CSテレビで観戦。
11月25日1時から1時55分現在
1回満塁で4点 3回2点追加
創価大学1回1点
青山学院大学4回に1点追加
7-3で青山学院大学が優勝
大学野球の4冠を達成する。
CSテレビで観戦。
11月25日1時から1時55分現在
1回満塁で4点 3回2点追加
創価大学1回1点
青山学院大学4回に1点追加
7-3で青山学院大学が優勝
大学野球の4冠を達成する。
阪神のファンとして、久しぶりに神宮球場へ行こうとしたが、コンビニへ行くと、残念ながら入場券は完売であった。
昨年は、阪神と巨人戦の入場券を長男からプレゼントされた。
阪神が2年連続、優勝できるかどうかであるが、今日は、6-0でヤクルトに、一方的に勝利した。
現在、阪神は5連勝。
なお、巨人が、今日も勝利している。
ウィリー・ハワード・メイズ・ジュニア(Willie Howard Mays Jr., 1931年5月6日 - 2024年6月18日])は、アメリカ合衆国アラバマ州ウェストフィールド出身のプロ野球選手(中堅手)。右投右打。ニックネームは「セイ・ヘイ・キッド(The Say Hey Kid)」。
通算3283安打、660本塁打、338盗塁。1909打点。通算3005試合出場。
打率3割1厘。
長打力を含め、走攻守すべてを兼ね備えた伝説的な名外野手と称される。
MLB史上最高の「コンプリート・プレーヤー」と称され、史上最高の中堅手と評価されることが多い。
日本選手の記録
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昨日(5月11日)の野球は、まさに筋書のないドラマだった。
やはり、オープン戦の成績、最下位がそのままの体たらくである。
完封負けの通り、まったくチャンスに弱い。
今日も負けれたら3タテに・・・情けない。
東京ドームに行かなくて、よかった。
巨人選手の好守備にもまいったのだ。
当方は、父親の代からの阪神ファンである。
家人の実家も家族ぐるみで、阪神ファンなのだ。
是非、阪神には日本シリーズで優勝してほしい。
甲子園球場や京セラドームへ野球を見にへ行きたいくらいだが、チケットは到底手に入らないだろう。
それにしても・・・目前で2敬遠。
SMBC日本シリーズ2023、阪神4x―3オリックス、第4戦、2勝2敗、1日、甲子園)阪神はサヨナラ勝ちでオリックスを破り、今シリーズを2勝2敗のタイに戻した。
六回まで3―1とリードしたが、七回に宗に中前2点打を打たれて試合を振り出しに戻された。
終盤は互いに好機を作るもリリーフ陣が粘り合い、迎えた九回裏だ。1死から近本が四球で出塁すると、ワゲスパックの2度の暴投で二進、そして三進。
そこから中野と森下が連続申告敬遠で歩かされ、第3戦では九回2死一、二塁のチャンスで空振り三振に倒れていた大山が勝負を挑まれた。燃える4番はフルカウントからインハイ直球に食らいついて三遊間を破り、試合を決めた。スタンドは狂喜乱舞。大山はウオーターシャワーの中で笑顔をはじけさせた。
選手に寄り添い ダメだしも愛情
頑張りは認めて 信頼関係を築く
伴走型リーダー
聞く耳を持つ柔軟性
対話を重視し、心をつかうのがうまい選手思いの監督
常に1軍と2軍の情報を共有している
中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市)出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)。オリックス・バファローズ第29代監督を務める。
1987年に阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ・横浜ベイスターズ・北海道日本ハムファイターズでプレー。日本ハム時代の2007年から2015年まではバッテリーコーチを兼務していた。
2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成。
愛称は「サメ」[1]。妻はモデルの中嶋愛。漫画家の制野秀一は義父にあたる。
経歴
プロ入り前
鷹巣中学校卒業後に進学した秋田県立鷹巣農林高校では、1985年秋季東北大会県予選準々決勝に進むが秋田高に敗退。翌1986年夏の甲子園県予選も準々決勝で横手高に敗れる。同年のNPBドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団。
阪急・オリックス時代
1988年10月23日[注 1]、ダブルヘッダーで開催された阪急としての西宮球場最終戦(対ロッテ26回戦)にて、ダメ押しとなる3点本塁打[注 2]を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。
1989年、球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴む。球界随一の強肩もさることながら、打撃センスに優れ、俊足で盗塁も果敢に挑戦し走攻守すべての面を持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた[2]。四番打者を務めたこともある。
1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁からインフィールドフライを故意に落球。打者には落球の有無にかかわらず審判から自動的にアウトを宣告されたため、本塁における三塁走者のフォースアウトで併殺を狙ったが、インフィールドフライの扱いに対する解釈の誤りからロッテに得点を許してしまった[注 3]。
1991年以降も正捕手の座を維持していたが、1990年代の中盤以降は打撃が徐々に低迷。仰木彬が監督を務めていた時期には、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から加入した高田誠や、若手の三輪隆と併用されていた。
1995年には佐藤義則のノーヒットノーラン(当時のNPB公式戦史上最年長記録)[2]や11年ぶりのパシフィック・リーグ優勝に貢献。
1996年には、仰木の下でリーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇も経験している。
西武時代
1997年シーズンオフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明[2]。複数の球団と接触し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けた[2]。一時は入団が決まりかけたが、エンゼルス側が提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念。国内球団の移籍に的を絞り、西武ライオンズと日本ハムファイターズが中嶋の獲得に乗り出したが、最終的に西武へ移籍[3]。
1998年、日本シリーズでは不調のベテラン伊東勤に代わり一時的な活躍こそしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。
1999年は松坂大輔専用の捕手として起用される[注 4]ことで出場機会を得たが、2001年以降は松坂登板時も伊東がマスクを被る機会が増え、さらに打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減っていった。
2000年、和田一浩と背番号を交換した(中嶋:5→22、和田:22→5)が、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという[4]。また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われた古巣オリックス戦で、2回裏にテリー・ブロウズから同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている。
2002年、大半を二軍で過ごし、オフに富岡久貴と共に石井義人と細見和史との2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍[5]。
横浜時代
2003年、前年に正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、若手の相川亮二、前年に谷繁と入れ替わりで中日から移籍した中村武志の正捕手争いに自身が参戦する形でハイレベルなポジション争いが期待され、開幕戦では先発マスクを被ったが、故障や打撃不振などで結果を残せず、オフに中村の復調や相川の台頭で構想外となり、金銭トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[6]。1997年のFA時から6年越しの日本ハム入団となった。
日本ハム時代
2004年は、9月に横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と結婚。
2005年は、当初3番手捕手のはずだったが、正捕手髙橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。
2006年は、先発出場はわずか2試合と激減したが、守護神マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを記録し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした[注 5]。
2007年は、選手と一軍バッテリーコーチを兼任。以後は選手としての一軍登録抹消時はコーチ専任で一軍に帯同した。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度一軍へ昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この年唯一放った安打は、9月15日の対ソフトバンク戦で放ったダメ押しの3ランだった。
2008年は、シーズン後半からではあるが、再度一軍へ昇格、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートするために1試合のみではあるが、2年ぶりに先発出場を果たした。
2009年は、大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会がなかった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし、大野がインフルエンザに感染したため8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被りシーズン初出場を果たした。また、8月21日の対ソフトバンク戦ではダルビッシュ有の先発捕手として出場し、自身も1安打を放った。さらに同年の日本シリーズでもマスクを被った。
2010年は、4月2日に一軍登録され、対西武戦(札幌ドーム)に7回途中から出場し、実働年数が24年となった。これは歴代3位タイで、捕手では野村克也(南海、ロッテ、西武)の26年に次ぎ、単独2位の年数である。4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦ではバディ・カーライルの先発捕手として出場した。
2011年は、鶴岡が開幕直前に離脱したこともあり、2007年以来4年ぶりに開幕戦から選手として一軍登録される。4月13日の西武2回戦(札幌ドーム)に9回表から出場、実働年数が25年となった。
北海道日本ハムファイターズ選手兼バッテリーコーチ時代(2012年)
2012年は、5月9日に一軍登録され、5月12日の西武7回戦(函館オーシャンスタジアム)で9回表に守備で出場し、実働年数が26年となり、野村、山本昌(中日)と並び、歴代2位(野手では1位)の記録となった[7]。
2013年は、9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で、この年初めて一軍公式戦に出場。野手としてのNPB一軍実働年数最多記録(27年)を達成した[8]。
2014年は、6月27日の対楽天戦(札幌ドーム)8回表から捕手として出場。この年唯一の一軍公式戦出場であったが、野手としてのNPB一軍実働年数記録を28年に更新するとともにパシフィック・リーグ公式戦での実働年数記録(27年)を達成した[9]。
2015年は、4月15日の対ロッテ戦(札幌ドーム)9回表に、捕手としてこの年初めて一軍公式戦に出場。工藤公康の持つ(投手を含めての)NPB一軍実働年数記録(29年)に並んだ[10]。その後は事実上バッテリーコーチに専念していたが、10月1日に現役を引退した。日本ハム球団では対ロッテ23回戦(札幌ドーム)を中嶋の引退試合として開催した[11]。中嶋の引退により、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブスに所属した選手と、西宮球場時代に在籍した選手と、西宮球場、大阪球場、川崎球場でプレーした選手が全員引退した。ちなみに、この年には現役最年長投手で中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った当時50歳の山本昌が現役を引退したことにより、昭和時代にプレーした選手が全員引退した。その一方で、オフには自身の意向でバッテリーコーチも退任した[12]。11月2日に引退記者会見を実施。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[13]。
現役引退後
2016年、日本ハムのチーム統括本部としてゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団に当たるMLBのサンディエゴ・パドレスに派遣[14]。アメリカ滞在中には、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方で、外国人選手のスカウティングにも携わっていた[15]。
2018年、日本ハムの一軍バッテリー兼作戦コーチとして3年ぶりに現場へ復帰した[16]が、シーズン終了後の10月19日に退団。
2019年、オリックス・バファローズの二軍監督に就任[17]。ブルーウェーブの捕手時代にバッテリーを組んでいた小林宏二軍投手コーチと共に、榊原翼やK-鈴木などの投手を一軍に定着させた[18]。
オリックス監督時代
2020年、二軍監督を務めていたが、一軍監督の西村徳文が8月20日の対西武戦(京セラドーム大阪)終了後に辞任したことを受けて、翌21日から一軍監督代行に就任[19][20]。この異動に伴って、二軍投手コーチの小林が二軍監督代行を務めている[19]。シーズン終了後の11月12日、一軍監督に就任[21]。
2021年、二軍にいた杉本裕太郎の長打力を買って4番に抜擢し、宗佑磨の守備センスを見抜いて外野から三塁にコンバート、小田裕也には小技を徹底的に磨かせるなど、個々の長所を組み合わせる戦法を貫いた[22]。正式な監督就任初年度となる2021年にオリックスの25年ぶりのリーグ優勝を果たす[23]。阪急・オリックスの球団史上、チームで選手としてプレー経験のある監督がリーグ優勝を達成するのは中嶋が初となる[24][注 6]。千葉ロッテマリーンズとのクライマックスシリーズは3勝1分でCS突破し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズは東京ヤクルトスワローズに2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。
2022年、オリックスをパ・リーグ連覇、2年連続の日本シリーズ進出に導き、同シリーズでヤクルトを4勝2敗1分けで下し、日本一を達成[25]。同年オフに正力松太郎賞を受賞した[26][27]。
2023年、オリックスをパ・リーグ3連覇に導く[28]。
人物
アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていた。古田敦也(当時トヨタ自動車硬式野球部)は地元球団で少年時代は前身の阪急のファンの上『阪急ブレーブスこども会』にも入会していたほどだったが、プロ野球ドラフト会議の指名候補選手になった際、レギュラー獲りへの不安からか、「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていた。
最初に入団した阪急で、山田久志、佐藤義則、今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。
星野伸之は120km/h台の速球と80km/h台のスローカーブを武器にする投手で、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野が田中幸雄に投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった[注 7]。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[29]。
星野は後に著書『真っ向勝負のスローカーブ』でこのときの“素手でキャッチ事件”を振り返り、“今となってはいい思い出である”と述べているほか、“中嶋はいい捕手だった”とも述べている。
この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた。
「捕手=巨漢・鈍足」といった従来のイメージを変えた選手の一人であり、オリックス時代にはプロ野球選手を最初にアイドル的に扱った雑誌・プロ野球aiに特集記事が度々掲載されるほどであった。
西武入団時には松坂大輔が先発する試合の出場が多かったが、松坂を大事に育てる意向だった当時の首脳陣は当時の正捕手だった伊東勤と組ませると松坂が乱調だった試合では(松坂の責任にできない関係上)伊東の責任になってしまう、さりとて既に球界を代表するキャッチャーでもあった伊東の責任にもできないため、中嶋と組ませれば「全て中嶋が悪い」で済ませられるから松坂の女房役になったのではないかと述懐している。
ただ、実際にはルーキーイヤーのオープン戦で当初伊東と組んでいた松坂はうまく呼吸が噛み合わず精彩を欠く場面が目立っていたが中嶋と初めて組んだ試合ではそれまでと打って変わった投球をみせたことから「まだ新人の段階では、リードどおりの投球を求める伊東よりも、松坂の調子に応じてリードを組み立てる中嶋のほうがうまく良さを引き出せるのでは」という西武首脳陣(とくに東尾修監督)の判断もあったとされる。
普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。
2018年限りで北海道日本ハムファイターズを退団したが、その発表の日付が10月19日であった。日本ハム球団によれば「阪急ブレーブスがオリックスに身売りすることが発表された1988年10月19日から30年を迎え、最後の阪急戦士だった中嶋が阪急を引き継ぐオリックスへの復帰を手助けするためにこの日に発表した」とのことである[30]。
2007年の一軍バッテリーコーチ就任以降選手登録はされていたが殆どコーチ専任であった。というのは、一軍の本拠地と二軍の本拠地が地理的にかけ離れており、たとえ一軍捕手にアクシデントがあっても二軍から捕手を緊急で一軍昇格させることが難しい状況であった。そこで、一軍に常時帯同している中嶋は緊急昇格に対応できる「保険」の役割を担っていた。体力的には既に限界であったが中々引退を認めて貰えず、2015年に翌2016年に北海道新幹線が道南まで開通することが決まり一軍・二軍間の交通面が改善されたこと、捕手登録であった近藤健介が外野手へコンバートされたことで近藤の緊急時の捕手起用が可能となったことが切っ掛けでようやく現役生活から解放された。
初回、2アウト走者なしの場面で打席に立った高山俊は、広島カープ先発の野村祐輔の6球目ストレートを打ち返し、セカンドへの打球を韮澤雄也がクラブで弾き、内野安打となった。
高山俊は岡田監督から復活を期待され、春季キャンプは1軍スタートも、開幕は2軍で迎えていた。ウエスタン・リーグ開幕後も打率1割台と苦しんだが、4月の後半からヒットがコンスタントに飛び出すようになり、現在は好不調の波はあるものの、再浮上の兆しを見せていた。
7月は、2日のオリックス・バファローズ戦から8試合連続ヒットを放つなど、打撃好調を維持し、完全復活の予感を漂わせていた。
8月は、7月28日の広島カープ戦から続いていた8試合連続ノーヒットを、8月13日の広島カープ戦でストップし、8月23日のオリックス・バファローズ戦でから3試合連続安打を記録。
高山俊には、近本光司、ノイジー、森下翔太と現状固まりつつある外野スタメンの牙城を崩し、阪神タイガース打線をさらに調子付かせる起爆剤となってもらいたい。
岡田監督が待ち望んだ本来の姿で、高山俊が1軍昇格を果たし、近本光司、大山悠輔と共に、日本一へ向け、阪神タイガース打線を牽引する存在になってもらいたい。
公開日:2023.09.16 ラブスポ
9月19日、鳴尾浜球場で行われたウエスタン・リーグのオリックス・バファローズ戦に、「5番・三塁」で先発出場した渡辺諒は、5打数2安打5打点1HR。一時逆転の2号満塁ホームランを放ち、5試合連続安打を記録。5打点の大暴れで、1軍再昇格へアピールした。
3回、2アウト満塁のチャンスの場面で打席に立った渡辺諒は、オリックス・バファローズ先発の佐藤一磨の3球目125kmフォークを捉え、レフトフェンスを越える一時逆転の2号満塁ホームランを放った。
さらに、5回ノーアウト1、2塁のチャンスの場面で打席に立つと、渡辺諒は再び佐藤一磨の4球目112kmカーブをレフトへ弾き返す同点のタイムリーヒットを放ち、今シーズン4度目のマルチヒットを記録した。
渡辺諒は、昨シーズンオフに日本ハムファイターズからトレード移籍し、今シーズンから阪神タイガースに活躍の場を移し、佐藤輝明が不振だった前半戦では、代役として出場し、要所で試合を決めるバッティングなどを披露していた。
しかし、代打で8月8、9日巨人戦、12、13日のヤクルトスワローズ戦に出場するも結果を出せず、7月6日の広島カープ戦のツーベースヒットを最後に、13打席ノーヒットを記録し、8月15日に2軍降格となっていた。
岡田監督からは2軍でしっかりと打って帰ってこいと尻を叩かれ、2軍降格後は打撃の向上に努めてきた渡辺諒は、5試合連続安打を記録し、直近3戦打率.571と打撃好調を維持しており、クライマックスシリーズ、日本シリーズへ向け、1軍昇格の準備は整っている。
アレを達成し、クライマックスシリーズを乗り越え、日本シリーズ制覇を果たす為、さらにチームの勢いを加速させたい岡田監督は、勝負所で一打を放てる渡辺諒の1軍再昇格を目論んでいるはずだ。
渡辺諒には1軍再昇格を果たし、ここぞの場面で一打を放ち、勝負を決められる選手として躍動してもらいたい。
そろった素材をどう生かすか。
「勝てるチームなんですよ、(でも)勝てないんですよ。スタンドで見ていて歯がゆさあった」
昨年10月の就任会見でそう語った岡田彰布監督のマネージメント力。
これまでの補強頼みから素材重視に転換した。
岡田監督の手腕がまず注目されたのは合理的な采配である。
実績にとらわれずに、より良い結果を出しそうな選手を見抜き起用を続けてきた。
選手との関係性など「私情」を挟まず、戦術を含めてより良い結果が出るか確立が高い方を選ぶ。
ポジションや打順をコロコロ変えずに固定した。
適材適所で役割を明確化し、自身の「武器」を生かせる仕事に集中できる状態を作ったことも、力を発揮させる要因となった。
「普通にやったらええんよ」
勝つためにできること、やるべきことを堅実ににゃる。
自信を持って「普通」を貫き、「勝てるチーム」を実現させた。
配信<button class="sc-dVSYCO framhU" data-cl-params="_cl_vmodule:cmtmod;_cl_link:count;" data-cl_cl_index="26"></button>
<button class="ArticleHeaderComment__CommentCountWrapper-gcpNPL dPmoyZ" data-cl-params="_cl_vmodule:cmtmod;_cl_link:profimg;" data-cl_cl_index="200">ここぞの場面で講じる采配がことごとく的中している岡田監督。このベテラン指揮官に率いられた阪神の勢いは増している。(C)KentaHARADA/CoCoKARAnext</button>
阪神の勢いが真夏に入ってより凄みを増している。
8月13日に京セラドーム大阪で行われたヤクルト戦に5-3で勝利。これで8月3日の中日戦から続く連勝を「10」とし、貯金を24に増やした。
【動画】強い、強すぎる! 「ARE」に向かって止まらない阪神の快進撃を見よ チームの好調さが伺える盤石の内容だった。
2回に1点を先制された阪神だったが、3回にスタメンに抜擢された小野寺暖のタイムリーヒットで逆転。5回に1点差に詰め寄られたが、7回に坂本誠志郎のタイムリーで突き放す。最後は岩貞裕太、岩崎優の投手リレーで危なげなく勝ち切った。
試合後に『サンテレビ』のフラッシュインタビューで岡田彰布監督はいつものように「まぁ試合に出たもんが本当にいい仕事をしてる」と冷静に語った。
しかし、夏の全国高校野球選手権によって敵地での連戦が続く、いわゆる「死のロード」での快進撃に虎党は熱狂するばかりだ。
X(旧ツイッター)では阪神に関連するワードが次々にトレンド入り。
「ホンマに強すぎる」「勝ちが止まらん」「強すぎて麻痺ってきた」「強すぎて怖い。エグすぎ」「AREしようや」といったコメントが相次ぎ、注目度の高さを感じさせた。
また、阪神ファンではないと思われるアカウントからも反響が寄せられ、「阪神つよすぎる」「ここにきて10連勝か」「ちょっと圧倒的だ」と、2位広島と8ゲーム差をつける強さを称えた。
阪神が10連勝を飾るのは2007年以来、16年ぶり。その時もチームを指揮していたのは岡田監督だ。SNSで「大監督」と崇められる勝負師に率いられた猛虎軍団の勢いは、どこまで続くだろうか。 [文/構成:ココカラネクスト編集部]
[ 2023年9月8日 14:45 ] スポニチアネックス
阪神の近本が3日のヤクルト戦で右脇腹に死球を受けた。江川氏は「シュート(回転が)かかっていた」ことを指摘し、「あれだけいい打者に対し、左投手は(インコースに)シュートをかけないと打たれる」と続けた。
打者目線ではスライダーとシュートは同じポイントから曲がるため、待たないといけない。「(打者は)よけるのが難しい。(投手は)ギリギリ投げないと阪神は抑えられない」と、両者の立場になったときの難しさを強調した。
阪神・岡田監督は野手出身、ヤクルト・高津監督は投手出身であることが両者の意見が対立する要因にもなっている。
江川氏は「ギリギリの勝負の中で起こっている」と近本の早期回復を願った。
ただ、江川氏は「狙って当ててくる投手は目線で打者には分かる」とし、怒りを見せなかった近本の反応からも今回の場合は故意ではなかったと主張した。
「東京ヤクルトスワローズ1-7阪神タイガース」(3日、神宮球場)
山本が投じた2球目が、近本の右脇腹付近を直撃。近本はその場に倒れ込み、動くことができず一時騒然となった。スタンドからは怒号が飛び交い、山本はすぐさま帽子をとって謝罪の意を示した。
チームはこれで阪神戦7連敗となった。
配信 デイリースポーツ
日本のプロ野球では、2位以下の全チームで自力優勝の可能性が消滅したときに、首位チームに初めてマジックが点灯します。
自力優勝が消滅とは、そのチームが残りの全試合を勝ったとしても優勝できないことを意味しています。
プロ野球の優勝マジックは以下の方法で算出します。
優勝マジックの計算方法=(マジック対象チームの勝利数+残試合数)-(マジック点灯チームの勝利数)+1
基本的にマジック対象チームは2位チームですが、残りの試合数によって3位や4位のチームが対象チームとなることもあります。
1位チーム(マジック点灯チーム):勝利数85/残り試合数8
2位チーム(マジック対象チーム):勝利数80/残り試合数9
優勝マジックの計算方法:(80+9)-85+1=5
よって、1位チームのマジックは5となります。仮に2位チームが全勝しても89勝、1位チームが5勝すれば90勝なので、首位をキープして優勝できます。
マジックの仕組みについてもう少しくわしく説明します。「自力優勝」に注目すると、わかりやすくなりますよ。
優勝マジックは、首位チーム以外の5チームすべてで自力優勝が消滅したときに点灯します。したがって2チーム同時にマジックが点灯することはありません。
実はマジックは必ずしも1位のチームに点灯するものではありません。野球の順位はその時の勝率が高い順に決まります。
したがって、1位のチームの方が勝率では上でも、2位の方が残りの試合数が多いとき、2位のチームにマジックが点灯するのです。
たとえば、以下のようなケースです。
1位チーム(残り試合3)
2位チーム(残り試合6)
両チームのゲーム差は1
この状況で直接対決を残していなければ、仮にお互いが全勝した場合、2位チームが逆転優勝できます。
このようにシーズン終盤では、2位のチームに優勝マジックがつくケースがあることを覚えておくと良いでしょう。
マジックが点灯したら、必ず優勝できるとは限りません。自力優勝の可能性があるチームが他に出てきたら、マジックは消滅します。
たとえば、マジック点灯チームの敗戦が続き、マジック対象チームが連勝すれば、
当然ゲーム差が小さくなって自力優勝の可能性が出てくるので、マジックは消滅してしまうのです。
消滅したマジックが復活することもあれば、他のチームに点灯することもあります。
マジックがどのように減るかは、マジック点灯チームだけでなくマジック対象チームの勝敗が関係してきます。以下のような条件を設定してみていきましょう。
巨人のマジックが1つだけ減るのは、次のような場合です。
マジックが2つ減るのは、次のような場合です。
仮に3連戦で巨人が3連勝すれば、マジックは一気に(3日間で)6つも減ることになります。
マジック点灯チームと対象チームが直接対決する場合、マジックが一気に減る可能性があるので、非常に緊迫したゲームになります。
日本のプロ野球史最速でマジック点灯したのは、1965年の7月6日です。
南海ホークス(現ソフトバンクホークス)に「マジック62」が点灯しました。子どもの夏休みを前に、すでにマジックが点灯していたのです。
そして9月26日、南海は19 試合を残して優勝を決めました。対戦成績は88勝49敗3分、2位に12ゲーム差をつけての優勝でした。
ちなみに、その次に早かったのが2003年7月8日の阪神タイガースです。
マジックが点灯すると、優勝争いは俄然おもしろくなります。好きなチームにマジックが点灯すれば、応援するモチベーションもぐっと上がりますね。
最初はマジックの仕組みが分からなくても、点灯チームと対象チームの勝敗に注意していれば、おのずとわかってくるでしょう。 プロ野球の終盤線はぜひマジックに注目して、観戦を楽しんでくださいね。