幸運もチャンスも、あなたのそばに常にあるはず。
でも、受けとめる力がなければ、あなたの脇をすり抜けていく。
友人や知人、あるいは世間の人との出会いと人間関係の濃淡は、「受けとめる力」が基本となるだろう。
幸運もチャンスも、あなたのそばに常にあるはず。
でも、受けとめる力がなければ、あなたの脇をすり抜けていく。
友人や知人、あるいは世間の人との出会いと人間関係の濃淡は、「受けとめる力」が基本となるだろう。
つまり、日本人の原型を日蓮が構築している―その意味で人生の師匠である。
その根底に流れる理念・哲学は以下に凝縮される。
1) 心が大切である。
2) 報恩感謝
3) 生活と仕事
4) 社会のあり方
5) 女性の立場
6) 生と死の問題
7) 世界平和と安穏
8) 人間の可能性
9) 人間関係の問題
10)相互依存
11)智慧、理性、創造性
13生命の尊厳と人間主義
そもそも、何のための政治であるのか?
政治家の役割は、国民の命と生活を守ることに他ならない。
そのためには、基本的には正義の人であることだ。
自民党議員による裏が金問題などは、著しく正義に反するこのなのだ。
そんな自覚もない議員たちには、国会の場から退場してもらいたい。
人生の選択
他でもない自分自身の選択ですから、誰かのせいにしたり、言い訳することもできません。 必然的に自分で責任を取ろうとするようになります。
つまり、選択することは自分の人生を自分の責任で生きることにつながるのです。
また、選んだ後に答え合わせをしないことも重要です。 いちいち正解かどうかを確かめようとすると、なかなか選べなくなってしまいます。
あなたは普段、自分で考えて行動していますか。
人生はさまざまな選択の連続です。中には「進学」「就職」「結婚」など、その後の人生を大きく左右するような大きな選択もあります。
このような選択以外にも、普段、意識していないだけで私たちはつねにさまざまな選択をしています。
私達は日々多くの選択をしながら生きています。例えば、朝起きるときも、
今すぐ起きるのか、あと5分寝るのか
今日は寝たい気分だから二度寝をするのか
といった些細な選択から、
どんな会社に勤めるか、
はたまた独立して個人で仕事をしていくか、
結婚する、しないなど
人生を左右する選択まで様々です。
そして、最悪な選択もある。
その一つが、宗教でもある。
人間は選択と同時に、心が支配されたり、縛られたり、最悪の場合は思考停止や理性を失うこともある。
とことで、冤罪事件はなぜ起きるのか?
冤罪事件は、起こるべきして起こるのである。
人間は根本的に弱いものなのだ、強大な権力構造は、警察の特性である。
密室での取り調べであり、自発偏重の日本の警察はある意味で異次元の恐ろしい世界なのだ。
そして、最大の問題点は、真犯人を逮捕できなかったことだ。
冤罪事件が起きて、責任を取った人間は果たして存在したのだろうか?
ここに、根本的問題が存在しているのである。
冤罪事件イコール完全犯罪とも言及できる。
完全犯罪(英語: Perfect crime)とは、犯行の手口が社会的に露見せずに犯人が捕まらない犯罪を指す。
マスコミがほとんど記事にしないので、あえて記すこことした。
歴史家のアーノルド・J・トインビーが、人類史を巡る探究を続ける中でただりついたのが、「時間の遠近法」に基づく洞察であった。
現代における「世界的出来事」と着目したのが創価学会の存在だった。
トインビーは、1972年に「戦後の創価学会の興隆は、単に創価学会が創立された国(日本)だけの関心事ではない。
創価学会は、すでに世界的出来事である―と指摘した。
トインビーは以前から仏教に関心を抱いていた。
彼は1967年の訪日などを通じて、仏教の豊かな可能性を現代に蘇らせた創価学会に着目していた。
そして、池田大作会長との対談を切望する。
1969年9月、その思いを記したトインビーの書簡が池田会長のもとに届いた。
その後、準備が進められ、1972年5月と1973年5月の2度にわたり、ロンドンにあるトインビーの自宅で、のべ40時間に及び対談が実現した。
「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たし物と思います。人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話をさらに広げていってください」とトインビーは池田会長に期待した。
そして、池田会長はトインビーの勧めで1973年11月科学者のルネ・デュボスと、1975年5月にはローマクラブの創立者のアウレリオ・ペッチェリと会談する。
さらに、1974年にソ連のコスイギン首相と会見した。
1974年12月には中国を訪問し、癌で入院していた周恩来を訪ねて対談し、1975年1月18日アメリカのキッシンジャー国務長官と会談した。
その内容はAP通信を通じて全世界に発信された。
アーノルド・ジョゼフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee CH FBA、1889年4月14日 - 1975年10月22日)は、イギリスの歴史家・歴史哲学者。
多数の著書を持ち、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとキングス・カレッジ・ロンドンの国際史研究教授でもあった。1918年から1950年まで、トインビーは国際問題の第一人者として活躍した。
代表作は『歴史の研究』(A Study of History、1934-1961年、全12巻)。
論文・記事・スピーチ・プレゼンテーションなどを大量に発表し、多くの言語に翻訳された数多くの著書を持つトインビーは、1940年代から1950年代にかけては、広く読まれ議論される学者であった。
しかし、1960年代になると、彼の大作は主流の歴史家の間では人気がなくなった。
トインビーは、事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好んでいるという認識があったためである。
人間は未知の領域には、謙虚であるべきだ。
被爆者問題は、科学や医学の限界を人間に突き付けているのである。
核兵器は悪魔の兵器であるが、その悪魔性や非人道性が真には理解されていない。
救済地域の線引きなど、元来できないはであるが、国・行政・司法という非人間性とも言うべき物差しは、どこまでも責任を回避に終始するのである。
被害者への過小評価がそれを如実に物語っている。
<当事者意識>が完全に欠落しているのだから、人は非人間的にも陥るのである。
被害者が現存しているのに、頭から否定している。
それは、人間の<傲慢>でさえある。
それは公害問題にも共通している。
「疑わしき被爆被害者」を、何時までも切り捨てるのであろうか?
国が定めた地域など、そもそも間違っているのである。
原爆の被害は、全くの<未知の領域>であり、現行の<人間の尺度>などでは到底及ぶはずもないのだ。
政界を大きく揺るがしている自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる事件。
金にまつわる、「安易化・安逸化する人間群」その代表であろうか。
さらに、旧統一教会と自民党の議員たちの怪しい関係も然りである。
歴史にもしもはないのだが、安倍晋三元首相の暗殺事件が発生しなければ、未だに闇の中であっただろう。
また、特殊詐欺こそが、「安易化・安逸化する人間群」を如実に照らし出している。
「額に汗水を垂らして働く」昭和の生真面目な日本人の姿は過去に遠ざかるばかりである。
「額に汗して働く姿は尊い。だがいつまでも額に汗して働くのは知恵のない話である。(中略)人より一時間、よけいに働くことは尊い。努力である。
勤勉である。だが、今までよりも一時間少なく働いて、今まで以上の成果をあげることも、また尊い」(『道をひらく』)—松下幸之助
理不尽な誹謗中傷は、いじめの構造に似ているのではないだろうか?
その背後には何があるのだろうか、と考えてみる。
欲求不満もあるだろうし、自己への不甲斐なさえの憤りもあるかもしれない。
根本的には、他人に対する自分自身の憎悪の捌け口とも思われるのだ。
つまり、生き方が後ろ向きであり、社会に対する貢献や使命への意欲の欠如から、怒りとして感情が増幅されるのであろうか?
そこには、理性をコントロールができない、大人になれない人間としての未熟さがあるのではないだろうか・・・
演歌の淵源に思い至るのであるが、文字どおりに歌は演じるのである。
そこで、歌唱力とは、演じる力に尽きる。
昨日の、取手駅前のカラオケ大会では、最後に8人ほどの東南アジアの人たちのカラオケと応援団の踊りのパフォーマンスで大いに盛り上がった。
日本の女性たちも、そんな東南アジアの人たちのパフォーマンスに乗って興じていた。
これまでにはない、取手駅前のカラオケ大会の盛り上がりとなる。
残念なのは、肝心な動画のカメラが作動しなかったことだ。
充電していたカメラの電池を自宅に置き忘れていた、惜しくも、迂闊な単純ミスだった。
1日、多い日で8回も、変なメールが送信されてくるのだ。
待ち合わせ場所の確認や、返信しないことへの相手の苛立ち!
そんなメールに対して、自分が返信しない当事者なら、送信相手への軽視、侮辱であるだろう。
だが、送信相手は全く未知の存在。
当然、無視する。
だが、女性からの「至急連絡してね!」と再度のメールがきたのだ。
最たる不信メールは、5億円が当たったとの、「おめでとうございます!」のメール。
応募したこともない、メールの空間での「宝くじ」なのだ。
思えば、カナダのある富豪の遺族の娘からの手紙も郵便で送られてきた。
その遺族の遺産の相続先に、何故か当方が選ばれのだ。
そんなことは、到底、ありえるはずがない。
「あなたは、幸運にもママから選ばれたのです!カナダで待ちしています」
その遺産は、何と日本でのレートで20億円!
とてもあり得ない高額だった。
「カナダまで、来てください。お待ちしています」遺族の娘からの2度目の手紙もきたのだ。
当然、当方は無視したのである。
「ママの願いなのに、なぜ?カナダまで、来られないのですか?とても残念です」娘さんからの3度目の手紙だった。
それは、20年前のことだった。
全国ひろしといえでも、こんなカラオケ大会が、そもそも、なぜ、取手駅前の広場で開催されたのか、理解しがたいのだ。
昨年は、1曲200円だったのに、なぜ5倍にも大幅アップなのか!
知人のカラオケ仲間は、この日、3曲歌い3000円も支払うのだ!
当方が、取手駅西口のビルに着いたのは、9時57分であった。
開店は10時である。
5、6人の人がドアの前で待っていた。
足の悪いご婦人は駅ビルのドアが開く時間を待ちきれずに、駅へ向かうのであろうか?、柵に手を添えて重い体を支えなら、やっとの思いであろう、1階から3階までの長い階段を登って行くのである。
皮肉なことに、そのご婦人が階段の3分の1ほどに到達した時点で、駅ビルのドアは10時の開店時間どおりに開いたのだ。
当方は自分も待てない人間、「待てないご婦人にとっては、いい運動になった」とも受けとめる。
実は、フランスのパリには2度行っている。
アメリカを経て、パリへ行き、次はドイツのハンブルクへ、そしてルーベックにも行った。
憧れの大陸横断鉄道へ乗る。
そして、再びフランのパリへ戻る。
あの時期は、恋の傷心もあり、旅のなかで新しい恋を希求していたのだが、結果的にパリでも失恋の苦い思い出が残ったのだった。
若き日に訪れたパリは、刺激に満ちる歴史的な建造物と文化と芸術に満ちた心が躍る古き都であった。
彼女と共に散策したセーヌ川も川沿いの建造物も懐かしく思い出の一コマとなる。