レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランド人の名前

2012-11-20 05:00:00 | 日記
今回から数回、アイスランドの名前についてご紹介したいと思います。移住してしばらくは、これには結構悩まされました。なぜかと言うと...と言う前に名前解説の王道から。

前にも書いたことがありますが、ここでは日本的な意味での名字がありません。むしろ、中東、アラブ文化の名付け方に近いものがあると理解しています。

例えばここにヨウンという男性とマリアと言う女性が結婚(あるいは同棲)しているとします。そこに長男が誕生しました。この新生男の子君の名字代わりになるのが「ヨウンの息子」という呼び名でヨウンスソンというものです。女の子誕生の場合は同じように「ヨウンの娘」という意味でヨウンストホティルとなります。

*アイスランド語の固有名詞のかな表記は簡単ではありません。普通の機械的なトランスクライブではヨウンストホティルは「ヨウンスドッティール」となるようです。ヨウンストホティルというかな表記は私の個人的「一番近いかな?」表記です。

ですから両親と子供は違う名字というか続柄名を持つのが普通です。ちなみに英語のジョンソンとかピーターソンとかもこの北欧的家族名の名残りらしいですよ。

また述べますが、父親の名前を子に授けることも珍しくはないので、ハンスの息子がハンスの名をもらえば、ハンス・ハンススソンです(Sをひとつ無視して「ハンソン」と記されることが多いようです、かな表記では)。

このように国際的な「名字」に相当するらしき家族続柄名は父親中心に定められてきました。当然女性から物言いが出ることもあります。とりわけ親が別れてしまい、母親が子を引き取った場合、子が父親との関連ではなく母親との関連での「名字」に変更することもあり得ます。

上の例でいうと、「ヨウンスソン」から「マリウソン(マリアの所有形はマリウです)」となります。これは特に父親が子に良くないイメージを与えるような親だった場合に起こりえるようです。

私の知りあいに残念ながらそのような環境にあった母子がいたのですが、その子はまだ小さい男の子でしたが、母親の系の名前にするとどうしても女性っぽいイメージになるのが嫌だったらしく「僕はママソンでいい!」と言っていたことがあります。子供らしくかわいかったけど、ちょっと哀しいかも。

そのような場合でなくとも、男女平等の精神から「名字」も対等に呼ばわりたい、という人もいます。同僚の女性牧師ですが「カルストホティル=ヘルグトホティル」と長―い名字を使っています。ちなみに「カルス」の部分が父親から、「ヘルグ」の方が母親からの由来です。

周囲を見渡した範囲では、男性で同じことをしている人は見たことないですね、まだ。やはりフェミニスト的な動きなんでしょうか?

次回はもうちょっと複雑なアイスランドの名前のお話しになる予定です。


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書き込みマニアの人達

2012-11-18 05:00:00 | 日記
ネットでの書き込みに関してです。これは日本でも色々と深刻な問題にもなっていることと聞いています。ここアイスランドもネットの使用率はかなり高いので同様な問題があるのですが、多分日本とは少し違う面もあるかもしれません(日本の書き込み事情にはそんなに明るくありません。スミマセン。m(_ _)m)。

今回、お話ししたいのはチャット形式のサイトではなく、普通のニュースサイトに付属している書き込み欄です。こちらではVisir.isやDv.isなどのニュースサイトに流れるニュースのひとつひとつにコメントを寄せることができるようになっています。

そこの書き込みと言うのが、全部がそうというわけではないのですが、かなり攻撃的であったり、人を誹謗中傷するものであったり、と私個人では問題がある現象ではないかと思っています。

手元にはっきりとしたデータがないのですが、いつか「世界表現の自由ランキング」みたいなニュースがあって、アイスランドはトップの方にランキングされていました。つまり、相当言いたいことを言える、ということです。

「ホンマでっかTV」で脳科学者の澤口先生だったか、環境評論家の武田先生だったか、どちらかが言っていましたが、コンピューターは所有者(使用者)に絶対服従するので、人はつい、そこに出てくる意見なども自分で操作できると思い込んでしまうのだそうです。

そこで、自分の考えに追従しないものが現れたりすると、余計に攻撃性が増してしまうんだそうな...もちろん直接顔を見合っていないということに加えてであるそうですが。納得。

実は今週、「スタジオ2」というTV局のCMで、極端に「訛り」の強いアジア人の英語をギャグにしたものがあり、それを巡っての報道と議論があったのですが、私は移民牧師という立場で、そのようなギャグは偏見を強める悪影響がある、という主旨で意見を申し上げました。

DV.isからのサンプル:書き込み欄は下の方にあります。

するとやっぱり書き込み欄にあーだ、こーだと言いたい放題のコメントが寄せられました。ものすごくひどいものはなかったようですし、こちらも真剣には読破していないのですが、目についた変?な意見はふたつのタイプでした。

まず、「トシキは日本のTV界のことを忘れているのか?日本を差し置いてどうしてアイスランドTVを批判できるのか?」というもの。こんなのは全くの論理破綻で、自分の出身国の事情が完璧でなかったら意見が言えないとしたら、先進国出身者などはほとんど何も意見なんか言えなくなるでしょう。大体問題のない国なんて、どれだけあるかい?

第二の変な意見は、ご多分に漏れず「気に入らなければさっさと帰れ」式のものです。これはもう意見と言う域には達していないですね。さすがにこの種の意見には「彼は長年この国に住んで社会に積極的に参加しているんだ。どうしてそういう無礼なことを言うのか?」という反論がアイスランド人の人達からされていました。いいぞー!!

というわけで、ネットの書き込みのこの部分(チャット用のサイトなどはもっとひどいようですが)は、全くどうしようもない、と言う域までは行ってはいないのかもしれなません。

それでも個人的には「本当に必要なんだろうか?」「返って人の攻撃性をあおっているだけではないだろうか」と考えざるを得ませんし、むしろ反撃のコメント怖さで、公に意見を言うのをためらってしまう人もいるのではないかと心配です。

また、こういうコメント欄にも常連さんがいるようで、長々とまくしたてる方もいらっしゃいますが、それならどうして自分で意見を起こして自分のブログに掲載したり新聞に投稿しないのかと不思議に思います。

人の意見掲載のコメント欄でちょこちょこと知った顔で書き込んでいるばかりなんて、かっこいいとは思えないのですが...


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適応...変化...と「正体見たり!」 問題編

2012-11-16 05:00:00 | 日記
私、有吉ファンですが、彼はいつも「帰国子女」を毒舌の的にしていますよね。曰く「何で帰国子女はアメリカとかヨーロッパをそのまま持って帰ってくるのか!?何なんだよ、あれ。すぐに“アメリカではねー、こうするのが常識” “これだから日本はやだなー。ヨーロッパ恋しい”だったら帰れよ!!」

その感覚は分かりますよね。神学校のインターン生だった頃、ある教会で牧師さんに注意をされました。「藤間君、今度の日曜にXXさんという女性が来るけど、この人パリで音楽を勉強していて、とにかく自己主張が強いから。そのつもりで」

結局その方とはお会いしないですんだと記憶していますが、前振りだけで嫌になりましたね。その当時(30年近く前のことですが)、教会という場所にはそういう「帰国子女」の類型の人が結構いたんですよ。やっぱり自己主張の強い人が多かった気がします。何でも「ワタシ」が前に出て来て。こうはなりたくない、と思ったものです。

ところで、アイスランドもどちらかと言えば自己主張の強い土地です。前回書きましたが、自分から積極的に売り込んで行かないと何事も始まらない風土です。ここで一目置かれる存在になりたかったら、自己主張を身につけるか仏陀になるしかないでしょう。私には仏陀は無理でしたから、自己主張を身につけようと励みました。

自己主張の一部なのですが、「Yes」「No」ははっきりしています。お酒の勧め合いから男女の関係までYes、Noは文字通り受け取られるべきだと考えられています。ですから「いや今夜はお酒は結構」と告げた後の「まあ、もう一杯」はないですし、「いやよいやよも好きのうち」とかもありません。

これが続いてくると、日本では必要不可欠な「言葉の裏を読む」という感覚が麻痺してきます。って言うか、はっきりしたYes、Noに慣れてくると「裏を読む」作業がとっても面倒くさくなってくるのです。

先日もこちらの邦人の方の間でちょっと相談事があったのですが、本人が「大丈夫だから」と言うので私はそのままにしておきました。ところが他の邦人の方の中には「そうは言っても」と食い下がる方がいらっしゃるのを見て、「大丈夫だって言ってるのに」と不思議な感じ方をしている自分に気づきました。

正直言ってこれが初めてじゃないんですよねー、そういう感じ方。一時帰国した際に知りあいと飲む機会があったりしても、「ああ、もういいから」と言ってるのに「まあまあもう少し」とか勧められて「要らねえって言ってるだろ!」とキレそうになったり、Yes、Noの曖昧さに苛々してきたり、と予兆は随分ありました。

自分で自覚しているよりもアイスランド化が進んでいたようで。

つまり、

パリで音楽を勉強していたXXさんと同化していたのですよ....(*_*)

かくしてワタシは「帰国子女」となりました...有吉君、スミマセン。 m(_ _)m


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適応...変化...と「正体見たり!」 適応編

2012-11-14 05:00:00 | 日記
前回は日本人としてアイスランドに適応できない部分をご紹介しました。今回は適応できた...してしまった?...せざるを得なかった?部分です。

私は日本で三年間新橋のサラリーマンをしていたことがあるのですが、それでもビジネス最前線にいたわけではありません。ですから本当に人を蹴落としても...という熾烈な世界は知らず、凡庸なレベルをさまよっていました。

要するに常識的な世界の住民だったわけです。で、その常識日本では例えば仕事を得るのに自己推薦をせずに、周り、特に上長のものが押してくれるのを待つ。得意なものがあっても「オレはこれに長けてるんだ」という顔はしない。という様なことが大切でした。

有り体に言うと控えめ、謙遜を持って旨とする、と言うことでしょうか。ところがです。これはアイスランドでは機能しません。始めの何年か、こちらでもこの凡庸ニッポンのポリシーでやってました。というか、それが当たり前だったし。

そこで「これはオレが得意な分野なんだよね」と内心ほくそえんでいても「いえいえワタクシなどは」と謙遜に振る舞っていました。でもそうすると「あっ、そう。ダメなの」とあっさりと仕事は目の前を通過して行ってしまいます。

やっぱヨーロッパは自己主張の土地か?嫌だなあ、と思いました。自分で自分を売り込むのは結構しんどいです。でもそこを変えないと生きて行けない。グリョート(ご飯を牛乳で煮て砂糖をまぶして食べるという信じられない食い物)を拒否してもいい、強風の中でも雨傘を使おうと四苦八苦してもいい。生活できるから。でも、自己売り込みには適応しないと...生活できない。(*_*)

私は新聞等によく自分の意見とかを投稿しますし(もちろん仕事に関する分野です)、それをし始めてから仕事が軌道にのってきました。もともと作文系には強かった(小学校時代にはお昼の「校内放送」で作文を読まれました。小学校六年間の唯一のメダル)のですが、小さな国とは言え、新聞に意見を載せることは世間にもの申すこと。やはり緊張はしました。

えらそうに書いても、内容が「そんなことみんな知ってるでしょ」的なレベルだったら恥をさらします。始めの頃、意見を送ってもなかなか載せてもらえずおずおずと新聞社に電話して「やっぱり、使ってもらえませんか...?」「何て言う題?ああ。それ明日」

ああ、よかった...その投稿が載ると周囲の人が「いい意見、考えだね」とリアクションをくれました。

それから車輪は回り始め、数年後には記事が掲載されないと「何で?同じ政治家の意見が頻繁に掲載されてるでしょ。ひいきですか?それとも日本からの移民の意見は後回しでいいって言うこと?」というクレイマーもどきになれるくらいまで適応しました。

それ以来ずーっと自己推薦=出たがり屋路線で通してきています。でもこれって、多少哀しいものがありますね。変わってしまったワタシ、みたいな。

いや、ちょっと待って。もしかして出たがりの方が本当の自分か?正体か?本当の出たがり屋根性が謙遜の衣を脱いで出てきただけじゃないの?凡庸ニホンジンに潜む緑の怪人か?

バナー博士か超人ハルクか?人の「正体」って何なんでしょうね?



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適応...変化...と「正体見たり!」 不適応編

2012-11-12 05:00:00 | 日記
外国住まいが長くなると言葉を修得しなければならないだけではなく、イヤでもその国の文化や習慣にある程度は適合していかなくてはなりません。面白いのはどの部分が適応して、どの部分が変わらずに残るかということは、各人によって異なるものらしい、ということです。

適応できた点の方はさておいて、適応できないものをまず挙げてみたいと思います。第一は時間厳守。厳守するのは日本人の部分の方ですよ。アイスランドでは仕事に関しては時間はそれほどでたらめではないのですが(それでも日本ほどきっちりはしていません)、プライベートになるとこちらがキョトンとしてしまうほど能天気なことがあります。

例えば「今度の金曜日、8時からホームパーティーするから来て!」と呼ばれたとします。当然のように8時きっかりくらいに訪問します。すると全く人気がありません。日にちを間違えたか?と勘違いしそうです。

「ああ、もう来たの?何か飲んでて」とホスト。食事の準備の真っ最中らしく、なんとなく「こんなに早く来やがって」風のオーラ。8時って言っただろ!まったく。

お客が集まり始めるのは9時前。食事にありつけるのは10時になってから、というのが通り相場のようです。

何回も経験しました。時間通り行ったら誰もいないことも分かっています。しかし、変えられないんです、時間厳守。日本人のDNAでしょうか?損得の問題ではなく「時間を守らない」ということが独立した不道徳としてインプットされてしまっているようです。

損得で吟味したら損でしょうね....でも適応してる邦人もいます。毎週土曜の日本語教室、10時からとなっているのに10時に来る人、いなくなりました。「10時から」は「10時に家を出る」という意味に適応変化してるらしいですね。(^-^;

もう一点、適応できない例を日常生活の中から。アイスランドでももちろん雪だけではなく雨も降ります。こちらの子供達は雨が降っていても全然おかまいなしに往来を歩きます。日本人があれをやったら間違いなく風邪をひくのではないかと思うのですが、こちらの人は子供時代からの鍛錬なのか、そういうことがありません。

さて、これも日本人のDNAに組み込まれているのではないかと勘ぐるのですが、日本人って、雨に濡れるの大嫌いですよね。夏の夕立の時、皆が一斉に走り始める図は面白いです。夕立のようなザーザー降りの時は濡れると困る、というのがあるでしょうが、ぱらぱらの雨の時でさえ濡れるの嫌ですよね。あれは「雨で濡れる」ということがみじめなものに見えるからではないでしょうか? って言うか、自分でみじめだと思ってしまうのではないでしょうか?

で、私もそうです。雨に濡れて歩くのは我慢なりません。傘をオフィス、車、バックパック(仕事用)に忍ばせてあります。

しかしです。

何回か書いたように、この土地、風が強いんです。こちらの人の常識では、雨は上から下に降るものではなく、横から吹いてくるものです。たまに、ごくたまに雨が上から下にしとしと降っていると、たまらなく落ち着いた気持ちになります。日本人の証しでしょうか?

さて、強風となると傘は使えません。濡れるのも嫌です。となると、フード付き耐水性の強いアノラックのようなものが必須となります。ただしここでも問題があります。雨が横から吹き付けるような日には、たとえ上半身をアノラックでカバーしていても、下半身、つまりスラックスやGパンは瞬く間にびっしょりです。特にジーンズが濡れてしまうと、最悪。乾かないし。

そういう時のために上下セパレート式のレインコート、じゃない、レインスーツ?もあります。実際にはめったに使わなくなりました。車で行ってしまいますから。

「春雨じゃ、濡れて行こう」は、確か早乙女門戸の介でしたっけ?風情があります。どこかから三味と都々逸が聞こえてきそうです。でも雪まじりの横殴りの雨に打たれるのは風情がないですねえ。あれを気にしないとは...まだ研究の余地があります、アイスランド人。


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