自宅からアリオまでは、近道を行けば2000歩ほどの距離だが36度の日中では歩きにくい。
立派な長屋門の前で犬はぐったりしている。
畑の作物もげんなりしているようだ。
サルスベリとか稲は元気だ。
できるだけ涼しそうなところを歩いた。
国道16号に出ると、アリオがあった。
店内は涼しい、オアシスのようだった。
自宅からアリオまでは、近道を行けば2000歩ほどの距離だが36度の日中では歩きにくい。
立派な長屋門の前で犬はぐったりしている。
畑の作物もげんなりしているようだ。
サルスベリとか稲は元気だ。
できるだけ涼しそうなところを歩いた。
国道16号に出ると、アリオがあった。
店内は涼しい、オアシスのようだった。
我孫子駅南口に来ました。駅前のロータリーに我孫子市営の”あびバス”が入ってきたので、バス停はどこかなと見ていたら、止まらずに走り去っていきました。
ネットで調べてみると次のようなルートがあり、それぞれにマップが発行されていました。
1.鈴木ルート
2.栄・泉・並木ルート
3. 船戸・台田ルート
4.布施ルート
5.根戸ルート
テレ東”路線バスの旅”のファンなので、見るだけでなく”実際に地図を頼りに乗ってみるのもいいかな”などと思いました。
立ち寄っただけの我孫子駅南口、いろいろな標識が目につきます。
この地に昭和初年より住んだ志賀直哉氏を中心に、白樺派の人たち
我孫子駅誘致のためご自身の土地を無償で提供し、町の発展のため我孫子町長も務められた鈴木喜男氏の顕彰碑もあった。
駅前の建物で人目を惹くのは”欅ビル”。柏市の市域に入る手賀沼南岸からも大きく望まれるビルだ。
私は、このビルの前にある我孫子市の観光案内所”アビシルベ”で白樺派カレーを買って帰った。
(2月10日の手賀沼公園この日は晴れだがきのうの雪が残っている)
(手賀沼遊歩道にある文学広場の石碑の一つ)
手賀沼公園の「文学の広場」にあった志賀直哉の碑にも雪が残っていた。
志賀直哉が我孫子市に住んだのは大正のはじめ(大4 ~ 大12 )で、大正九年に発表された「雪の日」はこんな書き出しだ。
「二月八日 昼ごろからサラサラと粉雪が降って来た。
前から我孫子の雪が見たいと云っていたK君が泊りに来ている時で丁度よかった。
自分には雪だと妙に家にじっとしていられない癖があった。それで女中の行く筈だった町の使を引きうけてK君と一緒に家を出る。」
我孫子駅駅前の商店で色々と会話を交わし、買い物をした様子が書かれ、次のような描写に続く。
「柳の家に寄る。座敷でピアノの音がして、K子さんが東京から来たお弟子に歌を教えていた。柳は離れの書斎を石油ストォヴで温かくして勉強していた。
今日はリーチが来る筈だという。
間もなく稽古をすましたK子さんが入ってきた。そしてお弟子から貰ったものがあるからと晩飯を勧めた。
色々な荷物があるので自分だけとにかく一度帰って来る事にする。
雪は降って降っている。書斎から急な細い坂をおりて、田圃路に出る。沼の方は一帯に薄暮ではいたようになって、いつも見えている対岸が全く見えない。沼べりの枯蘆が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。その蘆の間に、雪の積もった細長い沼船が乗り捨ててある。本統に絵のようだ。」
それから、バーナードリーチも加わって会話が続き、九時ごろ家を出る。
「帰る時物尺を雪に立てて見たら、七寸五分あった。」
大正 9 年 (1920) 2 月 8 日我孫子に降った雪は 23cmほど積もったことが分かる。
平成 31 年(2019)2 月 8 日~9 日我孫子に降った雪は路上をうっすらと覆った程度だった。
志賀直哉の旧邸に行ってみた。
ここには雪は残っていなかった。
説明板はとても分かりやすかった。
旧邸の前に白樺文学館があって、その音楽ホールに柳兼子さんのピアノで、森嶋謙一郎氏(我孫子在住の会社員で音楽家)がバッハを弾いておられた。次にショパンのノクターンを弾いて下さった。
このホールの地下に、柳兼子さんの音楽活動を鑑賞できる心地よい部屋が用意されている。
この文学館は小さいけれどとても充実している。
旧志賀邸の前の道(大正の頃は沼が足許まで来ていた)を西に 200mほど行ったところに煎餅屋があった。
大正時代は農家だったが、子孫の方が暖簾分けで戦後店を開いたそうだ。
常磐線“我孫子駅”の顔というべきビルは、「けやきプラザ」だろう。
中から撮ってみるとこんな具合だ。
“けやき”にはムクドリの害を防ぐためネットが張られている。
アビシルベは「我孫子の知るべ」で、散策のガイドマップが何種類も置いてあった。(詳しく書かれている)
(西部劇ポスター展も開催中)
(実物大のトビ&コウノトリの凧も展示・我孫子市には市営鳥の博物館がある)
手賀沼の南岸(柏市)からも「けやきプラザ」のビルが見える。
(ベンチの足の間から覗いてみた)
5 月 30 日(月)N さん K さんと待ち合わせた我孫子駅で“駅のスタンプ”を見つけました。
じっくり眺めていると愛着がわいてきます。
みんな揃ったので北口に出ました。
駅前の大木にネットがかぶせてあります。
「多分、ムクドリ避けだよ」と N さんが言いました。(千羽近くの大群に占拠された場面を想像すると不気味です)
我孫子駅北口には、商業施設“セブンパークアリオ”の無料シャトルバス発着所があります。
中央学院のバスばかりがどんどん来ます。
待つことしばし、お目当てのバスが来ました。
私たちが乗車したのは言うまでもありません。
高野山香取神社の東方 100 m にあるのが、全長 63 m 最も高い部分が 5 m の前方後円墳“水神山古墳”です。
発掘調査が行われたのは昭和 40 年ですが、説明板は平成 22 年 2 月です。学説の進展もあるでしょうから時々説明をリニューアルして下さるのはありがたいことです。
(周濠が認められた北側部分)
(後円部)
5 C 後半の築造と推定され、現在我孫子で見ることのできる、最古で最大の古墳だそうです。
手賀沼北岸の台地の南のヘリで、眼下に手賀沼を望みますが、北側は古墳ぎりぎりに住宅が迫っています。その住宅の道を東に 200 m ほど進むと、 2015 年 にオープンした“高野山桃山公園”に出ます。
この公園の中に、1 辺が約 15 m の方墳があります。
水神山古墳より 100 年前の古墳とありましたが、埋め戻されているので、古墳そのものは見ることはできません。
この発掘調査は、平成 21 年 2 月に行われたそうです。
この手賀沼を支配した豪族の墓だそうですよ。
我孫子市高野山(こうのやま)にある香取神社です。
鳥の博物館の前を東に 200 m ほど進んだところにあります。
(我孫子市立鳥の博物館)
50 余段の石段を丁寧に掃きおろしている M さんに会いました。
お住まいは我孫子駅前で、徒歩で来て週 3 回は掃除をなさっているそうです。もう、 20 年以上続けていらっしゃると聞き、えらい人だと思いました。
うっそうと茂る木々の下、庚申塔がずらりと並ぶ参道がきれいに掃き清められていました。
百庚申の列から離れ、独立して立っている庚申塔に注目しました。
文化 4 年(1807 )丁卯(ひのと う)・文化 10 年( 1813 )癸酉(みずのと とり)の2 基が並んでいましたが、特に文化 10 年のものは青面金剛像の彫りが緻密ですばらしいと思いました。
社殿の奥にはもっと古い庚申塔が 2 基ありました。
一つは元禄 12 年( 1699 )己卯( つちのと う )他は万治 2 年( 1659 )己亥( つちのと い )です。
我孫子市、柏市の中でもこれ以上古い時代の庚申塔は滅多にみられません。
“アビスタ”とは、我孫子の生涯教育センター。
私の家から自転車で行けば40分というところ。手賀沼上沼の北岸を通って行く。
アビスタの図書館講堂での講演を聴いた。
「ソフトバンクのコマーシャル一家は、“白戸家”ですが、私は“白土”です」と自己紹介があって、興味深い話が次々と展開した。その一つは次のような話だ。
「・・・・常磐線の電化は昭和 11 年 12 月 11 日松戸でストップした。松戸以東に大きな地方都市が存在せず、戦時体制下に入ったことも大きく影響している。
当時の上野ー松戸間、電車は日中 2 両、朝夕 3 両編成で、日中は 16 分間隔。北千住を過ぎれば沿線は田圃ばかりだった。常磐線松戸ー取手間が電化されたのは、昭和 24 年 6 月 1 日でした」
」
3 月 19 日(金)楚人冠邸の椿見学のあと、我孫子市寿にある子之神延寿院に足を伸ばしました。真言宗豊山派の寺で、大正 7 年に我孫子駅前の本町から引っ越してきたことは学習済みですが、そのまえの神社の痕跡を探してみようと思ったのです。
それは、すぐ見つかりました。
鳥居はありませんが、石畳の先には神社の本殿が建っていたと思われます。
先に進んでみました。
「与野大権現」と読める石碑がありました。さいたま市与野には、与野七福神大黒天を祀った真言宗智山派の円乗院西念寺があります。(与野とあるだけで、この寺と関係づけるのは無理でしょうね)
大権現に刻まれた寶暦八年は 1758 年、燈籠の明和五年は 1768 年です。
昭和 46 年再建の子之神大黒天本堂の前には狛犬が置かれています。
足腰に霊験あらたかな飯能市の「子の権現」が思い出されました。この神社には大きなわらじが奉納されています。
高台に建つ寺の境内からは手賀沼が望め、ヤブツバキの大木が花を盛大につけていました。
大正 10 年、我孫子宿本陣が解体されたとき、その一部を買い取って、子の神大黒天の隣に別荘を建てたのは東大教授の村川堅固氏。(現在は市指定文化財)
私達 N K K は、我孫子駅から徒歩で別荘に向かった。
旧水戸街道で目立つのは、本陣跡と道を隔てた旧我孫子宿名主の小熊邸。脇本陣でもあったようだ。
子の神大黒天への道しるべが半ば埋もれて建っている。
途中、椿に囲まれた杉村楚人冠邸園があった。(市指定文化財)
更に進んだ先の分岐点には、新旧の道標があった。
道端の一軒の民家、蝶の家?
壁に取り付けられた木琴には、たたく棒まで備え付けてある。
蝶のさなぎの部屋が観察できるようになっている。 3 月中旬ごろ、また通ってみよう!
ゆっくり歩いて 30 分ぐらいで旧村川別荘に着いた。
昭和 3 年に新築された朝鮮風建物もあった。
建具、家具等は当時のままなので、しばらくソファに座ってタイムスリップを楽しんだ。