創作 彩音(あやね)との別離  6)

2024年06月28日 21時21分19秒 | 投稿欄

彩音は、不忍池沿いのマンションの6階の部屋に住んでいた。
「あなた、私のマンションに寄ってゆく? パパにも会ってほしいのよ」昭は思いがけずに女から誘われた。
その界隈は、昭にとっては、特別な意味あいを込める地域であった。
その地はまさに森鴎外の小説「雁」の舞台そのものであった。
昭は、大学の卒業論文では、「森鴎外と女性」をテーマとしたのだ。
「パパは、怖い顔をしているけど、心はとても優しいの」
女は、気乗りしない昭の心を察して、「今日は、このまま帰りなさいね」と言いながら、昭の唇に口を寄せた。
「あなたには、今度は何時会えるの?」女は懇願するような視点であった。
「1週間後、あの上野喫茶店で、午後6時に」
「そうなの、また会えるのね」女は真顔で視線を注ぎ熱く昭を抱擁した。

朝鮮の北の女で2世の彼女のは、昭のデートの約束から、万景峰号(マンギョンボンごう 朝: 만경봉호)の乗船を延期する。
その船は北朝鮮の貨客船であり、船名は平壌郊外にある山、万景峰から名付けられた。
『万景峰号』と、金日成主席の80歳記念に1992年に寄贈された『万景峰92』がある。
彼女の父は朝鮮の在日1世で、パチンコ経営や朝鮮料理店の経営で得た多額の収益で、北朝鮮を支援する。
船は在日韓国・朝鮮人らの資金により建造されたのだ。

彼女の母は、27歳で子宮がんで亡くなり、北朝鮮に骨を埋葬すること懇願したことから、年に1回の命日では、父と娘は万景峰で北朝鮮の母の故郷である墓地へ向かっていたのである。

参考

『万景峰号』は1992年6月より主として日本新潟と北朝鮮の元山の間に就航(不定期)していた(片道27時間)。

旅客輸送では、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)が窓口となり、取り扱うのは、在日朝鮮人の祖国訪問(親族訪問等)や親戚への物資の輸送、朝鮮学校修学旅行等であった(後に入港禁止につき運行停止)。

元山・新潟間とは別に、神戸港からの在日朝鮮人の里帰りや朝鮮高級学校の修学旅行に伴う航行を行ったことがあるほか、親善訪問にも使われた。

 

在日本朝鮮人総聯合会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体

1945年昭和20年)結成の在日朝鮮人連盟GHQによって「暴力主義的団体」として解散させられた後、新たに設立された在日朝鮮統一民主戦線を経て1955年に設立

略称は朝鮮総聯(ちょうせんそうれん、チョソンチョンニョン、조선총련)で一般にこの名称で呼ばれることが多い。報道などでは朝鮮総連とも表記される。最高責任者は、2012年より許宗萬中央常任委員会議長が務める

法人格がない「権利能力なき社団」。

朝鮮総連中央議長を始めとする数名の幹部は北朝鮮の代議員(国会議員)を兼任して。に複数の元構成員が土台人となって北朝鮮問題に関与し、祖国防衛隊事件文世光事件を引き起こした歴史的経緯から、公安調査庁から破壊活動防止法に基づく調査対象団体に指定されている


創作 女スリに遭遇の顛末 2)

2024年04月07日 21時52分00秒 | 投稿欄

女スリにボーナス袋を奪われた徹は、帰宅して妻の朝子に嘘をつくほかなかった。

「実は、会社の事情でボーナスの支給日がの伸びたんだ」

「あら、そうなの」朝子は疑わなかったので、徹は安堵したが、いつまでも、嘘を貫き通すことはできない。

事情を話して、実家の母親に泣きつくことも考えた。

だが、その母親は子宮がんの治療中であったのだ。

夫の競馬狂いで生活の苦労をしてきた母親は、不憫であった。

母親は家政婦として、住み込みで働いていた時期もあった。

そんな母親に妹の明恵が夜道で、若い男二人から強姦されたことは、とても明かすことはできなかった。

残業続きの明恵は、兄に「駅まで迎えに来て」とあの日の朝、頼んでいた。

だが、徹はあの日は、大学の仲間との麻雀で家を空けていたのだ。

妹は高校卒で日比谷にある企業の新社員の18歳であり、徹は大学20歳2年生であった。

忌わしい事件から10年の歳月が流れていた。

思い余った徹は、親友の佐野孝彦に女スリの被害に遭遇したことを打ち明けた。

「そうか、我々にも責任があるね」彼は、「少ないけど多少は負担したい」と麻雀仲間にカンパを募るのだ。

その金が4万円となる。

徹は、その日、大井競馬のナイター競馬へ向かう。

そして、1月4日生まれの妹明恵への深い自責の念から1-4の目で馬券の勝負する。

追い込まれる身からの祈る思いの一発勝負であった。

信じられないことに、投じた4万円の1-4が126万円余りの配当となる。

麻雀仲間には、10倍返しでもおつりが十分にきたのだ。

 


太郎はいつも走っていた

2024年01月22日 14時43分03秒 | 投稿欄

太郎はいつも走っていた
利根川土手の四季を楽しむ
富士山見えれば胸が膨らむ
背負うリックにペットボトル
太郎のあだ名は健康優良児
酒は少々ジム通い
自慢の胸がピクピク動く
冬でも半袖 誰に持負けない腕相撲

太郎はいつも走っていた
田圃の畦道稲穂が育つ
筑波山見えれば思い出で辿る
背負うリックにオニギリ一つ
太郎のあだ名は取手の走るパンダ
恋と無縁の寺まわり
和太鼓神輿でどこまでも
祭りだ祭り 誰にも負けない腕自慢

太郎はいつも走っていた
ロマンを忘れ走っていた
27の誕生日も走っていた
生き急ぐように走っていた
死へ向かって走っていた

 

 


創作 人生の方程式 続編 3)

2023年09月06日 03時32分50秒 | 投稿欄

女が悟を誘ったのは、松戸駅から離れた寿司屋であった。

「このお店はね、パパのつけがきくので、遠慮なく食べてね」

カウンター席に、二人の客が居た。

女は個室の座敷席へ向かった。

「先ずは、自己紹介ね。私は北沢真央。あなたは?」

「大橋悟、住まいは北小金」

「そうなの。近いのね。私は馬橋」

真央は、お好寿司を注文した。

「まずは、乾杯ねよろしく」

悟は日本酒を飲み、真央はビールを飲む。

1990年代には、まだ飲酒運転が多めに見過されていた。

「恥ずかしい話なのだけれど、パパは高校生と何度も「援助交際」でホテルへ行って逮捕された。バカな男ね。病院の医師のくせに、40代でママが乳がんで亡くなる前から、看護婦と不倫したり・・・」

真央は母の無念さを想い涙ぐむ。

「私の元の彼も、私がいるのに、浮気ばかり、それで別れた。あなたは真面目そうだから、浮気はしないわね」

真央は目を大きく見開いて悟を見詰めるので、彼は沈黙するばかりだった。

彼は女性からまじまじと視線を受けた経験は皆無だった。

そして、真央の容貌の美しよりも、甘い声に魅せられた。

彼女の歌声が聞きたくなる思いがしたのだ。

 

参考:矢島・宮台(1997)によれば、「援助交際」という用語には3つのルーツがある。

1つめは、1980年代前半の愛人バンクにおける「長期的愛人契約」を意味するものである。

2つめは、1990年代前半のダイヤルQ2などに関して「売春」を意味するものである。

3つめは女子高生デートクラブの間で使われたもので、「売春」行為または「非売春」行為を意味するものである

元は日本の若者が使う売春の隠語であった。

しかし次第に社会に広まっていき、1996年には「援助交際」という言葉は流行語大賞にも入賞するほど世間一般に知られるようになった。

参考:1970年に飲酒運転に対する罰則が登場して以降、しばらくはそのままだったのですが、1990年代の後半になると悪質な飲酒運転による事故が起き、被害者家族を中心に厳罰化を訴える動きが活発化しました。

その結果、2002年には呼気アルコール量が0.25mgから0.15mgまで引き下げられ、罰則も大幅に厳しくなりました。

参考:19世紀および20世紀初頭は、医師が男性の職業であったように、看護が女性の職業と考えられていた。

病院と医師は、看護する女性すなわち看護婦を無償または安価な労働源だと見なしていた。雇用者、医師、教育者による看護師の搾取は当時珍しいことではなかった

看護婦から看護師へ移行。

20世紀後半に職場の男女機会均等への機運が高まる中、公的には看護がジェンダー中立の職業となったが、実際のところ男性看護師の割合は21世紀初頭における女性医師の割合をも大きく下回っている


創作 嫁姑問題 2 )

2023年07月11日 09時59分15秒 | 投稿欄

妻の由紀の母親の稲子は町内会婦人部仲間に、「あんな息子とは思わなかったのよ」と愚痴をこぼす。
「そうなの。大変なのね」一応、相手は稲子の気持ちを受け止める。
だが、相手は時男の母親の澄子に近い関係なので「稲子さんが、あなたの息子さんを悪く言っていたわよ」と告げる。
性格が勝気な澄子は「人の家のことを第三者に告げたのね。許せない!」といきり立つ。

町内会長の鎌田銀次郎の耳にも、両家のごたごたが届いた。

特に時男がマージャンのみならず、競馬にものめり込んだからだった。
時男の会社の同僚の森田茂が競馬好きで、初めて時を府中競馬に誘ったのである。
それまで、時男は競馬の存在に全く興味を示していなかった。
時男は、その日の最終レースの大穴馬券を的中させる。
自身の誕生日、6月18日の3連単で馬券は267倍。
彼はその日、自身のラッキーナンバー6-1-8に浮いた金の1万円をも投じていたのだ。
267万円もの大金を手にした時男は、同僚の森田茂を連れて新宿のフィリピンパブへ意気揚々の気分となって行く。
そこで出会ったのが、スペインの血を引くアグネスだったのだ。

時男は同席した4人のホステスに「ご祝儀だよ」といきなり1万札を配る。

当然、ホステスたちは小躍りして時男に身を寄せる。

噂を聞いて、ホステスは8人なり、座は盛り上がりに盛り上がる。

ダンサーであるアグネスたちはショータイムで躍る。

ついで歌手であるエミリーたちが歌った。

時男は英語で「慕情」を歌う。

森田茂は「横浜物語」を歌った。

 


創作 現在・過去・未来 続編 22)

2023年05月04日 06時45分15秒 | 投稿欄

牛田家から逃れた鶴子は、義母と下女の幸恵のはからいで一時、幸恵の実家の諏訪の村で住むこととなった。

諏訪は江戸時代、高島藩の城下町であった。明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となり、その後、筑摩県を経て長野県に編入された。

諏訪は北西側を諏訪湖に接し、西部、東部を山地に挟まれ、南側には茅野市、富士見高原を望む、諏訪盆地のほぼ中央に位置する。
諏訪湖へ向かう幾本かの河川の間に田畑、住宅地が広がっている。
赤沼、中洲といった地名が表すように、古くは沼だったり、もしくは諏訪湖が最大面積であったときに水中だった場所も多く、地盤は全体的にゆるとされる。

北八ヶ岳にある山の1つ茶臼山(ちゃうすやま)は、標高は2,384m。
鶴子は、田圃の畦道から見る山並みに心を和ませるとともに、「どこか新天地に羽ばたこう」と決意する。
義理の妹の信子が読んでいた吉屋信子の小説を街の書店で求めて読んでみた。
買い求めたのは「返らぬ日」吉屋信子の少女小説であり、女学生の哀歓を描き切った、『花物語』の姉妹編ともいうべき初期作品集。

人生の荒波を前に少女はいつまで幸せでいられるだろう?少女の日の哀愁とユーモアに満ちた幻の傑作とされる。

返らぬ日は、カトリック系女学校の寄宿舎を舞台に、国際的な街・上海生まれで洋装断髪のかつみと、老舗の妾腹で日本人形のように麗しい弥生の健常者ではない思いの始まりから終わりまでを描いた中篇。

結婚する少女を待ちうけているのは、服従と従順と義務と責任。その上で男への快楽を与えなければならない義務を負う。

「女の自立」を示唆さられる思いがした鶴子は東京への旅立ちへ向けて、準備する。


創作 現在・過去・未来 続編 13) 

2023年04月21日 06時46分49秒 | 投稿欄

牛田信子は、朝鮮から留学していた金田正人が夏目漱石や森鷗外に心酔していることを知る。

「正人、熱心に何を読んでいるの?」屋敷の各部屋の掃除をしていた信子は正人の部屋で声をかけた。

小机で正座をしていた正人は振り向きながら本を閉じた。

「森鷗外の舞姫です」

「舞姫?面白いの?」

「信子さんも、読むといいですよ」

吉屋信子一辺倒の信子は、夏目漱石や森鷗外の小説にはほとんど無縁であり、文学について語りあうことはなかった。

袴姿で一高生の書生正人と女中で濃紺の着物姿の田舎娘信子は2歳年上であり、二人には心の距離があった。

実家の下男に接したような相手を格下と見なす姿勢が信子には終始見え隠れしていていたのだ。

参考

内鮮一体(ないせんいったい、旧字体: 內鮮一體、朝鮮語:내선일체/內鮮一體)とは、大日本帝国の1936年から1945年にかけての朝鮮統治のスローガンで、朝鮮を差別待遇せずに内地(日本本土)と一体化しようというものである。

国策としての主提唱者は第8代朝鮮総督南次郎で、「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを目的とした同化政策(皇民化政策)の一つで、朝鮮統治五大政綱[1]の基調をなす概念。また内鮮一体は鮮満一如[2]と対とされた。

概要

1920年(大正9年)に行われた旧大韓帝国最後の皇太子李王垠と日本の皇族である梨本宮家の方子女王の成婚の際、「内鮮一体」「日鮮融和」というスローガンが初めて用いられた[3]。1931年(昭和6年)に満洲事変が勃発すると、宇垣一成総督によって朝鮮の同化を目的とした内鮮融和運動が提唱された。

1936年(昭和11年)に就任した第8代朝鮮総督南次郎は、内鮮融和をさらに進めたスローガンとしての「内鮮一体」を訓示し、さらに強く打ち出し始めた。南は、国民精神総動員朝鮮連盟役員総会席上、「内鮮一体の究極の姿は、内鮮の無差別・平等に到達すべきである」としていた。

それにより、朝鮮の「大陸兵站基地」としての役割、朝鮮人による戦争協力、皇民化が強化された。朝鮮語を日本語で取って代わっていた[4]。具体的には1938年(昭和13年)に「第三次朝鮮教育令」も同スローガンの精神に則って「一視同仁」の建前のもとに改正され、朝鮮語母語話者であり国語(日本語)を常用しない者の区別が解消された。これに伴って、陸軍特別志願兵制度が創設されて朝鮮人日本兵の採用も始まった[5]。

また、前年制定された「映画法」に続く1940年(昭和15年)の「朝鮮映画令」では朝鮮の映画が朝鮮総督府の統制下におかれた。このような実践面においては、「『内鮮一体の実』を挙げる」という言葉が使われた。

1939年(昭和14年)の『モダン日本』には「少数民族」の群雄が時代にそぐわないとし、「内鮮一体は、東亜の環境が命ずる自然の制約である」とする御手洗辰雄の「内鮮一体論」が掲載された。

1942年(昭和17年)に朝鮮総督に就任した小磯國昭は、「内鮮一体」前任者の南次郎総督が行った「内鮮一体」引き継ぎ、皇民化政策をよりいっそう押し進めた。

戦争の拡大の結果として、「帝国の大陸政策の前衛である兵站基地としての朝鮮」において「内鮮一体」がより必要とされ、また、「『八紘一宇』の大理想を実現するためには国民各自が自省自粛して私利私欲よりも公益を尊ぶ滅私奉公を持つしかない」とされ、必要と大義名分の両面から、「国民精神総動員を以てして民衆を優良なる皇国臣民たらしめ、産業経済・交通・文化を拡充して朝鮮人の民度を内地人と同等にまで引き上げて内鮮一体の実を挙げ、ひいては大東亜共栄圏の確立にも繋げること」を目指した[9]。

鄭僑源の主張

日本による統治時代に国民総力朝鮮連盟総務部長に就任し、「内鮮一体」を宣伝した鄭僑源は、「もともと内鮮関係は幾多先輩によって提唱されるが如く、同根同祖の事実は炳乎として厳存する。ただ或る時代に或る事情よりして相当久しい間疎隔せられて居た為め、恰も異れる両民族が二元的に別々な存在であったかの様に見る点があるが、その源をただせば結局同じ流れに帰著するのである。

これを史実に徴するに遠き神代のことは暫く措き歴史時代以降のことのみいふも、任那、百済、高句麗、新羅などと日本との関係は時に一進一退ありしも、今の内地がまだ完全に統一を見ない以前に於て、すでに半島に国したこれらの諸国に対し、夙に大和朝廷は誘掖保護の手を延ばされ或は物資を賜はり、或は兵士を駐屯せしめ、或は官職を設け、又時には膺懲を加へられ、又は文化の交流をはかられるなど、まことに密接不可分の関係にあったことは顕著な事実である。

これら多くの事実のうちには、利害関係や国際的関係などでは説明し得ざるものがあって、倫理的解釈を俟って初めて釈然たるものが尠くないのである。

即ち当時の大和朝廷の半島に対する施政方針は全く八紘一宇の御精神の発露であると考へられる。

就中百済末期に於ける百済救援事実の如き、斉明天皇が御六十七歳の御高齢を以て、而かも御女性の御身を以て御自づから都より筑紫まで大軍を進められ、七箇月余り行在所に於て遠く半島に於ける軍旅の事を腐せられ、その地で御崩御になるまで御尽痒あらせられた事や、又天智天皇がかかる大故に遭遇せられたのにも拘らず、引きつづき救援の手をゆるめられず、百済の愈々の最後まで徹底的援護を加へられたこと、尚は又、当時半島に派遣せられた日本軍の将領たちが、半島を引揚ぐるに際し、嘗つての友軍たりし百済の人々の身を案じ、唐羅に服しない二千数百人の人々を日本に連れ帰った事実、其の百済人が親戚故旧や墳墓を捨つる情に忍びざるものありしに拘らず、悲痛の言葉をのこして敢然日本軍に従って内地に移住したこと、そしてこれらの移住者は朝廷より凡ゆる便宜を与へられ、且つ夫々土地と官職などを賜はり、直ちに相互間の婚姻が行はれ、その子孫が内地に於て漸次に繁栄し歴史上有名な人材を輩出したこと、等々千載の下尚ほ私共の記憶に新らたものがあるのである」と主張している。

「内鮮一体」と文学−金史良の例
 金史良の「光の中に」(『文芸首都』1939・10)が第十回芥川賞の最終選考に残り、寒
川光太郎の「密猟者」(『創作』1939・7)が受賞となった。同時受賞ではないにもかかわ
らず『文藝春秋』(1940・3)に両作品が掲載されたのは選考委員の強い推薦があったか
らである。選評から「光の中に」についての発言を見てみよう。(文藝春秋『芥川賞全集』
第二巻より)
 瀧井孝作〈金史良の「光の中に」は、朝鮮の人の民族神経と云うものが主題となってい
た。この主題は、誰もこのようにハッキリとは描いていないようで、今日の時勢に即して
大きい主題だと思った。尚、金史良氏の創作は文芸首都の二月号に「土城廊」という作品
もあって、これは平壌の大同江辺の貧民小屋の描写でむかし読んだ森鴎外訳の独逸の短編
「鴉」を思出しあれと一寸似た風景で「鴉」程スッキリとは行っていないが、「土城廊」は
克明で力があると思った。朝鮮からこの腕前のある作家の出たことはうれしかった。〉
 久米正雄〈候補第二席作品「光の中に」は、実はもって私の肌合に近く、親しみを感じ
且つ又朝鮮人問題を捉えて、其示唆は寧ろ国家的重大性を持つ点で、尤に授賞に価するも
のと思われ、私は極力、此の二作に、それぞれ違った意味での、推薦をすべきとだと思っ
たが、不幸なるかな、此の沁々とした作品は、「密猟者」の雄勁さに圧倒され、又、成る
べくならば其期の優秀作家一人と云う建前から、授賞に洩れて了った。運が悪いと云えば
云えるが、是も或いは却っていい、手頃な幸運かも知れない。私は其点で此の作家の、勉
強に待つ事多大である。〉
 川端康成〈「密猟者」及び「流刑囚の妻」の寒川光太郎氏か、「光の中に」の金史良氏か
を選びたかったのは、他の委員諸氏と私も同じであった。

特に「密猟者」ということが満場一致であったのは、寒川氏の名誉を或いは倍加するものであろう。ただ「光の中に」を共に授賞すべきか、候補として別に優遇すべきかが、問題であった。私は「光の中に」を選外とするのは、なにか残念であった。

しかしそれも、作家が朝鮮人であるために推薦したいという人情が、非常に強く手伝っていることもあるし、また「密猟者」に比べると、力と面目さの足りぬところもあるので、結局寒川氏一人に賛成した。

とはいうものの金史良氏を選外とするに忍びぬ気持は後まで残った。

(改行)金史良氏はいいことを書いてくれた。

民族の感情の大きい問題に触れて、この作家の成長は大いに望ましい。

文章もよい。しかし、主題が先立って、人物が註文通りに動き、幾分不満であった。寒川氏は精神を象徴化する詩人の強さに、面白いところがあって、独特の才質が認められる。

しかし、その高く張った未熟さのうちに、ふと崩れそうな不安もないではない。この人の将来の道はそう楽ではあるまい。金史良氏の方が素直に行けるであろう。〉
 これに続くのは当時の『文藝春秋』編集長、佐佐木茂索で、〈金史良氏の「光の中に」
も佳作たるを失わない。「密猟者」がなければ之が芥川賞であることに問題はない。今度
の文藝春秋誌上に「密猟者」と併載する事にしたから、就て同氏の「価値あるテーマ」を知って欲しい。〉と併載を決めた。

この決定には瀧井、久米、川端の発言が強力に後押しした
ことがわかる。
 佐藤春夫〈金史良君の私小説のうちに民族の悲痛な運命を存分に織り込んだ私小説を一
種の社会小説にまでした手柄と稚拙ながらもいい味のある筆致もなかなかに捨て難いのを
感じた。そうして「密猟者」の当選と「光の中に」の候補推薦とに決定する議は大賛成、
何やら非常に愉快で幸福に似たような気持でさえあった。〉
 宇野浩二〈金史良の「光の中に」は、半島人の入りくんだ微妙な気持ちの平暗を、さま
ざまの境遇の半島人を、それを現すのに適当な題材に依って、可なり巧みに書かれてある。
そうして、寒川の「密猟者」が切迫した事件をそれにふさわしい文章で書いているように、
この「光の中に」は題材に合った平淡でありながら少し捻った文章で現してある。ところが、申し合わしたごとく「密猟者」がそうであるように、「密猟者」ほどではないが終りの方が物足りない。

ところが、金史良の近作「土城廊」を読むと、不幸な妻に片思いする放浪
性のある老人を書いているところ、題材が、前者は樺太、後者は朝鮮、の違いはあるが、
衝動的なところ、などが可なり似ている。この事は、寒川の小説を読んだ時は当り前だと
思ったけれど、金史良の小説を読んだ時は金史良はこういう小説も書けるのか、と幾らか
驚いた。そうして、前の回のように、二人に賞をつけることが出来れば、寒川と金を選ぶ
方がよいのではないかと思った。が、又菊池が云ったように「光の中に」を先に読んで相
当感心した後で、「密猟者」を読むと、「光の中に」がすうっと遠くへ行った、という言葉
に私は半分以上同感した。しかし又、滅多に使えない「有望」という言葉を金史良の頭に
つけてもあまり間違いにはならないであろう。〉
 このほかの選考委員は小島政二郎、室生犀星、横光利一であるが、「光の中に」にはコメントしていない。右の選評を読むと、瀧井孝作と宇野浩二が金史良の「土城廊」を読んで力量を評価していたことがわかる。そして、〈朝鮮の人の民族神経と云うものが主題〉(瀧井)、〈朝鮮人問題を捉えて、其示唆は寧ろ国家的重大性をもつ〉(久米)、〈作家が朝鮮人であるために推薦したいという人情が、非常に強く手伝っている〉〈民族の感情の大きい問題に触れて、この作家の成長は大いに望ましい〉(川端)、〈何やら非常に愉快で幸福に似たような気持〉(佐藤)、〈「有望」という言葉を金史良の頭につけてもあまり間違いにならない〉(宇野)などの言葉に日本語で小説を書く朝鮮人作家を待望する熱い思いがつたわってくる。
 「光の中に」は東京のセツルメントで働く朝鮮人大学生が、山田春雄という、父が日本
人で母が朝鮮人の少年と出会い、二つの民族の混血で悩む心情を理解して希望を持たせる
ように導いていく内容で、「内鮮一体」をテーマとする作品であった。

朝鮮人の日本語小
説は張赫宙が「餓鬼道」(『改造』1932・4)をはじめとして、プロレタリア文学の分野で
発表されていたのだが、朝鮮の農村を舞台としたものであった。金史良の「土城廊」も朝
鮮が舞台だが、「光の中に」は日本を舞台にしたことによって注目されたともいえる。
 第一小説集『光の中に』(小山書店、1940・12)が出版されると評判になった。板垣直
子は『事変下の文学』(第一書房、1941・5)の「植民地文学」の項で、李光珠、李孝石、
張赫宙などに触れたあと、金史良について、〈彼には単なる写実以上のもがある。他の人
達にない烈しい内面性、近代的な着眼点があるのである。新人の中では、金史良氏が一番
目立ち、私にとつても興味のある作家である。〉と書き、「天馬」(『文藝春秋』1939・6)、「草深し」(『文藝』1940・7)にも触れて次のように述べた。
 氏には朝鮮民族の諸々の特性、宿命についての強い凝視がある。従つて氏の選ぶ題材もその線に沿ふ暗いものばかりである。作品もいひがたい一種の陰惨な効果をたたへてゐる。「草深し」の中では、朝鮮奥地の、たとへば耕地をえるために火田民の追ひこまれていつた土地に、どんな風な野蛮な、文明の日の目に浴さぬ出来事が起つてゐるか、さういふ社会を浮き上げてゐる。
「光の中に」には、朝鮮人の母親を持つてゐることを卑下し、ひねくれてしまつてゐる一人の少年を、青年教師の温い愛情が、すなほな心持に取戻す事情が展開してゐる。少年の父母のすさんだ労働者の生活を背景にとりいれることのよつて、朝鮮人の生活を一瞥させ、この作品には、暗い密雲が重く流れてゐる如くである。「天馬」には、一人の若き鮮人の文学青年を登場させて、自嘲的に彼を客観化し、同時に京城を中心とする半島芸術界の植民地風な空気を覗かせてゐる。
 一九四〇年の末に氏は単行本「光の中に」をだした。この中には氏の処女作も入り、他に「無
窮一家」も入つてゐる。これは作者によると、「内地における朝鮮移住民の苦難の生活を、朝鮮内の同胞に伝へよう」との意図を託されてゐる。
 作物を通してみる限り、金史良氏は半島の生んだいはゆるインテリ作家の徴候を十分つけてゐる。

そのインテリ性から、氏の文学の新しさと特異性と個性が生れてゐる。何れも作品の内

部が少しごたついた感じがあるが、一ぱい詰め込む流儀の表現法が、また同時に、新興半島文
学らしいともいへるのである。
 板垣直子は当時の文壇ジャーナリズムの中で率直に発言する評論家として認められてい
たので、この文章は日本文学に植民地文学を位置づけたものである。芥川賞選考委員の意
向が効を奏したわけである。贔屓目でなく、正当に評価されたという意味を持ったのであ
る。
Ⅲ 「内鮮文学」という視点
 「光の中に」が選考委員の特別なはからいによって活字になって『文藝春秋』に発表さ
れたことで、朝鮮人作家が誕生した背景には「内鮮一体」に呼応する時代背景があったこ
とがわかった。作品の完成度は「密猟者」に及ばないというのが選考委員の一致した意見
であったのに掲載されたことに、金史良自身はどう考えたのだろうか。芥川賞候補作に選
定されたことを母に知らせる書簡「母への手紙」(『文藝首都』1940・4)に次の文章がある。
 愛する母上様 私は考へたのです。本当に私は佐藤春夫氏の云はれるやうなことを書いたのであらうかと。何だか自分は一介の小説書きではなく、何か大きな、でつかいもののひしめきの中からスプリングをかけられて飛び出させられたやうな胸苦しさを感じたのです。少なくともその瞬間そんな思ひ過しをしたのです。私はもともと自分の作品でありながら、「光の中に」にはどうしてもすつきり出来ないものがありました。嘘だ、まだまだ自分は嘘を云つてゐるんだと、書いてゐる時でさへ私は自分に云つたのです。後になりその事についていろいろと先輩や友人達から指摘されるのです。私は黙つてゐるしかありませんでした。
 佐藤春夫が「民族の悲痛な運命を存分に織り込んだ私小説」と評したことを疑い、「何
か大きな、でつかいもののひめきの中からスプリングをかけられて飛び出させられたやう
な胸くるしさを感じた」と書いているところに、選考委員の背景にある「何か大きな、で
つかいもののひしめき」、すなわち時勢を感じ取っているのである。

「まだ自分は嘘を云つ
てゐる」とは、日朝混血の少年の苦悩に同調するような小説を書いたことへの自省であろ
う。実力を認められたからではなく、ためにする賞揚であったことを見抜いていたのであ
る。


創作 現在・過去・未来 14)

2023年04月10日 00時52分39秒 | 投稿欄

尚子は中学2年の時、担任の小谷玲子先生から勧められ日記を初めていたが、高校3年の時に兄の克弥に日記を読まれたことを契機に日記を止めた。

兄のつきまといに悩んでいた時期であった。

14歳の時、兄に襲われかかったこと、その後に兄が家出した事も日記に書いていた。

でも、そのことを記した日記の箇所は玲子先生には読まれたくなかったので,ホチキスで閉じた。

「尚子さん、先生に読まれたくない日記があるのは、とての残念に思います」玲子先生は、赤い文字で記していた。

月に1回、生徒たちは玲子先生との約束で日記を提出して、先生に読んでもらっていたのだ。

尚子は中学高校一貫教育の私立女子校に通学していたことで、男子との出会いがほとんでなかった。

21歳の時に和夫に好意を抱き、深い関係になってことが契機となって日記を再開する。

尚子は、海外を放浪した兄の足跡については知りたくもなかったが、家へ戻った兄は顎髭となり精悍な風貌で、一層不気味に思われた。

街中で兄と出会うことも増えて、尚子は最初は偶然だろう思った。

でも実際は兄につきまとわれていたのだ。

和夫との2度目の京都への旅の後、尚子の生理が止まってしまう。

生理はストレスのバロメーターともいわれているほどで、さまざまなことがストレスとなり、無月経をおこすこともよくあるが、尚子は妊娠したと思い込んだ。

「和夫のバカ!バカ!」と日記に記する。

和夫を<呪い殺したいたい>かつてなく激しい感情に見舞われる。

兄の克也はさいさん妹につきまとったことで、和夫の存在をも知ることとなる。

「妻子がいるくせに、尚子をもてあそんでいる」克也は怒り狂う。

「あいつを首にしてやる」克也は和夫の会社にも電話をかけて社長を呼び出す。

「社長さん、社員の不倫を許していいんですか!」唐突に詰問する。

「まず、あなたの名前を名乗りなさい」社長の大村寅雄は毅然と言う。

「三村和夫は、絶対に許せない男なんだ!」克也は捨て台詞で、鬼の形相となり公衆電話ボックスを飛び出す。

 

 

 


創作欄 過去・現在・未来 4 )

2023年03月31日 10時11分28秒 | 投稿欄

和夫と尚子にとっても、京都の桜は初めてであった。
京都には多くの桜の名所があっただろう。
だが、和夫の思惑は既に決まっていた。
桜咲く寺巡りもあっただろうが、鴨川を目指す。
和夫の「川のある街」への郷愁であった。
多摩川、神田川、墨田川、江戸川、荒川、玉川上水
生まれ育ち移り住んだり、父母との縁で好んで散策してきた川であったのだ。
若き日の父母は作家の太宰治と同じ町内に住んでいたのだ。
母親の梅は、太宰と情死した山崎富栄の知人でもあったので、当然、二人の遺体が発見された時の新聞記事を読み大きなショックを受けていたそうだ。

京都の桜

鴨川の清流と満開の桜が織り成す絶景
鴨川左岸の三条通~七条通の「花の回廊」と呼ばれる地域を二人は感嘆しながた恋人のよう腕を組んで散策した。
「花の回廊」を中心に御池通~五条通の約1.8キロの桜並木がある。
特に三条大橋~四条大橋辺りが多くの花見客で賑わっていた。
満開の桜の下をゆっくり散策して春を満喫した。
川辺には家族たちでつろぐ姿の見られた。

木屋町通と並行して流れる高瀬川沿いに桜の木が立ち並び、四条から五条にかけては川をまたぐトンネルのように咲き乱れていた。

二人は、木屋町の古風な旅館に泊まることになった。

「よく歩いたので、疲れたわ」微笑む尚子は浴衣に着替えに隣りの寝室へ行く。

和夫はスーツを脱いだが、浴衣に着替えなかった。

夕食が運ばれてきた。

料理は綺麗な京都らしい盛り付けで、目でも楽しめた。

新鮮な京野菜の数々。

加茂茄子・聖護院大根・近江蕪・長岡の筍をはじめ、丹波地山の松茸・しめじ・生椎茸・嵯峨豆腐・生湯葉・生麩等。

また瀬戸内海や日本海の生鮮魚介類を堪能する。

二人は食事をしながら日本酒を3本飲む。

「兄貴が来週、外国から戻ってくるの」唐突に尚子が言いながら陰鬱な表情を浮かべた。

「どこから」

「分からない、外国を放浪して、2年ぶり・・・」

3歳年上の兄は、尚子が14歳の時に、邪悪な行為に出たのだ。

隣室に居たはずの兄が突然、彼女が寝ていた部屋に入ってきて、布団の中にまで潜り込むんできたのだ。

あろうことかパジャマの上から妹の胸を弄り、下腹部にも手伸ばしてきたのである。

近親相姦はタブーである。

父親は愛人のところで、外泊していた。

尚子は悲鳴を上げず、無我夢中で兄を跳ねのけて母の部屋へ逃れたが、理由を明かすことはなかった。

驚愕で声が出なかったのだ。

兄は罪悪感からだろう、翌日から家出をする。

 

 

 

 

 

 


創作 典子

2022年12月12日 20時30分51秒 | 投稿欄

「うまくいかないのが恋」作家・髙木のぶ子
「身に染みる薬も傷口から入る」
恋愛する人は実にたくさんのことをまなぶ。
思うに任せぬことが人間を深める。
恋は、人間に対する深い咀嚼を深めるチャンス。
恋愛の98%は思いがけないもの。
思いがかなうのは、せいぜい2%としかないでしょう。
自分の心を内側に封じ込めないで、外に出していくことが大切。
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「仕事だ」と言って家を出る。
「仕事ではない」と見抜いている妻の佳子が玄関まで追って来て、「仕事はウソね!長男だけでも連れて行ってよ」と息子の幸太郎を玄関まで連れてくるのだ。
父親を恨めしそうに見る息子を元水信夫は威圧するように睨みつける。
息子の幸太郎は父親の視線に恐れて、母親の背後に身を潜める。
背中にデートと書いてあるわけではないが、夫のいそいそとした様子は如何にも怪しいのだ。
初めての彼女との日曜日のデートであった。
上野駅の「忍ばず口」の改札口の外に、藤田典子が待っていた。
人の姿が多い日であった。
緑色のトックリエーター姿の典子は何時ものように後ろ向き姿である。
「人に見られたくないの」と伏し目がちな典子は、華奢な体でどこか影が薄く映じる。
「日展」へ向かう人並みが続いていた。
絵にほとんど興味がない元木は、日展を観る柄ではないが、毎年観ているという典子の誘いである。
「今日はダメね。絵が少しも印象に残らないわ」と典子は笑顔を失っている。
「元木が一緒だがら?」元木は自嘲気味に言う。
「そうよ。一緒に来るんじゃなかった」典子は濃紺の手提げバックから灰色のニット帽を取り出して被る。
突風が吹き銀杏の葉が散ってきた。
「淋しいい季節になりそうね」
「別れの秋に?」
「そうね。それを願っているの」
典子は珍しく元木の目を凝視した。
19歳で出会って、2年の歳月が流れていた。
元木は家庭の臭いがしない男と言う人もいた。
「センセイ、なぜ、結婚していると言わなかったのですか?」42歳の時に親しくなった中国人の露露に問われたことを想いだした。
それから、2年後に池袋の同じサパークラブで典子と出会ったのだった。
天安門事件以降、北京に戻っていた露露からの手紙が途絶えていた。
彼女の中野のアパートに2度泊ったが、深い関係には至らなかった。
だから露露からの文通も続いていたのだ。
1度、その露露の話を典子にもしていた。
「私との関係も清いままで居れば良かったのにね」典子は複雑な表情をした。
「酒でも飲みますか?」
「どちらでも」
「ホテルは?」
「バカ!今日は行くわけないじゃいの」典子は拳骨で元木の腰を叩く。
結局、西郷さんの銅像を見てから、石段を下る時、典子が元木の手を求めてきた。
「どうしたのかしら?目まいがするの」典子の指は冷たくなっていた。
タクシーに乗り、浅草へ向かった。
浅草で典子と酒を飲むのは3度目である。
色々な居酒屋があるが、お銚子3本を飲むと「おしまいです」と追い立てられる店だ。
中年男が、若い娘を苛めているような酒の席となってしまった。
嫌が上でも第三者の視点を意識する。
「本音を言ってしまったら、それきりになってしまうと思うの」
「酔ったら、その本音が出ますか?」
「私、酔わないもの」典子は毅然としていた。
「好きになってしまったの」と言われたのは出逢って3回目であった。
相思相愛の経験がない元木の心は、舞い上がってしまったのだ。
「好きになったのは間違いですよ、と言いたいのですか?」詰問口調になる。
「すべて、遊びだと言ってたらどうするの?」
「それが、本音なのか?」元木は落胆する。
典子は落胆して俯く元木を見て、「本音は言わない。胸の中に締まって置くわ。でも2人は波長が合ってしまうのね。不思議な関係よ」
居酒屋を出て次の店へ向かう。
典子は何時ものように快活な足取りとなっていた。
「何処へ?」
「お参りですね」
雷門をくぐり、浅草寺へ向かう。
元木は昭和27年ころ、浅草の店で働いていた従姉に母と会いに行ったことを思い出した。
当時、まだ浮浪児たちが居て、物乞いをしている姿を忘れることができない。
浅草の記憶は元木にとって観光地としての賑いや明るい面だけではなかった。
結局、何時ものコースで神谷バーで電気ブランを飲む。
「酔わないな。どこか、遠くへ行くたい」
「とにかく、元木からも離れたい」
「そうね。でもそのまま疎遠になるのは嫌」
2盃目の電気ブランがきいていた。
「そろそろ、酔った?」
「全然」典子はまだ毅然としていたのだ。
「私は、足にきた。帰りましょう」
酔い覚ましに隅田川に向かう。
吾妻橋の欄干に腕を乗せ、典子は隅田川を見つめている。
「夜の川は陰鬱ね」
「死に神が見えますか?」
「元木の死に神がね」
「まだ。愛しているでしょ?」
「分からない」典子は長い髪を左右に振る。
その髪が元水の頬を撫でる。
「好きなんでしょ?」
「分からない」また髪を左右に振る。
「もっと酔いますか?」
「私は酔わないもの。あなた一人で酔っている。酔える人が羨ましいな」
隅田川は作家の芥川龍之介が子どものころ泳いだ川だ。
学校の唱歌にも歌われている。
親しみのある川であるが、この日ばかりは淀み、さざ波は鉛色で陰鬱な模様を形づくり、私たちを手招きする「死神」は小舟を曳いてゆく。
なぜか、フランス映画の「オルフェ」の映像の中の死神が典子の姿と重なった。

 

 


インサイト 歯科医院開業支援コンサルティング

2022年05月07日 06時27分30秒 | 投稿欄

開業支援コンサルティング

歯科医院の立ち上げをサポートする様々なコンサルティングサービス
インサイトの開業支援コンサルティングを紹介します。

NEWS & TOPICS

 
新着情報
2022/01/11

ユウ君がボール遊び

2022年01月13日 15時18分54秒 | 投稿欄
月に2回、ユウ君が来る。
12月24日は、ケーキを取りに。
1週間早いお年玉をバーバが渡す。
 
大晦日は、長男が餅を取りにきたのだ。
次男のおじさんからお年玉をもらったが、階段にミカンを並べるいたずら過ぎて、おじさんを怒らせる。
さすが、ユウ君も首を垂れて、しょ気ていた。
 
2021年12月31日2歳8か月のユウ君がボール遊び
動画リンク
 
ユウ君がボールで遊ぶ2021 12 31
動画リンク
 
利根川堤防を走る野球部員たち2022 1 8
 
 
 
2021年12月28 日1利根川のジロー
動画リンク
 
2021年12月28日利根川の猫ジロー
動画リンク
 
利根川の猫ジロー 2021 12 28
 
 
 
 
 

友に会う

2021年12月20日 15時15分55秒 | 投稿欄

何時もより1台早めの電車に乗ったら友人に会う.

同じ水道橋近辺で働いているのに出会ったのは2年ぶりか.
 元エリカ(喫茶店・スナック)現在の「小菊」の常連客10人で,11月3日,大井競馬のナイターに行った話となる.
「半分の人が,プラス」
 やるな!
 エリカは実に様々な人が来て,朝、昼、夜と毎日2,3回は行った.
 元キックボクサーたちとスナックのママさんの息子のボクシング試合を後楽園スタジアムで見たことが思い出される.
 相撲好きのマスターと相撲談義をする人.

金曜日は競馬好きの溜まり場となる.
 大半が界隈の商店主,印刷屋,不動産屋,雑誌の編集長,業界新聞の人,区会議員,居酒屋の旦那,ソバ屋の旦那ら.
 江戸っ子を自認するお神輿好きも多かった.
 月に2,3回,マージャンで徹夜をして,そのまま後楽園の場外馬券場へ足を向けた.
 そごいギャンブラーがいて,数十万円はざら,時に数百万円を払い戻す人もいた.


紀子の彼(創作)

2021年12月20日 14時46分27秒 | 投稿欄

紀子の彼の武藤史郎君は風呂に入らないと言う.

シャワーだけ.

「武蔵が風呂に入らなかった,と人から聞いてからなの.不潔よね」  

「そうなの」  宮本武蔵は相当,昔の人だ.風呂に入らない理由は?  

不潔でも,武蔵のような生き方をしたいらしい.  

「格闘家に武蔵が,いるでしょ.残念! いなければ,武蔵を名乗りたかった,と惜しがるの」

 紀子の彼は池袋に本部がある空手の門下生だ.  

「オッス!」と野太い声で,私に挨拶した.  

その武蔵君が紹介者になって,館長に面談した.

館長は、こちらの営業話に真剣に耳を傾ける.  

実に誠実な態度でいっぺんに好感を持つ.  

全盛のころの館長の試合ぶりをビデオで見た武藤君が,「実に華麗!」と更に惚れ込んだのだが、空手の華麗さとはどのようなものなのか?  

当日は支部会で,ホテルに集合した全国の支部長たち関係者の大半がプロレスラー並みの体格で圧倒されたのだった.


人は生きる意味を知ることができる

2021年11月25日 10時40分21秒 | 投稿欄

▼<人の数だけ正義がある>
<自分が絶対に正しい>と思った時こそ、「相手の気持ちに目が向いているか」を自問自答したい。
▼事故を起こさないことが、幸福と勝利の基盤。
事故という魔を寄せ付けない強い一念と深い用心、冷静さで、安全第一に徹したい。
▼苦難を真正面で捉えてこそ、新たな発見があるものだ。
苦難に敢然と立ち向かい格闘する。
それが前進のエンジンとなる。
悩みを乗り越えた先ばかりではなく、苦闘のただ中にあっても、人は生きる意味を知ることができる。
▼人が政治に期待するのが主義より課題の解決。
政策の実現力。