雨曇子日記

エイティライフの数々です

転倒の記

2021-04-29 11:05:16 | エッセー

4月26日(月)快晴。

午後になって散歩に出た。歩き出して、行先を柏市増尾城址公園ビオトープに決めた。2㎞程の距離。

そこは以前水田だったが、しばらく放置されていて公園の一部となった。今は、池を中心に柳、桂、合歓、タイサンボクなどの木が茂り駐車場もあって市民の憩いの場となっている。

私は、人気のない大津川の堤防の道を進み、所どころ立ち止まって写真を撮った。

 

           (川岸に生えた水木の白い花)

 

公園に着くと、木々は私の予想した以上に生い茂っていた。

 

 

私は、桂の葉のもっとみずみずしい所を撮ろうと近寄ったところ、突然転倒し、頭部を地面に打ちつけた。僅かな段差に躓いたらしい。

右手首に小型デジタルカメラをぶら下げていたが、それが、ガシャンと嫌な音をたてて2~3m先に転がった。

真っ先にやったのはカメラの点検だ。

レンズの部分が飛び出し動かない。金属部分は傷ができ歪んでいる。

次に、私の右手の指が三本、第二関節の辺りに擦過傷ができ出血していた。

「しょうがねえなあ」と、内心忌々しく思いながら、水道まで行って血を洗った。

その頃になって右眼上部辺りがずきずき痛むのを感じた。

 

このまま少しベンチで休み何食わぬ顔で家に帰ることも考えたが、こんな時はなるべく動かない方がいいのではないかと思い直し、ポシェットバックの携帯を取り出した。こちらは幸い壊れていなかったので、息子に車で迎えに来てくれるよう依頼した。

 

車中、私は次のことを反省した。

①歩きながら写真を撮らないこと

②カメラは、撮る対象を決めてから取り出し、足場の安全を確かめる

③老体であることを自覚しすべて慎重に行動する


大津ヶ丘団地の藤

2021-04-10 14:26:19 | エッセー

昭和53年にできた柏市大津ヶ丘団地、広い敷地内を散歩するうちに、藤棚が所々に設置されているのに気付いた。

砂場、幼児用の遊具、ベンチが併設されている。

 

 

団地ができて、ほぼ同じ時期に植樹されたらしく、どれも老木となっているが、花のつき方には差がある。

 

 

接ぎ木をして二種の花を咲かせ、藤棚の近くには花壇まである号棟もあった。

 

 

団地の藤棚巡りをしたが、咲き方にむらはあるもののどの木も頑張って咲こうとしている様子がうかがえた。

 

 

暗い世相の中、明るく元気に咲いてくれ。

 

 

 

 


筑波山

2021-03-06 19:33:53 | エッセー

私の住む千葉県柏市から北に望む山は筑波山である。高さ876m。深田久弥氏は「日本百名山」に選んでぉられるが、千mに満たない山で選ばれているのは、この山と鹿児島県の開聞岳のみである。特に筑波山の歴史の古さは、富士山にも引けを取らない。距離が近いから富士よりも大きく見えるが、それでも見え方が小さくてもの足りない。

3月5日、茨城県桜川市の雨引観音へ行ったが、筑波まで来ると筑波山は大きく迫ってきた。

 

 

天引観音に着いて、そこからの眺望は益々素晴らしかった。

 

 

雪の富士、紫の筑波と昔から称えられたそうだが、分かる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アンという名の少女

2020-09-28 13:22:01 | エッセー

 

NHK日曜23時からのドラマ「アンという名の少女」③を観た。

カナダCBS&Netflixの共同製作で、NHKでは、全7回での放送。

 

 

①②は原作に沿った演出だったが、9月27日放送の第三回は、原作から離れた。

アンは、マリラから紫水晶のブローチを盗んだと責められ、孤児院へ送り返されてしまう。マリラはまちがいに気づき、マシューが急いで追いかけるが、列車はすでに駅を出た後だった。

カナダ・プリンスエドワード島シャーロットタウンから連絡船でグラスゴーなど人口の多い本島に渡るのだ。アンは、本島の孤児院の前まで来るがそこでのつらい思い出に苛まれ、中には入れず草むらの中で一夜を過ごし、翌朝やってきた牛乳配達の馬車で駅に送ってもらう。

一方、追いかけてきたマシューも本島の駅前で馬車にはねられるなど大変苦労して孤児院にたどり着き、門前で一夜を過ごし、やっと会えた園長には冷たく対応され、やはり牛乳配達の車で駅にたどり着く。

そこで、物乞いのように詩の朗読でお金を稼いでいるアンを見かけるのだが、アンの自尊心は傷ついたままだ。

 

       (孤児院へ送り返されたことにこだわっているアン)

 

思い違いでアンを返してしまったことの後悔で正気を失ったようなマリラは、マシューの努力でアンが帰ってきても、硬い表情を崩せない。

 

         (その夜の食事もそれぞれが硬い表情だ)

 

次の日、一家は正装で教会に行くが、村人のアンに対する視線は冷たい。あからさまに侮蔑の言葉が投げつけられる。

 

        (耐えられないアンは林の中の逃げ込み悲しむ)

        (そこへマリラが来てブローチの件を心から詫びる)

 

こうして、アンの心にマリラの真情が届き、二人に親子の情が通う。

その夜、アンは正式にカスバード家の養女となるサインを行い、親子は、キイチゴのジュースで乾杯する。

 

モンゴメリーの「Anne of Green Cable」は、大正3年(1914)村岡花子翻訳・創刊以来、多くの翻訳・出版がされた。

 

       (初版発行 昭和32年 これは、昭和50年33版発行)

    (第一刷発行1990年(平成2年)これは、2015年(平成27年)第25刷)

 

最近では、松本侑子訳文春文庫2019年発行がある。

 

 

 


服部良一

2020-09-21 11:31:21 | エッセー

NHK朝ドラ「エール」に登場する古賀政男は颯爽としてかっこいいので、もう一人の国民栄誉賞作曲家服部良一はどんな人かと気になった。

さっそく図書館に行き「服部良一ぼくの音楽人生・日本文芸社1983年刊」を探してもらった。

昭和57年(1982)に発行されたものに、ご長男克久氏が「父の想い出」を加えた増補版である。

 

 

エピソードでつづる和製ジャズソング史 目次

     道頓堀ジャズ

     明治・大正の洋楽

     シンガー・ソングライター

     少年音楽隊

     メッテル先生

     大阪のジャズ界

     ジャズソング事始め

     ラプソディー・イン・ブルー

     東京のジャズ界

     響友会と音楽結婚式

        ・

        ・

        ・

と続き、「青い山脈・銀座カンカン娘」などの章は特に興味深かった。結婚式のくだり(件)も面白く、それは、次のように書かれていた。

 

「・・・ニットー時代の一時期金にあかして遊蕩した。ニットーには嘱託で文芸部長格の服部龍太郎氏がいた。年は十歳近く違うが気さくなノンベで、おみきどっくりで紅燈の巷をさまよった。いわば”悪友”である。」

 

    (この”夜話”には、服部良一氏との遊蕩の話は書かれていない)

 

悪友と遊び惚けていたある日、良一は、浅草の待合で”女将の娘”と紹介された万里子という素人の娘に一目ぼれする。

「結婚するなら、家庭をきちんと守ってくれそうな真面目な素人娘がいい。そこで、早速、この気持ちを服部龍太郎氏に打ち明けた」

「悪友は善友に変わった。万事のみこみ、話をまとめてくれ仲人を引き受けてくれた」

昭和10年12月8日帝国ホテル始まって以来の大オーケストラの持ち込みで盛大な音楽結婚式・披露宴が催される。

 

 

新婚旅行の熱海での翌朝、良一氏は「スグコラレタシ」の電報を打ち、「いったいどうしたんだ」とびっくりして東京から飛んできた夫妻に「いや、どうもね。二人だけでは話がなくて困るんだ。仲人の責任上、付き合っておくれよ」と、十国峠、箱根を一緒にドライブした。

「それから半世紀以上、夫婦の間は取り立てて波風もたたず、二男三女もそれぞれ成人し、今では孫が十人になっている」と、この章を結んでいる。

 

 

服部家の 良一 ー 克久 - 隆之 ー 百音 と引き継がれた音楽の才能は際立っている。 

 


古賀メロディー

2020-09-05 11:35:53 | エッセー

NHK朝ドラ「エール」の影響で、世間の注目は、古賀メロディーにも向けられているようだ。

 

ドラマでは、満州事変の昭和6年のヒット作「酒は涙か溜息か」が巷にもてはやされている様子、続いて発表された、藤山一郎の歌う「丘を越えて」の吹込みシーンなどがみられた。

”古賀メロディー”にはどんな曲があるか、少し調べてみた。

 

「影を慕いて」(まぼろしの影を慕いて雨の日に・・・)

「サーカスの歌」(旅のつばくろ さびしかないか・・・)

「二人は若い」(あなたと呼べば あなたと答える・・・)

「ああそれなのに」(空にゃ今日もアドバルーン・・・)

「男の純情」(男いのちの純情は・・・)

「人生劇場」(やると思えばどこまでやるさ・・・)

「東京ラプソディー」(花咲き花散る宵も・・・)

「誰か故郷を思わざる」(花摘む野辺に日は落ちて・・・)

 

昭和20年、戦争が終わると、次のような曲が続々生まれた。

 

「湯の町エレジー」(伊豆の山々月あわく・・・)

「芸者ワルツ」(あなたのリードで島田も揺れる・・・)

「柔」(勝つと思うな思えば負けよ・・・)

 

3000曲以上を作曲したそうで、名曲をいちいちあげればきりがない。私は、現在巷に流れている歌はほとんど歌えないが、上記の歌なら歌える。

古賀政男は、さすが、国民栄誉賞の作曲家だと思う。(昭和53年・1978)受賞。


外山滋比古先生と八丁味噌

2020-08-12 15:25:00 | エッセー

「思考の整理学」等の著作で知られた英文学者、外山滋比古先生は、7月30日96歳で亡くなられたが、最近まではお元気で著作もなされていたそうだ。

3年前の2017年7月末、刈谷中学・高校同窓会”亀の子会”副会長中田咲乎さん(刈谷高校5回生)は、100周年記念誌原稿依頼の件で、外山先生にお会いした。

 

         (記念誌6ページ・写真は朝日新聞社提供)

 

先生ご指定の九段グランドパレスHの喫茶室で、外山先生は中田さんにこんな話をされたそうだ。

「西尾に住む私の父が東京の私を訪ねてきて、帰った後”おまえは毎日白味噌を食べさせられているのか、可愛そうに!”それから、亡くなるまで毎年八丁味噌を送ってくれたよ」

NHK朝ドラ「エール」では、主人公古山裕一(古関裕而)が豊橋出身の妻に味噌汁から始まり、八丁味噌づけの生活を強いられることに、いささか辟易する様子が描かれているが、外山先生の場合は逆だったかと思うと、これまた微笑ましい。

 

さて、先生は中学時代、陸上競技が得意で、常に学年で一番だったそうだ。

「中学5年を通じて、授業をおもしろいと思ったことは一度もない。ただ4年生のときの国語の教科書で寺田虎彦の”科学者のあたま”という文章にふれることができたのは大きかった。生涯その影響を受けているように感じている」と書いておられる。

 

付記

中田咲乎さんから電話があった。「私が外山先生から伺った味噌の話は”三河の風”という随筆集125ページに乗っている」そうだ。先生の奥様は九州ご出身で、信州味噌を供していらしたらしい。

NHK朝ドラ「エール」で、小山家に泊まったミュージックティーチャーが「味噌変えたの?」と音に聞くシーンがあった。(昔は、誰もが味噌にこだわったのだ)

 


朝だ元気で

2020-04-03 10:25:02 | エッセー

4 月 3 日(金)部屋が明るくなってきたので夜が明けたのかなと思う。

窓を開けてみると屋根に仕切られた小さな空が見えた。

 

 

朝だ 朝だよ 朝日がのぼる

燃ゆる大空 日がのぼる

みんな元気で 元気で起(た)てよ

朝はこころを きりりとしめて

 

八十島稔作詞 飯田信夫作曲のこの歌は、戦意高揚の歌ということで「空にまっかな陽がのぼる」「元気で起きよ」に戦後改められたらしい。

 

新しい 朝が来た 希望の朝だ

喜びに胸を開け 大空あおげ

ラジオの声に 健やかな胸を

この香る 風に 開けよ

それ 一 二 三

 

藤浦洸作詞 藤山一郎作曲のラジオ体操の歌だ。

私が起きだしたころ、ラジオ体操はとっくに終わっていて、テレビをつけると、マスクをつけた大臣や知事が、コロナウイルス感染者の急速な増加について語っている。(世界では感染者が 100 万人に迫って、なおも収束の見通しは立たないのだそうだ)

これでは、朝が来ても喜べないではないか。

コロナとの戦いということで、「朝だ元気で」は戦前バージョンで歌った方がいいかも知れない。

 

 

一つまた思い出した。「♬紺碧の空 仰ぐ日輪・・・」で始まる早稲田の応援歌、これを作曲した古関裕而の物語がNHKの朝ドラ「エール」となって放送されているはずだ。これを見てみようかな。

 

外に出てみたら木瓜や山吹の花が「頑張りましょう」と元気づけるように咲いていた。

とりあえず、マスクはつけるものの気分は落ち込まないように、上を向いて歩きたいものです。

 

 


コロナがどうした!

2020-03-17 14:05:39 | エッセー

 

わが「雨曇子社」が 1 月より 8 部発行で始めた同人誌「ありったけの力」 3 月号に、名古屋市在住の主婦 新家由美子さんが投稿して下さった絵手紙です。

私はこれを見て、強烈なパンチを食らい 10 m ほどぶっ飛ばされたような気分になりました。

そこで、郵便局への道すがら、出会った人全部に声掛けをしてみました。「おはようございます!」「こんにちは!」

すると、大体の方から挨拶が返ってきました。

俯いて歩いていたマスクの方からも元気な声が返ってきました。

 

新聞報道によれば、千葉県成田市は、3月16日から学校再開に踏み切ったそうです。

この決断にエールを送ります。頑張って、成田市!!


路線バスの旅 2

2020-01-01 00:00:00 | エッセー

2 月 19 日(火)テレビ東京「ローカル路線バスの旅 13 弾」を観た。ロケ 2012. 12. 5 ~ 12. 8 放映 2013. 1. 5 の再放送。

スタート 東京新宿駅西口 ゴール 新潟市万代バスターミナル。

 

番組が始まった。

第一日

メインキャスター太川陽介は、発車するバスの多さに途方にくれている。傍らにはいつもののんき顔の蛭子能収がいる。今日のマドンナ田中律子は、さあ行くぞと、きびきびした身のこなし。(この一年後に始まった「テレ朝」徳光さんの旅番組のメインキャスターになっている)

8 : 16 野方駅(中野区にある西武新宿線の駅)行きのバスで出発。

野方からは、赤羽~川口~岩槻~蓮田~桶川~鴻巣~東松山と乗り継ぎ、20 時過ぎに熊谷にたどりつく。

終始、その先、先とルートを考え乗車すべきバスを決める頼もしいリーダー太川さんの表情がさえない。(今回の旅はどうも先が見えなくて・・・)

熊谷ロイヤルホテル鈴木 泊。

 

第二日

7 : 40 発深谷行で出発。

深谷~岡部~6 km 歩いて~本庄~伊勢崎~高崎~渋川~伊香保温泉。群馬を抜け出せない。

一泊の宿で入浴シーンの撮影もあり一日が終わる。

(四季の宿・晴観荘)

 

第三日

この旅は筋書きのあるドラマなのか、ドキュメンタリーなのか?どちらもあるなと思いながら観る。

伊香保温泉~沼田~猿ヶ京温泉とたどり、大休憩をとって三国峠越えの作戦を練る。

新潟県に入る三国街道(国道 17 号)を歩き、行けるところまで行って新潟県側の旅館に連絡を取り、迎えに来てもらう作戦だ。

猿ヶ京の温泉で 4 軒ほど紹介してもらい電話番号を控えて元気よく出発。

 

横殴りに雪の降る山道を7km 歩き日は暮れてきた所謂逢魔が時、蛯子さんが「疲れたぞー」と叫ぶ。滅多に弱音を吐かない太川さんも「今日はしんどい。何故だろー!」などと呟く。

そして、教えられた旅館にヘルプの電話を掛けるが、すべて断られる。打つ手なしだ。遭難か?と思われたとき、マドンナ田中さんが女将と友達の貝掛温泉を思い出す。その旅館はその日休館日にもかかわらず、泊めることならできますよと快く受け入れてくれ、30 分後には夫婦で迎えに来てくれる。

 

第四日

貝掛温泉近くの浅貝上というバス停から湯沢駅前行きの始発のバスに乗り込むとこかろから始まる。