「40歳から凡人として生きるための文学入門」
開き直って、地に足がついた読み方
「対決」自分なら、どう戦うのか・・・
「房思琪の初恋の楽園」話題の本
「40歳から凡人として生きるための文学入門」
開き直って、地に足がついた読み方
「対決」自分なら、どう戦うのか・・・
「房思琪の初恋の楽園」話題の本
▼「誰も取り残さない社会」は全ての人がつながる「共生社会」である。
子どもや高齢者、障害者も活躍できる場である。
子ども食堂
こども食堂とは、無料または安価で栄養のある食事がとれる場所のことです。家族揃ってご飯を食べることが難しい子どもたちに対し、共食の機会などを提供しています。
こども食堂には
こども食堂とは、地域住民や自治体が主体となり、無料または低価格帯で子どもたちに食事を提供するコミュニティの場を指しています。
また、単に「子どもたちの食事提供の場」としてだけではなく、帰りが遅い会社員、家事をする時間のない家族などが集まって食事をとることも可能です。
このように、「人が多く集まる場所」ができたことで、地域住民のコミュニケーションの場としても機能しているのです。
こども食堂は、民間発の自主的、自発的な取り組みから始まりました。
近年、地域住民等による民間発の取組として無料または安価で栄養のある食事や温かな団らんを提供する子供食堂等が広まっており、家庭における共食が難しい子供たちに対し、共食の機会を提供する取組が増えています。
子供食堂の活動は様々ですが、親子で参加する場合も含め、
(a)子供にとっての貴重な共食の機会の確保
(b)地域コミュニティの中での子供の居場所を提供
等の積極的な意義が認められます。
地方自治体は、地域住民、関係機関、関係団体・NPO等と適切に連携して、地域における食育を推進する役割を担っています。
地方自治体が、子供食堂を、そうした連携先の一つとして位置づけ、連携を深める中で、子供食堂の取組に地域ぐるみで協力し、子供食堂の活動遂行に役立つような環境整備を行うことが期待されます。
なお、国や地方自治体は、子供食堂の多くが民間のNPOや個人の善意に基づき、発足、運営されていることに十分留意し、子供食堂の自主的・自発的な取組を最大限尊重し、個人やNPOの善意で行われている子供食堂の活動の趣旨を理解することが必要です。
農林水産省においては、子供食堂と連携した地域における食育の推進について、関係府省(注)とともに、以下のような方針により、関係施策を推進します。
(1)地方自治体や地域における食育関係者が、食育推進の観点から、子供食堂の活動の意義を理解し、適切な認識を有することができるよう、全国レベルで情報発信を行うとともに、必要な支援を進めていきます。
また、地方自治体や地域における食育関係者向けに、地域と子供食堂が適切に連携している好事例を収集、整理し、情報提供します。あわせて、子供食堂の抱える様々な課題の解決に役立つような課題ごとの参考情報の提供に積極的に努めます。
食育活動の全国展開をとりまとめている農林水産省が中心となって、関係府省と協力しながら、上記のような情報発信、情報提供に取り組むことといたします。
(2)民間のNPOや個人の善意に基づき、発足、運営されている子供食堂の取組を後押しするためには、政府または地方自治体が実施する表彰制度を活用することが有効です。このため、国の既存の表彰制度を活用するとともに、地方自治体が当該自治体の実施する表彰制度を活用することを奨励します。
▼恩を感じる生き方は、自分と他者とのつながりを、より深く捉える生き方ともいえる。
そこから謙虚さも
思いやりも生まれる。
▼恩を知り、恩に報いようとする人の心は、距離も時間を超えて広がっていく。
▼知恩・報恩の一念に立つ時、人間は最も気高く、最も強くなれる。
「知恩」とは、文字どおり、恩を知ること、つまり、自分が多くの人に
支えられていること、助けられていることに気づくことをいいます。
「報恩」とは、その恩に報いること、すなわち「恩返し」を意味します。
昨年、4月に亡くなった友人には大変、お世話になった。
家人が昨日、友人の霊前に美味しいイチゴを送ってくれた。
家人が当方の友人には、毎年1月に霞ケ浦のイチゴを送っている。
初めに送った時、友人が「こんなに美味しいイチゴは初めて、お金を出すからもうひと箱送ってください」と要請されたのだ。あれから8年が経過した。
「主人が亡くなる前に、会いたがってました」と友人の奥さんが昨日、電話で当方に告げるのだ。
知らせてくれたら・・・と悔やまれるばかりだ。
65歳、若すぎる死であった。
思えば多くの友人たちが若死にしている。
一人酒を飲みながら、52歳で亡くなった親友の奈良久を思い浮べる。
「強盗が人を死亡させた場合に問われる強盗致死や強盗殺人罪については、死刑または無期懲役。
応募者に運転免許証など身分証明書を送らせ、住所などをは多く。
家族や職場に危害が加えられる可能性を心配。
逃げた実行役が「ひどい目に遭った」という話を聞かされたケースもあり、「報復を恐れて、やめられなかった」と自供する者も。
総数 | 軍 | 民間 | 備考 | |
韓国 | 約240万人 | 98万7000人 | 143万人 | |
朝鮮 | 約292万人 | 92万6000人 | 200万人 | |
南北合計 | 約532万人 (内死者350万人) |
当時の人口3500万人のうち6人に1人が犠牲になった | ||
国連軍 | 約15万人 | 内14万人が米軍 | ||
中国 | 約90万人 | 18万3000人 | 72万人 |
この記事は、2019年2月3日に放送した「NHKスペシャル 朝鮮戦争 秘録 ~知られざる権力者の攻防~」をもとに制作し、2019年3月1日に公開したものを再公開しました。
69年前に勃発し、いまだ終わらない戦争がある。アメリカを主体とする国連軍と、北朝鮮軍とそれを支援する中国軍が3年にわたり激しい攻防を繰り広げた朝鮮戦争だ。今も休戦状態にある戦争は、なぜ始まったのか。今回、NHKは4,000点もの外交資料を入手。見えてきたのは、朝鮮半島の武力統一を目論む北朝鮮と、その背後にいたソビエトや中国のしたたかな思惑だった。300万人以上が犠牲になり、北東アジアに不信と恐怖を植え付けた戦争の真相に迫る。
北京郊外にある高級住宅地に、朝鮮戦争を主導した権力者たちの貴重な資料が保管されている。中国の著名な現代史研究家である華東師範大学の沈志華教授が、中国やロシアの政府機関から30年以上にわたって集めてきた朝鮮戦争に関する外交資料だ。
そこには、朝鮮戦争の開戦前から3人の指導者たちが密かに交わしていた4,000点もの電報や直筆の書簡がある。その3人とは、当時30代だった北朝鮮の指導者キム・イルソン、中国共産党の毛沢東、そして共産主義陣営の絶対的指導者だったソビエトのヨシフ・スターリン書記長だ。
沈教授はこれらの資料を分析し、朝鮮戦争の全貌に迫ろうとしている。
「そもそもなぜ戦争が始まったのか。いまだ多くの謎が残され、学界でもさまざまな議論があります。これらの秘録を公開し、戦争の真実に迫りたいと思っています。真実を知らなければ、現在も未来も見えてこないからです。」(沈教授)
朝鮮戦争はなぜ、どのように始まったのか?
当時世界では、アメリカが率いる資本主義陣営と、ソビエトが率いる共産主義陣営との間で冷戦が深刻化していた。ヨーロッパは「鉄のカーテン」で東西に分断。一方、アジアの対立の最前線は、日本の植民地支配から解放されたばかりの朝鮮半島だった。
朝鮮半島の南には、アメリカの支援を受けたイ・スンマンを大統領とする大韓民国が1948年8月に建国。北には、ソビエトを後ろ盾とするキム・イルソン率いる朝鮮民主主義人民共和国が1948年9月に建国された。
アメリカとソビエトという二大陣営が冷戦下で初めて戦火を交えたのが朝鮮戦争だった。ところが、今回入手した資料からは、より複雑な構図が見えてきた。共産主義陣営の権力者たちの間で、熾烈なせめぎ合いが繰り広げられていたのだ。
1949年3月、開戦の前年にスターリンの元をキム・イルソンが訪問。2人の会談記録からは、韓国への侵攻をはやるキム・イルソンに対し、スターリンは慎重な姿勢を見せていたことが分かる。
「南朝鮮には今もアメリカ軍がいます。ソビエトの援助が必要です。」(キム・イルソン)
「援助はできる。だが今は、用心する必要がある。」(スターリン)
スターリンは、当時唯一の核保有国だったアメリカとの全面戦争を恐れていた。しかし、諦めきれないキム・イルソンは、その後もソビエト側に繰り返し支援を要請。その様子はモスクワに送り続けた電報からも明らかになった。
「もし今、攻撃を行わなければ、私は朝鮮人民の信頼と支持を失うばかりか、祖国統一のチャンスまで逃してしまいます。我が軍は2週間、長くても2か月以内に朝鮮全土を制圧することができます。」(キム・イルソンの電報)
キム・イルソンの要求に応じなかったスターリンだが、会談の1年後に態度が豹変する。キム・イルソンに送った電報には、1年前とは打って変わり戦争に前のめりになるスターリンの姿があった。
「このような大事業には、大がかりな準備が必要だ。助ける用意はできている。」(スターリンの電報)
こうして、ソビエトは北朝鮮に大量の兵器を密かに提供し始める。なぜスターリンは北朝鮮への軍事支援に踏み切ったのか?
その謎を読み解く鍵は、ソビエトが1949年8月に行った原爆実験にある。このとき、ソビエトは悲願の原子爆弾の開発に成功し、アメリカに次ぐ核保有国となっていた。スターリンは核を保有したことで、アメリカに対抗する自信を深めていた。
ソビエトが北朝鮮に軍事支援を行ったもうひとつの要因には中国の存在がある。スターリンは中国に対して策略を巡らしていた。
中国東北部にある東洋屈指の軍港、旅順。ソビエトは第二次世界大戦直後にこの港を日本に代わって支配し、太平洋につながる戦略上の要衝(ようしょう)としていた。
毛沢東は中国の建国後、旅順港の返還をソビエトに要求。ソビエトに示した軍事協定の草案に、「ソビエト軍は、旅順区域から早急に撤退する」と記した。
<スターリンがバツ印を書き込んだとされる軍事協定の草案>
しかし、スターリンはこの案に強く抵抗し、旅順を手放さないための口実を考えた。そして、最終的にまとまった中ソの軍事協定には次の条項が加えられるのである。
「両国が戦争に巻き込まれそうになった場合、ソビエトは引き続き、旅順港を使用できる。」
沈教授は、中ソ軍事協定が、朝鮮半島に緊張をもたらした一因と考えている。
「この協定によって、極東地域で緊張が高まればソビエトは引き続き旅順を支配できるようになりました。スターリンは北朝鮮に戦争をけしかけることで、自らの野望を実現しようとしたのです。」(沈教授)
1950年6月25日、突如として10万の北朝鮮軍が38度線を突破し、総攻撃をしかける。200台を超えるソビエト製の戦車や大砲で装備された北朝鮮軍は韓国軍を次々と撃破。3日で首都ソウルを制圧し、さらに南へと侵攻を続けた。
当時、韓国軍の兵士として38度線で監視にあたっていたキム・ウンジュン氏は、北朝鮮軍の突然の襲来に韓国軍は総崩れになったと証言する。
「初めて本物の戦車を見てびっくりしました。韓国軍には戦車なんてなかったですから。穴を掘って身を隠すしかありませんでした。反撃しようにも、私は小さな銃ひとつしか持っていなかったんです。」(キムさん)
この頃、スターリンはピョンヤンに電報を送り、進撃を促していた。
「攻撃を続けよ。南朝鮮が早く解放されれば、外国は介入できなくなる。」(スターリンの電報)
キム・イルソンが率いる北朝鮮軍は、開戦から2か月で南部のプサン近くまで侵攻。
誰もが勝利を確信していたと、当時、北朝鮮軍の兵士として最前線で戦っていたヤン・ウォンジン氏は振り返る。
「プサンの攻略まであと一歩のところに来ていました。ここまで進軍したのだから、まもなく、戦争が終わると信じていました。」(ヤンさん)
こうした朝鮮半島の状況に危機感を強めたのがアメリカだ。トルーマン大統領はアメリカを中心に16か国からなる国連軍を結成し、共産主義陣営との戦争に踏み切った。
総司令官に抜擢されたのは、太平洋戦争で日本を破り、占領政策を指揮していたGHQのマッカーサー元帥。マッカーサーは形勢を逆転させるため、ある大胆な奇襲作戦を立案した。
ソウルから西におよそ40km、干満の差が激しく上陸が極めて難しいとされたインチョン。日本に駐留していた部隊を中心に7万人をここに上陸させ、北朝鮮軍を南北から挟み撃ちにするというものだった。
1950年9月15日、国連軍は上陸作戦を決行。2週間足らずでソウルを奪還し、38度線を超えて攻め込んだ。
実は、この作戦に日本人が深く関わっていたことが明らかになった。
マッカーサーが指揮した上陸作戦の内部資料には、朝鮮半島の地形を熟知する日本人が運航するLST(戦車揚陸艦)が、作戦に大きく貢献したと記されている。海軍の記録を調べると、上陸作戦で使用されたLSTの実に6割が日本人によって運航され、約2,000人が乗船していたことが分かった。
GHQはアメリカ海軍を通じて日本の商船や船員を管理していた。インチョン上陸作戦に参加した元海兵隊員のロバート・ワイソン氏は、LSTの運航を担った日本人の存在なしには、作戦の成功は難しかったという。
「日本人は朝鮮半島には何度も行っているから、海岸の地形について非常に詳しかったです。彼らは敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです。」(ワイソンさん)
アメリカの奇襲作戦で一気に形勢を逆転された北朝鮮軍は、中国との国境付近まで追い詰められていく。このとき、戦争は新たな局面を迎えた。
1950年10月、中朝国境を流れる鴨緑江におびただしい数の中国兵が集結していた。
毛沢東は正規軍に加え、中国各地から人員を集めて大部隊を仕立てようとしていたのだ。当時、鴨緑江に向かった元中国軍の秦さんは、役場の掲示板にあった「食事付の仕事」の募集を見て参加したという。
「そもそもどこに行くのかも、戦争に行くことも、まったく聞いていなかったんだ。急に兵士にされたけど、軍事訓練さえなかったよ。」(秦さん)
国連軍が中朝国境まであと一歩に迫ったとき、突如、越境してきた26万の中国軍。その数に国連軍は圧倒された。
元韓国軍の朴さんが当時の様子を語る。
「鳥の群れのような大軍が押し寄せて来たのです。最初に向かってくるのが、ラッパを吹いて攻撃開始の合図をする部隊。次に工具を使って、鉄条網を破壊する部隊が続きます。さらに酒を飲んで勢い付いた部隊が手榴弾を投げてきました。手榴弾がなくなると、そのまま突っ込んできました。」
戦況を大きく変えた中国の参戦。資料を紐解くと、そこに至る過程で権力者たちが腹を探り合い、駆け引きを繰り広げていたことが分かってきた。
国連軍の反撃に遭ったキム・イルソンは当初、ソビエトに援軍を求めた。しかし、スターリンは矢面に立つことを避けていたことが、残された手紙から分かる。
「勝利には少しばかりの挫折や敗北は伴うものだ。北朝鮮は、アジアにおける帝国主義に対抗する解放運動の旗手だ。キム・イルソン同士よ、忘れないで欲しい。あなたは孤立していない。」(スターリンの手紙)
苦境に陥ったキム・イルソンは、毛沢東に援軍を求めた。
「敬愛する毛沢東同志! 我々の力だけでは、この危機を乗り越えることは困難です。中国人民解放軍を出動させ、敵と戦って下さい。」(キムイルソンの書簡)
しかし、毛沢東はキム・イルソンを相手にせず、参戦は難しいとスターリンに弁明していた。
「慎重に検討した結果、軍事行動は厳しい結果を招くという結論に達しました。我が軍の装備は貧弱で、アメリカ軍に勝つ自信はありません。さらに中国が参戦すれば、アメリカとの全面戦争に突入する危険があります。」(毛沢東の電報)
ところが、スターリンは毛沢東をとがめ、参戦をけしかけた。いずれ戦火は中国に及び、日本の軍国主義が復活すると揺さぶりをかけたのである。
「戦争に巻き込まれることを恐れるべきではない。戦争が不可避なら、むしろ今起こせばいいのだ。さもなければ、数年後には、日本がアメリカの同盟国として再び軍事力を持ち、中国大陸への足場を築くだろう。」(スターリンの電報)
スターリンとのやりとりのあと、毛沢東は決断を下して現地の部隊にこう命じた。
「明日の夜、鴨緑江を渡れ!」(毛沢東の指令)
こうして中国軍が朝鮮戦争に本格参戦したのだ。
北朝鮮と中国を焚きつけ、戦争を長期化させたスターリン。その狙いはどこにあったのか? この頃、スターリンはモスクワに東ヨーロッパの指導者を集め、こう呼びかけている。
「無敵と言われていたアメリカは北朝鮮にさえ勝てない。これでアメリカは今後2~3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ。」(スターリン)
スターリンはアメリカをアジアに釘付けにし、ヨーロッパでの覇権争いを有利に進めようとしていたのだ。そして思惑通り、朝鮮戦争は中国軍の人海戦術によって泥沼化していく。
戦争をさらに凄惨にしたのが、アメリカによる無差別ともいえる空爆だった。
アメリカ空軍のパイロットだったロバート・ヴィージー氏は、72回の出撃で数百発の爆弾を投下。爆撃で民間人が巻き込まれることに対して、当時の思いをこう語る。
「(民間人の犠牲は)常に頭の片隅にありました。しかし、これが正しいことだと信じていたのです。我々は韓国、そして世界の民主主義を守っているのだ、と。」(ヴィージーさん)
アメリカや韓国の軍の記録から明らかになった空爆の全体像。朝鮮半島には太平洋戦争で日本に投下された爆弾の実に4倍、66万9千トンが投下されていたことが分かった。
爆撃作戦に部隊を送り込んだカーチス・ルメイ司令官は、かつて東京大空襲など日本本土への爆撃を指揮した人物だ。共産主義陣営を封じ込めるためには、激しい空爆も正当化されたという。
「我々は3年にわたり、朝鮮半島の全ての都市を焼き尽くし、人口の2割を犠牲にした。それが許されたのだ。」(ルメイ司令の口述記録)
朝鮮半島全土を一気に制圧するとして戦争をしかけたキム・イルソンだが、開戦の1年後には苛烈な空爆で焦土と化した国土と、おびただしい市民の犠牲が眼前にあった。それは、まったく想像もしていなかった現実である。
さらにアメリカは、朝鮮戦争で原子爆弾の使用まで検討していた。
マッカーサーがまとめた原爆投下の計画案では、ウラジオストク、北京、大連など、共産主義陣営の26箇所を原爆投下の目標に挙げていた。
しかし、トルーマン大統領は原爆の使用を思いとどまる。核保有国となったソビエトとの全面戦争を恐れ、最終的にマッカーサーを解任した。
こうして膠着状態に陥った戦況のなか、アメリカの呼びかけで休戦に向けた交渉が始まる。ところが、ここでも共産主義陣営の駆け引きが続いた。
アメリカの空爆と核の脅威にさらされたキム・イルソンは休戦を望んだ。しかし、毛沢東は自らのメンツを重んじて一切譲歩しようとしない。
「キム・イルソン同志よ! 休戦は敗戦につながる一歩だ。我々は、戦争のおかげで鍛えられ、アメリカ帝国主義と戦う貴重な経験を得ているではないか。」(毛沢東の電報)
キム・イルソンはスターリンにも直談判を試みたが、取り合われることはなかった。
「我々は中国の代表団とこの問題を討議し、休戦には応じないという結論に達した。以上だ。」(スターリン)
権力者たちが駆け引きを続けるなか、犠牲者は増えていく。朝鮮戦争を通じてアメリカ軍3万3千人、中国軍は少なくとも11万6千人が戦死。一方、韓国と北朝鮮では合わせて66万人の兵士と、200万人の民間人が命を落とした。
アメリカ軍の作戦に従事していた日本人にも死者が出ている。GHQと外務省との間で交わされた通信記録などの資料から分かった日本人の死者は少なくとも57人。朝鮮戦争への日本人の関わりの全体像はいまなお見えないままだ。
朝鮮戦争の開戦から3年目の1953年3月5日、共産主義陣営を主導してきたスターリンが死去。残された毛沢東は、ようやく戦火を収めることに同意する。
しかし、東西冷戦の下で和平協定が結ばれることはなく、7月27日に調印されたのは暫定的な「休戦協定」に留まった。
<休戦協定に調印するキムイルソン>
南北は38度線で分断されたまま、対立は66年に及んでいる。現在、核兵器の保有を宣言した北朝鮮は、北東アジア情勢の不安定要因となっている。
その路線を敷いたキム・イルソンは、朝鮮戦争を通じてアメリカへの敵意だけでなく、後ろ盾だった中国やソビエトへの不信も募らせた。休戦から5年後には、自ら核開発に乗り出したとされている。その執念は、息子、そして孫へと受け継がれていった。
「キム・イルソン主席とキム・ジョンイル総書記の悲願だった、強力な宝剣を手中におさめた!」(キム・ジョンウンの演説)
一方のアメリカは、冷戦後も日本と韓国の基地を維持し、北朝鮮と対峙してきた。
そして今、70年近く続いてきた対立に動きが出始めている。
2月末に行われた米朝首脳会談では、北朝鮮の非核化と朝鮮戦争の終戦宣言が焦点となった。この戦争終結に向けた動きは、北東アジアに真の平和と安定をもたらすものなのか、それとも、新たな駆け引きの始まりなのだろうか。
それでも誰にも頼らず、夜の街をさまよったり、SNS(交流サイト)上で、その日泊まる場所を探している。
関係をつくるのは難しく、支援につながること自体を選んでもらえない場合が多い。
創設者ルポライターの橘ジュン氏は、30年近く前から、終電が終わっても新宿や渋谷の街に留まっている少女たちを見て「なぜここにいるのか」気になり、声をかけ、彼女たちの思いに耳を傾けてきた。
話を聴くうちに、少女たちは家にも学校にも居場所が無く、トラブルに巻き込まれていても信頼できる相談相手もいないことがわかる。
それを記事にして世の中に発信していたが、目の前にいる少女たちに自分たちが出来ることは何か?と2009年にBONDプロジェクトが始まった。
渋谷を中心とした街頭パトロールやアンケートの実施。必要によってはシェルターでの一時保護。少女たちの「声」を伝えるフリーマガジンVOICESの発行。
メールや電話での相談の受付。そして弁護士や行政機関、医療機関などの専門家へ繋ぐ。活動の中心はSNSを使用した相談になりつつあり、LINE相談を週5回行っている。
いずれの活動でも本人に直接会って「大丈夫。一緒にどうするか考えよう」が活動の基本。これまでに3,000人以上の少女たちの相談にのってきた。
2006年の頃から「VOICESマガジン」というフリーペーパーを自費出版で発行していて、私はライターで、パートナーでカメラマンのケンと2人で街に出て、気になる子に声をかけて話を聴かせてもらっていました。
渋谷、新宿の街、バスの中や新幹線でも気になった子がいれば、VOICESを見せながら「こういった本を作っている者なんだけど…」と、声をかけてました。深刻な問題を抱えている女の子たちと出会い、だんだんと聴いて伝えるだけではどうにもならない子との出会いも増えて、相談を受けられる体制を作って活動していこうと、「10代20代の生きづらさを抱える女の子のための女性による支援」BONDプロジェクトを2009年に設立しました。
終電が終わってから街に出て、気になる子に声をかけていたので、「帰れないけど、今日はどうするの?」と聞くと、家出している子が多かった。
親から暴力を振るわれていて家に帰りたくないとか、母親の彼氏が家にいるから嫌だとか家出の理由はさまざま。
「夜の街は危険もいっぱいあるから気を付けてね、なにかあれば連絡してね」と、携帯番号を交換しながら、出会いを繰り返していました。
帰れる場所、自分らしくいられる場所、ホッとできる時間…。感覚的な意味合いでの「居場所」を求める少女たち。
行くあてもなくどうしていいかわからずに立ち止まり、一人佇んでいる子、家族や人間関係で悩んでいたり、住む場所がない、仕事がない、お金がない、頼れる大人がいないと口にする子もいました。
ある16歳の女の子の言葉を紹介します。
「家出するほど家が嫌なんだよ。家出したいと思わない環境が羨ましい。そんな家庭に生まれたかった」。
親から邪魔者扱いされたり、「生まなきゃよかった」と、言われたり、自分の分だけ食事が用意されていなかったり、暴力を振るわれたり…。
一見、外見や話し方からでは想像もつかないような壮絶な虐待家庭で育った女の子もいます。
しんどい、逃げたいと思って家出をすれば、世間では非行という行動に捉えられますが、生きるために家出をする子もいるのです。
「シングルマン」という映画のワンシーンに好きな台詞があります。
「ほんの数回だけ他者と真の関係を築けたことがある。それだけが僕の人生に意味を与えてくれた」。
女の子たちとこんなふうに意味のある時間は過ごせないかもしれないけれど、家族でも学校の先生や友だちでもない私たちが、少しでも安心できる存在になれたらいいなって思っています。
2月3日午前1時からCSテレビのざ・シネマで観た。
末期ガンを宣告された、強盗殺人犯の少年ブルー。
彼は診察にあたった医師マイケルを人質に取って脱走し、インディアンに伝わる伝説の聖なる山へ向けて出発した。
最初はいやいや同行していたマイケルも、彼の兄がブルーと同じ歳で、彼が頼まれて生命維持装置を外してやったことを思い出し、いつしかブルーと心を通わせてゆく。
二人はやがて薬を盗んだことから、共犯者として手配されることになり……。
M・チミノが、立場の違う二人が友情を深めながら進めていく旅を描いたロード・ムービー。
殺人を犯した末期ガンのインディアン青年と、彼の逃避行に巻き込まれたエリート医師が、伝説の湖を目指して西部の荒野を旅する姿を、ヒューマンなタッチで描いた一編。
監督は「天国の門」のマイケル・チミノで、「逃亡者」(89)以来6年ぶりに手がけた一作。
製作はチミノと「評決のとき」などのアーノン・ミルチャン、ラリー・スピーゲル、ジュディ・ゴールドステイン、ジョゼフ・S・ヴェッキオ。
脚本は、チミノの原案を基に、本作が本格デビューとなるチャールズ・リーヴィットが執筆。撮影は「ラスト・オブ・モヒカン」のダグ・ミルサム。音楽は「雲の中で散歩」の巨匠モーリス・ジャール。主演は「ラリー・フリント」のウッディ・ハレルソン、「真実の行方」のジョン・セダ。
また、「ホーム・フォー・ザ・ホリデイ」のアン・バンクロフト、「幌馬車」などジョン・フォード映画の常連ハリー・ケーリー・ジュニアなどが特別出演。
ナヴァホ族出身の前科6犯の強盗殺人犯ブルー(ジョン・セダ)は16歳で、末期ガンの患者。
UCLA医療センターの医師マイケル(ウッディ・ハレルソン)は、ガン科部長への昇進も嘱望されるエリート。
運悪く彼は、医療センターに連れて来られたブルーの診療をすることに。
マイケルはブルーを肝臓ガンの末期と診断、院長は国立ガン研究所での実験的な延命治療に回すことに決める。
マイケルは反対できず、研究所まで彼を届ける役目を引き受ける。
ところが護送中ブルーは脱走、マイケルを人質に故郷のアリゾナのナヴァホ族居留地を目指す。その奥地には伝説の山があり、そこの伝説の湖で泳げばあらゆる病が治るという。
マイケルは次第に彼を放っておけない自分に気づいた。彼は少年時代に最愛の兄をガンで失っていたが、実は苦しむ兄に懇願されて生命維持装置の電源を切ったのは彼だった。
それが彼が医師になった動機だったが、いつしか金と出世のためにその初心を彼は忘れていたのだ。アリゾナにたどり着いたとき、乗って来た盗難車のバッテリーがあがり、二人はヒッチハイク。
乗せてくれた中年女性レナータ(アン・バンクロフト)は神秘思想の信奉者で、マイケルを徹底的にばかにし、自分も博士号をもっているという。
逃避行を続けるなか、ブルーの病状は悪化、マイケルは処置をするにも薬もなく、ブルーの拳銃をもって近くの病院の薬局に強盗に入る。その姿が防犯カメラに映り、ブルーとマイケルは警察に追われる身に。
その報道に妻ヴィクトリア(アレクサンドラ・タイディングス)は心を痛める。ナヴァホ居留地の玄関、ユタ州境のモニュメントバレー。
道路は検問で封鎖されているが、二人の乗ったキャデラックは馬の放牧をするナヴァホの青年たちに偽装されて検問を突破する。
だが居留地に住むとブルーの言っていた祈祷師は、不動産詐欺で警察に追われて姿を消している、とその孫娘(タリサ・ソト)に言われる。彼女から聖なる山の場所を聞き、二人は山脈に分けいる。
その二人を警察のヘリコプターが追う。追跡を振り切った二人の前に、祈祷師が現れる。
もはや力尽きようとしているブルーを彼に託し、マイケルは自分が囮になってヘリコプターの尾行を引き寄せる。
聖なる山にたどりついたブルーは、その湖へと走って行く。
湖水に分け入ったとき、彼の姿は静かに、飛び立つように消えて入った。
マイケルは逮捕され、ロサンゼルスに護送される。
手錠姿の彼は晴れやかな顔で、空港に迎えに来たヴィクトリアを抱き締めた。
第49回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門で上映され、パルム・ドールを争った。
並び予想 9-3-5 7-1-6 8-2-4
レース評
戦歴、底力で優る飯野が本命だが、総力戦の阿部から入る手も。復調する地元中井−畑段や、渡口に乗る網谷にも出番。
1番人気 3-9(5・1倍)
2番人気 7-1(5・4倍)
3-9の3連単で勝負する。
だが、7-1ラインをどうするか?と迷いも出てきた。
結局、9-3-5 が有利と選択する。
結果的に、3番と7番には力差はなかったのだ。
結果
7-1 540円(2番人気)
7-1-3 1,760円(2番人気)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
× | 1 | 7 | 中井 俊亮 | 10.0 | 捲 | 後方2角捲 | ||
△ | 2 | 1 | 畑段 嵐士 | 1車身1/2 | 10.0 | ク | S | 中井俊巧追 |
◎ | 3 | 3 | 飯野 祐太 | 1車身1/2 | 10.3 | 阿部追伸び | ||
○ | 4 | 9 | 阿部 拓真 | 1/2車身 | 10.5 | 中団捲上も | ||
5 | 8 | 渡口 勝成 | 1/2車輪 | 10.8 | B | 赤板逃捲れ | ||
6 | 4 | 宇根 秀俊 | 1車身1/2 | 10.7 | ライン捲れ | |||
注 | 7 | 2 | 網谷 竜次 | 1/2車身 | 10.9 | 渡口乗牽制 |
GⅢ 奈良競輪 開設72周年記念 春日賞争覇戦
12レース
並び予想 7-5 1-9-4 2-8 6-3
レース評
無双状態の脇本にマークも信頼の古性。今一番熱い近畿連係を、新田、平原がどう切り崩すか。
好調松井を利す和田も圏内。
<中2日で治療をメインにやってきたけどまだ腰に痛みが残っている>―脇本選手のインタビューを軽視する。
1-9=3568の3連単で勝負。
インタビューをまともに受け止めて、裏の9-1も押させるべきだったーと悔いる。
1番人気 1-9(1・8倍)
結果
9-1 670円(2番人気)
9-1-6 1万3,950円(28番人気)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
○ | 1 | 9 | 古性 優作 | 9.6 | 差 | 脇本を差す | ||
◎ | 2 | 1 | 脇本 雄太 | 1/2車身 | 9.8 | 逃 | B | 鐘前カマシ |
3 | 6 | 松井 宏佑 | 2車身 | 9.7 | 叩れ好位嵌 | |||
注 | 4 | 3 | 和田 健太郎 | 3/4車身 | 9.7 | 松井追捌き | ||
× | 5 | 7 | 新田 祐大 | 3/4車身 | 9.5 | 飛び付けず | ||
▲ | 6 | 5 | 佐藤 慎太郎 | 3/4車身 | 9.5 | 新田共倒れ | ||
△ | 7 | 2 | 平原 康多 | 1車身 | 9.5 | 後方置かれ | ||
8 | 8 | 諸橋 愛 | 1/4車輪 | 9.4 | 平原共倒れ | |||
9 | 4 | 山田 久徳 | 大差 | 10.8 | 本線も離れ |
脇本は2月2日の初日の特選に1番車で出走。
残り2周過ぎにかまして先手を奪うと別線を圧倒。
ただ、ゴール前で番手の古性優作(31)=大阪・100期=にかわされて2着に終わった。
昨年11月25日のG1「競輪祭」(小倉)の二次予選で5着に敗れて以降、小倉、KEIRINグランプリと1着を並べ、年明けの和歌山、豊橋のG3をいずれも4連勝の完全優勝で連勝を11まで伸ばしていたが、2023年初黒星で連勝はストップした。
赤板前から新田祐大と松井宏佑が踏み合い、松井が出切るが、脇本雄太もすかさずに踏み込み、スピードの違いで古性優作を従えて鐘3半では叩き切る。
山田久徳は離れ、松井が3番手に嵌る。脇本のペースは緩まず、4角を回って古性とのマッチレース。ゴール前では古性が捉えて1着入線。
しっかりと差し切った古性は「このバンクは立ち遅れると厳しいけど、脇本さんがここしかないってタイミングで仕掛けてくれた。本当に強かった。二人で出切ったのは確認できた。脇本さんが腰の痛い中、行ってくれた。自分は豊橋の反省を活かして攻められた。脚は悪くないし、修正点もないですね」。
3着の松井は「斬った後は突っ張り切るつもりで踏んでいたけど出られてしまった。3番手に入る事が出来たけど、一杯でした。その後は追い掛けるのに必死。バンクは重かったし、先行のメリットを活かせなかった。疲れがあって、腰に痛みもあるが、ケアをして二予以降に備えます」。
2月2日午前7時からCSテレビのチャンネルネコでみる。
『見合い恋愛』は、1969年8月18日から11月10日まで日本テレビ系列で毎週月曜日21:00 - 21:56(JST)に放送されていたテレビドラマ。
藤間紫と若原雅夫が演じる仲人好きの夫婦とその家族を中心に、お見合いや恋愛のエピソードを絡めたホームドラマ。
70年代に人気を博す石立ドラマのルーツのような作品。
各話の豪華なゲストや、当時の人気女優たち、山本陽子、由美かおる、梶芽衣子の共演も見所。
FⅠ 豊橋競輪 ギフチョウカップ CTC杯
12レース
並び予想 2(単騎) 1-4 3-6 5(単騎) 7(単騎)
レース評
買いやすさ重視で宿口−横山から推したが、単騎の3人もみんな元気で一撃可能。椎木尾に託す東口も差はなく大激戦だ。
5-7で連携すると予想した。
7-1 7-4 7-3の3連単で勝負する。
10レースか11レース後に来る我孫子の勝負師が、12レースは4-1か4-7だなと言うのだ。
そこで、2車単で、4-1と4-7を押さえた。
最終的に、5番と連携すると思い込んだ7番の山崎 芳仁選手は、5番を追走しない。
そして、3着となる。
だが、2着の6番横山 尚則選手が失格となり、4-7の車券をゲットすrことになる。
1番人気(9.7)
4-7 1,720円(7)
4-7-3 4,480円(7)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
△ | 1 | 4 | 東口 善朋 | 11.7 | 差 | 切替え鋭く | ||
× | 2 | 7 | 山崎 芳仁 | 3/4車輪 | 11.3 | 捲 | 最後方捲上 | |
◎ | 3 | 3 | 宿口 陽一 | 1/8車輪 | 11.9 | B | 先行末甘く | |
注 | 4 | 2 | 松坂 洋平 | 1車身 | 11.6 | 単騎で不発 | ||
▲ | 5 | 5 | 伊藤 信 | 7車身 | 12.7 | 捲れず浮く | ||
落 | 1 | 椎木尾 拓哉 | S | HSで落車 | ||||
○ | 失 | 6 | 横山 尚則 | 番手有利も |
FⅠ 松戸競輪 ジャパンカップ×HPCJC
6レース 7-2-1 3,350円(12)番人気
7レース 1-6-2 1万1,640円(33番人気)
8レース ?
並び予想 2-7 5-3 1-6-4
レース評
パワーで原口−徳永の九州コンビを推すが激戦。川越−水書がすんなり中団なら捲るだろうし、林が奮起すれば日野との一戦も
1番人気 2-7(6.7倍)
出目作戦で、本命2-7の下がり目の2-6で勝負する。
しかも、2-6は7レース1-6の上り目。
さらに、6レースの7-2の下がり目の6-2目なので2-6 6-2の2車単を買う。
2-6 1,450円(7番人気)
2-6-4 4,860円(14番人気)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
× | 1 | 2 | 川越 勇星 | 9.8 | 捲 | 捲りの上捲 | ||
▲ | 2 | 6 | 日野 博幸 | 3/4車身 | 10.0 | 捲 | 番手捲るも | |
3 | 4 | 桶谷 明誉 | 1/2車身 | 10.0 | 日野に続く | |||
△ | 4 | 7 | 水書 義弘 | 1/2車輪 | 9.9 | 1着マーク | ||
◎ | 5 | 5 | 原口 昌平 | 3/4車輪 | 9.6 | 後手厳しく | ||
○ | 6 | 3 | 徳永 哲人 | 3/4車身 | 9.6 | 後方のまま | ||
注 | 7 | 1 | 林 昌幸 | 2車身 | 10.4 | SB | 赤板全開で |
10レース
並び予想 2-4 1-5 7-3 6(単騎)
レース評
渡辺も中川も超一流のスピードタイプ。ドカンと仕掛け「二人の世界」に持ち込みたい。地元の根田もデキ良く見せ場を作る。
1番人気 2-4(5・1倍)
9レースが4-3-1 3,510円(11番人気)なので、下がり目の4-2で勝負する。
だが、2番の渡邉 一成選手は微差の3着になる。
出目に拘り過ぎた。
結果
4-3 2,090円(10番人気)
4-3-2 4,020円(11番人気)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
◎ | 1 | 4 | 中川 誠一郎 | 10.2 | 差 | 捲乗り抜出 | ||
△ | 2 | 3 | 神山 拓弥 | 3/4車身 | 10.1 | 差 | 切替え中割 | |
○ | 3 | 2 | 渡邉 一成 | 微差 | 10.4 | SB | 捲切り失速 | |
注 | 4 | 5 | 白戸 淳太郎 | 1/8車輪 | 9.9 | 前不発中踏 | ||
▲ | 5 | 7 | 伊藤 慶太郎 | 1/4車輪 | 10.1 | 渡辺捲られ | ||
× | 6 | 1 | 根田 空史 | 1/2車身 | 10.1 | 捲り進まず |
11レース
並び予想 6-2-5 7-1 3-4
レース評
同県の大先輩を連れる木村は逃げの一手。吉沢がハコから抜け出し1着クリアだ。対抗はスピード光る佐々木で逆転も十分ある
1番人気 2-5(2・9倍)
1番人気では勝負しない信条なので、2-3で勝負する。
だが、並びの2-5で決まる。3番は4コーナで5番に並びかけるも、直線抜けずに3着まで、仕方ないと諦める。
結果
2-5 290円(1番人気)
2-5-3 860円(2番人気)
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
◎ | 1 | 2 | 吉澤 純平 | 9.8 | 捲 | S | 併せ番手捲 | |
× | 2 | 5 | 安部 貴之 | 1車身 | 9.8 | ク | 外張り続く | |
○ | 3 | 3 | 佐々木 豪 | 1/2車輪 | 9.9 | 捲り併され | ||
△ | 4 | 4 | 山下 一輝 | 1/2車輪 | 9.8 | 目標行けず | ||
注 | 5 | 7 | 森山 智徳 | 2車身 | 9.8 | 突っ張られ | ||
▲ | 6 | 1 | 松尾 信太郎 | 1/2車身 | 9.7 | 森山と一緒 | ||
7 | 6 | 木村 皆斗 | 4車身 | 10.8 | B | 貢献の逃げ |
▼若さとは生命力から湧くものだ。
▼言葉は実に大事業である―トルストイ
▼現代人の多くが自覚がない睡眠不足になっている。
▼感謝の心を文に書くと幸福感が上昇する。
多くの人に支えられて今の自分がある。
恩を忘れずに。
▼「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。
「センス・オブ・ワンダー」
「今だけ、金だけ、自分だけ」という「三だけ主義」と鈴木宣弘東大教授が喝破した。
今だけよければいい、金だけが大事だ、自分だけ良ければいい、というものである。
東京大学大学院教授、専門は農業経済学。
東大農学部卒業後、農林水産省に入省)
生まれは三重県の半農半漁の家の一人息子。
田植え、稲刈り、海苔摘み、アコヤ貝の掃除、うなぎのシラス獲りなどを手伝い育つ。
安全な食料を生産し、流通し、消費する人達が支え合い、子や孫の健康で豊かな未来を守りたい。