浪江には信仰心があったわけではないが、神社・仏閣には自然と足が向かった。
仙台から仙北線に乗って、北仙台まで行く。
北仙台の駅舎は1929年(昭和4年)に完成した開業以来の木造駅舎であり、輪子の心は和んだ。
駅名標はいわゆる「昭和モダン体」書体。
伊達政宗を祀る神社・青葉神社は仙台市都心部の北、北仙台地区の西の北山丘陵上にある。
神社の門前から南に続く道は青葉神社通りと呼ばれ、約2km南にある都心部の歓楽街・国分町に一直線に繋がる。
青葉神社通りからの参道は旧奥州街道に続くため商家が建ち並んでいた。
仙台北山丘陵は、北から西にかけての弧状の丘陵地であった。
北山丘陵の宗教施設は、東端から鹿島香取神社・光明寺・東昌寺・青葉神社・覚範寺・資福寺・輪王寺となっている。
覚範寺には仙台藩祖・伊達政宗の生母義姫(保春院)の墓がある。
北山五山は、宮城県仙台市青葉区の旧仙台城下町(現在の仙台市都心部)の北に東西に横たわる北山丘陵上にある5つの仏閣のことだ。
仙台城の鬼門を守る意味の他、奥州街道や根白石街道の関門となって仙台城下町の北の守りともされた。
鹿島香取神社は「伊達五山」と同様に伊達郡に創建され、伊達氏と共に各地を巡って最終的に仙台に遷宮された神社である。
この神社の存在により、江戸時代の北山丘陵の東端は「仙台七崎」の1つの「鹿島崎」と呼ばれた。
北山五山は、仏教を深く信仰した四代伊達政依が、現在の福島県伊達郡に鎌倉時代に創建した5つの臨済宗の寺がもとになっている。
「京都五山」や「鎌倉五山」に倣って、これらは「伊達五山」と称された。
浪江は、青葉神社の東隣の東昌寺へも足を向けた。
堤町から、奥州街道を西へ進むと、仙台の城下町の北辺を形成する北山丘陵の山すそを辿るルートになる。
北山丘陵~新坂通周辺(新坂町)~大崎八幡宮という旧仙台城下町の北から西にかけての弧状の丘陵地には、今では宅地開発もすすみ、マンションや住宅も増えているが、寺院等も多く立地することから、それらの擁する緑地帯が穏やかな市街地周辺部の住宅地に潤いを与えている。
伊達家ゆかりの著名な寺社の他、奥州仙臺七福神のうち大黒天が祀られている秀林寺のような庶民の観光地となっているものもある。
現存する本堂は、仙台市内最古の木造本堂とのことであった。
北仙台駅周辺に集まっていた材木商は戦後に廃業してしまうが、その跡地に1958年(昭和33年)、日用品の市場の「北仙台駅前交易センター」が開業している。
そこに形成された横丁は、東京・浅草にあやかりたいとの願いから「仙台浅草」と呼ばれるようになった。
浪江は仙台浅草で昼食にランチを食べた。
この日は塩サバ、ほうれん草、なめこの味噌汁。
炊き立てのご飯は甘くとても美味しかった。
「お客さん、どこから来たのですか?」と20歳くらいの女性店員が、お茶を注ぎ足しに来て浪江に問う。
相手は素朴な感じの東北の女の子という感じであった。
「東京からなの」輪子は笑顔になった。
「一人旅ですね。いいな」相手は他に客が居なければ、立ち話を続けたい素ぶりであった。
輪子は散策しながら、北山駅まで歩いてみた。
浪江は北山丘陵の山すそにあった小さな公園で往時を偲んだ。
なぜか、遠い昔から見ていたよな景観に想われた。
北山駅から山形方面へ行く予定であった。
仙台から仙北線に乗って、北仙台まで行く。
北仙台の駅舎は1929年(昭和4年)に完成した開業以来の木造駅舎であり、輪子の心は和んだ。
駅名標はいわゆる「昭和モダン体」書体。
伊達政宗を祀る神社・青葉神社は仙台市都心部の北、北仙台地区の西の北山丘陵上にある。
神社の門前から南に続く道は青葉神社通りと呼ばれ、約2km南にある都心部の歓楽街・国分町に一直線に繋がる。
青葉神社通りからの参道は旧奥州街道に続くため商家が建ち並んでいた。
仙台北山丘陵は、北から西にかけての弧状の丘陵地であった。
北山丘陵の宗教施設は、東端から鹿島香取神社・光明寺・東昌寺・青葉神社・覚範寺・資福寺・輪王寺となっている。
覚範寺には仙台藩祖・伊達政宗の生母義姫(保春院)の墓がある。
北山五山は、宮城県仙台市青葉区の旧仙台城下町(現在の仙台市都心部)の北に東西に横たわる北山丘陵上にある5つの仏閣のことだ。
仙台城の鬼門を守る意味の他、奥州街道や根白石街道の関門となって仙台城下町の北の守りともされた。
鹿島香取神社は「伊達五山」と同様に伊達郡に創建され、伊達氏と共に各地を巡って最終的に仙台に遷宮された神社である。
この神社の存在により、江戸時代の北山丘陵の東端は「仙台七崎」の1つの「鹿島崎」と呼ばれた。
北山五山は、仏教を深く信仰した四代伊達政依が、現在の福島県伊達郡に鎌倉時代に創建した5つの臨済宗の寺がもとになっている。
「京都五山」や「鎌倉五山」に倣って、これらは「伊達五山」と称された。
浪江は、青葉神社の東隣の東昌寺へも足を向けた。
堤町から、奥州街道を西へ進むと、仙台の城下町の北辺を形成する北山丘陵の山すそを辿るルートになる。
北山丘陵~新坂通周辺(新坂町)~大崎八幡宮という旧仙台城下町の北から西にかけての弧状の丘陵地には、今では宅地開発もすすみ、マンションや住宅も増えているが、寺院等も多く立地することから、それらの擁する緑地帯が穏やかな市街地周辺部の住宅地に潤いを与えている。
伊達家ゆかりの著名な寺社の他、奥州仙臺七福神のうち大黒天が祀られている秀林寺のような庶民の観光地となっているものもある。
現存する本堂は、仙台市内最古の木造本堂とのことであった。
北仙台駅周辺に集まっていた材木商は戦後に廃業してしまうが、その跡地に1958年(昭和33年)、日用品の市場の「北仙台駅前交易センター」が開業している。
そこに形成された横丁は、東京・浅草にあやかりたいとの願いから「仙台浅草」と呼ばれるようになった。
浪江は仙台浅草で昼食にランチを食べた。
この日は塩サバ、ほうれん草、なめこの味噌汁。
炊き立てのご飯は甘くとても美味しかった。
「お客さん、どこから来たのですか?」と20歳くらいの女性店員が、お茶を注ぎ足しに来て浪江に問う。
相手は素朴な感じの東北の女の子という感じであった。
「東京からなの」輪子は笑顔になった。
「一人旅ですね。いいな」相手は他に客が居なければ、立ち話を続けたい素ぶりであった。
輪子は散策しながら、北山駅まで歩いてみた。
浪江は北山丘陵の山すそにあった小さな公園で往時を偲んだ。
なぜか、遠い昔から見ていたよな景観に想われた。
北山駅から山形方面へ行く予定であった。