2013年8 月 6日 (火曜日)
「人を好きなる情念とは、このようなものなのか」と今さらながら三田村幸三は思った。
35歳の幸三は、これまで恋愛経験らしきものを体験していなかったのだ。
性愛を重ねるうちに君子に心が引きづられように囚われていく状態であり「これは浮気だ」とは割り切れない情况に陥っていった。
迂闊にも君子は妊娠していた。
2人は避妊をしていたが君子は「今日は大丈夫」と言って日があった。
そんな日が何回かあったので、油断をしたのである。
「私は段々我がままになっていきます」と君子は唐突に言った。
「我がまま?」意味が分からず幸三は問い返した。
「私はあなたから離れられなくなりそうです」君子は思いつめた瞳で視線を注いだ。
癒し系の女性である君子は、身を焦がすような女に変貌していた。
「何時までも、私はあなたの陰の女で居たくないのです」
幸三は思いがけないその言葉に、肺腑をえぐられる想いがした。
狭い下仁田の街であり、2人の深い関係が、幸三の妻の玲子の耳にも届いた。
幸三の乗用車の助手に乗っている君子の姿が妻の玲子の知人にも目撃されていた。
「見かけたのは1回きりではないの、気を付けなさい。玲子さんは旦那さんに浮気されているのじゃないの?」
玲子の知人は信頼を寄せる地元の議員の妻であった。
それを聞いて即座に妻の玲子は「あんたは、浮気をしているのね!相手は誰!」と夫を問い詰めた。
幸三は最早、弁解したり嘘をつくつまりはなかった。
「じつは恩師の娘さんと関係ができたんだ」
「相手は恩師の娘さん?それで、あんたはどうするの?」
蝉時雨の時節であった。
幸三は吹き出す汗をタオルで拭う。
妻の玲子は、まゆを釣り上げ団扇で顔をあおいだ。
2013年7 月31日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 10
昼間、下仁田の街中で三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた日の夜、京子はあれこれ頭を巡らせると眠れなくなった。
浩一との夜の生活のことも思い出された。
若い2人は毎夜のように、交わってきた。
そして昭和34年、京子は3人目を妊った。
テレビはまだ六合村には普及していない時代である。
娯楽とは無縁の山間地の夜は常に森閑としていた。
浩一の母の恒子は稲棚や山の斜面を開墾した僅かな畑を一人で耕しているため、午前4時30分には起き、5時には家を出て行った。
朝が早い母の恒子は夜は9時前には寝入っていた。
2人の娘を寝つかせると浩一と京子は風呂を共にした。
浩一は京子に頭と背中を洗わせた。
素肌かのまま先に風呂を出た浩一は、床に腹ばいながら京子を待った。
浴衣姿の京子は下着を付けていないので、艶かしかった。
「今度は、男の子を生んでくれ」
浩一は京子から身を話すと京子の長い髪に指を絡ませた。
京子は少女時代から短髪であったが、結婚後に浩一に請われて髪を伸ばした。
浩一は子煩悩であり、「5人にくらい子どもをつくろう」と言っていた。
浩一は3人目の種を宿して亡くなるとは皮肉であった。
軽井沢からドライブの帰途、京子は眠気に襲われた。
「私、疲れたので寝てもいいですか」
「どうぞ」幸三は微笑んだ。
可憐な少女時代を連想するような京子の寝顔であった。
幸三の2人の兄は大東亜戦争下中国の戦地で戦死していた。
「大東亜戦争」は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、公文書で使用することが禁止された。
だが、兄2人を中国大陸で失った幸三にとっては、強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったことが不満であった。
2人の兄は士官学校を出た職業軍人であった。
当時の家が貧しく進学することが叶わない向学心旺盛な 子供にとって、職業軍人になることこそが最高の憧れだった時代であった。
目覚めた京子は何を思ったのか、過去の自分を告白するように唐突に言った。
「私は、中学生の頃、不良少女だったのですよ」
それは黙っていてもいいことであった。
夫の浩一にも明かさなかったことであったから、京子は自身の心の大きな変化を意識しながら自らを怪しんだ。
「京子さんが、不良少女だったのですか?!」幸三は目を見開き驚愕の表情をした。
昭和12年生まれの京子は、昭和の歌謡界を代表する歌姫美空ひばりと同世代であり、昭和26年14歳になっていた。
きっかけは些細なことだった。
「京子は頭もいいし、可愛いから先生に贔屓をされている。いいわね。先生の子どもあるし、特別扱いされている」
一番仲よしと思っていた山口夏子に言われたことが深く京子の心を傷つけた。
京子は何かと仲間外れにされることが多くなってきた。
そんな京子に不良少女のレッテルを貼られていた篠崎栄子が接近してきたのだ。
京子は篠崎栄子に真似て極端に髪の毛を短くし、裾を刈り上げのようにした。
「その髪はどうしたの?何があったの!」
母親はびっくりして質したが、京子は不貞腐れたように横を向いた。
父親は「馬鹿者!おまえは何を考えているんだ」と怒り、初めて京子の頬に平手打ちを食らわせた。
「高校受験を控えているんだぞ、一番大事な時期じゃないか!」
京子を居間に正座させ、「しばらく、そのままで反省しているんだ」と告げると書斎に向かった。
そして、聖書を持参しそれを京子の前に無言のまま置いた。
父に反発した京子は結局、聖書を一行も読まなかった。
学校をさぼり篠崎栄子とその仲間たちと渋川の街で遊び歩いた。
飲酒も覚え、シンナーにも手を出した。
だが、「桃色遊戯」だけには抵抗があり、それはやらなかった。
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<参考>
昭和26年(1951).2.6〔中学生の桃色グループ 読売新聞引用〕
近頃「男女中学生が桃色グループをつくって性遊戯にふける」との記事が目につく。
警視庁少年課でも取り締りに頭を痛めている。
だんだん集団化する傾向があり、捕導された少年の親は「うちの子に限って……」という自信から警察に呼ばれて始めて事実を知って驚き嘆く例が多い。
原因は大半家庭の不注意が一番多く、学校のあいまいな性教育、社会の挑発的な出版物や興業にあるという。
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昭和34年
4月10日:【皇太子と正田美智子が結婚】 皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子の結婚式が皇居で行われた。夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には53万人が詰めかけた。皇太子が民間人と結婚したのは初めて。
皇太子結婚パレード実況中継 (NHKと民放テレビ各局、4月10日)
黒い花びら(水原弘)[作詞:永六輔、作曲:中村八大](10月発売) 第1回(1959年度)レコード大賞
6月25日:プロ野球初の天覧試合、巨人対阪神戦が後楽園球場で行われ、長嶋茂雄が村山投手からサヨナラ・ホームランを打った。
9月26日:【伊勢湾台風】 台風15号が紀伊半島に上陸して北上、東海各地に深いツメ跡を残して27日日本海へ駆け抜けた。 全国の被害は、死者・行方不明者5098人、負傷者3万8921人、被害家屋83万3965戸。
2013年7 月29日 (月曜日)
創作欄 城山家の人々 9
小学校の教師の三田村幸三は、30歳の時に、新前橋に住む伯母の野田菊子から見合い話を持ち込まれた。
それは3度目のことであった。
和服姿がとても凛としていて、顔立ちが実に美しい人の見合い写真もあり、「このような美しい人を妻に迎えいいれることができたら」と密かに期待をした。
だが、見合い話が叔母から持ち込まれて、1週間後には、その女性は前橋の内科医との縁談が進んでいた。
「幸三、あんな美しい人を逃して残念だったね。でも、女の人は容姿ではなく、気立てだよ。まだまだ、見合いの話はあるよ」と菊子を甥の幸三を慰めた。
「姉さん、30歳にもなって幸三が独身で、私は肩身が狭いよ」と母親の稲子が語調を強めた。
「肩身が狭いだなんて稲子、男の30歳はけして、遅くはないよ」
「だって、裏の大島さんの息子は25歳で結婚して、表の佐藤さんの息子だって27歳で結婚して、もう子どもが2人もいるよう。結婚できない幸三には欠陥でもあるんだろうかね?」と眉を曇らせた。
「稲子、人様の家はそれぞれだよ。幸三にけして欠陥があるわけない。結婚は縁だよ」と菊子は妹を諭した。
結局、4度目の伯母菊子の見合い話が進展して、幸三は31歳の春に新前橋の医薬品の卸会社に務めていた27歳の三倉玲子と結婚した。
玲子は3人姉妹の次女で顔立ちは幸三が満足できる範囲の女性であった。
実は幸三はいわゆる面食いであったが、彼の周囲に彼の心を捉える女性が居なかったのだ。
35歳になった幸三には3歳の娘と1歳の息子が居た。
結婚生活に不満があったわけではない。
だが、幸三は恩師戸田恵介の娘の君子の存在を同僚の教師である大塚正子から聞いた。
正子も恵介の教え子であった。
「三田村さん、戸田恵介先生の娘さんが、本校の給食員として勤めているのよ。ご存じ?」
「ええ! 戸田先生の娘さんが?」それは心外であった。
幸三は中学生時代に戸田恵介を影響を強く受け心から尊敬しており、戸田の姿を追うようにして教職の道を目指した。
その戸田恵介の娘は伊勢湾台風の災禍で夫を亡くし、3人の娘を抱え、実家に身を寄せる立場となっていた。
娘を不憫思った父親は、娘の独り立ちを願い君子が小学校の給食員として働けるように尽力したのだった。
夫の浩一が亡くなった時、君子は身重であった。
3女の朝子が2歳になった時に、君子は働きだした。
美形の君子は男好きのするタイプで、甘い顔立ちで癒し系の女であった。
幸三は恩師戸田恵介に顔立ちが似ている君子を初めて観て、「何かを予感した」、それは言い知れぬ感情であった。
一方、君子も亡き夫の浩一のような優しい雰囲気を醸し出し、柔らかい物腰の幸三に好感を抱いた。
幸三には恋愛らしい恋愛の経験がほとんどなかった。
35歳にもなって湧き上がってくる少年のような心のときめきを、むしろ怪しんだ。
「私は、どうかしている。分別を失う年齢ではないはずだ」と邪念を払うように幸三は頭を振った。
2013年7 月28日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 8
「人の出会いは不思議なものだ」と君子は3人の幼い娘たちの寝顔を見て思った。
長女の玲子は顔のえらが張り男の子のような顔立ちであり、一重目蓋で亡くなった夫似であった。
次女の菜々子と三女の朝子は瓜実顔であり、二重目蓋で君子に似ていた。
君子は中学校の教師の娘であったが、中学生2年生の頃から悪い仲間と遊び歩くような女の子であった。
反抗期に口煩い父親の啓介に厳しく育てられ、厳格な父にことごとく反発していた。
思い余った父親は、娘を悪い仲間から引き離すために六合村の恩師の島田節道の寺に預けた。
島田節道は前橋高校の国語教師であったが、僧侶の父親が亡くなると教師を辞して寺を継いだ。
「娘の君子の性根は、私には直すことはできません。先生何とか面倒をお願いします」憔悴した教え子の顔を見て、節道は「親元を離れて暮らすのもいいだろう」と理解を示し君子を預かることにした。
「君子、親孝行が一番だ。人間の基本だよ。今は分からないだろうが、親孝行の娘になりなさい。斯く言う坊主も親孝行の息子とは言えんかったがな」節道はニヤリとして坊主頭を撫で回した。
君子は節道に対して祖父のような親しみを覚えた。
「人間、学問が全てではない。高校へ行きたければ行けばいい。中学を卒業して、働ききに出てもいい。若くして社会に出ても、それはそれで有意義で、何でも学べるものだ」
君子は寺での日々の修行のような生活で素直であった生来の性格を呼び覚ました。
午前5時には起きて、小僧とともに寺の掃除をした。
小僧の幸太郎は13歳であり渋川の親の寺を離れ修行に来て、昼間は六合村の中学校へ通学していた。
結局、君子は転校した六合村の中学を卒業すると六合村の役場に就職した。
そして役場で人生の伴侶となる山城浩一と出会ったのだ。
その浩一が昭和34年の伊勢湾台風の災禍で亡くならなければ、親子4人の平穏な生活を六合村で送っていただろう。
また、実家の下仁田の実家に戻らねば、妻子がある35歳の教師三田村幸三とも出会うことはなかっただろう。
居間に掲げてあるフクロウの柱時計が「ホッホッ」と午前1時の時を告げた。
10歳の誕生日に買ってもらった柱時計が、今も正確に時を刻んでいることが、奇跡のようにも思われた。
君子は娘たちの寝息から背を向けると、突き動かさるような体の衝動を感じ始めた。
三田村幸三によって数年ぶりに女の性を呼び覚まされたのだ。
2013年7 月21日 (日曜日)
創作欄 城山家の人々 7
軽井沢へのドライブへ誘われた時、24歳の3人の母親である君子は、妻子がある35歳の教師三田村幸三とただならぬ男女の関係になることを予感していた。
「たまには息抜きをしませんか」と言われた時、乾いていた心ばかりではなく、女の体の潤いを呼び戻して欲しいという期待に突き動かされていた。
父親は昭和34年の伊勢湾台風の思わぬ被害者となり夫を亡くした一人娘の君子が、自分のもとへ戻って来たことを歓んでいた。
だが、母親は3人の娘がいるものの24歳の娘が再び良縁に結ばれることを願っていた。
「母さんはお前の娘たちの面倒を見てもいいって思っているんだよ。君子は再婚しなさいね」
「私は古いタイプの女ではないので、亡くなった浩一さんに操を立てる気持ちはないの。でも、私を貰ってくれる男の人なんかこの下仁田にいるのかしら?」
確かに若い男たちの多くは東京へ働きに出て、群馬県の山間地である下仁田も過疎化が進んでいた。
「何時までも寡婦の身なんて惨めだよ」娘の運命を不憫に思っていたので、再婚を真剣に勧めた。
「そうね。寡婦で終わりたくはないわ。こんな自分の立場でも、私に興味を持ってくれる男がどこかに居るはずね」
具体的にその姿が浮かんだのは、小学校の給食員として働き出してから1か月後であった。
給食室を出た時に、廊下で出会った人から声をかけられた。
「戸田恵介先生の娘さんですね。自分は三田村幸三です。実は私は戸田先生の中学時代の教え子なんです。」三田村幸三は20代の青年のような清々しい笑顔であった。
「そうでしたか!私は娘の君子です。三田村さんのこと父に言っておきましょう」君子は三田村に親しみを感じた。
「君子さんは、目の当たりが戸田先生に似ていますね」まじまじと見詰められた。
「そうですか」三田村から注がれる視線に君子は何故か気恥ずかしい思いがした。
父親の恵介は目が大きく二重目蓋である。
母親の信恵は切れ長の一重目蓋であった。
その年の学校の夏休み、下仁田の街中で買い物をしていた時に、三田村から声をかけられ軽井沢へのドライブへ誘われたのだ。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
常日頃から“息抜”をどこかで欲していたので君子は二つ返事でドライブに応じた。
だが、運命は思わぬ方向へ向かうものであるが、その時点で死への逃避行までは予見できなかった。
2013年7 月20日 (土曜日)
創作欄 城山家の人々 6
人生に“もしも”はないが、人生はあらゆることにぶつかり、方向すら変えていくものだ。
昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一の命を奪われなかったら、親子4人の平穏な生活は六合村で続いていただろう。
軽井沢へ向かう途次、幸せそうな親子連れの姿を見て、君子は思った。
「何を考えているのですか?」妻子がある35歳の教師三田村幸三は君子の横顔に視線を注いだ。
「いいえ、なにも」は君子は前に広がる光景に大きな目を見開きながら微笑んだ。
木立の間に瀟洒な別荘の建物が点在し、見え隠れしていた。
それは西洋風なモダンな建物であったり、日本風な落ち着いた建物であり、ログハウスも多かった。
「軽井沢は人を不思議な感情にするところです」
「不思議な感情?」
「ここは何処か日本であって、日本ではないような風情を感じませんか?」
「私には分かりません」
「実は軽井沢は、人工的なのです」
「人工的?」
「ええ、江戸時代は交通の要所であり宿場街でしたが、明治時代に外国人立ちによって避暑地に造り変えられたのです」
「そうなのですか?」
「軽井沢には太古の昔から、人が住んでいたそうです」
「太古の昔?」
「縄文時代ですが、寒い気候にもかかわらず、鳥獣や果実・球根類が豊富だったようです」
「よく、知っているのですね」
「実は図書館の本で調べました」三田村幸三は朗らかに声を立てて笑った。
「そうなんですね」24歳の君子は心が開放されたような気分となり微笑んだ。
君子は18歳で結婚し家庭に入ったので世間知らずであり、生まれ育った下仁田と六合村しか知らなかった。
そして新婚旅行で行ったのは水上温泉と湯沢温泉だけであった。
また、東京へ1度だけ行ったが上野動物園と浅草しか行ったことがなかった。
だが、今日は思いがけなくも軽井沢へ向かっていた。
「軽井沢には人の心を高揚させる何かがある」君子は言い知れぬ感情に心が高まってきたのを覚えた。
軽井沢は悠久の杜の姿を彷彿させる。
2人は軽井沢を散策しながら新鮮な空気を いっぱい吸い込んで、思いっきり自然の魅力を堪能した。
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<参考>
今から6~7千年前の縄文時代前期のものと思われる土器が茂沢川上流、大勝負沢付近から見つかっている。
同代中期・後期にかけての遺跡と思われる茂沢南石堂の住居跡も残されている。
ここには、住居跡ばかりでなく立派な石組みの墓地が環状にならんでいることで、学会はじめ各方面からも広く注目されている。
この時期に出土した遺物は、茂沢を始めとして、杉瓜・発地付近・千ヶ滝・旧軽井沢・矢ヶ崎川の水源地付近まで広い地域に及んでいる。
また、弥生時代に入ってからの遺物も湯川・杉瓜・茂沢などから発見され、狩猟から農耕牧畜への過渡期にも人々が住んでいた事がうかがわれる。
信濃16牧の一つに長倉の牧があるが、特にこの地は清涼な気侯と豊富な草原に恵まれていて、狩場や牧場に大変適していたことを物語っている。
この土手と思われるものが、現在の旧軽井沢から離山のふもとを通り、南ケ丘・古宿、遠くは追分方面まで広がっている。
浅間山の南麓に位置する軽井沢は、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地にあった。
そのため古代から現在に至るまで、主要な道路や鉄道が軽井沢を通っていた。
2013年7 月18日 (木曜日)
創作欄 城山家の人々 5
昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一が亡くなった時、妻の君子は身重であった。
3歳の娘と2の娘がいたので君子は父親の戸田恵介の勧めに従い下仁田の実家に戻った。
下仁田ネギで有名な下仁田町(しもにたまち)は、群馬県の南西部にあり、町面積のうち山林が約84%を占めている。
昭和30年(1955年)下仁田町・小坂村・西牧村・青倉村・馬山村が合併し、下仁田町が誕生した。
戸田恵介は中学の校長をしており、娘の君子の3女の朝子が2歳になった時に、娘が小学校の給食員として働けるように尽力した。
君子の母信恵は元尋常小学校の代用教員をしていた経験から父親がいない5歳、4歳、2歳の孫娘を不憫に思い預かり、父親代わりの立場で躾けた。
色々な絵本の読み聞かせをしながら、情操教育に努めた。
君子は22歳で未亡人となり、23歳で3児の母親となっていた。
再婚してもいい年齢であったが、田舎町には3児の女と結婚する男は居なかった。
だが、美形の君子は男好きのするタイプでもあった。
君子は甘い顔立ちで癒し系の顔立ちであったのだ。
だが、愛された男には妻子がいたのだ。
35歳の教師三田村幸三は亡くなった夫の浩一を思い出させる優しいタイプの男であった。
夏休みのある日、君子は三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
君子は買い物をしていた時に、下仁田の街中で出会った幸三から声をかけられた。
軽井沢は浩一と住んでいた六合村からも比較的近かったが君子は一度も行ったことがなかった。
浩一の妹の福江が夫の銀次とともに吾妻郡長野原町北軽井沢の浅間牧場の近くで観光客相手の休憩所を経営していたので、浩一と何度か行って浅間牧場の大自然を満喫した。
浅間家畜育成牧場は、浅間山(2569メートル)の東北東山麓の標高約1300メートルに位置し、草津白根山一帯の地域と同じ中央高原型気候(北海道北部に匹敵する気候)で、総面積約800ヘクタールの牧場だ。
牛たちは浅間山の麓で雄大な自然の中で伸び伸びと育てらていた。
浩一と君子は結婚前にも浅間牧場を訪れていた。
そして雄大な景色を見てながら、浩一の妹の福江が運んできた牛乳を飲んでその濃さに感嘆したのだった。
実は性的に早熟な福江は14歳で妊娠して、村人から白い目で見られていたが、17歳の銀次と結婚し幸せな家庭を築いていた。
想えば、村人から生き神様と崇められていた忠平さんの娘の福江のふしだらさに、保守的な村人立ちは納得ができなかったようだ。
2013年7 月17日 (水曜日)
創作欄 城山家の人々 4
生き神様と村人から崇められた忠平は72歳で逝った。
酒を飲まないし、タバコを吸わない健全な生活を送っていたが、祈祷中に脳梗塞で倒れそのまま逝った。
10歳年下の弟の紳助は「兄さんはもう少し長生きすると思ったが」と安らかな死に顔を見て呟いた。
思えば妻のマツが57歳で脳溢血で死んだ時も、夫の忠平は托鉢の僧侶ように旅に出ていた。
「どうか、お布施をお願いします」
榊を手にして、家々を訪問する。
門前払いに合うばかりであるが、忠平にとってはそれが修行の一貫だった。
全国行脚の途次に全国各地に点在する親類の家も訪ねた。
極論すれば、姪や甥などから1000円、2000円のお布施をもらい受けるために、5000円の旅費、宿泊費を使うのである。
「忠平さんお布施は送るから、わざわざここまで来ることないよ」と岐阜県の中津川に住む甥の浩史は恐縮した。
だが昭和40年の始めに死をもって忠平の全国行脚は終わった。
ところが、姪の娘の一人の陽子は忠平の魂が乗り移ったように信仰にのめり込んで行く。
「陽子はどうしたんだ?」
叔父の紳助は群馬県渋川の姪の正子から陽子を預かっていたので心配した。
陽子は東京の短大へ入学して、東京・大田区雪谷の紳助の家に間借りをしていた。
陽子は短大から宗教団体の会館へ直接向かう。
そして毎日のように深夜まで宗教活動に邁進していた。
「この宗教は絶対よ!忠平さんの宗教とは全然違うわ。おじさんも是非、入信してね」
紳助はそれを聞いて呆れ返った。
紳助は大手企業に務める立場であり、世間体も憚ったので陽子の存在が段々疎ましくなってきた。
また、紳助の妻伸枝はミッション系の女子大学を出ていてクリスチャンであった。
「あなた、陽子に部屋を出て行ってと言ってくださいね。私、陽子が家にいるだけで神経は疲れるの」と露骨に顔をしかめた。
2013年7 月12日 (金曜日)
創作欄 城山家の人々 3
「コウイチ コス」
配達された電報の短い電文を見て紳助の妻の伸枝は「浩一さんが、実家からどこへ越したかしら」と夫に尋ねた。
「何?浩一が越した?!」
紳助は妻の手から電報を抜き取るようにしてから電文を凝視した。
「“コウイチ コス”か、この電報は何なんだ?電話で確かめよう」紳助は実家に電話をした。
浩一の妻の君子が電話に出た。
「おじさん? 紳助おじさんね!浩一さんが崖崩れで埋まって死んでしまった」
君子が泣き崩れ、電話が途絶えた。
「もしもし、もしもし、君子、君子」紳助は叫ぶように電話で呼びかけた。
「コウイチ コス」は「コウイチ シス」の間違いだった。
伊勢湾台風の被害が群馬県の吾妻郡六合村にまで及ぶんだとは紳助は想像だにしなかった。
まだ、26歳の若さの甥の浩一が死んでしまったのだ。
妻の君子は24歳で身重であった。
しかも、3歳の娘と2の娘がいた。
すでに記したとおり浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
「兄貴は、生き神様と崇められた宗教者だ。それなのに、神の加護はないのか?!」紳助は宗教に不信を募らせた。
思えば城山家の次男(紳助の兄)は関東大震災の時に、住み込みで働いていたが東京の墨田界隈の倒崩した家で死んでいた。
後年、城山家の人々は交通事故で3人が亡くなっている。
さらに、城山家の2人の娘が婦女暴行などを受けて殺されているのだ。
紳助の娘は皮肉にもミシン会社に務めた2年後、夜勤の帰りに襲われて、強姦された後に絞殺された。
浩一が六合村の役場から就職する姪のために送った戸籍謄本のことが、娘を失った紳助の脳裏から消えることはない。
2013年7 月 8日 (月曜日)
創作欄 山城家の人々 2
昭和34年、女子高校を卒業した徹の姉の真紀子は、東京・有楽町にあったミシン会社に就職した。
就職するに際して戸籍謄本を会社側から求められた。
真紀子の父親が甥の浩一が勤めていた群馬県吾妻郡六合村の役場に電話をかけて、戸籍謄本を送ってもらうこととなった。
電話に出た甥の浩一の声は明るく弾んでいた。
「おじさん、真紀子が就職したんですね。おめでとうございます。それで戸籍謄本が必要なんですね。喜んで直ぐに送ります。
おじさん、たまには赤岩に戻って来てください。おじさんが好きな日本酒を用意して待っていますからね」
「浩一、元気そうだね。ところで、兄さんは相変わらずなのかい?」叔父の紳助は尋ねた。
「忠平さんなら、元気そのものです。何たって生き神様ですから、疫病神も一目散に退散です」
浩一は父親を「忠平さん」と呼んでいた。
「大工の三郎はどうだい?」紳助は弟の近況をたずねた。
「三郎おじさんは、草津温泉の旅館の建てかえで忙しんで、息子の朝男も手伝っています」
「朝男はまだ中学生だろう?」紳助が心外なので聞いた。
「朝男は学校は好きでないと、この春で中退しました」
「中退した?馬鹿な、それで三郎は怒らなかったのかい」
「三郎おじさんは、“大工に学問はいらない”と言っていました」
「親子揃って、どうしょうもないな!」紳助は舌打ちをした。
紳助は旧制中学を出てから商業の専門学校へ通いながら働き、さらに夜間の大学を卒業していた。
紳助は叔父の立場から甥の浩一が中学3の年間をトップの成績を修めたことを聞き、高校への進学を助言してきた。
だが、浩一は貧しい家庭を支えるために村の役場に就職をした。
「お前はそれで本当にいいのか?」
正月休みに実家に戻ってきた紳助は浩一に質した。
「俺は、妹や弟も居るから、役場で働くよ。何も悔いないから大丈夫」
浩一はキッパリと言ったので、紳助は黙る他なかった。
2013年7 月 7日 (日曜日)
創作欄 山城家の人々 1
群馬県吾妻郡六合村(くにむら)大字赤岩の山城徹の伯父の忠平は熱心な宗教者であった。
2人の娘たちは草津温泉の旅館で住み込みで働いていた。
浩一は気丈な母を常に気遣う親孝行の息子で、生真面目な人柄であり性格は父親に似て温厚だった。
浩一は中学校では3年間トップの成績であったが高校へは進学せず、彼のことを惜しんだ校長の推薦で村役場に就職していた。
そして休みの日は母親の農作業を手伝っていた。
浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
農民の一人が血相を変えて村役場に駆け込んできた。
「俺の家が土砂崩れで、今にも流されそうだ!」
受付に近い席に座っていた浩一が素早く席を立った。
「作造さんの家で土砂崩れだね。直ぐ行くからね」
浩一は倉庫に雨合羽とヘルメットを取りに行く。
同僚で2歳年下の佐藤朝吉も素早い行動に出た。
「浩一さん大変のことになりましたね」
「朝吉、土砂崩れなんか過去に一度も起こっていないんだ。傾斜が急勾配な丘陵地ばかりだが、赤岩は名前のとおり岩盤に覆われた頑強な地盤の村なんだ」
浩一は土砂崩れが起こったことが半信半疑に思われた。
村役場から徒歩20分程の山道で、山の傾斜の太い立ち木が不気味な音を立てて軋んでいた。
見上げると急勾配の切り通しの斜面が雨水を含んで大きく盛り上がっていた。
昨夜の豪雨が止み、小雨が止んだり降ったりで、重なる山々の嶺と嶺の間の雲間に青空さえ見えていた。
朝吉は「明日は台風一過、快晴になりそうですね」と空を見上げた。
その時、山道の真上の山の切り立った傾斜が太い杉の木々などを巻き込みながら一気に崩れたのだ。
浩一は後ろに逃げ、土砂の下に埋まった
朝吉は前に逃れ、幸いにも難を逃れたのだった。
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<参考>
伊勢湾台風
昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日
死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名
住家全壊40,838棟、半壊113,052棟
床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟など
(消防白書より概要
9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴った。最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、26日18時頃和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。
勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き、伊良湖(愛知県渥美町)で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。
紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となった。また、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受け、死者・行方不明者が1,200名以上となった。この他、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者があった。
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<参考>
六合村(くにむら)赤岩温泉・長英の隠れ湯(日帰り温泉施設)
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている赤岩地区にある温泉です。
つるつるとした肌ざわりの温泉で、日帰り入浴が楽しめる施設が1軒あります。
幕末に赤岩地区に隠れ住んだと伝えられる蘭学者高野長英にちなんで、「長英の隠れ湯」と名付けられました。
館内は入口から浴槽まで、バリアフリーの安心設計です。
施設へ食べ物を持ち込めるので、入浴後は大広間でゆっくりとくつろげます。
アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復健康増進
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赤岩は数多くの養蚕農家などが残っている集落です。
赤岩は、山村の養蚕集落として平成18年(2006年)に国から群馬県初の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
赤岩では明治時代以前から養蚕が営まれ、養蚕に適した頑丈な農業建築が行われ、「サンカイヤ」と呼ばれる湯本家、関家の3階屋の建物が残っています。
さらに、上の観音堂・毘沙門堂・向城の観音堂・東堂・赤岩神社などの小さな宗教施設が点在し、蔵・小屋や道祖神、石垣や樹木、通り沿いの景色、農地や森林が一体となって、幕末や明治時代の景観を今に伝えています。