1974年から1978年の4年間、兵庫県尼崎市の高校から一人暮らしがしたくて
東京の大学を受験し、合格することができたので実家を離れて一人暮らしが始まりました。
親からの仕送りを月3万円に設定し、住むところを探しました。
旺文社の蛍雪時代という受験雑誌に、東京の新宿に貧乏学生を相手にした
東京学生会館という太平洋戦争の学徒出陣からの帰還学生を相手にしていた
学徒援護会が運営する学生寮の情報がありました。
※懐かしの東京学生会館 - KOfyの「倍行く」人生
貧乏学生対象で全282室ある大規模な寮で、基本的には大学単位で部屋割りされ、
当初の家賃は月800円という格安で、そのために親の年収制限がありました。
滑り止めで受験した私学の際に入寮確認すると希望者が多数で、父の年収ではだめでした。
本命の大学にも合格し、その大学は東京の西の国立市にあるので入寮希望者が少なく、
かつ4人部屋に2名しか入寮してなかったので、父の年収でも入寮が許されました。
5階の一番端の部屋で、入居した日に一人で見た窓から見える夕方の新宿高層ビル群が圧倒的で
これから一人暮らしが始まるんだという感傷に浸ったのがとても懐かしいです。
入寮すると2年先輩のKjさんがいました。
Kjさんは東京外大のイタリア語学科から社会心理学を勉強したいと入りなおされた方で、
卒業後はさらに勉強を続けるということで筑波大学の大学院に進学されました。
筑波への引越は、私がレンタカーの1tトラックを借りて荷物を運びました。
もう一人、Kjさんの同期でKbさんが入寮されていることになっていましたが、
実際には住んでなくKbさんの寮費をKjさんが払って大学単独部屋に維持されたようです。
ちなみに、Kbさんは混声合唱部に所属されていました。
その後、遅れて石川県出身のMtさんが入寮されました。
MtさんはW大から入り直してきた2歳年上の同学年でした。
Mtさんとは4年生の時は毎晩のように一緒に飲み、卒業後は地元のテレビ局に入り、
その後、市長に就任した後、学校法人の校長さんになっており、34年ぶりに夏の甲子園で
ばったり出会いました。
※甲子園球場で衝撃の出会い - KOfyの「倍行く」人生 2016年8月12日
寮費は当初800円/月が1300円/月に値上がりしました。
ちなみに、食堂付きで朝食が丼ご飯、みそ汁、納豆、生卵が80円から130円に値上げ、
夕食が丼飯、みそ汁、おかずで160円から200円に値上げしたと思います。
値上げの際には、学生集会や団体交渉があったと思います。
東京学生会館は西武新宿線下落合駅のすぐそばにあり、大学への通学は前期の時は
小平市で西武新宿線で萩山で多摩湖線に乗り換え一橋学園駅まで40~50分でした。
クラブのある時や後期になるとキャンパスは国立市では国立駅から新宿~高田馬場~下落合で
55分から1時間かかっていました。
東京学生会館には1年、2年、4年の時に住んでいて、大学3年生の時に男声合唱部の
部長になったのでクラブが忙しく、そして勉強もしっかりしようと思い学校に近い
国立市に下宿することにしました。
国立駅から旭通を中和寮方面に歩き10分ほどのところにある、Nさま邸の離れに
四畳半×2、三畳×1+ミニキッチン、便所の下宿部屋があり、クラブの先輩が抜けたので
そのあとに入居することになりました。
家賃は確か4千円/月で6千円/月?になったかなぁ???というあいまいな記憶です。
他の部屋にもクラブの先輩が入室されており、クラブでは「N**マンション」と称していました。
クラブの部室には歩いて10分以内、風呂や洗濯は歩いて2分くらいの大学の中和寮を利用していました。
洗濯後の乾燥は中和寮の隣にあるクリーニング屋さんの乾燥器を使っていました。
パンツなどの下着を買い込んで、3週間分くらいの洗濯を洗濯機2台同時使用で洗濯していました。
大学の同級生が近所に下宿しており、たまに一緒に近所の銭湯に行き、風呂上がりに、
鉄板焼き屋でビールや鉄板焼きを食べたのが懐かしいです。
先日の合唱部の同期会の際、中和寮や下宿の場所、お風呂屋さんなどを訪ねたので
写真を撮りました。
※大学グリークラブの同期会に出席 - KOfyの「倍行く」人生 2023年4月18日
下宿は大家さんの家を建て替えた時に解体したようで、離れはなくなっていました。
大家さんの家の横を通って奥の離れの下宿に行きましたが、その脇道も面影なくなっていました。
懐かしの銭湯は昭和33(1958)年12月24日に創業し、2020年4月13日に改築リニューアルオープンした
「鳩の湯」でした。現在では、国立市内唯一になったようです。
富士見通りを西に1.1Kmほどの銭湯「松の湯」がありましたが2014年11月に閉業したようです。
近所の鉄板焼き屋さんはなくなっていました。
大きな居酒屋さんがありましたが、それは当時なかったと思います。
交差点のところにあった「スリーハッピー」という大衆居酒屋で良く飲んでいましたが、
その店もなく、本家の「三幸」が近所でハイツを併設したビルになっていました。
町はどんどん変化していきますねぇ!!
東京の大学を受験し、合格することができたので実家を離れて一人暮らしが始まりました。
親からの仕送りを月3万円に設定し、住むところを探しました。
旺文社の蛍雪時代という受験雑誌に、東京の新宿に貧乏学生を相手にした
東京学生会館という太平洋戦争の学徒出陣からの帰還学生を相手にしていた
学徒援護会が運営する学生寮の情報がありました。
※懐かしの東京学生会館 - KOfyの「倍行く」人生
貧乏学生対象で全282室ある大規模な寮で、基本的には大学単位で部屋割りされ、
当初の家賃は月800円という格安で、そのために親の年収制限がありました。
滑り止めで受験した私学の際に入寮確認すると希望者が多数で、父の年収ではだめでした。
本命の大学にも合格し、その大学は東京の西の国立市にあるので入寮希望者が少なく、
かつ4人部屋に2名しか入寮してなかったので、父の年収でも入寮が許されました。
5階の一番端の部屋で、入居した日に一人で見た窓から見える夕方の新宿高層ビル群が圧倒的で
これから一人暮らしが始まるんだという感傷に浸ったのがとても懐かしいです。
入寮すると2年先輩のKjさんがいました。
Kjさんは東京外大のイタリア語学科から社会心理学を勉強したいと入りなおされた方で、
卒業後はさらに勉強を続けるということで筑波大学の大学院に進学されました。
筑波への引越は、私がレンタカーの1tトラックを借りて荷物を運びました。
もう一人、Kjさんの同期でKbさんが入寮されていることになっていましたが、
実際には住んでなくKbさんの寮費をKjさんが払って大学単独部屋に維持されたようです。
ちなみに、Kbさんは混声合唱部に所属されていました。
その後、遅れて石川県出身のMtさんが入寮されました。
MtさんはW大から入り直してきた2歳年上の同学年でした。
Mtさんとは4年生の時は毎晩のように一緒に飲み、卒業後は地元のテレビ局に入り、
その後、市長に就任した後、学校法人の校長さんになっており、34年ぶりに夏の甲子園で
ばったり出会いました。
※甲子園球場で衝撃の出会い - KOfyの「倍行く」人生 2016年8月12日
寮費は当初800円/月が1300円/月に値上がりしました。
ちなみに、食堂付きで朝食が丼ご飯、みそ汁、納豆、生卵が80円から130円に値上げ、
夕食が丼飯、みそ汁、おかずで160円から200円に値上げしたと思います。
値上げの際には、学生集会や団体交渉があったと思います。
東京学生会館は西武新宿線下落合駅のすぐそばにあり、大学への通学は前期の時は
小平市で西武新宿線で萩山で多摩湖線に乗り換え一橋学園駅まで40~50分でした。
クラブのある時や後期になるとキャンパスは国立市では国立駅から新宿~高田馬場~下落合で
55分から1時間かかっていました。
東京学生会館には1年、2年、4年の時に住んでいて、大学3年生の時に男声合唱部の
部長になったのでクラブが忙しく、そして勉強もしっかりしようと思い学校に近い
国立市に下宿することにしました。
国立駅から旭通を中和寮方面に歩き10分ほどのところにある、Nさま邸の離れに
四畳半×2、三畳×1+ミニキッチン、便所の下宿部屋があり、クラブの先輩が抜けたので
そのあとに入居することになりました。
家賃は確か4千円/月で6千円/月?になったかなぁ???というあいまいな記憶です。
他の部屋にもクラブの先輩が入室されており、クラブでは「N**マンション」と称していました。
クラブの部室には歩いて10分以内、風呂や洗濯は歩いて2分くらいの大学の中和寮を利用していました。
洗濯後の乾燥は中和寮の隣にあるクリーニング屋さんの乾燥器を使っていました。
パンツなどの下着を買い込んで、3週間分くらいの洗濯を洗濯機2台同時使用で洗濯していました。
大学の同級生が近所に下宿しており、たまに一緒に近所の銭湯に行き、風呂上がりに、
鉄板焼き屋でビールや鉄板焼きを食べたのが懐かしいです。
先日の合唱部の同期会の際、中和寮や下宿の場所、お風呂屋さんなどを訪ねたので
写真を撮りました。
※大学グリークラブの同期会に出席 - KOfyの「倍行く」人生 2023年4月18日
下宿は大家さんの家を建て替えた時に解体したようで、離れはなくなっていました。
大家さんの家の横を通って奥の離れの下宿に行きましたが、その脇道も面影なくなっていました。
懐かしの銭湯は昭和33(1958)年12月24日に創業し、2020年4月13日に改築リニューアルオープンした
「鳩の湯」でした。現在では、国立市内唯一になったようです。
富士見通りを西に1.1Kmほどの銭湯「松の湯」がありましたが2014年11月に閉業したようです。
近所の鉄板焼き屋さんはなくなっていました。
大きな居酒屋さんがありましたが、それは当時なかったと思います。
交差点のところにあった「スリーハッピー」という大衆居酒屋で良く飲んでいましたが、
その店もなく、本家の「三幸」が近所でハイツを併設したビルになっていました。
町はどんどん変化していきますねぇ!!