レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

「目を覗き込む」ということ 

2021-08-15 00:00:00 | 日記
こんにちは/こんばんは。

コロナは相変わらずです。毎日百人超えの新規感染者が出て、医療体制が悲鳴を上げています。日本のニュースを見ていて、日本とアイスランドのコロナの状況が頭の中で勝手にシンクロしています。




清涼感アップ用ピック 上から見たマグマ
Mynin er eftir Martin_Sanches@Unsplash.com


さて、今日はちょっと真面目な話しです。オランダ生まれの神父さんでヘンリ・ナウエンという方がありました。1900年代の後半に多くの著述を残したキリスト教界のインフルエンサーです。

「傷ついた癒し人」という著作の中で、ナウエンは小さなエピソードを紹介しています。

ある小さな村に、まだ若い脱走兵が逃れてきました。村人は親切に彼を匿いますが、やがて追っ手の兵士たちがやってきます。兵士の長は「脱走兵を明日の日の出までに差し出せ。さもないと村を焼き払う」と言い残して去ります。

村人たちは困惑し、村の長老たる司祭のところへ相談に行きます。話しを聞いた司祭は書斎に閉じこもり、聖書を開いて解決を探します。

まもなく夜が明けるという頃、司祭は聖書の一句に目を留めました。「(...) その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。 一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」

司祭は村人たちのところへ行き、少年兵を差し出すように勧めます。脱走兵はこうして引き渡され、かわりに村は守られました。

村人たちはこの結末を祝いましたが、司祭は悲しく胸が塞がれました。その晩、天使が現れ司祭に「あなたは何をしたのか?」と尋ねます。司祭は脱走兵を差し出したことを話します。天使は思いがけないことを告げます。

「あの少年兵はキリストだった。あなたはキリストを差し出したのだ」「何と! でも、どうして私にそれがわかりましょう?」

天使は告げます。「書斎に閉じこもるかわりに、一度でもあの少年の目を覗き込んでいたらわかったことだろう」

この短いエピソードは、単純ですが深いものを含んでいます。私も定期的に教会のお話しの中で引用させていただいています。

実際に、現代の私自身の身の回りの生活を省みてみる時、この「相手の目を覗き込む」という簡単な行いがいかにないがしろにされているか、ということに思い至らずを得ません。皆さんはどう思われますか?




ヘンリ・ナウエン神父
Myndin er ur HenryNouwen.org


「目を覗き込む」というのは、要するにその相手の人と真摯に向き合い、その人の内心を理解しようと努めるということに他なりません。さらに単純に言うならば、その人と「人として向き合う」ということになりましょう。

それだけのことか?と思われる方もあるかもしれません。しかし、実際にはそう簡単にはいかないこともあります。

私は牧師ですので、しかも難民関係のサービスに従事していますので、ナウエン神父のエピソードにあるような「脱走兵を迎える」的な場面に出くわすことが多くあります。

ひとりひとりの「目を覗き込む」ことが、もちろん求められるわけですが、短時間のうちに多くの人と会わなくてはならない時とか、相手の話しの内容がいまいちはっきりしていない時など、だんだんと「目を覗き込む」ことがおろそかになりがちです。

そしてそれがおろそかになる時、私はその相談に来た人のことを「真摯に誠意を持って人間としては見ていない」という状態に陥ってしまっているのです。

これは、とんでもないことなのですが、もう自分自身で自戒する以外には防ぎようがありません。

そしてですねえ、私が問題だと思うのは、人の相談に乗ってあげるような仕事に従時している人ほど、「目を覗き込む」ことをないがしろにしてしまう危険があるのではないか?ということです。

イジメ苦で自殺してしまった子供のニュースが流れる度に、その子供の担任の先生がイジメの有無を認識していたかどうか?という問いがなされています。私は特に具体的な事例のことを考えているわけではないので、教師の人たちをここで責めるつもりはありません。

ただ、一般の人たちよりは、むしろ教師のような立場にある人の方が、より「目を覗き込む」ことを座右の銘とする必要がある、とは考えていますし、私自身についても例外ではないことは自覚しています。




清涼感アップ用ピック その2
Myndin er eftir v2os@Unsplash.com


さて、このことを申し上げた上で、敢えて糾弾したい、具体的な事例があります。スリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんの事件です。

ご承知のことと思いますが、ウィシュマさんは今年の三月に、収容されていた名古屋の入管施設で亡くなりました。公式には「死因は不明」ということですが、自殺ではなく、体調の不良による死であることは確かなようです。

もし、この事件の概要をご存知ない方がありましたら、ニュースのリンクから一瞥していただければと思います。私は毎日新聞のオンラインで読んでいるのですが、これは有料サイトなので、無料のサイトのリンクを選んでおきます。

「スリランカ人死亡」で再び露呈した入管の非道

死亡の日うめき声発する女性に「ねぇ薬きまってる?」の発言も…入管のスリランカ人女性死亡で最終報告


先週、出入国在留管理庁は、事件についての最終報告を提出しました。極めて不十分な報告であるように見受けますが。

入管は「収容者の体調を把握する体制がなかった」「医療対応の必要性に対する見落としがあった」「外部の医療機関へのアクセスがなかった」「体調の急変時の情報共有、対応体制がなかった」等々の「説明」をしています。

ニュースでは報告責任者と思われる方が「人権への配慮が足りなかった」というようなコメントをしていましたし、上川法務大臣も同じようなコメントをしていたようです。




ウィシュマさんの遺族の代理人を務める指宿昭一弁護士のTwitter
Myndin er ur Twitter.com


ですが、「体制が十分でなかった」「人権への配慮が不十分だった」「ひとりひとりと向き合う心がけがなかった」等々のことは、間違いではないでしょうが、本当にそれだけでしょうか?それよりもっと深いところにある「罪」「悪」が見過ごされている、いや隠蔽されてしまっているのではないでしょうか?

それは、そもそも名古屋入管はウィシュマさんと「人間として接していなかったのではないか?」「人間として見ていなかったのではないか?」ということです。「こんな女は...」という蔑みがそもそもあったのではないか?ということです。

先に「目を覗き込む」ことを疎かにしないことについて述べましたが、私はこのウィシュマさんの事件については、目を覗き込むことが疎かにされたのではなく、そもそもウィシュマさんについて、目を覗き込む「に値しない」という態度があったと考えます。

滞在ビザが切れていた、という点ではウィシュマさんは法に違反していました。それは数多くある視点のうちのひとつです。他の視点によれば、彼女はDVの被害者であり、自ら警察に助けを求めた女性であり、食欲不振やうつ、その他の体調不良を訴え、かつ実際に症状を示したきた女性です。

名古屋入管の担当者は、なぜそのような女性に対して、報告書にあるような酷い態度を示したかったのでしょうか?なぜ組織暴力犯罪の極悪容疑者に対するかのような仕方で接したのでしょうか?

必要があったのでしょうか?不法滞在者だから、そのように接しても「よかった」のでしょうか?それとも「そうしたかった」のでしょうか?

私も外国暮らしなので経験がありますが、不当な差別されるとものすごく不快に感じ、怒りを覚えるものです。だから、他人に対してもしてはいけないんです。周りで起こっていることをそのままにしてもいけないんです。

今回の報告書は不十分だと考えますし、ウィシュマさんのご遺族に対する入管の態度も誠意を欠いていると思います。

私はこの事件に関しては相当な怒りを持っています。そして皆さんにも怒っていただきたいと感じています。このような非人道的な差別と虐待が、日本国の公の機関でなされているということに、義憤を感じていただきたいと願っています。


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。

藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is
Facebook: Toma Toshiki
コメント (2)
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