超マイナーなブログの「レイキャビク西街ひとり日誌」ですが、2019年もラスマエの回となりました。(「ラスマエ」なんて今でも言うのでしょうか? ついに「死語」を使う世代になったかと一瞬ドキッとしました (^-^;) 大晦日(日本では多分新年)にもう一回「ラスト」の投稿をするつもりではいますが。
皆さんはどのようなクリスマスを過ごされましたか?っていうか、こういう質問は、あんまり日本ではしないですよね?「お正月はどう過ごしましたか?」「夏休みはいかがでしたか?」っていうのはあるでしょうが、クリスマスのように一日半に満たないイベント?の場合は「クリスマスには何してたの?」みたいな質問でしょうか?
アイスランドでは、クリスマスは年を超えて1月6日までの祭りですので「クリスマスはどうやって過ごした?」のような質問はよく耳にするところです。
私自身はここ数年間と同じようなクリスマスを過ごしつつあります。特別職の牧師である私は、以前はクリスマスには特に遂行義務がなく、ヒマな立場でした。
ですが、難民の人たちとの交流がドカンと増えてきたここ五年くらい、普通のチマタの牧師さんらと同じくらいクリスマス行事があります。さらに、難民の人たちへの普段よりのサポート自体は休むことなく続きますので、まあ、かなりすることはたくさんあると言っていいでしょうね。
日本の教会の同僚牧師さんが「クリスマスは、教会では『クルシミマス』とも言うが、オラは『苦しい』と感じたことはない」とかFacebookに書いていました。「クルシミマス」というのは初めて耳にしました。よく言うよ。(*^^*)
ヨーラ・メサ出演のクルド家族
Myndin er ur RUV.is
さて今回は、ちょっとだけいつもとは違ったクリスマスでの体験をご紹介します。
アイスランドはいわゆる「キリスト教文化」の国ですので、昔はラジオで、テレビが普及してからはラジオとテレビでクリスマスイブにmessaメサ(英語のmass、「礼拝」のこと) が放送されます。
ラジオは生(ナマ)ですが、テレビで放映されるメサは例年事前に収録されていました。実際にメサをして、それをそのまま録画し、放送するのす。
アルシンキ(国会)議事堂の隣りにあるドム教会というカセドラルを使うのが普通です。カセドラルの本来の意味するところは「監督の座がある教会」ということですので、ビショップ(監督)が説教をするヨーラ(クリスマス)のメサは、ドム教会でするのが普通なのです。
この収録、十二月の中頃に行われるのが慣例で、平日の夕方6時くらいからなのですが、みんな忙しくなってる時期だし、教会をサクラ... いや、お客さんたちで満杯にするのがかなり大変です。去年は監督のオフィスから、レイキャビク周辺の牧師連ひとりひとりに事前にメイルが届き「是非来てください」
いったい招待なのか、お願いなのか、召喚なのか?義理堅い私は、ちゃんとスーツにタイという格好で参加しました。放映はクリスマスイブなので、それらしく見えるようにドレス・コードまであるのです。
今年もそのつもりでいたのですが、12月8日の金曜日に、監督のオフィスから連絡が入りました。「来週の月曜日の午後1時から収録したいのだが、監督の希望で何人か難民の人たちに祈りの部分で参加してもらえないか?」
何だよ、中二日か?「してもらえないか」って、「何人か手配しろ」っていうことだろう?何だか変な商売やってる気分。
何かの機会で「難民の人たちにも参加してほしいのだけれど、誰かお願いしてもらえない?」ということは、教会の中でも外でもよくあります。難民を「見せ物」「飾り」のように見ている企画も中にはありますので、気をつけなくてはなりません。
ですが今回は監督からの要請。これは教会が難民問題をきちんと認識し始めたことの良いアピールにもなり得ます。ヨーラ・メサなどは、特に「伝統意識」が強い行事なので、移民や難民が参加するには壁が高かった分野なのです。
ですから、今回のような難民への参加の依頼とかは、私からすればありがたいチャンスですし、きちんと支援する必要があります。たとえ「手配師」と呼ばれても。
ただ、教会といえども難民が「飾り物」とされてしまう危険というのは常にあります。そこは私が注意してやらねばならない部分です。
聖書の朗読部分の収録
というわけで、中二日というきわめて短い準備期間の中でお祈りを読んでくれる人を見つけにかかりました。
これが結構難しいのです。私の日頃から関係している人たちはイランやアフガンからの難民の人たちが多数派です。ところがイラン人もアフガン人も、教会にいることが公にされると、いろいろと不都合が生じてしまうのです。これは冗談ではなく、とても現実的なことです。ですからテレビ用のメサは無理です。
それ以外の少数派から、候補を見つけなくてはなりません。
そこで頼んだのが、ナイジェリアからの元難民の夫妻。英語もきちんとできるし、別に顔出しOK。収録が平日の午後なので、ご主人の仕事とのコンフリクトだけが不安でしたが、奥さんの方は100パーで大丈夫と言います。ありがたや。
そしてもう一組、クルド人の男性とその9歳の娘さんに頼んでみました。この父娘は、男性の奥さん、長男、生まれたばかりの赤ちゃんと合わせて五人家族なのですが、奥さんは英語がダメなので、ご主人と利発な長女の女の子に頼んでみたのです。
この父娘からもOKをもらいましたが、ご主人のスーツがない。この間まで難民ですからね。さいわい背格好が私と同じくらいだったので、私のスーツを試してもらいました。するとこれがピッタシカンカンのありがたや。
意外とスムーズに「手配」完了。と、思いきや、日曜になって監督の秘書から(ちなみに彼も牧師)「お祈りが全部英語というのは困るかもしれないので、アイスランド語を喋れる人も混ぜてくれないか?」
なんだと、いまさら! アイスランド語をしゃべれるようになった元難民の人も大勢います。でもその人たちはおそらくみんな「お仕事中」でしょう、平日の昼なんだから! 監督のオフィスの「世ズレ」です。
英語ができる人だって見つけるのが大変なんだし、今日の明日でアイスランド語というのはちょっとハードルが高い。というとこで私はアンチョコな解決を選択しました。「じゃあ、オラがやる」
難民ではありませんが、「難民関係者」 移民なのは確かだし、しかもいかにも「移民」ぽく見える。アイスランド語も一応OK。顔出し、諸手を挙げてOK。 と、いうわけで、再び「手配」完了。
実際は、時間の変更などが何度もありすったもんだしたし、イライラもしたのですが、とにかく収録当日に。
今年のヨーラ・メサの会場はハットゥルグリムス教会
Myndin er ur Visiris/VILHELM
場所は、今年はランドマーク化したハットゥルグリムス教会。ダウンタウンの小高い丘の頂上にある、この国としては大きな教会です。これには首をひねりました。あの大きくはないドム教会ですら、お客さんをいっぱいにするのに苦労していたのに、どうやってその四倍はあるようなハットゥルグリムス教会を埋めるつもりだろう?しかも平日の昼過ぎに。
収録時間の十五分前になって、やっとワタシは気がつきました。この収録、メサのまるまる録画じゃないんだ! そうなんです。今年は収録の仕方が変わって、パーツごとに収録をし、それを後から編集してひとつにまとめることにしたそうなのです。
聞けばRUV(国営放送)の方からのリクエストだったそうで「一度、そういう仕方で作らせてくれ」ということだったそうな。
つまりクワイヤはクワイヤで、ちゃんとお客さん付きの教会で歌の部分を収録します。クワイヤにはお客さんは十分集まるのです。その部分の収録は、その時点ですでに一週間前に終わっていたそうです。
監督は監督で、ランドマーク的大教会で空っぽの会衆席に向かって説教します。まあ、秘書とRUVのクルーはいたでしょうが。で、私ら祈りのセクション一派は、会衆席の端にあるミニ祭壇の前で祈りを読むことになっていました。
土壇場になって、ナイジェリアの夫婦はご主人が来られなくなり、奥さんだけで読んでもらうことに。さらにクルドの父娘に関しては、付き添って来ていた奥さんと赤ちゃんも一緒に画に入ってもらうことに。これはワタシの発案。画の方が言葉よりも雄弁に語る時もあります。
何とか収録を終えることができ、ホッ。疲れたー。
そしてクリスマス・イブの晩。放送は午後の10時からです。
見ました。パーツ収録を編集した今回のヨーラ・メサ、全体としたらいろいろと改善の余地はあるでしょう。私はモノトーン過ぎてもの足りませんでした。
が、祈りのパーツは非常にうまくいったと自画自賛できます。計四人が祈りを読みました。アグネス監督、ナイジェリアの元難民の婦人、アジア系の貧相な老人男性、クルドからの元難民男性with 奥さんと娘さんと赤ちゃん。
アイスランド語ふたり、英語ふたり、男性ふたり、女性ふたり。バランスも文句なし。ワタシ的には特にクルドの家族での出演は、平和と安全を願う祈りでの、なんというか鮮明なイメージとなったと思いますし、一番の印象に残るものとなりました。
アグネス監督のクリスマスメッセージを伝えるニュース 難民の参加も話題に
Myndin er ur Visir.is
翌日。アグネス監督はホームのドム教会の朝のメサで説教をしましたが、その中でこの難民の人たちのヨーラ・メサへの参加について触れました。
「アイスランド国民にとって、『聖なる時間』ともいえるヨーラのメサの祈りが英語でなされることに違和感を覚えた人もあろうことでしょう。ですが、すべての人に愛、思いやりをもって腕を広げ、仕えるのは教会の務めです」
実際、この難民の人たちの祈りはニュースにもなりました。私自身が目にし、耳にした限りでは圧倒的にポジティブな反応で、これを教会の正しい姿勢として評価していました。ありがたや。
たった六、七分のカットの裏に、いかに多くの準備や意図、イライラが必要なことか。疲れましたが、終わってみれば良い結果しか見えません。こういう時には、やはり何か見えない糸が引っ張ってくれたんだろう、などと勝手に思い込んでいます。
2019年もあと四日。病気や事故に気をつけて過ごされ、良いお正月を迎えてくださいますよう。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
皆さんはどのようなクリスマスを過ごされましたか?っていうか、こういう質問は、あんまり日本ではしないですよね?「お正月はどう過ごしましたか?」「夏休みはいかがでしたか?」っていうのはあるでしょうが、クリスマスのように一日半に満たないイベント?の場合は「クリスマスには何してたの?」みたいな質問でしょうか?
アイスランドでは、クリスマスは年を超えて1月6日までの祭りですので「クリスマスはどうやって過ごした?」のような質問はよく耳にするところです。
私自身はここ数年間と同じようなクリスマスを過ごしつつあります。特別職の牧師である私は、以前はクリスマスには特に遂行義務がなく、ヒマな立場でした。
ですが、難民の人たちとの交流がドカンと増えてきたここ五年くらい、普通のチマタの牧師さんらと同じくらいクリスマス行事があります。さらに、難民の人たちへの普段よりのサポート自体は休むことなく続きますので、まあ、かなりすることはたくさんあると言っていいでしょうね。
日本の教会の同僚牧師さんが「クリスマスは、教会では『クルシミマス』とも言うが、オラは『苦しい』と感じたことはない」とかFacebookに書いていました。「クルシミマス」というのは初めて耳にしました。よく言うよ。(*^^*)
ヨーラ・メサ出演のクルド家族
Myndin er ur RUV.is
さて今回は、ちょっとだけいつもとは違ったクリスマスでの体験をご紹介します。
アイスランドはいわゆる「キリスト教文化」の国ですので、昔はラジオで、テレビが普及してからはラジオとテレビでクリスマスイブにmessaメサ(英語のmass、「礼拝」のこと) が放送されます。
ラジオは生(ナマ)ですが、テレビで放映されるメサは例年事前に収録されていました。実際にメサをして、それをそのまま録画し、放送するのす。
アルシンキ(国会)議事堂の隣りにあるドム教会というカセドラルを使うのが普通です。カセドラルの本来の意味するところは「監督の座がある教会」ということですので、ビショップ(監督)が説教をするヨーラ(クリスマス)のメサは、ドム教会でするのが普通なのです。
この収録、十二月の中頃に行われるのが慣例で、平日の夕方6時くらいからなのですが、みんな忙しくなってる時期だし、教会をサクラ... いや、お客さんたちで満杯にするのがかなり大変です。去年は監督のオフィスから、レイキャビク周辺の牧師連ひとりひとりに事前にメイルが届き「是非来てください」
いったい招待なのか、お願いなのか、召喚なのか?義理堅い私は、ちゃんとスーツにタイという格好で参加しました。放映はクリスマスイブなので、それらしく見えるようにドレス・コードまであるのです。
今年もそのつもりでいたのですが、12月8日の金曜日に、監督のオフィスから連絡が入りました。「来週の月曜日の午後1時から収録したいのだが、監督の希望で何人か難民の人たちに祈りの部分で参加してもらえないか?」
何だよ、中二日か?「してもらえないか」って、「何人か手配しろ」っていうことだろう?何だか変な商売やってる気分。
何かの機会で「難民の人たちにも参加してほしいのだけれど、誰かお願いしてもらえない?」ということは、教会の中でも外でもよくあります。難民を「見せ物」「飾り」のように見ている企画も中にはありますので、気をつけなくてはなりません。
ですが今回は監督からの要請。これは教会が難民問題をきちんと認識し始めたことの良いアピールにもなり得ます。ヨーラ・メサなどは、特に「伝統意識」が強い行事なので、移民や難民が参加するには壁が高かった分野なのです。
ですから、今回のような難民への参加の依頼とかは、私からすればありがたいチャンスですし、きちんと支援する必要があります。たとえ「手配師」と呼ばれても。
ただ、教会といえども難民が「飾り物」とされてしまう危険というのは常にあります。そこは私が注意してやらねばならない部分です。
聖書の朗読部分の収録
というわけで、中二日というきわめて短い準備期間の中でお祈りを読んでくれる人を見つけにかかりました。
これが結構難しいのです。私の日頃から関係している人たちはイランやアフガンからの難民の人たちが多数派です。ところがイラン人もアフガン人も、教会にいることが公にされると、いろいろと不都合が生じてしまうのです。これは冗談ではなく、とても現実的なことです。ですからテレビ用のメサは無理です。
それ以外の少数派から、候補を見つけなくてはなりません。
そこで頼んだのが、ナイジェリアからの元難民の夫妻。英語もきちんとできるし、別に顔出しOK。収録が平日の午後なので、ご主人の仕事とのコンフリクトだけが不安でしたが、奥さんの方は100パーで大丈夫と言います。ありがたや。
そしてもう一組、クルド人の男性とその9歳の娘さんに頼んでみました。この父娘は、男性の奥さん、長男、生まれたばかりの赤ちゃんと合わせて五人家族なのですが、奥さんは英語がダメなので、ご主人と利発な長女の女の子に頼んでみたのです。
この父娘からもOKをもらいましたが、ご主人のスーツがない。この間まで難民ですからね。さいわい背格好が私と同じくらいだったので、私のスーツを試してもらいました。するとこれがピッタシカンカンのありがたや。
意外とスムーズに「手配」完了。と、思いきや、日曜になって監督の秘書から(ちなみに彼も牧師)「お祈りが全部英語というのは困るかもしれないので、アイスランド語を喋れる人も混ぜてくれないか?」
なんだと、いまさら! アイスランド語をしゃべれるようになった元難民の人も大勢います。でもその人たちはおそらくみんな「お仕事中」でしょう、平日の昼なんだから! 監督のオフィスの「世ズレ」です。
英語ができる人だって見つけるのが大変なんだし、今日の明日でアイスランド語というのはちょっとハードルが高い。というとこで私はアンチョコな解決を選択しました。「じゃあ、オラがやる」
難民ではありませんが、「難民関係者」 移民なのは確かだし、しかもいかにも「移民」ぽく見える。アイスランド語も一応OK。顔出し、諸手を挙げてOK。 と、いうわけで、再び「手配」完了。
実際は、時間の変更などが何度もありすったもんだしたし、イライラもしたのですが、とにかく収録当日に。
今年のヨーラ・メサの会場はハットゥルグリムス教会
Myndin er ur Visiris/VILHELM
場所は、今年はランドマーク化したハットゥルグリムス教会。ダウンタウンの小高い丘の頂上にある、この国としては大きな教会です。これには首をひねりました。あの大きくはないドム教会ですら、お客さんをいっぱいにするのに苦労していたのに、どうやってその四倍はあるようなハットゥルグリムス教会を埋めるつもりだろう?しかも平日の昼過ぎに。
収録時間の十五分前になって、やっとワタシは気がつきました。この収録、メサのまるまる録画じゃないんだ! そうなんです。今年は収録の仕方が変わって、パーツごとに収録をし、それを後から編集してひとつにまとめることにしたそうなのです。
聞けばRUV(国営放送)の方からのリクエストだったそうで「一度、そういう仕方で作らせてくれ」ということだったそうな。
つまりクワイヤはクワイヤで、ちゃんとお客さん付きの教会で歌の部分を収録します。クワイヤにはお客さんは十分集まるのです。その部分の収録は、その時点ですでに一週間前に終わっていたそうです。
監督は監督で、ランドマーク的大教会で空っぽの会衆席に向かって説教します。まあ、秘書とRUVのクルーはいたでしょうが。で、私ら祈りのセクション一派は、会衆席の端にあるミニ祭壇の前で祈りを読むことになっていました。
土壇場になって、ナイジェリアの夫婦はご主人が来られなくなり、奥さんだけで読んでもらうことに。さらにクルドの父娘に関しては、付き添って来ていた奥さんと赤ちゃんも一緒に画に入ってもらうことに。これはワタシの発案。画の方が言葉よりも雄弁に語る時もあります。
何とか収録を終えることができ、ホッ。疲れたー。
そしてクリスマス・イブの晩。放送は午後の10時からです。
見ました。パーツ収録を編集した今回のヨーラ・メサ、全体としたらいろいろと改善の余地はあるでしょう。私はモノトーン過ぎてもの足りませんでした。
が、祈りのパーツは非常にうまくいったと自画自賛できます。計四人が祈りを読みました。アグネス監督、ナイジェリアの元難民の婦人、アジア系の貧相な老人男性、クルドからの元難民男性with 奥さんと娘さんと赤ちゃん。
アイスランド語ふたり、英語ふたり、男性ふたり、女性ふたり。バランスも文句なし。ワタシ的には特にクルドの家族での出演は、平和と安全を願う祈りでの、なんというか鮮明なイメージとなったと思いますし、一番の印象に残るものとなりました。
アグネス監督のクリスマスメッセージを伝えるニュース 難民の参加も話題に
Myndin er ur Visir.is
翌日。アグネス監督はホームのドム教会の朝のメサで説教をしましたが、その中でこの難民の人たちのヨーラ・メサへの参加について触れました。
「アイスランド国民にとって、『聖なる時間』ともいえるヨーラのメサの祈りが英語でなされることに違和感を覚えた人もあろうことでしょう。ですが、すべての人に愛、思いやりをもって腕を広げ、仕えるのは教会の務めです」
実際、この難民の人たちの祈りはニュースにもなりました。私自身が目にし、耳にした限りでは圧倒的にポジティブな反応で、これを教会の正しい姿勢として評価していました。ありがたや。
たった六、七分のカットの裏に、いかに多くの準備や意図、イライラが必要なことか。疲れましたが、終わってみれば良い結果しか見えません。こういう時には、やはり何か見えない糸が引っ張ってくれたんだろう、などと勝手に思い込んでいます。
2019年もあと四日。病気や事故に気をつけて過ごされ、良いお正月を迎えてくださいますよう。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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