レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

「愛さないから悲しまない」クールなヤツ

2019-12-08 00:00:00 | 日記
レイキャビク、先週は一時期異様に暖かい日がありましたが、週の中頃から気温は零下に落ち込み、雪も降りいつもの冬となっています。身体ももう慣れてきたので、このくらいの冷え込みなら大丈夫。

先週の金曜日に「まず日本では起こらないだろう」と思える珍事がありましたので、まずそのご紹介を。

このところジャーナリスト協会が賃上げ交渉をしてきています。賃金だけではなく、労働条件の改善もそこに含まれていることと理解しています。

ところが交渉はうまく進まず、先月から断発的にジャーナリスト、ニュース関係者、新聞関係者、一部はフォトグラファーや印刷関係の仕事従事者も含んで、ストライキを始めました。丸一日、とかではなくて、数時間単位でした。

それがだんだんと、ストらしいストになってきており、金曜日のFrettabladid紙では、なんとニュース記事がすべて印刷に間に合わず、全体の半分が「白紙」という珍妙な新聞が発行されました。




こんな新聞見たことない! 結構嬉しい


掲載されているのは、広告と、週刊記事のようなそれ以前から用意されていたものだけ。その他の部分は「白」というか灰色の空欄ばかり。ページ数は予定されていた通り。

私の生涯でもこのようなブッタイを目にするのは初めてでした。日本では「あり得ない」のではないでしょうか?こういうところが好きです、アイスランド。(*^^*)

さて、ブログをしていていくつか心がけていることがあります。そのひとつは特定の個人に関わるエピソードの場合は「あまり起こったばかりのことは書かない」ということです。

「起こった先からブログネタにしてるんだ」というよな危惧の念を持って欲しくないからです。まあ、良いことならいいんでしょうが。

前回、緊急手術を受けて集中治療室にいる女性のことを書きましたが、本当に嬉しいことに、その女性は回復過程にあり、自分でFacebookにステイタスをアップできるほどになりました。

まさしく「今、起こっていること」なんですが、これは皆さんにも伝えておいた方が良いだろうと思い、ご報告させていただきます。神に感謝、です。もちろん医療関係者の皆さんにも。

数日の間だけではありましたが、「その女性が危篤だ」ということが頭から消えさることはありませんでした。いつも考えているわけではないのですが、定期的に意識の中に戻ってくるのです。短い期間で終わってくれたので幸いです。

前回は私の知り合いの元難民の家族の中の中学生のことも書きました。心臓疾患があり、手術を「した」と書きましたが、実はまだ「手術予定」の段階でした。この子のことも頭に引っかかっています。

難民の関連で、もう一事例を付け加えましょう。ある難民申請者の夫婦が教会の集会に加わっているのですが、奥さんが妊娠しています。九月の初めの頃、調子が悪くなり病院へ。

入院先が婦人科だったので、私は同僚の女性牧師といっしょにお見舞いに行きました。お見舞いと言うよりは容態が心配で、スタッフの方からも様子を聞きたかったのです。

こちらではまだ「牧師」という立場がものを言うこともあり、患者さんの容態など、牧師にはコンフィデンシャルなことでも、だいたい話してくれます。

心配は見事に当たってしまい「非常に良くない。おそらく今夜赤ちゃんを取り上げることになるかもしれない」というのです。その時点で、まだ妊娠29週目。相当の早産になります。

その晩はやはりそのことが頭から離れず非常に心配しました。朝目が覚めた時、いの一番に「電話で起こされなかったー」とホッとした気持ちになりました。良くないことが起きれば連絡が来るのが常ですので。

ついで携帯を見ると、ご主人からメッセージが入っています。「深夜に赤ちゃん生まれました!」オーッ、生まれたんだ! もう! けれども、まだ心配は続きます。何しろ小さいですから。

その日の午後、また同じ女性牧師とお見舞いに、というかお祝いのために病院を訪れました。赤ちゃんには会えませんでしたが、なりたてのパパとママは嬉しそうでした。というか、ママはホッとした風。パパははしゃぎたそう。

スタッフがパパに話したところでは、「あと六週間から八週間は保育箱の中でお世話をすることになります」それ以降、この赤ちゃんの健康な成長も大切な祈りの課題となりました。




今月始めの洗礼式 私は「ゴッドファーザー」


赤ちゃんは、本当にありがたいことに、日々強く大きくなってくれ、今月のアドベント入りの日曜日に、私のホーム教会の礼拝で洗礼式を受けました。洗礼をしたのは、さっきとは別の女性牧師。私たちは三人でこの夫婦と赤ちゃんにフォローしていたのです。

なにしろ難民なので、何も持っていないのです。ベビーベッドやら、赤ちゃん用の服、ベビーカーなども退院の時期までに集めておかなくてはなりません。そっちの方は、私よりもふたりの女性牧師の方がはりきってやってくれましたが。ああ、ついでに、私たち、皆九月にジュネーブに行ってきた仲間です。

ジュネーブ中街ワイワイ日誌(19-3)– 魔法の解けた日曜の晩餐


さて、このような心配事は、人の健康に関わることに限られず、例えば祈りの会のメンバーの難民申請者が強制送還される、というような場合も似たり寄ったりのことになります。

「明朝、誰々が送還される」と承知している場合、その晩はスッキリしないものになります。正直言って沈痛な感じ。朝、目が覚めたら「行っちゃったかな、もう?」という残念感が襲ってきます。ほとんどの場合、送還は朝一番の便でなされるからです。

さらに残念なことですが、こちらの「送還による心配と残念」は不定期ではあっても、必ずやってきます。難民の人たちと関わるのであれば、これは絶対に避け得ないことなんです。



ホーム教会 これで朝の十時くらい


ところで、私は「キリスト教についてもっと知りたい」という人に対しては、いつも「キリスト教は愛と赦しを基本にする信仰だから」ということから始めます。若い頃は「歯の浮くような言葉とはまさしくそれだ」と思ったものですが、今になると「だって、そうなんだから」としか言えないですね。

いつだったか、「じゃあ、教えに背いても罰はないの?へえ、じゃあ、楽な宗教だなあ!」と意見した人がいました。この人は厳しいイスラム教の躾の中で育ったそうで、ともかく「あれをすれば罰、これをすれば地獄」というような教えを受けたそうです。

イスラム教徒が、皆そういう育ち方をしていないことはわかっていますが、それでもかなりの数のモスレムの人から同じようなことを聞いています。まあ、ここではそれ以上は触れません。

キリスト教では「罰を与える」ことは、ないとは言いませんが、それが目的になったり、人を支配する手段になることはありません。いや、そうする人もあるかもしれませんが、それは間違ったことです。

「だから、キリスト教は楽な宗教」?人によって考えは違うでしょうが、私は「楽だ」とは考えないですね。人を愛そうとし、人のことを気にかければかけるほど、心配なことや、悲しく残念なことも増えてきます。間違いなく、絶対。

「私は私、他人は他人」と割り切ってしまえばそのような困難からは楽になるでしょうが、そういうのはキリスト教的には「悲しい生き方」なのです。「愛さないから悲しまない」ってクール?深いところでは全然クールではないと思いますね。

偉そうに聞こえるでしょうが、私は、誰のことも気にかけないでクール(っぽく)生活するよりは、たとえ沈痛な数日を過ごしても、その後で涙が出るほどの嬉しさを感じることができるような生活をしたいですね。

だって、生きてるんですから。(*^^*)


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is

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