十二月となり、そしてアドヴェントに入りました。アドヴェントの前に言っておくと、昨日十二月一日はアイスランドの「主権国家100周年」でした! というわけで、あちこちでこの日を祝う言葉が聞かれました。
長らくデンマーク王国の属国であったアイスランド。1918年の昨日、デンマーク国王をいただく独立国として認められました。歴史的には「アイスランド王国」だったということ。
デンマークの王を冠として載せていましたから、完全独立ではなかったのですが、識者によると「事実上は、完全な独立」だったのだそうです。「共和国」としての「超完全」独立は 1944年6月17日になってからのことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/a8/4f59f7480c0369ac58ca1a438e4ed876.jpg)
主権国家100周年 新聞も別冊でお祝い
さてアドヴェント。教会の暦では巷より一足早く新年となっています。Adventaアズヴェンタ、英語ではAdventですが、日本語では「待降節」とか「降臨節」とか称されます。
アドヴェントについては、これまでも毎年この時期にはなにがしかのことを書いてきましたので、よろしかったらそちらの方も参考にしてください。
アドベント来たり!
日曜日が三回しかないアドヴェント?
アドヴェントはラテン語のAdventusからきており「到来」を意味する言葉です。教会でこの言葉を使う時に指しているのは「キリストのこの世への到来」ということであり、まず第一義的にはキリストであるイエスの人間としての誕生のことを言います。キリストの「到来」、つまりはイエスの誕生を待つのがこの「待降節」アドヴェントであるわけです。
ですが、今日(こんにち)の教会においては、この「キリストの到来」については第二の意味があります。それは「キリストの再臨」という意味での「『再』到来」です。
どういうことかというと、キリスト教会の教えの中には「世の最後の時にはキリストが再び天より降り、人々に最後の審判を与える」ということがあり、このキリストの再臨を待って、世の中は「完璧な世界」つまり「神の国」に移る、ということなのです。
キリスト教会が世に誕生して間もない頃は、ひとびとはこの「キリストの再臨」、すなわち「世の終わり」ということを、たいそう現実的に、深刻に受け取ったと言われています。
現代ではこのトピックについては、おそらく相当幅のある考え方があるでしょうし、「これしかない」という定番の教えははっきりしていないように思えます。「キリストの再臨」と「世の終わり」を否定するのではなく、それらをどのように理解するかに幅があるように思われるのです。
これ以上突っ込むと、キリスト教に関心のない方をウンザリさせるでしょうから、ここで方向を転換したいと思います。向きを変える先は「待つ」ということに関してになります。
私たちが、アドヴェント「待降節」と言う際には、自動的に「到来」を「待つ」という風に「待つ」ことが「到来」とセットされている感があります。これは言葉の上だけのことではなく、実際にアドヴェントの内容理解について考えても、そう言っていいと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/a9/3b0963698a48955aa96a3930a8570efe.jpg)
カセドラルのアドヴェントクランツ 日曜日ごとにキャンドルに日を灯します
Myndin er ur Domkirkjan.is
で、この「待つ」ということなんですが、今の世の中では「待つ」「待たされる」「待たせる」ということはすべからく否定的に捉えられている気がします。その理由は簡単で、待つということは「時間の無駄」だからです。
「待つ」ということが、いかに人々にとって苦痛であり、イライラの素であるか、ということを、私はいつも飛行場にいる時に感じさせられます。
私自身、日本への帰省の旅を考えてみても、チェックインカウンターに並んでいる時の待ち時間は、旅行全体を通じて最もイライラがピークに達するプロセスです。最近、セルフチェックインが整ってきて、とても時間が節約されるようになったのは、非常なストレスに軽減ですよ、ワタシ的には。
途中、コペンハーゲンの空港。時間を惜しんでPCを覗き込んで仕事をしている人、音楽で気を紛らわせようとしている人、むずかる子どもを連れてイライラしながら、それでも食べ物を与えようとしている親、あきらめて寝ようとしている人。
いずれも無駄な時間をせめてマシに使おうとする「あがき」のように思えてしまいます。
サービスを提供する側にしても、なんとかして「待ち時間」というものを短くし、あわよくばなくしてしまおう、というのが基本の姿勢でしょう。待ち時間が短ければ短いほど、顧客は喜ぶのですから。「待ち時間は悪」なのです。
私個人としては、幸いなことに、そのような「待ち時間」は必ずしもムダな時間ではありません。教会でのお話しを考えたり、あるいは詩が好きなので、詩を考える時間に使うことができます。メモ用紙とシャーペンはいつでも持つようにしています。
ですが、この「待降節」のことを考えていて思いついたことがあります。「待ち時間」を人生から取り除き切ることはできないことでしょう。人の人生はある意味では最後の日を待ちながら過ごしている日々のことです。そのことの意識が明瞭か否かの違いはありましょうが、皆に当てはまります。
その規模を少し大きくして「人の世」とかを考えてみますと、これはキリスト教的な観点からになりますが、「キリストの再臨」を待ちながら過ごしているのが現在の世なのです。
ということは、これもキリスト教的な視点での話しになりますが、人にしても世にしても「待つ」ことの上に「今」「自分」というものが成り立っていることになります。そうだとしたら、もう少し「待つこと」「待ち時間」をポジティブに捉えるべきなのでは?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/71/86030d447d5b622628013ab3ec7b3e92.jpg)
「待つ」ことを楽しくさせる知恵、 アドヴェントカレンダーのチョコ 毎日ひとつのチョコです
Myndin er ur Heimkaup.is
「待つこと」をネガティブにしているもの、あるいは逆にポジティブにし得るものとして、双方に共通するひとつの要因というか、事柄の「核」のようなものがあります。それは「『自分では動かせないもの』があるから、それを待っている」ということです。
自分の人生の終わりにしても、キリストの再臨にしても、あるいは「世の終わり」でもいいですが、自分では動かせないものですね。自殺はここでは論外とします。人は生きられる分だけ生きる、というのがここでの前提としましょう。
自分の人生は、あるいは今のこの世は、自らでは動かし得ないものに結び付けられて存在しているんだ、ということをまず自覚しておくことは大切なことではないかと思います。
それは「あきらめる」とか「悟る」とかとは違うことです。なんというか、ものごとがある様を頭に入れて、そこから変えられないものと、変えられるものを見極めていくことだと思うのです。
非常に単純化して言うならば、木の根と枝を区別して考えるということでしょうか?根は簡単には動かせませんが、枝はある方向へ誘導したり、伐採したりすることができます。
「待つこと」の否定は、単純な類比で言うと、この根を動かそうとすることではないか、ということです。根を動かすことは容易ではありませんし、できた時には木そのものがダメになってしまうかも。
対して、枝は根気よく工夫し、育んでやれば、放っておくだけとはかなり違う姿とすることができるでしょう。それはすなわち、私たちの生き様の中での「動かせる部分」を考えてやる、ということにあたります。
今回は少し教会でのお話の準備のようになってしまいましたが -そして事実そうなのですが (^-^; - アドヴェントですのでご容赦ください。
でも「待つこと」は自分にとって何であるのか?を、しばし考えることは損にはならないだろうと考えます。
アドヴェント。別の言い方をすると、ますます慌ただしくなる師走です。皆さんもイライラをつのらせずに、待つことも勘定に入れてお過ごしくださいますよう。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
長らくデンマーク王国の属国であったアイスランド。1918年の昨日、デンマーク国王をいただく独立国として認められました。歴史的には「アイスランド王国」だったということ。
デンマークの王を冠として載せていましたから、完全独立ではなかったのですが、識者によると「事実上は、完全な独立」だったのだそうです。「共和国」としての「超完全」独立は 1944年6月17日になってからのことです。
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主権国家100周年 新聞も別冊でお祝い
さてアドヴェント。教会の暦では巷より一足早く新年となっています。Adventaアズヴェンタ、英語ではAdventですが、日本語では「待降節」とか「降臨節」とか称されます。
アドヴェントについては、これまでも毎年この時期にはなにがしかのことを書いてきましたので、よろしかったらそちらの方も参考にしてください。
アドベント来たり!
日曜日が三回しかないアドヴェント?
アドヴェントはラテン語のAdventusからきており「到来」を意味する言葉です。教会でこの言葉を使う時に指しているのは「キリストのこの世への到来」ということであり、まず第一義的にはキリストであるイエスの人間としての誕生のことを言います。キリストの「到来」、つまりはイエスの誕生を待つのがこの「待降節」アドヴェントであるわけです。
ですが、今日(こんにち)の教会においては、この「キリストの到来」については第二の意味があります。それは「キリストの再臨」という意味での「『再』到来」です。
どういうことかというと、キリスト教会の教えの中には「世の最後の時にはキリストが再び天より降り、人々に最後の審判を与える」ということがあり、このキリストの再臨を待って、世の中は「完璧な世界」つまり「神の国」に移る、ということなのです。
キリスト教会が世に誕生して間もない頃は、ひとびとはこの「キリストの再臨」、すなわち「世の終わり」ということを、たいそう現実的に、深刻に受け取ったと言われています。
現代ではこのトピックについては、おそらく相当幅のある考え方があるでしょうし、「これしかない」という定番の教えははっきりしていないように思えます。「キリストの再臨」と「世の終わり」を否定するのではなく、それらをどのように理解するかに幅があるように思われるのです。
これ以上突っ込むと、キリスト教に関心のない方をウンザリさせるでしょうから、ここで方向を転換したいと思います。向きを変える先は「待つ」ということに関してになります。
私たちが、アドヴェント「待降節」と言う際には、自動的に「到来」を「待つ」という風に「待つ」ことが「到来」とセットされている感があります。これは言葉の上だけのことではなく、実際にアドヴェントの内容理解について考えても、そう言っていいと思います。
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カセドラルのアドヴェントクランツ 日曜日ごとにキャンドルに日を灯します
Myndin er ur Domkirkjan.is
で、この「待つ」ということなんですが、今の世の中では「待つ」「待たされる」「待たせる」ということはすべからく否定的に捉えられている気がします。その理由は簡単で、待つということは「時間の無駄」だからです。
「待つ」ということが、いかに人々にとって苦痛であり、イライラの素であるか、ということを、私はいつも飛行場にいる時に感じさせられます。
私自身、日本への帰省の旅を考えてみても、チェックインカウンターに並んでいる時の待ち時間は、旅行全体を通じて最もイライラがピークに達するプロセスです。最近、セルフチェックインが整ってきて、とても時間が節約されるようになったのは、非常なストレスに軽減ですよ、ワタシ的には。
途中、コペンハーゲンの空港。時間を惜しんでPCを覗き込んで仕事をしている人、音楽で気を紛らわせようとしている人、むずかる子どもを連れてイライラしながら、それでも食べ物を与えようとしている親、あきらめて寝ようとしている人。
いずれも無駄な時間をせめてマシに使おうとする「あがき」のように思えてしまいます。
サービスを提供する側にしても、なんとかして「待ち時間」というものを短くし、あわよくばなくしてしまおう、というのが基本の姿勢でしょう。待ち時間が短ければ短いほど、顧客は喜ぶのですから。「待ち時間は悪」なのです。
私個人としては、幸いなことに、そのような「待ち時間」は必ずしもムダな時間ではありません。教会でのお話しを考えたり、あるいは詩が好きなので、詩を考える時間に使うことができます。メモ用紙とシャーペンはいつでも持つようにしています。
ですが、この「待降節」のことを考えていて思いついたことがあります。「待ち時間」を人生から取り除き切ることはできないことでしょう。人の人生はある意味では最後の日を待ちながら過ごしている日々のことです。そのことの意識が明瞭か否かの違いはありましょうが、皆に当てはまります。
その規模を少し大きくして「人の世」とかを考えてみますと、これはキリスト教的な観点からになりますが、「キリストの再臨」を待ちながら過ごしているのが現在の世なのです。
ということは、これもキリスト教的な視点での話しになりますが、人にしても世にしても「待つ」ことの上に「今」「自分」というものが成り立っていることになります。そうだとしたら、もう少し「待つこと」「待ち時間」をポジティブに捉えるべきなのでは?
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「待つ」ことを楽しくさせる知恵、 アドヴェントカレンダーのチョコ 毎日ひとつのチョコです
Myndin er ur Heimkaup.is
「待つこと」をネガティブにしているもの、あるいは逆にポジティブにし得るものとして、双方に共通するひとつの要因というか、事柄の「核」のようなものがあります。それは「『自分では動かせないもの』があるから、それを待っている」ということです。
自分の人生の終わりにしても、キリストの再臨にしても、あるいは「世の終わり」でもいいですが、自分では動かせないものですね。自殺はここでは論外とします。人は生きられる分だけ生きる、というのがここでの前提としましょう。
自分の人生は、あるいは今のこの世は、自らでは動かし得ないものに結び付けられて存在しているんだ、ということをまず自覚しておくことは大切なことではないかと思います。
それは「あきらめる」とか「悟る」とかとは違うことです。なんというか、ものごとがある様を頭に入れて、そこから変えられないものと、変えられるものを見極めていくことだと思うのです。
非常に単純化して言うならば、木の根と枝を区別して考えるということでしょうか?根は簡単には動かせませんが、枝はある方向へ誘導したり、伐採したりすることができます。
「待つこと」の否定は、単純な類比で言うと、この根を動かそうとすることではないか、ということです。根を動かすことは容易ではありませんし、できた時には木そのものがダメになってしまうかも。
対して、枝は根気よく工夫し、育んでやれば、放っておくだけとはかなり違う姿とすることができるでしょう。それはすなわち、私たちの生き様の中での「動かせる部分」を考えてやる、ということにあたります。
今回は少し教会でのお話の準備のようになってしまいましたが -そして事実そうなのですが (^-^; - アドヴェントですのでご容赦ください。
でも「待つこと」は自分にとって何であるのか?を、しばし考えることは損にはならないだろうと考えます。
アドヴェント。別の言い方をすると、ますます慌ただしくなる師走です。皆さんもイライラをつのらせずに、待つことも勘定に入れてお過ごしくださいますよう。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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