牛田信子は、朝鮮から留学していた金田正人が夏目漱石や森鷗外に心酔していることを知る。
「正人、熱心に何を読んでいるの?」屋敷の各部屋の掃除をしていた信子は正人の部屋で声をかけた。
小机で正座をしていた正人は振り向きながら本を閉じた。
「森鷗外の舞姫です」
「舞姫?面白いの?」
「信子さんも、読むといいですよ」
吉屋信子一辺倒の信子は、夏目漱石や森鷗外の小説にはほとんど無縁であり、文学について語りあうことはなかった。
袴姿で一高生の書生正人と女中で濃紺の着物姿の田舎娘信子は2歳年上であり、二人には心の距離があった。
実家の下男に接したような相手を格下と見なす姿勢が信子には終始見え隠れしていていたのだ。
参考
内鮮一体(ないせんいったい、旧字体: 內鮮一體、朝鮮語:내선일체/內鮮一體)とは、大日本帝国の1936年から1945年にかけての朝鮮統治のスローガンで、朝鮮を差別待遇せずに内地(日本本土)と一体化しようというものである。
国策としての主提唱者は第8代朝鮮総督南次郎で、「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを目的とした同化政策(皇民化政策)の一つで、朝鮮統治五大政綱[1]の基調をなす概念。また内鮮一体は鮮満一如[2]と対とされた。
概要
1920年(大正9年)に行われた旧大韓帝国最後の皇太子李王垠と日本の皇族である梨本宮家の方子女王の成婚の際、「内鮮一体」「日鮮融和」というスローガンが初めて用いられた[3]。1931年(昭和6年)に満洲事変が勃発すると、宇垣一成総督によって朝鮮の同化を目的とした内鮮融和運動が提唱された。
1936年(昭和11年)に就任した第8代朝鮮総督南次郎は、内鮮融和をさらに進めたスローガンとしての「内鮮一体」を訓示し、さらに強く打ち出し始めた。南は、国民精神総動員朝鮮連盟役員総会席上、「内鮮一体の究極の姿は、内鮮の無差別・平等に到達すべきである」としていた。
それにより、朝鮮の「大陸兵站基地」としての役割、朝鮮人による戦争協力、皇民化が強化された。朝鮮語を日本語で取って代わっていた[4]。具体的には1938年(昭和13年)に「第三次朝鮮教育令」も同スローガンの精神に則って「一視同仁」の建前のもとに改正され、朝鮮語母語話者であり国語(日本語)を常用しない者の区別が解消された。これに伴って、陸軍特別志願兵制度が創設されて朝鮮人日本兵の採用も始まった[5]。
また、前年制定された「映画法」に続く1940年(昭和15年)の「朝鮮映画令」では朝鮮の映画が朝鮮総督府の統制下におかれた。このような実践面においては、「『内鮮一体の実』を挙げる」という言葉が使われた。
1939年(昭和14年)の『モダン日本』には「少数民族」の群雄が時代にそぐわないとし、「内鮮一体は、東亜の環境が命ずる自然の制約である」とする御手洗辰雄の「内鮮一体論」が掲載された。
1942年(昭和17年)に朝鮮総督に就任した小磯國昭は、「内鮮一体」前任者の南次郎総督が行った「内鮮一体」引き継ぎ、皇民化政策をよりいっそう押し進めた。
戦争の拡大の結果として、「帝国の大陸政策の前衛である兵站基地としての朝鮮」において「内鮮一体」がより必要とされ、また、「『八紘一宇』の大理想を実現するためには国民各自が自省自粛して私利私欲よりも公益を尊ぶ滅私奉公を持つしかない」とされ、必要と大義名分の両面から、「国民精神総動員を以てして民衆を優良なる皇国臣民たらしめ、産業経済・交通・文化を拡充して朝鮮人の民度を内地人と同等にまで引き上げて内鮮一体の実を挙げ、ひいては大東亜共栄圏の確立にも繋げること」を目指した[9]。
鄭僑源の主張
日本による統治時代に国民総力朝鮮連盟総務部長に就任し、「内鮮一体」を宣伝した鄭僑源は、「もともと内鮮関係は幾多先輩によって提唱されるが如く、同根同祖の事実は炳乎として厳存する。ただ或る時代に或る事情よりして相当久しい間疎隔せられて居た為め、恰も異れる両民族が二元的に別々な存在であったかの様に見る点があるが、その源をただせば結局同じ流れに帰著するのである。
これを史実に徴するに遠き神代のことは暫く措き歴史時代以降のことのみいふも、任那、百済、高句麗、新羅などと日本との関係は時に一進一退ありしも、今の内地がまだ完全に統一を見ない以前に於て、すでに半島に国したこれらの諸国に対し、夙に大和朝廷は誘掖保護の手を延ばされ或は物資を賜はり、或は兵士を駐屯せしめ、或は官職を設け、又時には膺懲を加へられ、又は文化の交流をはかられるなど、まことに密接不可分の関係にあったことは顕著な事実である。
これら多くの事実のうちには、利害関係や国際的関係などでは説明し得ざるものがあって、倫理的解釈を俟って初めて釈然たるものが尠くないのである。
即ち当時の大和朝廷の半島に対する施政方針は全く八紘一宇の御精神の発露であると考へられる。
就中百済末期に於ける百済救援事実の如き、斉明天皇が御六十七歳の御高齢を以て、而かも御女性の御身を以て御自づから都より筑紫まで大軍を進められ、七箇月余り行在所に於て遠く半島に於ける軍旅の事を腐せられ、その地で御崩御になるまで御尽痒あらせられた事や、又天智天皇がかかる大故に遭遇せられたのにも拘らず、引きつづき救援の手をゆるめられず、百済の愈々の最後まで徹底的援護を加へられたこと、尚は又、当時半島に派遣せられた日本軍の将領たちが、半島を引揚ぐるに際し、嘗つての友軍たりし百済の人々の身を案じ、唐羅に服しない二千数百人の人々を日本に連れ帰った事実、其の百済人が親戚故旧や墳墓を捨つる情に忍びざるものありしに拘らず、悲痛の言葉をのこして敢然日本軍に従って内地に移住したこと、そしてこれらの移住者は朝廷より凡ゆる便宜を与へられ、且つ夫々土地と官職などを賜はり、直ちに相互間の婚姻が行はれ、その子孫が内地に於て漸次に繁栄し歴史上有名な人材を輩出したこと、等々千載の下尚ほ私共の記憶に新らたものがあるのである」と主張している。
「内鮮一体」と文学−金史良の例
金史良の「光の中に」(『文芸首都』1939・10)が第十回芥川賞の最終選考に残り、寒
川光太郎の「密猟者」(『創作』1939・7)が受賞となった。同時受賞ではないにもかかわ
らず『文藝春秋』(1940・3)に両作品が掲載されたのは選考委員の強い推薦があったか
らである。選評から「光の中に」についての発言を見てみよう。(文藝春秋『芥川賞全集』
第二巻より)
瀧井孝作〈金史良の「光の中に」は、朝鮮の人の民族神経と云うものが主題となってい
た。この主題は、誰もこのようにハッキリとは描いていないようで、今日の時勢に即して
大きい主題だと思った。尚、金史良氏の創作は文芸首都の二月号に「土城廊」という作品
もあって、これは平壌の大同江辺の貧民小屋の描写でむかし読んだ森鴎外訳の独逸の短編
「鴉」を思出しあれと一寸似た風景で「鴉」程スッキリとは行っていないが、「土城廊」は
克明で力があると思った。朝鮮からこの腕前のある作家の出たことはうれしかった。〉
久米正雄〈候補第二席作品「光の中に」は、実はもって私の肌合に近く、親しみを感じ
且つ又朝鮮人問題を捉えて、其示唆は寧ろ国家的重大性を持つ点で、尤に授賞に価するも
のと思われ、私は極力、此の二作に、それぞれ違った意味での、推薦をすべきとだと思っ
たが、不幸なるかな、此の沁々とした作品は、「密猟者」の雄勁さに圧倒され、又、成る
べくならば其期の優秀作家一人と云う建前から、授賞に洩れて了った。運が悪いと云えば
云えるが、是も或いは却っていい、手頃な幸運かも知れない。私は其点で此の作家の、勉
強に待つ事多大である。〉
川端康成〈「密猟者」及び「流刑囚の妻」の寒川光太郎氏か、「光の中に」の金史良氏か
を選びたかったのは、他の委員諸氏と私も同じであった。
特に「密猟者」ということが満場一致であったのは、寒川氏の名誉を或いは倍加するものであろう。ただ「光の中に」を共に授賞すべきか、候補として別に優遇すべきかが、問題であった。私は「光の中に」を選外とするのは、なにか残念であった。
しかしそれも、作家が朝鮮人であるために推薦したいという人情が、非常に強く手伝っていることもあるし、また「密猟者」に比べると、力と面目さの足りぬところもあるので、結局寒川氏一人に賛成した。
とはいうものの金史良氏を選外とするに忍びぬ気持は後まで残った。
(改行)金史良氏はいいことを書いてくれた。
民族の感情の大きい問題に触れて、この作家の成長は大いに望ましい。
文章もよい。しかし、主題が先立って、人物が註文通りに動き、幾分不満であった。寒川氏は精神を象徴化する詩人の強さに、面白いところがあって、独特の才質が認められる。
しかし、その高く張った未熟さのうちに、ふと崩れそうな不安もないではない。この人の将来の道はそう楽ではあるまい。金史良氏の方が素直に行けるであろう。〉
これに続くのは当時の『文藝春秋』編集長、佐佐木茂索で、〈金史良氏の「光の中に」
も佳作たるを失わない。「密猟者」がなければ之が芥川賞であることに問題はない。今度
の文藝春秋誌上に「密猟者」と併載する事にしたから、就て同氏の「価値あるテーマ」を知って欲しい。〉と併載を決めた。
この決定には瀧井、久米、川端の発言が強力に後押しした
ことがわかる。
佐藤春夫〈金史良君の私小説のうちに民族の悲痛な運命を存分に織り込んだ私小説を一
種の社会小説にまでした手柄と稚拙ながらもいい味のある筆致もなかなかに捨て難いのを
感じた。そうして「密猟者」の当選と「光の中に」の候補推薦とに決定する議は大賛成、
何やら非常に愉快で幸福に似たような気持でさえあった。〉
宇野浩二〈金史良の「光の中に」は、半島人の入りくんだ微妙な気持ちの平暗を、さま
ざまの境遇の半島人を、それを現すのに適当な題材に依って、可なり巧みに書かれてある。
そうして、寒川の「密猟者」が切迫した事件をそれにふさわしい文章で書いているように、
この「光の中に」は題材に合った平淡でありながら少し捻った文章で現してある。ところが、申し合わしたごとく「密猟者」がそうであるように、「密猟者」ほどではないが終りの方が物足りない。
ところが、金史良の近作「土城廊」を読むと、不幸な妻に片思いする放浪
性のある老人を書いているところ、題材が、前者は樺太、後者は朝鮮、の違いはあるが、
衝動的なところ、などが可なり似ている。この事は、寒川の小説を読んだ時は当り前だと
思ったけれど、金史良の小説を読んだ時は金史良はこういう小説も書けるのか、と幾らか
驚いた。そうして、前の回のように、二人に賞をつけることが出来れば、寒川と金を選ぶ
方がよいのではないかと思った。が、又菊池が云ったように「光の中に」を先に読んで相
当感心した後で、「密猟者」を読むと、「光の中に」がすうっと遠くへ行った、という言葉
に私は半分以上同感した。しかし又、滅多に使えない「有望」という言葉を金史良の頭に
つけてもあまり間違いにはならないであろう。〉
このほかの選考委員は小島政二郎、室生犀星、横光利一であるが、「光の中に」にはコメントしていない。右の選評を読むと、瀧井孝作と宇野浩二が金史良の「土城廊」を読んで力量を評価していたことがわかる。そして、〈朝鮮の人の民族神経と云うものが主題〉(瀧井)、〈朝鮮人問題を捉えて、其示唆は寧ろ国家的重大性をもつ〉(久米)、〈作家が朝鮮人であるために推薦したいという人情が、非常に強く手伝っている〉〈民族の感情の大きい問題に触れて、この作家の成長は大いに望ましい〉(川端)、〈何やら非常に愉快で幸福に似たような気持〉(佐藤)、〈「有望」という言葉を金史良の頭につけてもあまり間違いにならない〉(宇野)などの言葉に日本語で小説を書く朝鮮人作家を待望する熱い思いがつたわってくる。
「光の中に」は東京のセツルメントで働く朝鮮人大学生が、山田春雄という、父が日本
人で母が朝鮮人の少年と出会い、二つの民族の混血で悩む心情を理解して希望を持たせる
ように導いていく内容で、「内鮮一体」をテーマとする作品であった。
朝鮮人の日本語小
説は張赫宙が「餓鬼道」(『改造』1932・4)をはじめとして、プロレタリア文学の分野で
発表されていたのだが、朝鮮の農村を舞台としたものであった。金史良の「土城廊」も朝
鮮が舞台だが、「光の中に」は日本を舞台にしたことによって注目されたともいえる。
第一小説集『光の中に』(小山書店、1940・12)が出版されると評判になった。板垣直
子は『事変下の文学』(第一書房、1941・5)の「植民地文学」の項で、李光珠、李孝石、
張赫宙などに触れたあと、金史良について、〈彼には単なる写実以上のもがある。他の人
達にない烈しい内面性、近代的な着眼点があるのである。新人の中では、金史良氏が一番
目立ち、私にとつても興味のある作家である。〉と書き、「天馬」(『文藝春秋』1939・6)、「草深し」(『文藝』1940・7)にも触れて次のように述べた。
氏には朝鮮民族の諸々の特性、宿命についての強い凝視がある。従つて氏の選ぶ題材もその線に沿ふ暗いものばかりである。作品もいひがたい一種の陰惨な効果をたたへてゐる。「草深し」の中では、朝鮮奥地の、たとへば耕地をえるために火田民の追ひこまれていつた土地に、どんな風な野蛮な、文明の日の目に浴さぬ出来事が起つてゐるか、さういふ社会を浮き上げてゐる。
「光の中に」には、朝鮮人の母親を持つてゐることを卑下し、ひねくれてしまつてゐる一人の少年を、青年教師の温い愛情が、すなほな心持に取戻す事情が展開してゐる。少年の父母のすさんだ労働者の生活を背景にとりいれることのよつて、朝鮮人の生活を一瞥させ、この作品には、暗い密雲が重く流れてゐる如くである。「天馬」には、一人の若き鮮人の文学青年を登場させて、自嘲的に彼を客観化し、同時に京城を中心とする半島芸術界の植民地風な空気を覗かせてゐる。
一九四〇年の末に氏は単行本「光の中に」をだした。この中には氏の処女作も入り、他に「無
窮一家」も入つてゐる。これは作者によると、「内地における朝鮮移住民の苦難の生活を、朝鮮内の同胞に伝へよう」との意図を託されてゐる。
作物を通してみる限り、金史良氏は半島の生んだいはゆるインテリ作家の徴候を十分つけてゐる。
そのインテリ性から、氏の文学の新しさと特異性と個性が生れてゐる。何れも作品の内
部が少しごたついた感じがあるが、一ぱい詰め込む流儀の表現法が、また同時に、新興半島文
学らしいともいへるのである。
板垣直子は当時の文壇ジャーナリズムの中で率直に発言する評論家として認められてい
たので、この文章は日本文学に植民地文学を位置づけたものである。芥川賞選考委員の意
向が効を奏したわけである。贔屓目でなく、正当に評価されたという意味を持ったのであ
る。
Ⅲ 「内鮮文学」という視点
「光の中に」が選考委員の特別なはからいによって活字になって『文藝春秋』に発表さ
れたことで、朝鮮人作家が誕生した背景には「内鮮一体」に呼応する時代背景があったこ
とがわかった。作品の完成度は「密猟者」に及ばないというのが選考委員の一致した意見
であったのに掲載されたことに、金史良自身はどう考えたのだろうか。芥川賞候補作に選
定されたことを母に知らせる書簡「母への手紙」(『文藝首都』1940・4)に次の文章がある。
愛する母上様 私は考へたのです。本当に私は佐藤春夫氏の云はれるやうなことを書いたのであらうかと。何だか自分は一介の小説書きではなく、何か大きな、でつかいもののひしめきの中からスプリングをかけられて飛び出させられたやうな胸苦しさを感じたのです。少なくともその瞬間そんな思ひ過しをしたのです。私はもともと自分の作品でありながら、「光の中に」にはどうしてもすつきり出来ないものがありました。嘘だ、まだまだ自分は嘘を云つてゐるんだと、書いてゐる時でさへ私は自分に云つたのです。後になりその事についていろいろと先輩や友人達から指摘されるのです。私は黙つてゐるしかありませんでした。
佐藤春夫が「民族の悲痛な運命を存分に織り込んだ私小説」と評したことを疑い、「何
か大きな、でつかいもののひめきの中からスプリングをかけられて飛び出させられたやう
な胸くるしさを感じた」と書いているところに、選考委員の背景にある「何か大きな、で
つかいもののひしめき」、すなわち時勢を感じ取っているのである。
「まだ自分は嘘を云つ
てゐる」とは、日朝混血の少年の苦悩に同調するような小説を書いたことへの自省であろ
う。実力を認められたからではなく、ためにする賞揚であったことを見抜いていたのであ
る。