1月30日(木)11時ごろ、旧江戸城大手門から東御苑に入りました。
高麗門をくぐると、枡形の広場の片隅に渡櫓門(わたりやぐらもん)の鯱(シャチ)がありました。明暦3年(1657)のものです。現在の渡櫓門は、昭和42年(1967)再建です。
門をくぐって三の丸に入ります。
いきなり、馬車のお出迎え?
偶然通りかかっただけです。(馬の調教かな?)
皇室の美術品が展示される三の丸尚蔵館は作品入れ替えのため、この日は休館でした。
江戸城本丸御殿最後の固め、百人番所は、昭和30年代に屋根瓦を修復したそうです。
番所の前は中之門で、今はむきだしになっている石垣の上に、櫓や多聞(石垣上の長屋)がびっしり建ち並んでいたと言われます。(石垣は近年積みなおしの大修理が完了)
中之門の先にあるのが中雀門。文久3年(1863)の大火事で本丸御殿と共にこの石垣も焼け、黒く残ったのはその焼け跡だそうです。
(門柱の土台石に残った○と□の穴)
中雀門の坂を上りきった所が本丸です。シナマンサクが花をつけていました。
本丸の南の端には富士見櫓があります。
関東大震災で倒壊し、その後、主要部材に旧来の材料を用いて再建されました。
1月30日(木)東京駅丸の内側、中央口改札を出たところ10;30として、Nさん、Kさんと待ち合わせた。
言いだしっぺは私だったが、私はその日、人の流れに従って歩き、中央口地下改札を出てしまった。
同じ中央口だから、難なく地上に出られると思ったのが間違いで、苦労して出たところは、道を隔てた丸ビルだ。
中央郵便局のビルに映った影を眺めたり、南口の交番を発見しながら、道草をくって駅側にたどり着いた。
南口、ステーションホテルの前を通って、中央口に向かう。
Nさんの帽子が見える。ゴメンナサイ。
改めて、中央口を観察。
中央口の地上出口は、幅5mぐらい。(私は見落としたのだ。ここしかないと思って、地下改札口に進んでしまった)
改札を出たところに、男鹿の“なまはげ”が展示してあった。
グループであちこち見学していた千葉県鎌ヶ谷市の中学生に、写真にはいってもらう。
私たちは無事3人集まって、目的の“皇居東御苑”に向かった。
久しぶりに見る東京駅は絵のように美しかった。
私が小学3年生で弟が1年生だったと思う。
私たち兄弟は、そのころ、一緒に家を出て歩いて学校に通った。
それは、草が枯れて下の畑の桑の木に葉がなかったから、秋の終わりか冬の頃だっただろう。
3人で話しながら三度巻きの入り口付近に来た時、後から来た荷馬車の馬が急にいなないて暴れだした。
振り返ってみると、後ろ足で立ち上がった馬が、しきりになだめようとしている馬方を抱え込んだ。
馬方はのめってうつぶせに倒れ、馬は走り出して、馬方は車に背中を轢かれた。
私たちは夢中で逃げた。
土手を下り、土手を斜めに走って逃げた。
馬は、馬も土手の方へ寄ってきて、車が道を外れたので、馬も車も転がって下の桑畑へ落ちてきた。
馬は桑の株の間で、腹を上にして大きく息をしていた。
あやうく馬や荷車の下敷きになるところだった。
そのとき私たちは、ただ呆然として、馬の腹が大きくふくらんだり、へこんだりするのを見るばかりだった。
そんなことがあって、私のお母さんは、いっそう道端の馬頭観音を信仰した。
私は、妹を乳母車に乗せて、おかあさんたちより50メートルぐらい前を歩いていた。
曲がり角の大カーブの所にさしかかった時だ。
急に、前からガラガラと大きな音をたてて、荒れ狂った馬が、荷馬車の前輪だけを引っ張って鼻息荒く駆けてきた。
私は、あまりのことにどうしていいか分からず、ただボケーとして道の真ん中に立ちすくんでいた。
後ろで、母や近所のおばさんたちの、キャーともアーッとも分からない叫び声を聞いた。
馬は、ガラガラ、ガタガタ前輪だけを引っ張って私の横を駆け抜けて通り過ぎて行った。
車の左の輪が外れて、土手の下へ落ちていった。そして、馬方が、真っ赤な顔をして、はあはあ言いながら追っかけていった。
私たちは全員、かすり傷も負わなかった。
柏市大井の風早北部小学校前に並んだ石碑群。
江戸時代の庚申塔に混じって明治時代の“馬頭観音”が建っている。
小学校前のこの道(柏ー印西線)は、昔からの道で、馬車の通行も盛んだったのだろう。
明治42年生まれの私の父は、こんな話を残している。
私の家から足助まで約2キロ、今は国道153号線と言っているが、昔は飯田街道と言っていた。
足助へ行く道のところどころに、馬の頭を彫った石の観音像やお地蔵さんが、砂ぼこりにまみれて建っていた。中には、花壺に花の立ててあるのもあった。
私のお母さんは、この道を通るたびに、そういう石の仏たちを拝んだり、道端の草花を手折って花筒に挿し、丁寧におまいりしていた。
あるとき、まだ妹が4才のとき、足助からの帰りに、おかあさんと正子が馬車に乗った。そのころは、トテ馬車が足助から岡崎まで定期に通っていたので、足助ー追分間をよく利用したものだった。
さて、町をはずれて三本松にかかった頃、何に驚いたか、馬が急に走り出した。馬方があわてて止めようとしたが、馬はますます荒れ狂って無茶に走り、道を踏み外して馬車もろとも下の河原にころげ落ちた。20メートルぐらいあるから、4、5回は回転しただろう。
馬のことは聞かなかったが、お母さんも正子もかすり傷やコブぐらいで、大した怪我はなかった。ほかに、2、3人乗っていた人も、みな無事であった。正子は窓からほうり出されたが運よく馬車にも轢かれず、笹薮の中で助かった。
手賀沼の東の端、曙橋を境に手賀川(利根川に流れる)となります。
手賀川は、国が、手賀沼は千葉県が管理するということですか。(関係ないけど)
今日1月25日(土)は手賀沼北岸を歩きました。
南岸は柏市ですが、北岸は我孫子市です。(これも関係ないか)
北岸の遊歩道は南岸の緑道のようには広くありませんが、落ち着いたたたずまいです。
おや、鳥たちが集まっています。
やさしいおばさんは、我孫子市の方で、鳥たちは信頼しきっています。コブハクチョウは歯がないので、嘴の中に手が入っても痛くないそうです。
大人になったばかりで、若いコブハクチョウだそうです。
ユリカモメ君、今日は脇役にしてゴメンネ。
(笠間神社の狐)
狐火(きつねび)と聞くと、私などは池波正太郎の小説に出てくる盗賊を連想してしまうが、辞書を引くと「暗夜、山野などに見える怪火・鬼火・燐火などの類。狐の提灯」と出ている。
明治42年生まれで山村に育った私の父は、こんな話を残している。
やまがの冬の夜は、暗く冷たい。
夕方は早く、午後3時ごろには山の端に夕日が沈む。
夕闇があちこちの森の茂みや、山の谷間から流れ出て、またたくまに家々を包み込んでしまう。
白く流れ出ていた破風(はふ)からの煙も、もう見えなくなってしまう。
いろりを囲んでの夕食の楽しいひと時も過ぎ、世間話にもあきて、しんしんと迫ってくる寒さに、もう床の中が恋しくなる。
テレビもラジオもない。暗いランプと、細々と燃えるいろりの火だけが、わずかに明るく、何かを語りかけているようだ。
寝る前に小用をと、重いくぐり戸を開けて外に出ると、夜の寒さは暗闇と同じように身に迫る。ぶるっと震えて便所に向かう。
すると、東のほうの山の中腹に、ろうそくを立てたような明かりが、5つ、6つ、ちらちらと燃えているように見える。
後になり先になり、動いているようだ。時に、少し高くなり低くなり、また動いたり止まったり、消えたかと思うとまた灯った。
寒さを忘れて見とれている私に、母が、「狐の嫁入りだよ。早くおねりよ」と声をかけた。
26年以上前、週刊朝日が“花のうた草の囁き「季によせる」”と題する連載を始めた。
1ヶ月1結社で、そのトップバッターが、“中村汀女と「風花」の人々”だ。
記念すべき第1号のスクラップがないのが惜しまれる。
万両や裏窓にいつも誰か居る 汀女
隣家にしろ、向かいの家にしろ、他人の家の裏窓に揺らぐ人影というものは、いつも気になるものである。
互いの生活を窺いあうなどといった気持ちなどさらにないのだが、それとなき人の気配を感じ、何かしら安堵するのである。私たち主婦が、ふだんしきりに動くのは裏部屋であろう。そうした意味では裏窓は表よりも女性にとって、生活の場そのものといえる。家事に追われている世の主婦たちの喜びや憂いが、裏窓に映る影によって感じられるのだ。庭に万両の実の色づく頃はひとしお・・・。
万両に垣結(ゆ)ひてより新たな日 速水草女
万両や年重ね来て知る幸も 古荘公子
万両や父せしほどは掃かぬ庭 新井悠二
万両や旧家守る姉山里に 田中三重子
万両や離宮御座所は吹き通し 山本照子
万両や薪小屋トタン新しく 若倉文子
万両や幼(おさな)も祝(はぎ)の言葉述べ 森鼻徳子
万両やモデル庭園街なかに 丸山叡子
万両の地を掃き朝をつつしめり 西野敏子
わが家にも“万両”があった。狭い庭に20年近くあるのに、私はうかつにも存在すら気づかずにいた。まして、7月に咲く白い花など見たことがない。
1月の花屋さんはやや寂しげ。
しかし、葉牡丹は健在。
店先に置かれた葉牡丹もあった。
でも、一昔前、1月の街には葉牡丹がもっと溢れていた。
昭和63年(1988)に亡くなられた中村汀女さんが主宰する“風花”の同人と1ページを飾ったこの週刊朝日、少なくとも26年以上昔のもの。蛇足ながら、この“季に寄せるシリーズ”がいつ始まったか編集部に電話してみたが、答えは得られなかった。
すでにして葉牡丹歩々にある如し 汀女
フラワーポット葉牡丹ばかり風の中 上村睦子
葉牡丹を提げてぼろ市帰りかな 竹田守貞子
ビル落成百の葉牡丹よせ植えに 大津信子
葉牡丹の雨に救援募金かな 石田慶子
葉牡丹の柵を隔てて氷川丸 鈴木晴乃
葉牡丹の照り椅子深く人待てば 福沢綾子
一株の葉牡丹鉢を隠すほど 米戸豊春
大声に売る葉牡丹や駅雑踏 渡辺満千子
はや閉ざす葉牡丹植ゑし美術館 佐藤脩一
“房総の村”の、復元家屋、昔の町並みなどを見物したあと、“龍角寺”を目指しました。
整備されたエリアを出ると、人気のない昔道です。左手に浅間山古墳があります。
千葉県で最も新しい前方後円墳で、岩屋古墳に先行して築造された首長墓と考えられる、などと説明してありました。
龍角寺は、この古墳の道を抜けてまもなく集落の中にありました。
龍角寺からは、人気のない道を安食駅に向かいます。
道傍で見た庚申塔や神社です。
車の通る大通りに出た時はホッとして、道端のパン屋さんに立ち寄りました。
そして、明るいうちに無事安食(あじき)駅に到着しました。