レイキャビクでは日ごとに「春」が近づくのが感じられます。なんて言うとちょっと言い過ぎになるでしょうが、日の光がみるみる輝きを取り戻しているのは事実ですし、夕方も五時を回ってもまだ明るいような日々になっています。
ただ日の出はまだまだ遅く、太陽が顔を出すのはやっと十時を回った頃ですね。日の光が強さを取り戻している分、その時間に車を運転していると、低いところにある太陽がまともに真正面、てなこともあります。これは正直やっかいなところです。
さて、今回はモデルというか「見本」?の大切さについて書いてみたいと思います。そんなに中身のある話しではありませんので、そのつもりで。(^-^;
Blue Bloods PC Reagan
よくスポーツで「イメージトレーニング」とか言いますよね。何をどんな具合にやればいいのか、というようなことをイメージとして頭に取り込んでおく、というようなことだと理解しています。
それって結構大切なこと、有用なものなのではないか?と思います。私は寒いところが大嫌いで、高校二年の頃までスケートをしたことがありませんでした。でもある週末誘われて、友達何人かと夜行のバスで富士急ハイランドへ行ったのです。
まったく初めてだったのですが、最初からかなりちゃんと滑ることができました。友達からも「オマエ、本当に初めてなのかよ?」とか言われましたから。
私はそんなに運動神経の良い男ではありませんが、その時滑れたのはイメージがあったからだと思うのです。少年トーマはオリンピックが大好きで、冬季大会のスケート競技なども良く熱中してみていたのでした。
それで、足はこう出して、体重を乗せて、カーブの時は外の足を大きく伸ばすようにして云々がイメージとして頭の中にありました。それが役に立ったのだと思います。
三年くらい前に、前にオフィスがあったネス教会の隣りあるにあるハーガスクール(中学校に相当)の生徒たちが、野球の真似というか、ソフトボール投げをしているのを通りがかかりに見たことがあります。
皆が皆、砲丸投げのような押し出す格好で投げていました。「こうやって投げるんだよ」としゃしゃり出ようかと本気で考えたほど、歯がゆかかったです。これは、おそらくこちらの子供達は野球を見たことがないので、「投げる」ということのイメージがないのだろうと想像しました。
で、私が思うには、これは別にスポーツに限られたことではありません。いろいろな種類の活動とか、立ち振る舞いにも「イメージ」「お手本」はあった方が良いのではないかと考えます。
Chicago P.D. Hank Voight
私は職業的に、人の前に立って話しをする機会が多くあります。教会の礼拝での説教、その他の場所でのスピーチ、あるいはレクチャー。日本語でする機会はほとんどありません。英語かアイスランド語です。
英語でのスピーチはわりとイメージが湧きやすいですね。何度も書いてきましたが、私はテレビのポリスものが大好きですので、「英語をこういう風にしゃべろう」ということに関してなら、かなりたくさんのモデルがあります。
ここでちょっと脱線しますが、私はわりと簡単にテレビの中のキャラクターに影響されます。「なりきり度」はかなり高い方でしょう。
例えば最近お気に入りのNYPDもののBlue Bloods。主人公のポリス・コミッショナー、フランク・リーガンは良くスピーチをしますし、それもかなり良いスピーチをします。
で、気がつくと、最近の私のスピーチの時の話し方はフランク・リーガン調になっていたのでした。話しの抑揚のつけ方、間の取り方、聴衆への目配りの仕方等々、真似っこです。でも、それが役に立つのです。
最近、もうひとつ気に入ってるキャラクターは、Chicago P.D.の主人公のダーティコップ、ハンス・ヴォイド刑事(警部補?)。この人はコワモテするタイプなので、話し方も「上から調」のことが多いのですが、最近これも気がついたら「祈りの会」でのお話しがハンク調になってきた??これはTPOがそぐわないかも。
ついでに告白しておきますと、教会の礼拝説教の時に、長らく手本にしてきたのはテレビのWest Wingでのバートレット大統領(マーティン・シーン)です。これもテレビのキャラではありますが、質の高いドラマだったので、物語中の演説などは本物の大統領よりも大統領らしいものでした。
そういうのを真似するところからスピーチとかは上達するのではないかと思います。私らのように英語が母国語ではない者は、特に「これ」というモデル、手本を持つことが大切なのではないでしょうか?
その点に限っては、私の「影響されやすいキャラ」で得をしたかもしれません。
West Wing President Bartlet
翻ってアイスランド語です。
アイスランド語でお説教やスピーチをすることも定期的にあるのですが、あまり上手ではないだろうと思います。もちろん読む練習は何度もしますし、原稿は校正されていますから、聞くに耐えない、ということはないでしょう。
ですが、自分自身でそれほど格好良いスピーカーだとは思えないのです。なぜかというと、そもそも「こういう風にしゃべろう」というモデル、良いイメージが頭の中にないからです。
なぜないのか?というと、周囲を見回してもお手本にしたくなるような、アイスランド人のスピーカーがいないからなのです。政治家にしても、テレビの中のキャラクターにしても。
この「手本の不在」は、英語での場合と比べても、長期的にはかなりのマイナス効果です。
「バートレット大統領調でアイスランド語をしゃべれば良いではないか?」とお思いの方もありましょう。ですが、そこが言葉の面白いところで、そうはいかないのです。
言葉が変わると、表現の違いや、通用しない言い回しというようなものもあるので、お話しの構造そのものや「トーン」までが変わってきます。例えば英語での説教を、そのままアイスランド語に訳しても良い風には仕上がらないのです。英語はわりと軽口がはさめるトーンですが、アイスランド語ではもっと重い雰囲気になります。
だから、アイスランド人で手本にしたい!と思わせてくれる人がいるのが望ましいのですが、これが叶わぬ夢となっています。
大体スピーチに限らず、アイスランド人「格好良い」とか憧れる人はいないようなあ… 何でだろう?。みんな距離が近くにいるから、「夢」的に憧れることができないのかなあ。
アイスランド産のテレビドラマとかが少ないから、手本の標本自体が小さいとか?
二十年以上もここで暮らし、そこでの生活はかなり気に入っているのに、考えてみたら憧れる人物がぜんぜんいない。これって、もしかしたら結構「深い」問題かもしれません。
そう言えば、二十年も前に「クレヨンしんちゃん」を、アイスランド語に吹き替えて放送してたなあ。あれを見てこちらの子供達は「ブリブリ! ブリブリ!」とか真似をするようになったのでしょうか…?
それはまた別の問題か…?(*^^*)
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
ただ日の出はまだまだ遅く、太陽が顔を出すのはやっと十時を回った頃ですね。日の光が強さを取り戻している分、その時間に車を運転していると、低いところにある太陽がまともに真正面、てなこともあります。これは正直やっかいなところです。
さて、今回はモデルというか「見本」?の大切さについて書いてみたいと思います。そんなに中身のある話しではありませんので、そのつもりで。(^-^;
Blue Bloods PC Reagan
よくスポーツで「イメージトレーニング」とか言いますよね。何をどんな具合にやればいいのか、というようなことをイメージとして頭に取り込んでおく、というようなことだと理解しています。
それって結構大切なこと、有用なものなのではないか?と思います。私は寒いところが大嫌いで、高校二年の頃までスケートをしたことがありませんでした。でもある週末誘われて、友達何人かと夜行のバスで富士急ハイランドへ行ったのです。
まったく初めてだったのですが、最初からかなりちゃんと滑ることができました。友達からも「オマエ、本当に初めてなのかよ?」とか言われましたから。
私はそんなに運動神経の良い男ではありませんが、その時滑れたのはイメージがあったからだと思うのです。少年トーマはオリンピックが大好きで、冬季大会のスケート競技なども良く熱中してみていたのでした。
それで、足はこう出して、体重を乗せて、カーブの時は外の足を大きく伸ばすようにして云々がイメージとして頭の中にありました。それが役に立ったのだと思います。
三年くらい前に、前にオフィスがあったネス教会の隣りあるにあるハーガスクール(中学校に相当)の生徒たちが、野球の真似というか、ソフトボール投げをしているのを通りがかかりに見たことがあります。
皆が皆、砲丸投げのような押し出す格好で投げていました。「こうやって投げるんだよ」としゃしゃり出ようかと本気で考えたほど、歯がゆかかったです。これは、おそらくこちらの子供達は野球を見たことがないので、「投げる」ということのイメージがないのだろうと想像しました。
で、私が思うには、これは別にスポーツに限られたことではありません。いろいろな種類の活動とか、立ち振る舞いにも「イメージ」「お手本」はあった方が良いのではないかと考えます。
Chicago P.D. Hank Voight
私は職業的に、人の前に立って話しをする機会が多くあります。教会の礼拝での説教、その他の場所でのスピーチ、あるいはレクチャー。日本語でする機会はほとんどありません。英語かアイスランド語です。
英語でのスピーチはわりとイメージが湧きやすいですね。何度も書いてきましたが、私はテレビのポリスものが大好きですので、「英語をこういう風にしゃべろう」ということに関してなら、かなりたくさんのモデルがあります。
ここでちょっと脱線しますが、私はわりと簡単にテレビの中のキャラクターに影響されます。「なりきり度」はかなり高い方でしょう。
例えば最近お気に入りのNYPDもののBlue Bloods。主人公のポリス・コミッショナー、フランク・リーガンは良くスピーチをしますし、それもかなり良いスピーチをします。
で、気がつくと、最近の私のスピーチの時の話し方はフランク・リーガン調になっていたのでした。話しの抑揚のつけ方、間の取り方、聴衆への目配りの仕方等々、真似っこです。でも、それが役に立つのです。
最近、もうひとつ気に入ってるキャラクターは、Chicago P.D.の主人公のダーティコップ、ハンス・ヴォイド刑事(警部補?)。この人はコワモテするタイプなので、話し方も「上から調」のことが多いのですが、最近これも気がついたら「祈りの会」でのお話しがハンク調になってきた??これはTPOがそぐわないかも。
ついでに告白しておきますと、教会の礼拝説教の時に、長らく手本にしてきたのはテレビのWest Wingでのバートレット大統領(マーティン・シーン)です。これもテレビのキャラではありますが、質の高いドラマだったので、物語中の演説などは本物の大統領よりも大統領らしいものでした。
そういうのを真似するところからスピーチとかは上達するのではないかと思います。私らのように英語が母国語ではない者は、特に「これ」というモデル、手本を持つことが大切なのではないでしょうか?
その点に限っては、私の「影響されやすいキャラ」で得をしたかもしれません。
West Wing President Bartlet
翻ってアイスランド語です。
アイスランド語でお説教やスピーチをすることも定期的にあるのですが、あまり上手ではないだろうと思います。もちろん読む練習は何度もしますし、原稿は校正されていますから、聞くに耐えない、ということはないでしょう。
ですが、自分自身でそれほど格好良いスピーカーだとは思えないのです。なぜかというと、そもそも「こういう風にしゃべろう」というモデル、良いイメージが頭の中にないからです。
なぜないのか?というと、周囲を見回してもお手本にしたくなるような、アイスランド人のスピーカーがいないからなのです。政治家にしても、テレビの中のキャラクターにしても。
この「手本の不在」は、英語での場合と比べても、長期的にはかなりのマイナス効果です。
「バートレット大統領調でアイスランド語をしゃべれば良いではないか?」とお思いの方もありましょう。ですが、そこが言葉の面白いところで、そうはいかないのです。
言葉が変わると、表現の違いや、通用しない言い回しというようなものもあるので、お話しの構造そのものや「トーン」までが変わってきます。例えば英語での説教を、そのままアイスランド語に訳しても良い風には仕上がらないのです。英語はわりと軽口がはさめるトーンですが、アイスランド語ではもっと重い雰囲気になります。
だから、アイスランド人で手本にしたい!と思わせてくれる人がいるのが望ましいのですが、これが叶わぬ夢となっています。
大体スピーチに限らず、アイスランド人「格好良い」とか憧れる人はいないようなあ… 何でだろう?。みんな距離が近くにいるから、「夢」的に憧れることができないのかなあ。
アイスランド産のテレビドラマとかが少ないから、手本の標本自体が小さいとか?
二十年以上もここで暮らし、そこでの生活はかなり気に入っているのに、考えてみたら憧れる人物がぜんぜんいない。これって、もしかしたら結構「深い」問題かもしれません。
そう言えば、二十年も前に「クレヨンしんちゃん」を、アイスランド語に吹き替えて放送してたなあ。あれを見てこちらの子供達は「ブリブリ! ブリブリ!」とか真似をするようになったのでしょうか…?
それはまた別の問題か…?(*^^*)
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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