今でも、思い出すたびにぞっとする。
満席の劇場。客席は階段状に80席あまり、ステージを見下ろしている。
開演前、注意があった。
「・・・・携帯の電源は必ずお切り下さい。トイレは・・・」
はっとした。
私は、携帯の切り方を知らない。だからといって、隣席の見知らぬ人に尋ねるのも憚られた。
まもなく、照明が消され、芝居が始まった。
地獄の場面で、舞台は静寂に包まれている。役者が登場し、高く、低く、叫ぶように、囁くように、セリフが語られる。
その時、「私の携帯が・・・、ふだん、滅多にかかってくることの無い私の携帯が鳴り響く・・・
役者の動きが止まり、怒りの視線が矢のように私に放たれる・・・」
思っただけで、私の心臓は凍りついた。
「どうしよう、どうしよう」
「どうぞ、誰も、電話をしてみようなどという気まぐれを起こさないでくれ」
「間違い電話ということもあり得るのではないか」
そんな恐怖にさらされながら、2時間、私はなすすべもなく座席に座り続けた。
そして、芝居は進行し、終わった。
私は安堵し、何食わぬ顔をし、みんなの後について劇場を出た。
家に帰り着いて、真っ先に電源オフの方法を聞いた。
あるボタンを長く押し続ければよい。ただそれだけだった。