかと類推してみた。
問題は育った家庭環境に起因しているのではないか?
母親か父親との幼児からの関係に原因があるのかとも考えてみた。
徹は自称「ドストエーフスキイ」の研究家であり、信奉者であった。
「ドストエーフスキについてなら、誰よりも多くを語れる」と自認していた。
純粋で献身的な魂の持ち主であると映じていたドストエーフスキの母親マリアは彼が16歳の時、37歳の若さで亡くなっている。
また、父親ミハイルは領地の農民たちに惨殺された。
これは彼が18歳の時の出来事だった。
この領主殺害事件の詳細は、正確にわかっていない。
二つの説がある。
一つは彼の弟アンドレイがのちになって「父が村にでかけたとき、村はずれで野良仕事をしていた農民たちが不手際をしでかしたのでどなりつけた、すると彼らのひとりがが乱暴な口ごたえをした。領主の報復を恐れて全員で襲いかかって父を殺害したという意味のことを書き残している。
また、一説には、娘を慰みものにされた農奴が首謀者となって領主殺害を計画し、父親が村へ来るのを待ち伏せして襲いかかり、かねて用意していたアルコールを喉に流し込み、さらに布切れを口の中に詰め込んで窒息死させた。
だから外傷がなかったのだとも伝えられている。
精神分析家のフロイトは、この事件を取り上げて、「ドストエーフスキの父殺し」という論文を書いている。
フロイトの推理によると、ドストエーフスキにはエディプス・コンプレックスがあった。
つまり、青年によくある心理だが、異性としての母親と父親の仲を無意識のうちに嫉妬して、ひそかに父親の死を願っていたというのである。
ドストエーフスキは父の惨殺の知らせを聞いた時、18歳の青年は潜在的父親殺しの願望が実現っされたのを知るが、同時にあたかも自分が犯罪者のような罪悪感におそわれた。
フロイトはドストエーフスキののちの癲癇や異常な賭博熱、作品に表れた父親殺しのテーマ、罪の意識、苦しみの甘受などを説明している。
「作品はしばしば作者より雄弁に作者自身を語るものだ」
徹はフロイトの分析に感嘆した。
徹はドストエーフスキの小説に学生時代にのめり込んだ。
特に「カラマゾフの兄弟」のなかで父親殺しの悲劇を取り上げていることに注目した。
ドストエーフスキは自尊心が強く、交際べたの性格であり、サロンで哄笑と罵倒を買った。
彼の初期の小説が批評家たちに痛罵された。
若いツルゲーネフが先頭に立って、貧乏で不器用な青年をからかったという記録もある。
サロンで嫌われたドストエーフスキは、空想的社会主義の集まりである会合に接近していく。
だが深い内省を通じて以前の社会主義的な信念を放棄したと思われる。
徹は人を分析するのが趣味ともなっていた。
2013年3 月 6日 (水曜日)
創作欄  あの頃 国文学は実証主義に傾いていた
岩城之徳助教授は「金田一先生に確認をしておきたいのです。啄木と小奴は肉体関係があったのでしょうか? 実のといころはどうなのでしょうか?」と質問した。
昭和30年代の当時、国文学は実証主義に傾いていた。
体躯からして押し出しいのよい印象の岩城助教授は、痩身の金田一さんに身を乗り出すようにして質問を浴びせかけた。
「金田一京助さに向かって、不遜だな!」
先輩の佐々木隆がつぶやいた。
会場は固唾を飲んで金田一さんに視線を注いでいた。
如何にも謹厳実直な学者然としていた金田一さんは「私にはそのようなことは、答えようがないのですが・・・」口ごもった。
「先生、本当のところを明らかにしてくださいよ」岩城助教授は畳み掛ける。
「今、お答えした以上のことはないのです」
金田一さんが困惑していたところ、脇から吉田精一さんが助け舟を出すように発言した。
「啄木の短歌から推察するに、啄木と小奴には淡い情愛があったように思われますね」
徹はそれ以来、実証文学研究会から離れた。
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金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、日本の言語学者、民俗学者。
アイヌ語の研究で有名で、彼の成し遂げた研究は「金田一学」と総称されている。
歌人・石川啄木は、盛岡中学時代の後輩で親友。
金をよく貸したことでも有名。
金田一自身も元々は歌人志望であった。
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吉田 精一(よしだ せいいち、1908年(明治41年)11月12日 - 1984年(昭和59年)6月9日)は、
日本の国文学者。
近代文学専攻。
1940年の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年より日本近代文学会の中心となる。『自然主義の研究』『現代文学論体系』で1956年、芸術選奨文部大臣賞受賞、1958年にはやはり『自然主義の研究』で日本芸術院賞受賞。
1979年、勲二等瑞宝章、また1983年、近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となる。

文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立したが、芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。
東大教授だった時期が短く、名誉教授ではない。
著作集25巻があるが、多作な学者を軽視する日本的伝統もあり、その研究の価値が十全に認められているとは言えない。

創作欄 仏教徒になった徹の母親 

2016年08月29日 18時04分15秒 | 創作欄
2013年5 月 3日 (金曜日)
 
徹は幼児期から、母親から虐待されていたので母親を恨み、その死を願っていた。
だが、母親は40代になって仏教徒になってから性格が一変したのだ。
信仰に導いたのは、女学校の恩師であった。
「道子さんは少しも変わっていないのね。相変わらず皮肉屋さんね!」」
同窓会で再開した恩師の長嶋ツネは微笑みを浮かべていたが、厳しい指摘であった。
道子は相手の言葉の揚げ足とりに終始していたので、相手を不愉快な気分にしていたのだ。
道子はわがまま育ちで、老舗の和菓子屋の使用人(従業員)たちを顎で使うような傲慢さがあり、性格が屈折していたのだ。
母親は道子が3歳の時に亡くなり、父親は道子が8歳の時に後妻を迎え入れていた。
店は長男が受け継いだので、道子は26歳の時に2歳年上のサラリーマンと見合い結婚をした。
夫の真一は大手企業の東京・大田区の製造工場に勤めていた。本社は東京・丸内にあった。
だが朝鮮戦争が休戦状態になった頃に、会社の業績は急速に傾き、銀行の支援も受けられなくり結局、倒産に至った。
そして会社更生法の適用を受ける中で、夫は人員整理の対象にされていた。
事務職の多くがその対象にされ、残ったのは営業と技術職であった。
道子は憤慨して、家を売りに出した。
会社の寮の脇にあった会社の借地80坪に2年前に家を建てていた。
和菓子屋の兄が頭金を出してくれたのだ。
夫の同僚たち6人が会社から土地を借り同じように家を新築していた。
だが、夫だけが人員整理され、ほかの同僚5人が会社に残ったのだ。
同じ場所に住み続けることは道子にとって屈辱であった。
性格が温和な夫の真一は、お人よしで無能に思われてきた。
「あんた!これから、どうするのよ?!」
大田区の雪谷町から世田谷の上町の借家住まいとなった道子は夫を責め立てた。
夫は職業安定所に毎日足を運んだが、45歳になっていたので、なかなか職は決まらなかった。
そのようなある日、女学校の同窓会の案内の葉書が届いたのだ。
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<参考>
仏教は、人間自身に至高の価値を見いだす究極の宗教であると評価されている。
だが、奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われてしまった。
真の仏教の信者は、自らが本来、仏であると確信している。
そして人間だれもが仏であると信じているので人を敬う。
仏教で説く、生命の因果の法則を、わが信念としている。
自身が仏なので何ものも恐れない。
また、仏を敬うように人を大切にする。
嬉々として労苦を担い、人に尽くす生き方をする。
信心即生活、即社会となり、信心で人格は輝きを放つ。
釈尊は民衆のなかに常に居た。
つまり仏教は民衆のなかに生まれ、民衆を組織化し広まっていった。
2013年5 月 2日 (木曜日)
創作欄 フランス人の若者アンドレー
25歳の徹は、新宿の歌舞伎町のゲイムセンターでフランス人の若者アンドレーと出会った。
徹はアンドレーの稀に見る美貌に着目した。
「ハンサムだね」と声をかけた。
「ハンサムと違うね!」アンドレーは顔をしかめた。
米国を嫌うアンドレーは、英語をも嫌っていたのだ。
5人の子どもの家庭に育ったアンドレーは実はホモであった。
美人姉妹4人のなかで一番末に生まれた男のアンドレーは、一番の美貌の持ち主であった。
「神様は間違えたのかもしれない。アンドレーを女の子にしたい」と父親は思いを募らせながらアンドレーを溺愛した。
アンドレーは幼児から長い髪で育てられた。
徹はアンドレーの告白を聞きながら、想像を膨らませた。
「日本に来た目的は何なの?」徹は取材するように聞く。
「浮世絵に若かれたことが一番! それから、日本は戦国時代から武将は同性愛だったこと。興味わきました」
「武将が同性愛?」徹は怪訝な顔をした。
「そうです。キリスト教では、同性愛禁止です。日本の戦国時代はみんなが同性愛でした」
徹はアンドレーから日本が特殊な国であったことを知らされた。
2013年3 月31日 (日曜日)
創作欄 徹の人生 2)
徹は東大経済学を卒業したが、社会科学研究会のメンバーだった立場から現代社会のさまざまな問題について、その本質を究明し、解決の道筋を考え、何をどのように実践していくべきかを思考してきた。
課題は幅広く多岐にわたっている。
現代社会の問題、平和のありかた、地球規模の環境問題、アメリカを中心とした国際関係、憲法改正の是非の問題、メディアの役割などをサークル内で研究してきた。
その結果、社会問題の中心に経済があることに思い至り経済記者の道を選らんだ。
母子家庭に育った徹は、貧しい生活を何とか支えるために高校生のころからバイトを続けていた。
多くのバイトを通じて、社会には表も裏もあることを感じていた。
経済は政治ともつながっている。
経済記者として多くの財界人、企業家たちを徹は取材してきた。
そのなかで料亭やホテルでのいわゆる接待も受けてきた。
働きづめの母親が一度も口にしたことがない豪勢な料理も食べてきたのだ。
徹は学生時代、一度も酒を飲んでいなかったが、体質的にアルコール類のほとんどが飲めば飲めたのだった。
銀座や赤坂の高級クラブにも接待され、帰りは茨城県取手市の自宅までハイヤーで送られた。
「お疲れ様でした。ここにサインをしてください」
降車する際にハイヤーの運転手が白手袋でチケットを出し指でサインの欄を示す。
帰宅が深夜に及ぶことが多くなり、母親は徹の体を案じていた。
徹の父親は30歳の若さで肝臓がんで亡くなっていた。
最後はがんは脳にも転移していた。
徹は接待慣れのなかで、転落の因も作っていたのだ。
結局、徹は証券取引法違反(インサイダー取引)のある事件に連座する。
インサイダー取引は会社の内部者情報に接する立場にある会社役員などが、その特別な立場を利用して会社の重要な内部情報を知り、その情報が公表される前に会社の株式等を売買することだ。
このような取引が行われると、一般の投資家との不公平が生じ、証券市場の公正性・健全性が損なわれるおそれがあるため、金融商品取引法では規制されている。
徹は接待の席で、第三者に知り得た情報を流してしまったのだ。
うっかりではすなされないインサイダー取引であり、徹は新聞社を解雇された。
2013年3 月30日 (土曜日)
創作欄 徹の人生 1)
「君は僕の親友だ。だからはっきり言う。君には見えない部分がある。それは何なんだろうね」
友人は取手の駅前の居酒カウンター席で言う。
徹はズバリと指摘され、口に運ぼうとしていた日本酒の杯をテーブルに置いた。
実は母親の遺産600万円を手にしてから、徹の生活は乱れてはじめていたのだ。
あの日、歯科のコンピュータ企業の知人の2人からに池袋で接待された。
それは中国人女性たちが働いているパブスナックであった。
客が誘えば暗黙の了解で店外デートができる店だった。
だが、徹は誘った女性と居酒屋に行き日本酒を飲んだ。
徹が酒を勧めると露露と名乗っていた女性は微笑みながら首を振った。
「センセイ わたくし、お酒飲めません」
「酒飲めないのですか?」徹はまじまじと露露を見詰めた。
相手はパブスナックで働く女性であり、客の求めに応じてアルコール類は当然飲むと思い込んでいた。
「センセイ、わたくし、何時も烏龍茶です」
徹は露露の微笑む笑顔を見て愛すべき善良な女性だと思った。
別れ際に徹は一万円札を二枚露露に渡した。
「センセイ、わたくし、身を売る女でありません。このお金いただきます。大切にお金つかわせていただきます」
徹は2年余、露露と交際したが、男女の中には発展しなかった。
「日本人男性にも、こんな男もいるのだ」と露露は思っただろう。
徹は北京に露露が帰る日は、10万円を手渡した。
そして天安門事件が起こった時、徹は胸騒ぎを覚えた。
中国政府の体制を批判し、日本のような政治体制、国家体制を期待していた露露は、どうしただろうか?
徹は連絡が途絶えた露露の安否を気遣った。

創作欄 人間の絆と綻び

2016年08月29日 18時02分59秒 | 創作欄
2013年6 月 4日 (火曜日)
創作欄 人間の絆と綻び
徹は大学でメディアコミュニケーションと国際関係論を学んだ。
「教育こそが、世界の貧困撲滅への道」という考え方に惹かれ、徹は発展途上国の教育を援助するNGO(非政府組織)で働くことになった。
徹は約10年間、東南アジア、アフリカ、南米など30余の国へ派遣された。
コソボやパレスチナなど治安が悪い国では、命の危険を感じた。
だが、そうした地域にも目を輝かせ、明るく振舞う子どもたちがいた。
日本の平和とは対極にある過酷な難民キャンプでは、日々子どもたちの命が失われていた。
それは武力紛争の被害であり、極悪な環境下での感染症やエイズでの死でもあった。
遊んでいて地雷を踏んで亡くなって子どもや手足を失った子どもたちにも徹は接してきた。
徹は約10年ぶりに日本へ帰国した。
そして3月11日、皮肉にも実家の東松島で東日本大震災の津波に遭遇した。
実は徹は、2004年12月26日のスマトラ島沖地震を体験していた。
インドネシア西部、スマトラ島北西沖のインド洋で発生したマグニチュード9.1震である。
巨大な津波が発生し、死者・行方不明者は合計で22万7898人と報告されている。
徹は最も被害が大きかったインドネシアのアチェ州に居たのだ。
この地域は独立を求める武装勢力と国軍の対立が続いていたため、被害状況の調査や救援活動にも支障が出た。
また被災者は500万人に達し、うち180万人に食糧援助が必要とされているほか、衛生環境の悪化から感染症や伝染病の発生などの2次災害も懸念された。
さらに一部の被災地では治安が悪化し、性的暴行事件や、誘拐と思われる子供の失踪などが多発しているとされる。
環境が悪化してマラリアも発生したのだ。 
2013年6 月 4日 (火曜日)
創作欄 人間の絆と綻び
徹は四面楚歌の気持ちとなった。
「敵などつくるな。疲れるだけだから」
ある企業の社長が徹に諭したことが脳裏に浮かんできた。
発端は些細なことであった。
九州方面の事業を拡大しようとしていた。
だが、幹事社が市場を取引っていたのだ。
徹が幹事社の1社に足を向けると「市場は限られているので。遠慮してほしい」と言う。
そこで諦められず、別の幹事社へ依頼に行くと「すでに聞いているとおり、無理だ。余地はない」ときっぱりとした答えが返って。
諦めきれずゴリ押しをしたことで、人間関係に亀裂ができてしまった。
「あいつは、分からず屋だ!」と烙印をおされてしまう。
あるいは「強引な人間だ!」と非難された。
結果的に仲間内の評判も悪くなる。
では、どうすれば良かったのか?
相手の立場を考えるべきであったのだ。
業界団体の意向があるので、幹事社は幹事社としての役割を果たしたのだ。
20年以上前のことであるが、徹が人間関係の幅を狭くする遠因となった。
思えば親しかった友人を二人失った。
2013年5 月21日 (火曜日)
創作欄 自業自得 2)
フィリピンパブ「再会」への同伴出勤をジェシカにお願いされ、それに応じた徹は土曜日の午後2時に、上野駅前のデパートの並びの喫茶店で待ち合わせをしてコーヒーを飲んでいた。
ジェシカはバッグから小さな聖書を取り出した。
「徹さんは神を信じていますか?」
「神?」
「そうです。神様のことです」
徹は図らずもジェシカから聖書について教えられた。
ジェシカは実はレイテ島・パロ市にあるフィリピン国立大学大学医学部出身の産婦人科医であったのだ。
レイテ校:通称UPM-SHS (University of the Philippines Manila-School of Health Sciences)である。
UPM-SHSは、フィリピンの東大といわれるフィリピン大学のれっきとした分校。
とはいえ、レイテ島にあるパロと呼ばれる田舎町にあるこの学校は、とても小さくてこぢんまりとしたもので、外見からは「フィリピン国立大学」の威圧感を全く感じることができない。
それでも、この大学は主に2つのことで日本国内も含めて知る人ぞ知る、とても有名な医学校。
UPM-SHSは、医師・看護師・助産師の不足する地域(特に貧困地域)に尽くす医療人材の育成を目的に、1976年に創設された。
ご存知の方も多いかもしれないが、フィリピンでは高給を求めて、海外への頭脳流出が深刻な問題となっている。
医師や看護師も同じような状況で、毎年1万人近くの優秀な人材が海外に流出している。
アメリカなどでは、医師が看護師として働いているような話もあるくらいだ。
このような状況は、フィリピン国内における医療人材の不足に繋がり、特に貧困地域においては慢性的な問題になっている。
こうした人材不足に対して、UPM-SHSは地域のために尽くす優秀な人材育成のため、とてもユニークなプログラムを提供していそうだ。
1990年代の初頭、ジェシカは日本の病院で学びながら働きたいと願っていた。
だが、ジェシカは日本への渡航を斡旋した業者に騙されたのだった。
「私は騙されましたが、神様が犯罪をなくしてくれると確信しています」
「なぜ?」神を信じない徹はたたみかけるように聞いた。
ジェシカはコーヒーを一口飲んでから徹に微笑みかけた。
「神様は邪悪な人を滅ぼし、正義の人を生きながらせることを約束しています」
徹は聞いていられないと即座にジェシカの言葉を遮った。
「神は無力であり、神には犯罪をなくす力なんかないよ」冷笑して言い放った。
「徹さん 一度、聖書を読んでください。聖書ほど実際的な知恵に満ちている本はありません。また、聖書ほど犯罪のない将来について確かな希望を与える本もありません」
ジェシカは身を乗り出すようにして言葉に力を込めた。
徹は「屁理屈だ。神を信じる者たちは、盲目だ」と言いたかったが、ジェシカの澄んだ瞳で見つめられると言葉を飲み込んだ。
2013年5 月18日 (土曜日)
創作欄 「自業自得」 1)
徹の周囲にいる人たちは、身勝手に生きてきた。
徹だって大差ない生き方をしてきたので、人様のことをとやかく言える立場ではない。
外資系の商社に務めていた木嶋康夫は、35歳の時に香港支店の業績を大幅に伸ばした業績で本社に呼び戻され、取締役第一営業部長に抜擢された。
同社では一番若い役員として注目されたが、銀行から派遣されやってきた新任の専務取締営業本部長と取締役会議でしばしば意見が衝突した。
木嶋は2年後、小子会社の社長となったが、専務の前田晃に疎まれて、結果的に子会社に追いやられたのだ。
木嶋の当時の年収は1200万円であり、待遇的には不満はなかったが、親会社の出世コースから外れた挫折感を紛らわせるため、湯島界隈の夜の街を飲み歩き回った。
徹が木嶋と知り合ったのは、韓国人たちがホステスをする店であった。
店の経営者は木嶋の愛人の大橋優香で、元は銀座7丁目のクラブのホステスをしていた。
徹は店に通って間もなくホステスの一人と親しくなった。
木嶋は「木村君、なかなかやるじゃないか」と冷やかし気味に言った。
ママの優香は店のホステスが客と深い関係になることを嫌っていた。
そのことを敏感に感じとった徹は、優香の店「詩音」から足が遠退いた。
そして、フィリピンパブの「再会」の常連客となる。
その店でジェシカに出会った。
ジェシカの祖父はスペイン人と言っていたが、エキゾチックは風貌に徹は心惹かれた。
この店に木嶋も来ていたのだ。
「木嶋さん、さすが湯島の夜の帝王ですね」徹はトイレに立った時に、木嶋の席に近づいて声をかけた。
「木村君も相変わらずだね」木嶋はホステスの腰を抱きながら微笑んだ。
「この笑顔が憎めない」 徹は木嶋の全身から男の色気が漂うのを改めて実感する想いがした。
舞台ではフィリピンの音楽に合わせてホステスたちによるショーダンスが始まっていた。
トイレから出るとジェシカがおしぼりを手にして待っていた。
真っ赤なボディコンスーツはジェシカの豊満な腰周りを際立たせていた。
おしぼりからジャスミンの香りが漂ってきた。

創作欄 城山家の人々 11

2016年08月29日 18時01分32秒 | 創作欄
2013年8 月 6日 (火曜日)
「人を好きなる情念とは、このようなものなのか」と今さらながら三田村幸三は思った。
35歳の幸三は、これまで恋愛経験らしきものを体験していなかったのだ。
性愛を重ねるうちに君子に心が引きづられように囚われていく状態であり「これは浮気だ」とは割り切れない情况に陥っていった。
迂闊にも君子は妊娠していた。
2人は避妊をしていたが君子は「今日は大丈夫」と言って日があった。
そんな日が何回かあったので、油断をしたのである。
「私は段々我がままになっていきます」と君子は唐突に言った。
「我がまま?」意味が分からず幸三は問い返した。
「私はあなたから離れられなくなりそうです」君子は思いつめた瞳で視線を注いだ。
癒し系の女性である君子は、身を焦がすような女に変貌していた。
「何時までも、私はあなたの陰の女で居たくないのです」
幸三は思いがけないその言葉に、肺腑をえぐられる想いがした。
狭い下仁田の街であり、2人の深い関係が、幸三の妻の玲子の耳にも届いた。
幸三の乗用車の助手に乗っている君子の姿が妻の玲子の知人にも目撃されていた。
「見かけたのは1回きりではないの、気を付けなさい。玲子さんは旦那さんに浮気されているのじゃないの?」
玲子の知人は信頼を寄せる地元の議員の妻であった。
それを聞いて即座に妻の玲子は「あんたは、浮気をしているのね!相手は誰!」と夫を問い詰めた。
幸三は最早、弁解したり嘘をつくつまりはなかった。
「じつは恩師の娘さんと関係ができたんだ」
「相手は恩師の娘さん?それで、あんたはどうするの?」
蝉時雨の時節であった。
幸三は吹き出す汗をタオルで拭う。
妻の玲子は、まゆを釣り上げ団扇で顔をあおいだ。

2013年7 月31日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 10
昼間、下仁田の街中で三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた日の夜、京子はあれこれ頭を巡らせると眠れなくなった。
浩一との夜の生活のことも思い出された。
若い2人は毎夜のように、交わってきた。
そして昭和34年、京子は3人目を妊った。
テレビはまだ六合村には普及していない時代である。
娯楽とは無縁の山間地の夜は常に森閑としていた。
浩一の母の恒子は稲棚や山の斜面を開墾した僅かな畑を一人で耕しているため、午前4時30分には起き、5時には家を出て行った。
朝が早い母の恒子は夜は9時前には寝入っていた。
2人の娘を寝つかせると浩一と京子は風呂を共にした。
浩一は京子に頭と背中を洗わせた。
素肌かのまま先に風呂を出た浩一は、床に腹ばいながら京子を待った。
浴衣姿の京子は下着を付けていないので、艶かしかった。
「今度は、男の子を生んでくれ」
浩一は京子から身を話すと京子の長い髪に指を絡ませた。
京子は少女時代から短髪であったが、結婚後に浩一に請われて髪を伸ばした。
浩一は子煩悩であり、「5人にくらい子どもをつくろう」と言っていた。
浩一は3人目の種を宿して亡くなるとは皮肉であった。
軽井沢からドライブの帰途、京子は眠気に襲われた。
「私、疲れたので寝てもいいですか」
「どうぞ」幸三は微笑んだ。
可憐な少女時代を連想するような京子の寝顔であった。
幸三の2人の兄は大東亜戦争下中国の戦地で戦死していた。
「大東亜戦争」は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、公文書で使用することが禁止された。
だが、兄2人を中国大陸で失った幸三にとっては、強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったことが不満であった。
2人の兄は士官学校を出た職業軍人であった。
当時の家が貧しく進学することが叶わない向学心旺盛な 子供にとって、職業軍人になることこそが最高の憧れだった時代であった。
目覚めた京子は何を思ったのか、過去の自分を告白するように唐突に言った。
「私は、中学生の頃、不良少女だったのですよ」
それは黙っていてもいいことであった。
夫の浩一にも明かさなかったことであったから、京子は自身の心の大きな変化を意識しながら自らを怪しんだ。
「京子さんが、不良少女だったのですか?!」幸三は目を見開き驚愕の表情をした。

昭和12年生まれの京子は、昭和の歌謡界を代表する歌姫美空ひばりと同世代であり、昭和26年14歳になっていた。
きっかけは些細なことだった。
「京子は頭もいいし、可愛いから先生に贔屓をされている。いいわね。先生の子どもあるし、特別扱いされている」
一番仲よしと思っていた山口夏子に言われたことが深く京子の心を傷つけた。
京子は何かと仲間外れにされることが多くなってきた。
そんな京子に不良少女のレッテルを貼られていた篠崎栄子が接近してきたのだ。
京子は篠崎栄子に真似て極端に髪の毛を短くし、裾を刈り上げのようにした。
「その髪はどうしたの?何があったの!」
母親はびっくりして質したが、京子は不貞腐れたように横を向いた。
父親は「馬鹿者!おまえは何を考えているんだ」と怒り、初めて京子の頬に平手打ちを食らわせた。
「高校受験を控えているんだぞ、一番大事な時期じゃないか!」
京子を居間に正座させ、「しばらく、そのままで反省しているんだ」と告げると書斎に向かった。
そして、聖書を持参しそれを京子の前に無言のまま置いた。
父に反発した京子は結局、聖書を一行も読まなかった。
学校をさぼり篠崎栄子とその仲間たちと渋川の街で遊び歩いた。
飲酒も覚え、シンナーにも手を出した。
だが、「桃色遊戯」だけには抵抗があり、それはやらなかった。
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<参考>
昭和26年(1951).2.6〔中学生の桃色グループ 読売新聞引用〕
 近頃「男女中学生が桃色グループをつくって性遊戯にふける」との記事が目につく。
警視庁少年課でも取り締りに頭を痛めている。
だんだん集団化する傾向があり、捕導された少年の親は「うちの子に限って……」という自信から警察に呼ばれて始めて事実を知って驚き嘆く例が多い。
原因は大半家庭の不注意が一番多く、学校のあいまいな性教育、社会の挑発的な出版物や興業にあるという。
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昭和34年
4月10日:【皇太子と正田美智子が結婚】 皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子の結婚式が皇居で行われた。夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には53万人が詰めかけた。皇太子が民間人と結婚したのは初めて。
皇太子結婚パレード実況中継 (NHKと民放テレビ各局、4月10日)
黒い花びら(水原弘)[作詞:永六輔、作曲:中村八大](10月発売)  第1回(1959年度)レコード大賞
6月25日:プロ野球初の天覧試合、巨人対阪神戦が後楽園球場で行われ、長嶋茂雄が村山投手からサヨナラ・ホームランを打った。
9月26日:【伊勢湾台風】 台風15号が紀伊半島に上陸して北上、東海各地に深いツメ跡を残して27日日本海へ駆け抜けた。 全国の被害は、死者・行方不明者5098人、負傷者3万8921人、被害家屋83万3965戸。

2013年7 月29日 (月曜日)
創作欄 城山家の人々 9
小学校の教師の三田村幸三は、30歳の時に、新前橋に住む伯母の野田菊子から見合い話を持ち込まれた。
それは3度目のことであった。
和服姿がとても凛としていて、顔立ちが実に美しい人の見合い写真もあり、「このような美しい人を妻に迎えいいれることができたら」と密かに期待をした。
だが、見合い話が叔母から持ち込まれて、1週間後には、その女性は前橋の内科医との縁談が進んでいた。
「幸三、あんな美しい人を逃して残念だったね。でも、女の人は容姿ではなく、気立てだよ。まだまだ、見合いの話はあるよ」と菊子を甥の幸三を慰めた。
「姉さん、30歳にもなって幸三が独身で、私は肩身が狭いよ」と母親の稲子が語調を強めた。
「肩身が狭いだなんて稲子、男の30歳はけして、遅くはないよ」
「だって、裏の大島さんの息子は25歳で結婚して、表の佐藤さんの息子だって27歳で結婚して、もう子どもが2人もいるよう。結婚できない幸三には欠陥でもあるんだろうかね?」と眉を曇らせた。
「稲子、人様の家はそれぞれだよ。幸三にけして欠陥があるわけない。結婚は縁だよ」と菊子は妹を諭した。
結局、4度目の伯母菊子の見合い話が進展して、幸三は31歳の春に新前橋の医薬品の卸会社に務めていた27歳の三倉玲子と結婚した。
玲子は3人姉妹の次女で顔立ちは幸三が満足できる範囲の女性であった。
実は幸三はいわゆる面食いであったが、彼の周囲に彼の心を捉える女性が居なかったのだ。
35歳になった幸三には3歳の娘と1歳の息子が居た。
結婚生活に不満があったわけではない。
だが、幸三は恩師戸田恵介の娘の君子の存在を同僚の教師である大塚正子から聞いた。
正子も恵介の教え子であった。
「三田村さん、戸田恵介先生の娘さんが、本校の給食員として勤めているのよ。ご存じ?」
「ええ! 戸田先生の娘さんが?」それは心外であった。
幸三は中学生時代に戸田恵介を影響を強く受け心から尊敬しており、戸田の姿を追うようにして教職の道を目指した。
その戸田恵介の娘は伊勢湾台風の災禍で夫を亡くし、3人の娘を抱え、実家に身を寄せる立場となっていた。
娘を不憫思った父親は、娘の独り立ちを願い君子が小学校の給食員として働けるように尽力したのだった。
夫の浩一が亡くなった時、君子は身重であった。
3女の朝子が2歳になった時に、君子は働きだした。
美形の君子は男好きのするタイプで、甘い顔立ちで癒し系の女であった。
幸三は恩師戸田恵介に顔立ちが似ている君子を初めて観て、「何かを予感した」、それは言い知れぬ感情であった。
一方、君子も亡き夫の浩一のような優しい雰囲気を醸し出し、柔らかい物腰の幸三に好感を抱いた。
幸三には恋愛らしい恋愛の経験がほとんどなかった。
35歳にもなって湧き上がってくる少年のような心のときめきを、むしろ怪しんだ。
「私は、どうかしている。分別を失う年齢ではないはずだ」と邪念を払うように幸三は頭を振った。
2013年7 月28日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 8
「人の出会いは不思議なものだ」と君子は3人の幼い娘たちの寝顔を見て思った。
長女の玲子は顔のえらが張り男の子のような顔立ちであり、一重目蓋で亡くなった夫似であった。
次女の菜々子と三女の朝子は瓜実顔であり、二重目蓋で君子に似ていた。
君子は中学校の教師の娘であったが、中学生2年生の頃から悪い仲間と遊び歩くような女の子であった。
反抗期に口煩い父親の啓介に厳しく育てられ、厳格な父にことごとく反発していた。
思い余った父親は、娘を悪い仲間から引き離すために六合村の恩師の島田節道の寺に預けた。
島田節道は前橋高校の国語教師であったが、僧侶の父親が亡くなると教師を辞して寺を継いだ。
「娘の君子の性根は、私には直すことはできません。先生何とか面倒をお願いします」憔悴した教え子の顔を見て、節道は「親元を離れて暮らすのもいいだろう」と理解を示し君子を預かることにした。
「君子、親孝行が一番だ。人間の基本だよ。今は分からないだろうが、親孝行の娘になりなさい。斯く言う坊主も親孝行の息子とは言えんかったがな」節道はニヤリとして坊主頭を撫で回した。
君子は節道に対して祖父のような親しみを覚えた。
「人間、学問が全てではない。高校へ行きたければ行けばいい。中学を卒業して、働ききに出てもいい。若くして社会に出ても、それはそれで有意義で、何でも学べるものだ」
君子は寺での日々の修行のような生活で素直であった生来の性格を呼び覚ました。
午前5時には起きて、小僧とともに寺の掃除をした。
小僧の幸太郎は13歳であり渋川の親の寺を離れ修行に来て、昼間は六合村の中学校へ通学していた。
結局、君子は転校した六合村の中学を卒業すると六合村の役場に就職した。
そして役場で人生の伴侶となる山城浩一と出会ったのだ。
その浩一が昭和34年の伊勢湾台風の災禍で亡くならなければ、親子4人の平穏な生活を六合村で送っていただろう。
また、実家の下仁田の実家に戻らねば、妻子がある35歳の教師三田村幸三とも出会うことはなかっただろう。
居間に掲げてあるフクロウの柱時計が「ホッホッ」と午前1時の時を告げた。
10歳の誕生日に買ってもらった柱時計が、今も正確に時を刻んでいることが、奇跡のようにも思われた。
君子は娘たちの寝息から背を向けると、突き動かさるような体の衝動を感じ始めた。
三田村幸三によって数年ぶりに女の性を呼び覚まされたのだ。
2013年7 月21日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 7
軽井沢へのドライブへ誘われた時、24歳の3人の母親である君子は、妻子がある35歳の教師三田村幸三とただならぬ男女の関係になることを予感していた。
「たまには息抜きをしませんか」と言われた時、乾いていた心ばかりではなく、女の体の潤いを呼び戻して欲しいという期待に突き動かされていた。
父親は昭和34年の伊勢湾台風の思わぬ被害者となり夫を亡くした一人娘の君子が、自分のもとへ戻って来たことを歓んでいた。
だが、母親は3人の娘がいるものの24歳の娘が再び良縁に結ばれることを願っていた。
「母さんはお前の娘たちの面倒を見てもいいって思っているんだよ。君子は再婚しなさいね」
「私は古いタイプの女ではないので、亡くなった浩一さんに操を立てる気持ちはないの。でも、私を貰ってくれる男の人なんかこの下仁田にいるのかしら?」
確かに若い男たちの多くは東京へ働きに出て、群馬県の山間地である下仁田も過疎化が進んでいた。
「何時までも寡婦の身なんて惨めだよ」娘の運命を不憫に思っていたので、再婚を真剣に勧めた。
「そうね。寡婦で終わりたくはないわ。こんな自分の立場でも、私に興味を持ってくれる男がどこかに居るはずね」
具体的にその姿が浮かんだのは、小学校の給食員として働き出してから1か月後であった。
給食室を出た時に、廊下で出会った人から声をかけられた。
「戸田恵介先生の娘さんですね。自分は三田村幸三です。実は私は戸田先生の中学時代の教え子なんです。」三田村幸三は20代の青年のような清々しい笑顔であった。
「そうでしたか!私は娘の君子です。三田村さんのこと父に言っておきましょう」君子は三田村に親しみを感じた。
「君子さんは、目の当たりが戸田先生に似ていますね」まじまじと見詰められた。
「そうですか」三田村から注がれる視線に君子は何故か気恥ずかしい思いがした。
父親の恵介は目が大きく二重目蓋である。
母親の信恵は切れ長の一重目蓋であった。
その年の学校の夏休み、下仁田の街中で買い物をしていた時に、三田村から声をかけられ軽井沢へのドライブへ誘われたのだ。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
常日頃から“息抜”をどこかで欲していたので君子は二つ返事でドライブに応じた。
だが、運命は思わぬ方向へ向かうものであるが、その時点で死への逃避行までは予見できなかった。
2013年7 月20日 (土曜日)
創作欄 城山家の人々 6
人生に“もしも”はないが、人生はあらゆることにぶつかり、方向すら変えていくものだ。
昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一の命を奪われなかったら、親子4人の平穏な生活は六合村で続いていただろう。
軽井沢へ向かう途次、幸せそうな親子連れの姿を見て、君子は思った。
「何を考えているのですか?」妻子がある35歳の教師三田村幸三は君子の横顔に視線を注いだ。
「いいえ、なにも」は君子は前に広がる光景に大きな目を見開きながら微笑んだ。
木立の間に瀟洒な別荘の建物が点在し、見え隠れしていた。
それは西洋風なモダンな建物であったり、日本風な落ち着いた建物であり、ログハウスも多かった。
「軽井沢は人を不思議な感情にするところです」
「不思議な感情?」
「ここは何処か日本であって、日本ではないような風情を感じませんか?」
「私には分かりません」
「実は軽井沢は、人工的なのです」
「人工的?」
「ええ、江戸時代は交通の要所であり宿場街でしたが、明治時代に外国人立ちによって避暑地に造り変えられたのです」
「そうなのですか?」
「軽井沢には太古の昔から、人が住んでいたそうです」
「太古の昔?」
「縄文時代ですが、寒い気候にもかかわらず、鳥獣や果実・球根類が豊富だったようです」
「よく、知っているのですね」
「実は図書館の本で調べました」三田村幸三は朗らかに声を立てて笑った。
「そうなんですね」24歳の君子は心が開放されたような気分となり微笑んだ。
君子は18歳で結婚し家庭に入ったので世間知らずであり、生まれ育った下仁田と六合村しか知らなかった。
そして新婚旅行で行ったのは水上温泉と湯沢温泉だけであった。
また、東京へ1度だけ行ったが上野動物園と浅草しか行ったことがなかった。
だが、今日は思いがけなくも軽井沢へ向かっていた。
「軽井沢には人の心を高揚させる何かがある」君子は言い知れぬ感情に心が高まってきたのを覚えた。
軽井沢は悠久の杜の姿を彷彿させる。
2人は軽井沢を散策しながら新鮮な空気を いっぱい吸い込んで、思いっきり自然の魅力を堪能した。
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<参考>
今から6~7千年前の縄文時代前期のものと思われる土器が茂沢川上流、大勝負沢付近から見つかっている。
同代中期・後期にかけての遺跡と思われる茂沢南石堂の住居跡も残されている。
ここには、住居跡ばかりでなく立派な石組みの墓地が環状にならんでいることで、学会はじめ各方面からも広く注目されている。
この時期に出土した遺物は、茂沢を始めとして、杉瓜・発地付近・千ヶ滝・旧軽井沢・矢ヶ崎川の水源地付近まで広い地域に及んでいる。
また、弥生時代に入ってからの遺物も湯川・杉瓜・茂沢などから発見され、狩猟から農耕牧畜への過渡期にも人々が住んでいた事がうかがわれる。
信濃16牧の一つに長倉の牧があるが、特にこの地は清涼な気侯と豊富な草原に恵まれていて、狩場や牧場に大変適していたことを物語っている。
この土手と思われるものが、現在の旧軽井沢から離山のふもとを通り、南ケ丘・古宿、遠くは追分方面まで広がっている。

浅間山の南麓に位置する軽井沢は、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地にあった。
そのため古代から現在に至るまで、主要な道路や鉄道が軽井沢を通っていた。
2013年7 月18日 (木曜日)
創作欄 城山家の人々 5
昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一が亡くなった時、妻の君子は身重であった。
3歳の娘と2の娘がいたので君子は父親の戸田恵介の勧めに従い下仁田の実家に戻った。
下仁田ネギで有名な下仁田町(しもにたまち)は、群馬県の南西部にあり、町面積のうち山林が約84%を占めている。
昭和30年(1955年)下仁田町・小坂村・西牧村・青倉村・馬山村が合併し、下仁田町が誕生した。
戸田恵介は中学の校長をしており、娘の君子の3女の朝子が2歳になった時に、娘が小学校の給食員として働けるように尽力した。
君子の母信恵は元尋常小学校の代用教員をしていた経験から父親がいない5歳、4歳、2歳の孫娘を不憫に思い預かり、父親代わりの立場で躾けた。
色々な絵本の読み聞かせをしながら、情操教育に努めた。
君子は22歳で未亡人となり、23歳で3児の母親となっていた。
再婚してもいい年齢であったが、田舎町には3児の女と結婚する男は居なかった。
だが、美形の君子は男好きのするタイプでもあった。
君子は甘い顔立ちで癒し系の顔立ちであったのだ。
だが、愛された男には妻子がいたのだ。
35歳の教師三田村幸三は亡くなった夫の浩一を思い出させる優しいタイプの男であった。
夏休みのある日、君子は三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
君子は買い物をしていた時に、下仁田の街中で出会った幸三から声をかけられた。
軽井沢は浩一と住んでいた六合村からも比較的近かったが君子は一度も行ったことがなかった。
浩一の妹の福江が夫の銀次とともに吾妻郡長野原町北軽井沢の浅間牧場の近くで観光客相手の休憩所を経営していたので、浩一と何度か行って浅間牧場の大自然を満喫した。
浅間家畜育成牧場は、浅間山(2569メートル)の東北東山麓の標高約1300メートルに位置し、草津白根山一帯の地域と同じ中央高原型気候(北海道北部に匹敵する気候)で、総面積約800ヘクタールの牧場だ。
牛たちは浅間山の麓で雄大な自然の中で伸び伸びと育てらていた。
浩一と君子は結婚前にも浅間牧場を訪れていた。
そして雄大な景色を見てながら、浩一の妹の福江が運んできた牛乳を飲んでその濃さに感嘆したのだった。
実は性的に早熟な福江は14歳で妊娠して、村人から白い目で見られていたが、17歳の銀次と結婚し幸せな家庭を築いていた。
想えば、村人から生き神様と崇められていた忠平さんの娘の福江のふしだらさに、保守的な村人立ちは納得ができなかったようだ。
2013年7 月17日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 4
生き神様と村人から崇められた忠平は72歳で逝った。
酒を飲まないし、タバコを吸わない健全な生活を送っていたが、祈祷中に脳梗塞で倒れそのまま逝った。
10歳年下の弟の紳助は「兄さんはもう少し長生きすると思ったが」と安らかな死に顔を見て呟いた。
思えば妻のマツが57歳で脳溢血で死んだ時も、夫の忠平は托鉢の僧侶ように旅に出ていた。
「どうか、お布施をお願いします」
榊を手にして、家々を訪問する。
門前払いに合うばかりであるが、忠平にとってはそれが修行の一貫だった。
全国行脚の途次に全国各地に点在する親類の家も訪ねた。
極論すれば、姪や甥などから1000円、2000円のお布施をもらい受けるために、5000円の旅費、宿泊費を使うのである。
「忠平さんお布施は送るから、わざわざここまで来ることないよ」と岐阜県の中津川に住む甥の浩史は恐縮した。
だが昭和40年の始めに死をもって忠平の全国行脚は終わった。
ところが、姪の娘の一人の陽子は忠平の魂が乗り移ったように信仰にのめり込んで行く。
「陽子はどうしたんだ?」
叔父の紳助は群馬県渋川の姪の正子から陽子を預かっていたので心配した。
陽子は東京の短大へ入学して、東京・大田区雪谷の紳助の家に間借りをしていた。
陽子は短大から宗教団体の会館へ直接向かう。
そして毎日のように深夜まで宗教活動に邁進していた。
「この宗教は絶対よ!忠平さんの宗教とは全然違うわ。おじさんも是非、入信してね」
紳助はそれを聞いて呆れ返った。
紳助は大手企業に務める立場であり、世間体も憚ったので陽子の存在が段々疎ましくなってきた。
また、紳助の妻伸枝はミッション系の女子大学を出ていてクリスチャンであった。
「あなた、陽子に部屋を出て行ってと言ってくださいね。私、陽子が家にいるだけで神経は疲れるの」と露骨に顔をしかめた。
2013年7 月12日 (金曜日)
創作欄 城山家の人々 3
「コウイチ コス」
配達された電報の短い電文を見て紳助の妻の伸枝は「浩一さんが、実家からどこへ越したかしら」と夫に尋ねた。
「何?浩一が越した?!」
紳助は妻の手から電報を抜き取るようにしてから電文を凝視した。
「“コウイチ コス”か、この電報は何なんだ?電話で確かめよう」紳助は実家に電話をした。
浩一の妻の君子が電話に出た。
「おじさん? 紳助おじさんね!浩一さんが崖崩れで埋まって死んでしまった」
君子が泣き崩れ、電話が途絶えた。
「もしもし、もしもし、君子、君子」紳助は叫ぶように電話で呼びかけた。
「コウイチ コス」は「コウイチ シス」の間違いだった。
伊勢湾台風の被害が群馬県の吾妻郡六合村にまで及ぶんだとは紳助は想像だにしなかった。
まだ、26歳の若さの甥の浩一が死んでしまったのだ。
妻の君子は24歳で身重であった。
しかも、3歳の娘と2の娘がいた。
すでに記したとおり浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
「兄貴は、生き神様と崇められた宗教者だ。それなのに、神の加護はないのか?!」紳助は宗教に不信を募らせた。
思えば城山家の次男(紳助の兄)は関東大震災の時に、住み込みで働いていたが東京の墨田界隈の倒崩した家で死んでいた。
後年、城山家の人々は交通事故で3人が亡くなっている。
さらに、城山家の2人の娘が婦女暴行などを受けて殺されているのだ。
紳助の娘は皮肉にもミシン会社に務めた2年後、夜勤の帰りに襲われて、強姦された後に絞殺された。
浩一が六合村の役場から就職する姪のために送った戸籍謄本のことが、娘を失った紳助の脳裏から消えることはない。
2013年7 月 8日 (月曜日)
創作欄  山城家の人々 2
昭和34年、女子高校を卒業した徹の姉の真紀子は、東京・有楽町にあったミシン会社に就職した。
就職するに際して戸籍謄本を会社側から求められた。
真紀子の父親が甥の浩一が勤めていた群馬県吾妻郡六合村の役場に電話をかけて、戸籍謄本を送ってもらうこととなった。
電話に出た甥の浩一の声は明るく弾んでいた。
「おじさん、真紀子が就職したんですね。おめでとうございます。それで戸籍謄本が必要なんですね。喜んで直ぐに送ります。
おじさん、たまには赤岩に戻って来てください。おじさんが好きな日本酒を用意して待っていますからね」
「浩一、元気そうだね。ところで、兄さんは相変わらずなのかい?」叔父の紳助は尋ねた。
「忠平さんなら、元気そのものです。何たって生き神様ですから、疫病神も一目散に退散です」
浩一は父親を「忠平さん」と呼んでいた。
「大工の三郎はどうだい?」紳助は弟の近況をたずねた。
「三郎おじさんは、草津温泉の旅館の建てかえで忙しんで、息子の朝男も手伝っています」
「朝男はまだ中学生だろう?」紳助が心外なので聞いた。
「朝男は学校は好きでないと、この春で中退しました」
「中退した?馬鹿な、それで三郎は怒らなかったのかい」
「三郎おじさんは、“大工に学問はいらない”と言っていました」
「親子揃って、どうしょうもないな!」紳助は舌打ちをした。
紳助は旧制中学を出てから商業の専門学校へ通いながら働き、さらに夜間の大学を卒業していた。
紳助は叔父の立場から甥の浩一が中学3の年間をトップの成績を修めたことを聞き、高校への進学を助言してきた。
だが、浩一は貧しい家庭を支えるために村の役場に就職をした。
「お前はそれで本当にいいのか?」
正月休みに実家に戻ってきた紳助は浩一に質した。
「俺は、妹や弟も居るから、役場で働くよ。何も悔いないから大丈夫」
浩一はキッパリと言ったので、紳助は黙る他なかった。
2013年7 月 7日 (日曜日)
創作欄 山城家の人々 1
群馬県吾妻郡六合村(くにむら)大字赤岩の山城徹の伯父の忠平は熱心な宗教者であった。
2人の娘たちは草津温泉の旅館で住み込みで働いていた。
浩一は気丈な母を常に気遣う親孝行の息子で、生真面目な人柄であり性格は父親に似て温厚だった。
浩一は中学校では3年間トップの成績であったが高校へは進学せず、彼のことを惜しんだ校長の推薦で村役場に就職していた。
そして休みの日は母親の農作業を手伝っていた。
浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
農民の一人が血相を変えて村役場に駆け込んできた。
「俺の家が土砂崩れで、今にも流されそうだ!」
受付に近い席に座っていた浩一が素早く席を立った。
「作造さんの家で土砂崩れだね。直ぐ行くからね」
浩一は倉庫に雨合羽とヘルメットを取りに行く。
同僚で2歳年下の佐藤朝吉も素早い行動に出た。
「浩一さん大変のことになりましたね」
「朝吉、土砂崩れなんか過去に一度も起こっていないんだ。傾斜が急勾配な丘陵地ばかりだが、赤岩は名前のとおり岩盤に覆われた頑強な地盤の村なんだ」
浩一は土砂崩れが起こったことが半信半疑に思われた。
村役場から徒歩20分程の山道で、山の傾斜の太い立ち木が不気味な音を立てて軋んでいた。
見上げると急勾配の切り通しの斜面が雨水を含んで大きく盛り上がっていた。
昨夜の豪雨が止み、小雨が止んだり降ったりで、重なる山々の嶺と嶺の間の雲間に青空さえ見えていた。
朝吉は「明日は台風一過、快晴になりそうですね」と空を見上げた。
その時、山道の真上の山の切り立った傾斜が太い杉の木々などを巻き込みながら一気に崩れたのだ。
浩一は後ろに逃げ、土砂の下に埋まった
朝吉は前に逃れ、幸いにも難を逃れたのだった。

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<参考>
伊勢湾台風
昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日
死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名
住家全壊40,838棟、半壊113,052棟
床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟など
(消防白書より概要
 9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴った。最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、26日18時頃和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。
 勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き、伊良湖(愛知県渥美町)で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。
 紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となった。また、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受け、死者・行方不明者が1,200名以上となった。この他、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者があった。
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<参考>
六合村(くにむら)赤岩温泉・長英の隠れ湯(日帰り温泉施設)
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている赤岩地区にある温泉です。
つるつるとした肌ざわりの温泉で、日帰り入浴が楽しめる施設が1軒あります。
幕末に赤岩地区に隠れ住んだと伝えられる蘭学者高野長英にちなんで、「長英の隠れ湯」と名付けられました。
 館内は入口から浴槽まで、バリアフリーの安心設計です。
施設へ食べ物を持ち込めるので、入浴後は大広間でゆっくりとくつろげます。
アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復健康増進
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赤岩は数多くの養蚕農家などが残っている集落です。
赤岩は、山村の養蚕集落として平成18年(2006年)に国から群馬県初の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
赤岩では明治時代以前から養蚕が営まれ、養蚕に適した頑丈な農業建築が行われ、「サンカイヤ」と呼ばれる湯本家、関家の3階屋の建物が残っています。
さらに、上の観音堂・毘沙門堂・向城の観音堂・東堂・赤岩神社などの小さな宗教施設が点在し、蔵・小屋や道祖神、石垣や樹木、通り沿いの景色、農地や森林が一体となって、幕末や明治時代の景観を今に伝えています。

創作蘭 徹の青春 7

2016年08月29日 17時59分35秒 | 創作欄
2013年9 月16日 (月曜日)

徹は大学に入学した日、北川法子に瓜二つの女性を廊下で見かけ思わず足をとめた。
春の明るい陽射しがその人の顔の美しさを際立てているように映じた。
「法子はまだ高校生であるからこんなところに居るはずがない」徹は息をとめながらその人をすれ違った。
ポニーテールの髪型も法子にそっくりであった。
徹は高校のころ家計を助けるために家へ戻ると直ぐに街の電気部品の工場で夜の10時まで働いていた。
大学の受験勉強に格別力を入れていたわけではないが、工場から戻り一人夜食を食べていると直ぐに睡魔に襲われた。こため受験勉強に身が入らなかった。
当時、母親は家政婦の仕事しており、派遣されてば世田谷の用賀から東京内へ住み込みで働きに出ていた。
家政婦協会からの派遣先はプロ野球選手の自宅であったり、映画俳優の自宅であったり、ミュージシャンの自宅などでもあった。
その母が派遣先の内科医院の自宅で脳梗塞で倒れ、渋谷の日赤病院へ入院した。
徹が連絡を受け母の病室を訪れた時に、見知らぬ美しい少女が病室に居た。
その少女が内科医師の娘の北川法子であった。
「母は看護婦をしておりまして、手が離せませんので、わたくしが今日は付き添っています」と言いいがら丁寧に頭を下げた。
徹の母親は倒れたものの幸い軽い脳梗塞であり意識もはっきりしていた。
「徹にも心配をかけたけど、大丈夫だよ」と母は笑顔を見せた。
徹は母親の頭に白い毛が増えたことを見るとなぜか切ない気持ちとなる。
「わたくしは、これで帰らせていただきます。お大事になさってください」法子は頭を下げ、2人を気遣うように病室を出て行った。
徹にはそのポニーテールの髪型がいかにも愛らしく映じ、少女の後ろ姿が何とも好ましく思われた。
「美しいお嬢さんだろう。気心がとても良くてね。先生からとても可愛がられている一人娘さんなんだよ。将来は後継者にしたいと先生はおっしゃっている。勉強もできてね。四谷にある私立の有名な中高一貫教育の学校の生徒さんなんだよ」と母は身を起こしながら言う。
徹はアルバイトで働いてる工場の社長の中学生の娘さんの陽子に恋心を抱いたが、初めて会った北川法子は高嶺の花の形容そのもに値した。
徹が北川法子に2度目にあったのが、広尾の北川内科医院の自宅であった。
日曜日の日、母の衣類を頼まれ届けに行ったのだ。
母の冬の衣類を引取り、春から夏の衣類を届けたのである。
「北川先生のお宅でお世話になってから1年だよ。1年はあっと言う間だね」
北川法子は洗濯ものを干す徹の母親の脇に居て手助けをして、親しげに徹に微笑みかけていた。
法子の視線を受けて徹はドギマギし胸は高鳴った。
広い庭を見て徹は田園調布に住んでいたころの小学校の同級生たちのことを思い浮かべた。
2013年9 月12日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 6
徹が16歳の年の1959年5月、東京五輪開催が決定した。
1961年9月駒沢公園で起工式が行われた。
徹は自宅の用賀から駒沢へ工事の様子を見に行く。
徹は高校の体操部に所属していたが、競技を始めてまだ1年、自分の運動神経のなさを痛感し、体操を止めて剣道部に転向した。
1962年3月には国立競技場の増築工事の着工式。
1963年10月、日本武道館起工式。
1964年4月、代々木選手村の起工式。
そして、この年の10月東海道新幹線の東京―新大阪間が開業。
10月に待ちに待った東京五輪が開催された。
木村徹は改めて、高校生から大学生までの青春を振り返り、東京オリンピック開会へ沸き立つ日本と自分の足跡をだどってみた。
徹は理科系を目指していたが、高校の1年生から2年生に移行する時点で、文科系に振り分けられた。
成績の上位者のみが理科系の進学課程へ組み込まれたのだ。
徹は理工学か応用化学を目指していた。
クラスには医師や歯科医師の息子もいて、志望どおりに理科系の進学課程へ進学していた。
実は徹は中学生から嫌米で、英語を学ぶことを拒絶してきたのだ。
「おい、木村!アメリカが嫌いだろうと、英語は避けて通れないぞ! 今のままの姿勢では、将来、後悔するぞ!よく覚えておけ!」
中学の英語教師の桜田敏は徹に、厳しい口調で忠告していた。
ここに大きな基点があったのだが、徹は右翼であった母親の父の影響を強く受けて育った。
祖父はインドネシアの独立戦争に参戦した日本将兵の生き残りであった。
「欧米のアジア植民地支配から日本将兵はアジアに救いの手をのべたのだ」
これが祖父の持論であり、誇りでもあった。

2013年9 月 9日 (月曜日)
創作蘭 徹の青春 5
徹は高校生のころ、ルノアール画・イレーヌ・カーンダンベルス嬢の肖像の複製画を東京・世田谷の三軒茶屋の古本屋で立ち読みしていた時に、画集でそれを見つけ心が動かされた。
まるで心に描いてきた理想の少女の姿を発見した心持ちとなった。
思い起こせば、その肖像画は徹が初めて恋心を覚えた中学校の同級生の大西静江を彷彿させた。
徹は14歳の年に父が失業し、困窮生活を余儀なくされた。
そして家計を助けるために、新聞配達を始めたのだ。
徹は大邸宅に住む大西静江の家のポストにも新聞を毎朝入れる立場となった。
徹にとって中学生での新聞配達は屈辱であり、静江に姿を見られることを恥じた。
幸い一度も徹は新聞配達姿を静江に見られることはなかった。
だが徹の新聞配達は6か月で終わった。
新築して2年余の徹が住む自宅は売りに出され、徹の家族は大田区の田園調布から世田谷区の用賀へ移転した。
徹の父は宅建の資格を取り、これまでのサラリーマンから不動産屋となった。
東京オリンピックが4年後に開かれることとなり、東京全体が浮き立っていた。
そして用賀に近い駒沢もオリンピックの会場に予定されたことから、すでにオリンピック会場の工事が着々と進んでいた。
皮肉なもので、好景気が大いに期待されていたのだが、世田谷区内の土地が高騰し土地が売れなくなったのだ。
街の零細な不動産屋は大手の不動産業に押されるばかりとなる。
性格が地味で人付き合いも苦手な元経理マンの徹の父親は不動産業には向いていなかったのだ。
さらに追い討ちをかけられるように、2人の従業員に店に入るべき金を持ち逃げされ、店の閉鎖を余儀なくされた。
結局、家を売った金で取引先へ弁済するはめとなる。
徹は高校から家へ戻ると直ぐに街の電気部品の工場で夜の10時まで働いていた。
徹はその工場の社長の中学生の娘さんに恋心を抱いた。
社長の娘さんである陽子も、ルノアール画・イレーヌ・カーンダンベルス嬢の肖像を彷彿させた。陽子は歌が好きで、仲宗根美樹の「川は流れる」を歌っていた。
徹はその哀愁がこもった陽子の歌声に強く惹かれたのだ。

2013年9 月 8日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 4
木村徹は中学校の元国語教師で日常生活は極めて生真面目であった。
酒もタバコもやらない、当然、お金で女とは遊ばない。
徹が学生時代に夏目漱石に強く惹かれたのも小説の底流にモラルバックボーンがあったからだ。
そこで当然、卒論も漱石を選んだ。
ただ、大学院の先輩がテーマとして教唆してくれた「則天去私」ではなく、徹が選択したのは「漱石文学における女性」であった。
作家の三浦朱門先生の特別講義の「チェーホフ文学における女性」に示唆され、言わばその模倣だった。
「漱石文学における女性? そんなのやめろ! やはり、漱石が晩年、則天去私に至るその道程を小説から解き明かすのだ」先輩の長岡謙作は徹に再考を促した。
だが、誰も書いていないテーマだと、徹は「漱石と女性問題」に拘泥した。
しかし、世の中は広いもので、文芸評論家の江藤淳が書いたのだ。
徹の卒論は400字詰めの原稿用紙で280枚余。
書き終えたのが1月10日であった。
江藤淳の漱石の本が発行されたのが、1月20日ころと徹は記憶している。
つまり、奇しくも漱石の女性問題は、漱石文学の重要なモチーフとして取り上げられ、ほぼ同時進行で記されていたのだ。
漱石文学における女性問題は軽視すべきモチーフではなかったことを徹は改めて確信した。
徹は卒論の指導教授の指導も1度も受けなかった。
森下次郎教授は万葉集の研究者であり、徹には古典文学を卒論に取り上げるようにと促していたのだ。 
「近代文学は社会に出ても研究できる。大学ではむしろ古典を学び研究すべきた」と森下次郎教授は持論を述べ、「古典文学研究会」へ入るように徹に要請した。 
徹の万葉調の短歌を森下教授は評価していた。 そして、自分が主宰する「短歌雑誌・歌の道」に徹の短歌を掲載してくれていた。
だが、徹はプロレタリア作家の中野重治の「歌の別れ」を読み、短歌では自己表現に限界があると感じ始めていた。
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モチーフ【(フランス)motif】とは。
意味や解説。
《「モティーフ」とも》 文学・美術などで、創作の動機となった主要な思想や題材。  
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<参考>
◎三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家。
日本芸術院院長(第4代)。

日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)などを歴任した。
父の口利きで1948年から日本大学芸術学部非常勤講師となり、1952年10月助教授に進み、1967年10月教授となる
◎中野重治は生得の倫理的な志向を、同様の傾向を持った先人の作品を読むことによって補強しているのである。
高浜虚子によると、夏目漱石は四国で教師をしていた頃に「どんな人間になりたいか」と虚子に問われて、「完全な人間になりたい」と答えている。
中野は自分と同型の志向を持っ漱石に鼓舞され、そこからエネルギーを取り込んで本来の倫理志向を強化したのである。

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<参考>作家・佐多稲子
「しずもりかえった部屋に目を放ったとき、突然、中野重治は、もういない、という思いが私の胸をしめた。
何の脈絡もなしに突き上げたその自覚は、まるで初めて中野の死を知ったかのように鮮明であった。
中野重治が、もういない。
私はそのつぶやきを口に乗せ、自分が宙に浮くのを感じた。
宙に浮く私の、つかまりどころがもうなかった。
今までは、中野重治がいた。
中野重治がいる、と自分でそう思えばよかった。
が、その中野が今はいない。
突然、実感するその思いに私は、暗がりの部屋に感情を放って声に出して泣いた」
2013年9 月 5日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 3
大学の先輩は大学院を出てから東京の九段にある女子高の国語教師になっていた。
奥さんは教え子の一人であった。
奥さんの実家は魚河岸の海鮮問屋で、4人姉妹の2番目であった。
先輩は奥さんの一番下の妹を徹に紹介しようとしていた。
だが、徹は来春3月に結婚が決まっていた。
「徹もようやく身を固めるのか! それは良かったな。おまえと義兄弟になりそこねたが、これも人生だ」新宿の居酒屋で先輩は上機嫌になっていた。
徹はもう少し先輩の話が早かったらと思った。
先輩の奥さんはなかなかの美人であり、妹さもさぞかし美しいのだろうと想像してみたのだ。
「結婚するんだから、競馬なんかもう止めろ」徹は一変に現実に引き戻される。
そして、ビールをあおるように飲み干した。
「ビールはそんな無茶な飲み方をするな」
先輩は、日本酒の熱燗を飲んでいた。
「近代文学研究会のころの徹はアルコールがダメだったな」先輩はまじまじと徹に視線を注いだ。
徹は専門紙の記者になって、28歳からビールを飲みだした。
そして、競馬は29歳の時から始めた。
記者仲間の影響である。
また、麻雀は30歳の時に覚えた。
いずれも徹のそれまでの生活を一変させた。
徹は中学校の国語教師から、27歳の時に転職したのだ。
何故、教師を辞めたのかを先輩にも話していなかったが、職場における教師たちの思想的な問題に反発を覚えた。
徹は深い信念や主義からではなく、歌としての「君が代」が好きであったのだ。
それは理屈でとやかく言及するではなかった。
2013年9 月 5日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 2
「灯台下暗し」とはよく言ったものだ。
徹は結局、どの恋愛も片思いに終わり、実ることはなかった。
母親は「お前にはどこか、欠点があるのではないか!」とまで手厳しい指摘をする。
「おまえより、若い頃のお父さんの方がハンサムだったね」とも言われたが、「男は顔や姿ではない」と徹は腹の中で強がってみた。
写真で見る父親は確かに若いころはいい男であり、母親はその容貌に惚れ込んだのだった。
結局、徹は31歳で結婚した。
相手な近所に住む26歳のOLで、徹は高校生のころからその人の姿を見かけていた。
小太りで、長いスカートから見える足も太かった。
徹は細身の女性に惹かれてきたが、「女は元気で、家庭的な子が一番いいよ」との母親の勧めに妥協した。
31歳でいつまでも独身であることからに肩身の狭い思いがしていた。
昭和40年代、近所の同世代の男たちはみな結婚し、2、3人の子どもがいた。
休みの日、公園で子どもと遊ぶ父親たちを横目に、徹は競馬場へ向かった。
大学の先輩に小田急線の電車内で出会う。
先輩は奥さんと2人の娘さんと座席に座っていたが、徹の姿に気づくと立ち上がって競馬新聞を読む徹に近寄ってきた。
「徹、相変わらず競馬か! 健全な遊びをしようよ」と説教口調となる。
徹は浮かぬ顔となりながらデニムズボンの後ろポケットに競馬新聞をたたむと捻じ込む。
「たまには、うちに来いよ。徹とは男同士の話もある」
徹は町田駅で先輩の家族が急行電車に乗り換えので「やれやれ」という気分となった。
「男同士の話? それは何だ?」徹は気になった。
読売ランド駅で下車して徹は京王線に乗り換え府中へ向かうためバスに乗った。
バスは多摩丘陵を上り下って行く。
その景色が徹の気持ちを和ませた。
バスの車窓から見える雑木林は、何処も武蔵野の面影をとどめているように想われるのだ。
2013年9 月 5日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 
徹は何度も恋をした。
恋と言っても一方的だった。
つまり片思いである。
「徹さんを好きになる人、何処かにいるはずよね」
お茶を出しながら事務局員の木村沙都子が言った。
「そうよね。徹さん頑張りな」
事務局長の大木みどりが愛おしそうに徹を見詰めた。
徹は沙都子が好きであることをみどりに告げていた。
「徹さん、残念ね。遅かった」みどりは真顔になった。
沙都子に徹は恋をしたが、沙都子には既に婚約者がいたのだ。
そればかりではなかった。
迂闊にも徹は妊婦の服装に気づかなかったが、沙都子は妊娠7か月の身であった。
「沙都子以外にね、たくさん女のはいるよ」みどりの慰めは徹には虚しく聞こえた
実は、みどりは樺太に生まれで、終戦を迎えた昭和20年、18歳の年に島に上陸してきたソ連兵に強姦された身であった。
昭和45年、徹と出会った時には既に白髪頭になっていた。
その若白髪を気にする気配もなかった。
前の事務局長が脳梗塞で急死し、2年前にみどりは後任の事務長に抜擢されていた。
25歳の徹が取材でその事務局を訪れてから5年の歳月が流れていた。
みどりは若い徹を初めて見た時、20歳で戦死した兄に面影に似ていると想った。
みどりは兄1人、妹4人の家族で、漁師であった父は36歳の時に結核で亡くなり、気丈であった母の細腕に育てられた。
母は魚市場で早朝から働いていた。
その母も樺太から北海の小樽の実家に引き上げてきた翌年に脳梗塞で亡くなった。

創作欄 続・徹の青春 4

2016年08月29日 17時58分14秒 | 創作欄
2013年9 月29日 (日曜日)

月曜日、徹が地下鉄丸の内線の赤坂駅から赤坂プリンスホテルへの道を歩いていると先輩の近藤兼が背後から声をかけた。
「木村、昨日、見たぞ銀座でいい女を連れていたな! おまえさんも案外やるじゃないか。どこで女のを見つけたんだ!」
近藤は黒縁メガネの奥を光らせた。
徹は近藤の深く響くバリトンの声に気圧される。
近藤は実にハンサムである。
メガネはダテであり、自分を知的に見せるための小道具の一つだった。
近藤は電車内でいい女を毎日、物色している。
そして意図も簡単に女を魚のように釣り上げるのだ。
「女と寝るのは1回きり、後腐れがない」と豪語して憚らない男だった。
「近藤は何時か女で墓穴を掘る」と編集長の田丸勝志が釘を刺していたが、近藤の女漁りは相い変わらず継続していた。
結局、目敏い近藤は徹が恋をした八代由紀をも寝取ったのだ。
徹は近藤に憎悪を燃やしたが、八代由紀も1回切りで捨てられる運命にあった。
徹はそれ以来、女性不信に陥る。
そして新しい恋を求めたが、何時もうまく事は運ばなかったのだ。
徹は転職して、病院関係の専門新聞から薬業関係の専門新聞に勤め始めていた。
そして、東京の医薬品の小売団体の事務局に勤務する真田真理子に恋をした。
だが、真理子には既に婚約者がいたのだ。
「告白されて私、複雑な気分だけど・・・何処かにきっと、木村さんを好きになる人いるはずよ」
東京・御茶ノ水駅に近い音楽喫茶店の仄かな明かりの下、真理子の慰めは徹に虚しく聞こえた。

2013年9 月29日 (日曜日)
創作蘭 続・徹の青春 3
看護婦の八代由紀は誰かに似ていた。
思えば、デビューしたころの初々しい女優の岩下志麻を彷彿させた。
徹は八代由紀に会うため渋谷まで出向き病院の献血に行く。
だが、献血を担当するのは看護婦の八代由紀ばかりではなかった。
結局、短期間に7回の献血をしてしまった。
幸いなのは病院の廊下で倒れた徹を看護してくれたのが、八代由紀であった。
「木村さんは貧血ぎみですから、栄養を付けてくださいね」
由紀は春の陽光が差し込む病室のレースのカーテンの前に佇み、ながら検温を終えた。
「36度5分」と呟きながら、検温結果を検診表に記入する。
徹は由紀の胸のネームプレートに目を留めながら「八代さんを食事に誘いたいのですが・・・」と告げた。
「あら、ご馳走していただけるのですね」と由紀は微笑む。
徹は拒絶されると思い込んでいたので、ベッドから思わず起き上がった。
「嬉しいです。患者さんからお食事の誘いを受けたのは初めてです。楽しみにしています」
爽やかな由紀の微笑みは徹の心を高揚させた。
単なる社交辞令でとは思われなかった。
徹は結局、由紀を銀座のサラダ専門店(サラダブッフェ)に誘った。
「木村さんは、洒落たお店を知っているのですね。私は青森育ちの田舎ものですから、このような店は初めてです」
由紀は看護婦の丈の長い白衣姿とは想像できないスタイルをしていた。
上は黒のとっくりのセーター、スカーとは赤のミニであった。
店のほとんどの客はカップか女性同士であった。
由紀は店内に目を転じながら「わたしたちも恋人同士に見えますか?」と微笑んだ。
徹は夢み心地の気分となる。
2013年9 月24日 (火曜日)
創作蘭 続徹の青春 2
27歳の木村徹は相変わらず人を好きになっては失恋していた。
27歳の誕生日の日の午後の8時過ぎに、新宿の閉店されたデパートの前で開店していた易者の手相を観てもらった。
誕生日のご祝儀だと大学の後輩の大場金太郎が手相代を出してくれた。
もう一人の後輩はこの日の徹の居酒屋の飲み代を出してくれた。
二人とも大手企業に就職をしていた。
情けないかな徹は安月給の身であった。
「金運は?」徹はまず一番気にかけている問題を問いかけた。
40代と思われる女性の易者は金縁のメガネをかけていた。
拡大鏡で徹の手相を念入りに鑑定する。
「残念ながら、あなたは金運に恵まれません」
「やっぱし、そうか」徹は落胆した。
後輩二人は顔を見合わせながら、「では、恋愛運は」と同時に問いかけた。
「あなたは、40代になったら人間的な魅力が出てきますよ。きっと、女性の心を射止めるでしょう」
易者はキッパリと口調で告げると微笑みかけた。
徹はガックリときた。
取材で知り合った渋谷の総合病院に勤務している看護婦の八代由紀にアタックをかけている時期であったのだ。
その日は献血の取材をした。
帰り際に、「体験が一番です。献血をして帰ってください」と副院長に言われたのだ。
徹の献血を担当したのが看護婦の八代由紀であった。
「あなたは、病院新聞の記者ですか?」と看護婦から問われた。
徹は脱いだスーツの上に自社の封筒に置いていた。
「そうです」と返事をしながら徹は自分の立場が相手に知られたことを恥じた。
封筒はスーツの下に置くべきであり、行為が迂闊であった。

2013年9 月18日 (水曜日)
創作蘭 続 徹の青春 1
待つのが辛いか? 待たせる方が辛いのか?
「走れメロス」を想起させる。
徹は大概は待つ方の立場であった。
墨田区内の総合病院に勤務する女医の峰子は常に待ち合わせの場所へ30分ほどは遅れてやってきた。
徹は1時間以上も待ったことがある。
日比谷公園の噴水前の待ち合わせ場所へ遅れてやってきた峰子は首をすくめて「徹ちゃん、ゴメンね、何時も待たせてわたくし謝ります」
彼女は躍けてバレリーナのプリマドンナがカーテンコールで見せるようなポーズで頭を下げた。
右足を一歩前に出しミニスカートの裾を両手にし会釈する峰子のポーズは少女のようにも思われた。
峰子は小学生までバレーをやっていたのだ。中学生になってからは演劇に興味をもち演劇部に入った。
徹は峰子の魅惑的な微笑みに待っていたイライラ気分が一辺に吹き飛んだ。
峰子は常に鏡に向かって微笑みを浮かべ、どのような笑みが人を魅了するかを確認していた。
峰子は医学生時代にアルバイトでモデルをしていが、カメラマンの一人から「鏡で微笑を確認して、微笑のイメージを豊に膨らませるんだ」とアドバイスをされてきた。
女に惚れ込んだ男の弱み、不甲斐なさで徹は「峰子さんのことをずっと想い続けていました。何処かでなにかアクシデントでもなかったかと・・・」
「徹ちゃんありがとう。その優しさにわかくし惹かれました」
徹は創造が及ばなかったが、実は峰子は新しい恋をしていた。
峰子は恋多き女の典型的なタイプであったのだ。
当時徹は25歳で峰子は一つ年上であった。
東大紛争のために峰子の東京大学医学部の2度目の受験はかなわなかった。
そこで峰子は東京医科歯科大学医学部を受験した。
峰子の父は彼女が15歳の時に交通事故で亡くなっているが東大医学部を出ていて都立病院の小児科医であった。
峰子の母親は小児科の看護婦であった。
峰子の父母はいわゆる職場結婚だった。